容疑者:泉川千秋

七月十五日 午後四時



 紅茶の湯気と重苦しい沈黙だけが漂う状況に勇気を持って踏み込んだのは、探偵アリアでも助手彩夢でもなく遺族透音だった。


「でもね……お父さんがもし、もし本当に最期のメッセージを遺したんだとしたら私はそれに応えたい! だって私はお父さんが書く推理小説の一番のファンだから!」

「……はぁ、やっぱり血は争えないわね。あの人も推理や小説のこととなると、寝食を忘れて地下室に引きこもったり、何週間も取材に出かけて行ったりしてたっけ……」

 

 娘の真摯な眼差しに故人の面影を重ねたのか、あるいは推理に集中することで父親を喪った悲しみが少しでも紛れればと思ったのか、千秋は諦め顔でカップに口を付けた。


「では、改めて……千秋さんはどうです? 外に出た時、何か不審な物を見たり、聞いたりしませんでしたか?」

「どうだったかしら? 暗くて風が強かったことくらいしか覚えてないわ」

「や、昨日の夜じゃなくて今朝の話です」

「え?」


 アリアが訂正すると千秋は驚いた表情で振り向いた。


「……確かに今朝、一度庭に出たけど、どうして貴女が知っているの?」

「や、だってねぇ?」

「いやいやっ、アタシに同意求められても知んないし!」


 両手をパタパタと振る彩夢にアリアはため息交じりに説明する。


「嵐の後なのに庭の隅にホースとかの道具類が綺麗なまま置いてあったということは、雨が上がった後に誰かが片付けたのは一目瞭然でしょ?」


 泉川千秋の趣味が家庭菜園だということを考えれば、今朝、死体を発見する前に彼女が庭に出て菜園の様子を見るついでに雨で汚れ、暴風で散らかった道具類を片付けたのは火を見るより明らかだ。

 だというのに、彩夢も含め他の四人はまるで珍獣を見るような顔をしていた。


「驚いたわ……! 貴女、本当に探偵なのね。確かに貴女の言うとおり、今朝の六時半頃、菜園が気になって様子を見に行ったわ。でもその時は折れた茎の補修とかに夢中で、特に気付かなかったわね。強いて言えば、風で飛んできたゴミや落ち葉がやたら落ちていたことくらいかしら?」

「それじゃ、被害者の遺体を発見した時の状況はどうでしたか?」


 アリアの質問に真っ先に答えたのは、お茶のおかわりを注いでいた矢倉妙だった。


「最初にお声がけしたのはわたくしです。朝食の支度ができましたので、旦那様をお呼びに行こうとしたら、奥様がまだ部屋には戻っていないとおっしゃていたので地下室へ向かいました」

「その時、地下室に鍵がかかっていたんですね?」

「はい。ノックしてお呼びしても中から返事がなく、失礼してドアノブを回したところピクリとも動きませんでしたので、奥様を呼びに戻りました」

「私も何度かノブを回したり、扉を叩いたりしてみたけれど反応は無かったわ。それで騒ぎを聞きつけた谷町さんと行司さんがドアに体当たりして、部屋に入ったらあの人が床に――っ」


 そこで言葉を詰まらせる千秋。目蓋の裏に焼き付いて離れない恐ろしい光景を振り払うようにきつく目を閉じ、それから潤んだ瞳で透音を見つめた。


「……私もこの子と同じ。あの時は気が動転してその場にへたり込んじゃったから、そんなメッセージがあるなんて気付かなかったわ。それに透音と違って私は推理小説はほとんど読まないから、見つけても何かのメモだと思ったでしょうね」


 亡き夫が遺した最期のメッセージに応えられない自分を嘲笑うように千秋は小さく鼻を鳴らした。


〈ナルホド……やっぱり被害者は普通の人には気付かれない形でメッセージを遺したかったってことか……〉


「ところで昨夜の停電のことは覚えてます?」

「ええ、あれは私がお風呂から上がった後、ケータイが見つからないって透音が言うから彩夢ちゃんと三人で家の中を探して居た時のことよ」

「その時、地下室も探したんですか?」

「もちろん……と言っても、仕事の邪魔をしちゃ悪いから部屋には入らず、外から透音のケータイにかけてみたの」

「フム……」

〈この人も停電前、一度は地下室に行ってるのか……〉


 新たな事実ピースをパズルのどこにはめるべきか考えていると、透音が母の説明を引き継いだ。


「でも、音は一階から聞こえてきたよね?」

「そうそう! 私もそれを聞いて一階に降りてきたら、丁度階段のトコで透音ちゃんとおばさんにばったり鉢合わせしたのを覚えてるよ」

「その直後だったよね? 急に家中が真っ暗になって、スマホを探すどころじゃなくなっちゃったのは……」

「その時、千秋さんも階段のそばに?」

「ええ。主人が様子を見に出てくるかもしれないし……ほら、ウチの階段って螺旋になってるから暗いと危ないでしょ? そしたら妙さんと谷町さんがブレーカーを戻してくれて、その後谷町さんと一緒に下に様子を見に行ったわ」

「被害者には会ったんですか?」


 アリアが尋ねると千秋は弱々しく首を横に振った。


「主人はよく地下室のソファで仮眠を取ることもあったから、きっと寝ていて停電に気付かなかったんだろうって、谷町さんが……」


 あの時、無理にでも地下室のドアを開けていれば、こんな悲劇は起きなかったかもしれない……。

 そんな慙悔が言葉にならない嗚咽となって響いた。



七月十五日 午後四時十五分



 リビングに残っているのはアリアと彩夢、それに透音の三人だけだった。

 千秋は『疲れたから少し横になる』と言って、二階に上がっていき、矢倉はキッチンで使い終わった食器を洗っている。

 水道が流れるホワイトノイズをBGMにアリアは頭の中で事件現場をくまなく見て回っていた。類稀な記憶力を持つアリアは一度見聞きしたものなら、まるでリプレイ動画を見るように何度だって再生できる。ただし前後の繋がりは支離滅裂なため、地下室の扉を開けたと思ったら資料室に出たり、家の周りを回っていると思ったら、螺旋階段を降りていることもある。まるで現代アートの奇才が創り出した異次元の迷宮の中を彷徨っているようだ。

 脱衣所の鏡の中でテニスの壁打ち練習をしている透音の姿を視た後、アリアはふと洗濯室のブレーカーの前で立ち止まった。


「もしかして、透音さんのスマホが見つかったのは洗濯室ですか?」


 何の脈絡もなく話しかけられ、透音は一瞬きょとんとした表情をした後ややあってポケットからアイフォンを取り出した。


「う、うん。停電の後、彩夢ちゃんと一緒に洗濯室で見つけたよ。お風呂に入る時、洗濯物と一緒にカゴに入れちゃってたみたい」


 透音は両頬を染めながら小さく頷いた。

 友達や親を巻き込んで家中を探した挙げ句、灯台の下を見落としていことを恥じたのだろう。アリアも釣られて下に視線を向けると、記憶の中の洗濯機の足元に脱ぎ散らかされた服に紛れてスマートホンが入ったプラスチック製の大きなカゴが置かれている。


「フム……」


 アリアの頭の中で何かがハマりかけたその時、またしてもポニーテールの小悪魔が邪魔をした。


「あ、そうだ! 探偵サン! このクッキー、アタシ達が作ったんだよ! 食べて、食べて! 名推理には糖分が必要だよ!」

〈ヤ、どっちかってゆーと、静けさとカフェインかな!〉


 おもわず睨んだものの昼から何も食べていないのは事実だ。少々形が不格好とはいえ、お皿に並べられたクッキーは食欲を誘った。


「……いただきます」

 

 義妹への不平不満を呑み込むように、こんがりきつね色に焼けたクッキーを一欠片かじる。


〈……あれ?〉


 しかし期待していたような歯ごたえはなく、舌に触れた瞬間口の中で溶け、濃厚なバターとチーズの風味を残して跡形もなく消えてしまった。


「フフーン♪ このマスカルポーネの風味ととろける食感がイイでしょ?」

「ヤ、私はどっちかっていうと昔ながらの硬いクッキーの方が……」


 確かに味は悪くないが、とろけるロールケーキにとろける焼き芋、とろけるクッキーと最近のスイーツはどうも軟弱で困る。


〈そんなものばっかり食べてると顎が弱くなるって、姉も言ってたし!〉


 と、先輩風を吹かしかけたその時、アリアの中で何かが引っかかった。

 欠けたクッキーを見つめながら、凄まじいスピードで記憶の迷宮を駆け抜ける。

 事件の状況や容疑者たちの発言、この家に入ってから今までの出来事、更には過去に買い物をしたコンビニや小学校の理科室の扉も開けるが、しかし肝心の場面が見当たらない。

 いくら記憶力が良くても知らないものは思い出しようがなかった。代わりに九つの数字が書かれた扉がアリアの前に立ち塞がる。


「はぁ……」

「ご、ゴメン……口に合わなかった?」


 透音が上目遣いに尋ねてきたのでアリアは慌てて首を振った。


「あ、やっ……ちょっと思いついたことがあるのですが、それを確かめるには一本電話をかける必要があって……」

「あぁ〜探偵サン、電話とかチョー苦手そうだもんね」

「うっさいわい!」


 しかし彩夢の言うとおりだった。アリアは普段、行きつけの美容院に予約の電話を入れるのですら先延ばし、先延ばしにして、一週間後くらいにもうどうしようもなくなって電話する始末だ。

 これが年上の男性相手ともなれば、その緊張感は計り知れない。

 ポケットからアイフォンを取り出し、記憶している九つの数字をただ入力するだけなのだが、爆弾解除にも等しい難事に思えた。


「はぁ……」


 もう一度、ため息とも深呼吸ともつかない息を吐き出すと震える手で恐る恐る記憶している数字を入力していく。

 最後にダイヤルキーをおそうとした瞬間、突然アイフォンが震えだした。

 それは今まさにアリアがかけようとした番号からの着信――。


「――あ! 待って」


 驚きのあまりおもわず取り落しそうになった拍子に通話ボタンをスワイプしてしまう。


『もしもし探偵さん? 九野です』


 その瞬間、機械越しでもよく透る声がスマホから聞こえてきた。


「……な、なんの用ですか、九野さん?」


 口から心臓が飛び出そうになるのを堪えるあまり、つい口調がぶっきらぼうになってしまう。


『やぁ、久しぶりだね。元気にしてた?』

「ええ、約一ヶ月ぶりですね。テスト期間中に義妹の面倒を見てやるくらいには元気デスよ?」

『ゴメン、ゴメン……探偵さんに頼み事があるって言うから、てっきりテストのことかと思ったら、まさか殺人事件の依頼だったなんて思わなくて』


 相変わらず人当たりの良さそうな、あるいは何も考えていなさそうな脳天気な声が聞こえてきて、なんとなく耳がくすぐったい。あの〝ラテアート殺人事件〟から一ヶ月くらいしか経っていないというのに声を聞いて懐かしいと思う自分が居ることにアリアは驚いた。

 と、同時になんだか腹立たしいので、この家に来てからというもの膨らんでいた鬱憤を電波に乗せて晴らす。


「だいたいあなた達の親は現役の警部なんですから、頼むならフツーそっちですよネ? 女子高生の貴重な青春の一ページを殺人事件の推理なんていう血なまぐさいもので浪費させるなんて、配慮が足りないと思います」

『ああ、それなら大丈夫。ジブンから義父さんには頼んでおいたから、探偵さんが事件を解決する段階になったら、現場の刑事さんにも少しだけ協力してもらえるよ」

「そりゃデッカいお世話をドーモ!」

〈誰が推理ショーなんてこっ恥ずかしいモンを披露できるかっつーの!〉


 しかし創介のはそれだけではなかった。


『試験勉強なら少しは協力できると思うから、帰りにベイカーベイカリーに寄ってってくれない? 鳩村はとむらマスターも久しぶりに探偵さんに会いたがっているし』

「はぁ?」

〈この男、まだあそこで働いていたのか……〉


 ベイカーベイカリーとは一ヶ月ほど前、殺人事件が起こった喫茶店だ。まだ潰れていなかったことにも驚きだが、自分が殺人犯にされかけたその場所で平然とコーヒーを淹れているこの男の精神構造にも問題がある気がする。


「今から事件を解決しても山の手の住宅街に着く頃にはとっくに日が暮れてますし、寮の門限があるのでエンリョします。それよりも九野さんには勉強以外に聴きたいことがあります」


 門限の事を思い出し、アリアは話を本題へと進めた。


「サクサクの美味しいクッキーの作り方って知ってますか――?」



 数分後、通話を終えたアリアはベレー帽からこぼれたくせ毛を指で耳元にかけた。ずっとスマホを押し当てていたせいか、妙に耳が熱い。


「ジトぉーーー!」


 ふと顔を上げると、何故か彩夢が恨みがましい視線を向けていた。その横ではこれまた奇妙奇天烈なことに透音が口元を歪めている。


「探偵サン、兄さんと話してる間中、ず〜っと顔がニヤけてた」

「――はっ、ハァあ!?」


 自分でも喉のどこから出したのか分からない九官鳥のような声が出る。


「うんうん! 言ってることはキツめなのに、口調は柔らかいって言うか、私達と話す時と違って声が弾んでたよね」


 透音にまで追求され、顔が熱くなっていくのが分かる。


「ち、違いますッ! これは謎が全て解けたよゆーから来る微笑であって、そういう下世話な理由では断じてないデスから!!」

「「えぇ!?」」


 アリアの思いがけないセリフに彩夢も透音も顔を見合わせた。

 図らずも電話の内容には聞き耳を立てていたのだが、創介が延々とクッキーのレシピを喋っていただけで、いったいどこに事件解決の糸口があったというのだろうか?

 それは〝名探偵〟にだけ見える細い細い糸。事件に散りばめられた点と点を結び、迷宮の最奥へと至る道筋。

 

 かくして密室の扉は開かれた――。



                                   真相編に続く

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