容疑者:泉川透音
七月十五日 午後三時二十七分
逃げるように資料室を後にしたアリアと彩夢は再び一階のリビングへと降りてきた。
階下ではまだ警察の現場検証が続いているらしく、螺旋階段の支柱越しにビニールのシューズカバーを着けた捜査員が慌ただしく出入りしているのが見える。
事情聴取の方も時間がかかっているのか、リビングに居たのは家政婦の
「ジンクの謎もまだ解けてないのに幽霊なんて、ますます謎が深まっちゃったね」
熱々のマグカップを冷ますようにため息をつく彩夢に対し、アリアは冷ややかな視線を向ける。
〈まだ幽霊だなんだと言ってるのか、この義妹は……〉
とはいえ、アリアにもあの白い影が何なのかはまだ分からない。
しかし物事には必ず原因と結果が存在するものだ。特にそれが殺人の前後に起こったことならば、偶然はアリエナイ。
アリアは複雑に絡まった糸を解くような徒労感を覚えながらオリビアバートンの腕時計に視線を落とした。蜂の意匠をあしらった文字盤の上では長針と短針が直角をなしており、寮の門限までもう三時間しかない。
にもかかわらずこの事件は謎だらけだった。
まず第一に真犯人はいったい誰なのか――?
〝
第二に密室の謎――。
被害者を殺した後、真犯人はいかにして内鍵のかかった地下室から煙のようにこつ然と消えてみせたのか?
今まで見聞きした情報から朧気ながら輪郭は掴めているものの、密室の解錠には今一歩といったところだ。
そして第三は現場に遺されたダイイングメッセージの謎――。
メッセージが示す意味も不明だが、そもそも被害者はなんだってこんなややこしい形でメッセージを遺したのか?
推理作家の哀しい
アリアが鬱憤のこもった眼差しで例のメモを眺めていると、向かい側で資料室から借りてきた本をペラペラとめくっていた彩夢が突然、声を上げた。
「あぁ!! ね、ねっ、探偵サン! 編集者サンが言ってた『ジンク』ってこれのことじゃない?」
そう言って読んでいた本をひっくり返して寄越す。
「この本には『相撲甚句』は『花相撲で詠まれる一種の和歌』って書いてある。和歌ってアレだよね? 古典の授業でやる五・七・五のダジャレ!」
「それは俳句だし、掛詞はダジャレじゃないですよ?」
彩夢の小ボケをテキトーにあしらいつつアリアは分厚い本に目を通す。
一般的に相撲と言えばテレビ中継される『初場所』『春場所』『夏場所』『名古屋場所』『秋場所』『九州場所』のいわゆる本場所のことが思い浮かぶが、それ以外にも地方巡業や親善試合が行われているらしく、それらを総称して『花相撲』と呼ぶみたいだ。
「スポーツのオールスターとか、エキシビジョンマッチみたいな感じ?」
「そうですね。番付には影響しない分、興行的な面が強いみたいで、この本によれば禁じ手の演舞や横綱・大関クラスが幕下力士と次々に戦う『五人掛け』といった、一種のパフォーマンスも行われてるみたいです」
『相撲甚句』もそんな演目の一つのようだ。
「探偵サン、動画見つけたよ!」
彩夢がアイフォンを横に倒すと、土俵の真ん中で立派な化粧廻しをつけて立つお相撲さんを囲むように六人の力士が輪になっている映像が再生され始めた。
歌は日本古来の七五調で、その内容は相撲に関する事柄や花鳥風月を称えるもの、更にはトンチの利いた数え歌など、実に機知と情感に富んでいる。
歌の節に合わせて周りの力士が『はぁ〜どすこい!どすこい!』と迫力のある合いの手を入れるさまは小さな画面越しでも迫力があった。なにより、普段ニュースのインタビューで目にする寡黙でストイックな姿からは想像もつかない艷やかさと力強さが同居した歌声におもわず聴き惚れてしまう。
「ん〜〜! でも、甚句の意味が分かったからって、これがダイイングメッセージとどう結びつくのかサッパリなんだけど?」
一通り動画を見終わったところで彩夢は頭を抱えてしまった。
「ン? 意味なら分かりましたよ?」
「だよね〜! いくら〝名探偵〟でもそんなにすぐには――って、解けたの!?」
彩夢が勢いよく立ち上がった拍子にマーブル模様の水面が大きく波打ち、アリアはとっさに自分のカップを持ち上げた。
「……前々から思ってましたけど、いくら中学生でももう少し落ち着きを持った方がいいデスよ?」
抗議の目を向けるが、彩夢はまったく意に介さない。
「そんなことより、ダイイングメッセージ解けたの!?」
「ええ、まぁ……」
はぁ~どすこい、どすこい!
はぁ~えーー!
はぁ~どすこい、どすこい!
星を取られて辛苦を詠めばよー!
はぁ~どすこい、どすこい!
はぁ~張り手かわされ、たたら踏む。
逃げる間もなく前褌取られ、力及ばず。
だめだこりゃ……!
一見、熱に浮かされて書き殴ったようにも見える怪文書だが、本に記載されているいくつかの甚句と照らし合わせれば、一定の法則が浮かび上がってくる。
それを読み解けば、事件関係者の一人に行き着くのは容易い。
「全然これっぽちも簡単じゃないケド……でも、これで事件は解決だね!」
「まだダイイングメッセージの謎が解けただけで、真犯人だという証拠がありません」
「ありゃ……」
今すぐにでも犯人を捕まえに行きかねない彩夢にアリアは冷静に釘を刺した。
まだダイイングメッセージが解けただけで、密室の
アリアが慣れた仕草でため息をつこうとしたその時、突然後ろから声をかけられた。
「ダイイングメッセージって何の話?」
アリア以上に疲れ切った声でそう告げたのは、
二人とも被害者と一番親しい関係者ということもあり、今の今まで警察の事情聴取を受けていたようだ。
「まぁ、まぁまぁ! お二人ともお疲れでしょう? すぐにお茶をお淹れしますね」
矢倉を手伝って千秋がキッチンの方へ行くと、透音が彩夢の隣に腰を下ろした。
「それで? 暗号ってどういうこと? お父さんの事件と何か関係があるの?」
透音に促され、彩夢はこれまでの経緯を伝える。その間、アリアはなんとも言えない居心地の悪さを覚えながら、時折こちらに視線を向ける透音のことを観察していた。
泉川透音は彩夢の友人なだけあって快活そうなショートカットとパッチリとした二重が印象的だ。これでテニス部のエースだというのだから、さぞ男子にモテることだろう。
もっとも今はその美貌も幾分色褪せて見えた。疲労と憔悴で髪は乱れ、目元は涙の痕で紅く腫れぼったい。それでも彩夢の話に真摯にうなずく様子は意志の強さを感じさせた。
「私のためにありがとう彩夢ちゃん」
最後は涙ぐみながら親友の手を取り、次いでアリアの手もしっかりと握りしめる。
「探偵さんのことは彩夢ちゃんから聞いてます。〝ラテアート殺人事件〟の真犯人を見つけて、彩夢ちゃんのお兄さんを無実の罪から救ったんですよね?」
「う、うん……まぁ、おおよそ? そんな感じ……かな?」
そのせいで今また厄介な難事件に巻き込まれているのだが、か細く震える手を無下に振りほどくこともできない。
「お願いします、根岸さん! 私も何でも協力するんで、どうかお父さんを殺した犯人を見つけてください!!」
「お、おぉう……」
透音の勢いに気圧されつつも、アリアはぶっきらぼうに頷いた。
「探偵サン、そういう時は『姉ちゃんの名にかけて!』みたいな決め台詞みたいなのないワケ?」
「そんな恥ずかしいセリフ言うか!」
もっとも、彩夢も彼女なりに親友を元気づけようとしていたみたいで、透音は二人の掛け合いを見て小さく笑っていた。
透音の気持ちが落ち着いたのを見計らってアリアは他の関係者と同じように、現場に遺されたメッセージについて質問する。
「ごめんなさい……あの時は頭がいっぱいで、メモには気付かなかった。お父さんが最期まで自分の本を掴んでいたのは覚えてるけど、それを見たらなんだか私、たまらなくなって……」
透音の大きな瞳にみるみる涙が溜まっていくのを見てアリアは慌てた。
「あ、や! そのっ……!」
「もういいよ透音ちゃん! 今朝のことはもういいから、それよりも昨日の夜……停電騒ぎが起きた時のことを一緒に思い出そう?」
すかさず親友の肩を抱いてなぐさめる彩夢を見てアリアは素直に感心していた。
自分はどうも人から話を聞き出すのが下手だ。
客観的に合理的に話をしているつもりでも、時に正論が人の心を
「停電の前はお風呂から上がって、キッチンで彩夢ちゃんの分のココアを用意していたわ」
「だいたい何時頃のことですか?」
「十時半頃だったと思う。ちょうどお母さんが勝手口から戻ってきて、妙さんと泊まっていく話をしていたから」
透音がそこまで話をするとタイミング良くお手伝いさんがお菓子を載せたトレーを持って戻ってきた。
「ええ、ええ。覚えておりますとも。昨日は行司さんに夜食をご用意していた関係でだいぶ片付けが遅くなってしまいまして……」
「生ゴミを外の
千秋が持つトレーにはティーポットと揃いのカップが載っており、湯気と共に爽やかな刺激臭に鼻腔が広がる。
「ウチで採れたレモンバームのハーブティーよ。これを飲めば少し気持ちが落ち着くと思うわ。透音も彩夢ちゃんも朝から本当に色々あって疲れたでしょ?」
そう口にする千秋にこそ、ハーブの癒やし必要に見えた。先程は遠目だったから気付かなかったが、こうして隣に座ってみると顔色が悪い。長引く聴取と嗚咽で喉はすっかり枯れており、化粧では隠しきれない疲労が溜まっているのが分かる。
「根岸さん、ウチのお母さんねハーブとか野菜を自分で作ってるんだ。生ゴミを肥料にしたり、お酢とか重曹を虫除けに使ったりして、できるだけ有機栽培にこだわってるんだよ」
「ええ先程、お庭の立派な菜園を見させてもらいました。まさか肥料や農薬まで手作りだとは驚きです」
一口飲むと、ハーブの香りがスッと鼻先に抜け紅茶の甘みが口の中に広がる。雑味は無く、香草と茶葉がお互いを引き立てながら喉の奥へと染み込んでいき、最後にもう一度豊かな香りの花を咲かせる。
これにはコーヒー党のアリアもおもわず唸った。
「ところでさっきから探偵とかダイイングメッセージだとか聞こえたけど、もしかしてあの人の事件のこと?」
柔和だがどこか有無を言わせぬ千秋の口調にアリアたちは押し黙るしかなかった。
やはり子の親として、子どもが遊び半分で殺人事件に首を突っ込むのを善しとしないだろう。
アリアとしても殺人事件なんぞに貴重な女子高生の青春を浪費したくはないのだが、運命がそれを許さない。
〈〝名探偵〟ってマジ呪われてるよ……〉
アリアは立ち上る湯気を目で追うように天を仰いだ。
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