ワトソンの義妹
7月15日 午後2時50分
泉川邸の二階、北側の角に被害者が資料室として利用していた小さな部屋があった。元はウォークインクローゼットだったものを改造した縦長のその小部屋を開けると、両側にそびえる本棚が二人を出迎えた。
「うぁ! こんな大っきい本棚があるなんて、学校の図書室みたい!」
地下室にもあった頑丈な黒檀で作られた棚の高さは天井近くまであり、中学生ながら身長一六五センチに届くかという彩夢ですら一番上には手が届きそうにない。
〈まったくムダにデカいったらないね、ハハ……!〉
何故か本棚ではなく、目の前で背伸びをしている彩夢の体の一部分見つめながらため息をつき、アリアは本の背表紙に視線を走らせた。
向かって左手の棚に収まっているのは法医学や心理学、生化学に関する専門書の他、新聞の記事をスクラップしたファイルなどだ。
〈そういえば姉さんもよく実際の事件や裁判の記事をまとめてたっけ〉
古い紙の本が醸し出す独特の円熟した香りに誘われ、不意に暖色に彩られた記憶が蘇る。
幼い頃、アリアにとって〝家族〟と呼べるのは姉のイリアだけだった。
代々外交官の家系で、世界中を転々とする厳格な父と地中海の自由で開放的な気風で育った母の関係が長く続くはずもなく、家族揃って食事をした記憶も指で数えるほどしかない。
その代わり、アリアのそばにはいつも姉のイリアが居た。二人は歳の離れた姉妹だったがいつも二人一緒で、アリアにとってイリアは良き姉であり、佳き母であり、また善き教師でもあった。両親の帰りが遅く、アリアが一人眠れない時にはいつもイリアが枕元で本を読んでくれたのを覚えている。
〈まぁ、読んでくれる本がどれも頭のイカれた殺人鬼や猟奇殺人の話ばかりだったのはあれだケド……〉
今思えば、その頃から姉は探偵小説に興味があったのだろう。次第に読み聞かせてくれる本の内容も難解で専門的なものになり、幼いアリアはイリアの話を理解するため、姉の本棚からこっそり資料を借りて勉強したのだった。
今でこそ、事件にも
今回の事件の関係者である泉川透音も被害者が書く探偵の活躍を楽しみにしていたという。 同じ痛みを知る者として、なんとか遺族の無念を晴らしてあげたいという気持ちがアリアの中で大きくなっていた。
「すっご! これ全部、関取探偵シリーズの事件で使われたものかな?」
珍しく殊勝な女子高生探偵の横で、自称助手の彩夢は大口を開けたまま反対側の棚を見上げていた。
そちらには専門書や辞典の類いは無く、代わりに遊戯銃や刀剣類のコレクションが飾られている。一つ一つ丁寧に透明なアクリルのケースに入れられており、LEDライトによってディスプレイされている様は、さながら小さな博物館といった趣だ。
「この小太刀は第三巻『雲龍型で現場入り!』で探偵に追い詰められた犯人が割腹自殺しようとした妖刀シラヌイ! こっちは第七巻『山を踏まずに四股を踏め!』で依頼人を庇った時に通り魔が持っていたスタンガン!」
実際、関取探偵のファンである彩夢にとってはどれも馴染み深い品々らしく、愛嬌のある大きな瞳を輝かせている。
「ナルホド、こっちの棚は実際に凶器やトリックを考えるための現物資料というわけですか」
こういったコレクションは女子高生作家だった姉の部屋には無かったものだ。
「まぁ、関取探偵の鍛え抜かれた皮下脂肪と無敵のつっぱりの前にはどんな刃物も電撃も効かなかったけどね!」
「ヤ、マジでどんなストーリーなんですか、関取探偵って……?」
〈ここには電動ガンも飾ってあるけど、まさかライフルの弾も脂肪で跳ね返すんじゃないよね?〉
アリアが顔をしかめていると、不意に資料室の扉が開いた。
「声がすると思ったら、君たちいったいこんな所で何をしているんだ!?」
そう言って、扉の隙間から顔を覗かせたのは、事件の関係者の一人――被害者の甥の
「ごめんなさい! アタシたち、ちょっと探しものをしてて……」
「ダメだよ、ここは遊び場じゃないんだから。ここには叔父さんが世界中から集めた資料を保管してあって、中には高価な品や危険な物だってあるんだから、落として壊したりしたら大変だよ」
よほど心配なのか、二人の顔と棚の間を行ったり来たりする視線に何か引っかかるものを感じたアリアは横目で棚の方を窺う。
泉川行司のいうとおり、棚にはいかにも高価なコレクションアイテムが並んでいるが、中身が空のケースも含め、どれも棚にきっちりと固定されている。
果たしてこれを『落として壊す』なんてことがあるだろうか?
〈ンまぁ、このやたらと出っ張り部分が多い妹なら? ぶつかって倒すかもしんないですケドね!〉
鼻息も荒く棚の上を観察すると、ちょうど真ん中の段に空のケースがあるのに気が付いた。
「……うん、どうやら刑事さんが言ったとおり、今回の事件は強盗の仕業かもしれませんね」
「えぇ!?」
「な、なんだって!?」
泉川行司はもちろん、彩夢もJK探偵の発言に目を丸くしていた。
「私達、刑事さんに言われてこの家から何か盗まれた物が無いか、調べていたんです。ね、彩夢ちゃん?」
「――へっ? え!? う、うん?」
突然水を向けられた彩夢は頭が混乱した。
そんな依頼は一度も受けていないし、今回の密室殺人が外部犯というのも初耳だ。なにより、突然人が変わったようにお淑やかになり、初めて名前で呼んでくれた探偵の声音に鳥肌が止まらない。
おもわず両腕をかき抱く彩夢をよそにアリアは猫をかぶり続けた。
「この部屋から盗まれたのはおそらく小型のラジコンだと思います。犯行時刻は昨日の午後から私達がこの部屋に入ってくるまでの間。これってきっと泉川先生の事件と何か関係がありますよね? 彩夢ちゃん、さっそく刑事さんに報告しよ!」
「ま、待って! 君たち、落ち着いて!」
そういって彩夢の手を取ったアリアの進路を塞ぐように、泉川行司が部屋に入ってきた。
泉川家の体質なのか被害者に負けず劣らずの巨躯で、身長は彩夢以上、体重はアリアと彩夢を足してもまだ届きそうにない。二人は停止を余儀なくされた。
「き、君たち、透音ちゃんの友達だろ? この部屋に入ったのは何回目? 何かの見間違いとかじゃない?」
「いえいえ、この部屋どころか透音ちゃんの家に来たのも、今日が初めてですよ?」
どこか詰問口調の泉川行司に対して、アリアは悪びれた様子もなく答えた。
「じゃ、じゃあこの部屋からドローンが失くなってるなんてなんで分かるんだよ!?」
膨れたタコのように顔を真っ赤にさせる泉川行司に対して、アリアの口元が不敵に歪んだ。
「あるぇ〜? おっかし〜な〜! 私、一言もドローンなんて言ってないのにねぇ、彩夢ちゃん?」
〈――あ、やっぱ、いつもの探偵さんだ〉
どこかホッとして胸を撫で下ろす彩夢。普段は厭世主義のコミュ障でも、自分の推理を披露する時だけは自信に満ち溢れ、大人相手にもひるまず論理の刃を突き立てる姿は彩夢のよく知る“名探偵”《アリア》の姿だ。
「確かに貴方の言うとおり、この空のケースに入っていたのはいわゆるドローン――クアッドコプターで間違いないでしょうでしょう」
アリアが指し示した棚の中段には二〇センチ四方の空のケースがあった。そのケースだけ中の照明がついておらず、まるで棚の真ん中にぽっかりと穴が空いているようだ。
「たまたま空だったんじゃないの?」
首を捻る彩夢に対して、アリアは左の手の平を見せた。
「いいえ、その根拠は五つほどあります。まず、集めた資料をこれほど綺麗に飾っている被害者が一番目につく場所を空にしておくでしょうか? むしろ頻繁に中身を取り出すため、この位置だったと考えるべきでしょう。それはケースについた指紋からも明らかです」
「あ、ほんとだ! よく見ると他のケースに比べて妙にベタベタしてるね」
「奇しくも昨日は家政婦の矢倉妙さんが来た日ですから、この部屋も綺麗に掃除したはずです。つまり、この指紋は掃除の後に付けられたもの。しかも犯人は犯行時かその前にたまごサンドを食べていたようですね。指紋と一緒にマヨネーズと卵のペーストがケースに付着しています」
「うわっ、ばっち〜! ん? たまごサンド?」
アリアの推理にデジャヴのようなものを感じた彩夢は唸りながら頭を抱え込んだ。その横では泉川行司が大量の脂汗を浮かべている。
「そ、それだけじゃ中身がドローンだったなんて言い切れないだろ?」
「ええ、ですがその答えは消えているLEDライトが教えてくれました」
アリアの小さな指がケースから伸びているUSBケーブルを辿りコンセントに行き着く。しかしケーブルの先端は充電器から抜け落ちていた。
「あれ? 取り出した拍子に外れちゃったのかな?」
おもわずコードを差し戻そうとした彩夢の手をアリアが掴んだ。
「待って、充電器の表示をよく見てください。LEDライトは省電力で動作するのがウリですから、一アンペアもあれば充分です。にもかかわらずこの充電器の表示は二アンペアと、明らかにオーバスペックです」
場合によっては過電流で発火の危険もあるが、頻繁に中身を取り出していたため充電器ごと差し替えるのが面倒くさくなったのだろう。
「この手の高性能充電器が使用できるのは一部のスマホやタブレット端末ですが、ケースに入れて飾るには不自然です。かといって、スタンガンや電動ガンを日常的に充電していたとは考えにくいので、他にこの部屋に飾ってありそうなものといえば、小型のラジコン……それも落として壊してしまうような、ドローンに限られると思いませんか?」
意地の悪い笑みを浮かべながら、アリアは青ざめた男の顔を見上げた。
「ち、違うんだ! 信じてくれ! 僕はちょっと叔父さんのドローンで遊んでただけで、事件とは無関係だ!」
まるで観念して手錠をかけられる犯人のように、両手を差し出す泉川行司。その上にはアリアの推理したとおり、小型のドローンが乗っていた。
マットブラックのボディには前後に一対ずつ小型のプロペラがついており、機械仕掛けのアメンボのようだ。もっとも、左前方のプロペラは大きくひしゃげており、折れたローター軸には泥や雑草が絡みついている。
「うぁ、こりゃまた派手に壊れちゃってるね」
「昨日の晩、コイツを飛ばして遊んでいたら、木に引っ掛けて落っことしちゃったんだよ。こんなサイズでも二十万くらいするからね、壊したのがバレたらどうしようと思ってたら、あんな事件が起きちゃっただろ? ヘンに警察に疑われると嫌だから棚に戻しておこうとしたら、君たちが居たんだ」
〈とか言いつつ、コイツ、修理しなくて済んでラッキーとか思ってないだろうな?〉
あるいはこの事がきっかけで被害者と口論になり、衝動的に殺してしまったという可能性もある。
〈実際の殺人の動機の方が、ドラマなんかよりよっぽど馬鹿馬鹿しいことが多いし……〉
アリアがジト目で睨むと、行司はただでさえ短い首を亀のように引っ込めながら、二人の顔を順繰りに見た。
「ね、ね? そういう訳だから、このことと事件はまったくの無関係! 捜査が混乱するといけないし、できればその……警察や伯母さん達にはナイショにしてくれると、嬉しいかな……なんて? アハハハ」
冷や汗と口角泡で顔面をテカテカにしながら弁解する行司にアリアは心底うんざりしたが、彩夢の方は何かを閃いたようだ。
「いいよ、オジサン! 黙っててあげる♪」
「ホントかい!? それは良か――」
「その代わり、昨日の夜と今朝、どこで何をしていたのか、洗いざらい話してもらおうかな!」
「えっ?」
「言っとくけど、嘘ついたり、隠しごとしたりしても無駄だよ? ここに居る〝JK探偵〟には丸っとお見通しだから!」
〈むぅ……あの兄にして、この義妹ありか〉
彩夢の助手力に感心しつつ、アリアは泉川行司の話を聞くことにした。
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