第9話 愛しい人と、お別れ。

「家族は、沢山いるか」

 それは、我ながらあまりに唐突な問いだった。殺気立って殺伐としたこの空間にはどこまでもそぐわない、気が抜けてしまうほどに場違いな聞き方で。

「…………は?」

 指でつつけば緩んでしまいそうだった涙腺を引っ込めて、ラズが声を上げる。間が抜けていて、大層可愛かった。だからもう一度、脅すように「いるのか」と急かす。と、ラズは状況が呑み込めないという顔のまま「い、いるだろ」と答えた。

「殿下は確か、五人兄弟の真ん中だから」

「違う。そなたじゃ」

「……俺?」

 自身を指さし、ぱちくり、と青灰色の瞳を瞬く。その色も、髪も雰囲気も、同じ所は一つもないのに、不思議とよく似ていた。懐かしむというには酷く痛む胸に、顔をしかめる。それをどう取ったのか、少年は意図が分からぬという顔をしながらも、「うんざりするくらいいるよ」と答えた。

「二人の兄貴は物心つく前から俺を剣で小突いてくる阿呆で、俺が大会に出るって話を聞きつけて、最近また『特訓だー!』って言って四六時中剣持って襲いかかってくるし」

 絶対アラムがばらしたんだ、と眉尻を吊り上げながらも、その口元は優しく綻んでいる。

「三人の姉貴はいちいち嫁ぎ先から遊びにきては、こっそり俺用のリボンとかドレスを用意し出したとか言うし……毎日鬱陶しいくらいもみくちゃにされてる」

 アラムの馬鹿が女に魂売りやがって、と嘆くように毒づく。その様が年相応に幼くて、あぁ、きっと愛されたのだろう、と思ってしまった。愛を知らずに現れた彼の者は、表面上の幼さに、時折酷く大人びた顔を見せたものだから。

(願いは、叶ったか)

『今生で無理でも、来世ではきっと叶います』

 五百年の間に、何度願い、破れ、また願ったのかは知らないが、それでも奴は願いを叶えていた。

「家族は、愛しいか」

 その問い方は、生前であれば真っ先に、弱味を握るための脅迫の一手と取られただろう。実際に、そういう手段を取ったことも多くある。視界の端で、イアシュヴィリが激しく動揺したのが良い証拠だ。

 だがラズの躊躇は、恐らくそういった類のものではなかっただろう。可愛らしい、ただの照れだと、その顔を見れば分かる。

「愛しいとか……親父は鍛えることしか考えてないし、お袋は花畑の住人だし、領地に留まる祖父母だけが俺の心の癒しだ」

 はぐらかしながらも否定しないラズが「それが、どうかしたのか」と続ける。そのあまりの純朴さに、思わず笑みが零れた。

 答える代わりに、もう一つ、肝心なことを聞く。

「そなたとの約束とはなんじゃ」

「今の質問は何だったんだよ……」と頭を掻きながらも、ラズはやはり誤魔化さずに答えてくれた。「アニカとの約束は、その……もう一度真剣勝負をして、俺が勝つことだ」

「……勝敗まで、約束に組み込まれておるのか?」

「当たり前だ。今度は絶対勝つ」

 思わぬ内容に呆れると、鼻息も荒く首肯された。何という独りよがりな約束であることか。

(だが、それで良い)

 奴も、もっと我が儘で独善的に生きれば良かったのだ。周りの情勢など他人事と決め込み、周りの人間の言うことなどに耳を貸さず、ただ自分の望みのままに生きれば良かったのだ。そうすれば、来世と言わずラト・ハハレイシヴィリのままで、願いを叶えられただろうに。

 ついに堪えきれず、笑い声が漏れていた。生きていた間も、数回しか上げたことのないような笑い声だった。

「それでは、妾のままでは永遠に勝てぬではないか」

「……そんなことは、」

 ない、と言い切れない正直者に、笑みと共に言葉を続ける。最初から決めていた言葉を。

「では、体を返さねばな」

「…………な?」

 ぽかん、という表現が最も合う顔で、ラズが口を開いた。それから妙な間を空けて「ほ、本当に? ですか?」と続けるものだから、思わず生来の天の邪鬼で「やはりやめた」と言いそうだった。だから、無駄口をきく前に、最後の質問をする。

「その代わり、最後に教えておくれ。妾のために妾を殺すと、ラトは言った。その本心は、なんじゃと思う?」

 この問いには、やっと状況を呑み込めてきた三人が三様に慌てだした。間違った回答をしたら、機嫌を損ねるとでも案じたのだろう。だが案の定、ラズは彼らを見向きもせず、真っ直ぐな言葉でこう言った。

「知るか」と。

「……そうか」

 そして小さな憤りが、そこに芽生えた。その先は、今はもういない愚か者に向けられていて。

「そんな自分勝手で悲観的な根暗野郎の考え方なんか、分かりたくもない。誰かを殺すのは、誰かのためなんかじゃない。自分が弱くて守れないのを言い訳にした、自分のためのただの人殺しだ」

 憤懣ふんまんやるかたないと言わんばかりに、ラズが肩をいからせて続ける。それがどう見ても本気で、やはり笑うしかなかった。笑っていた、はずだった。けれど。

「だから、あんたがそんなことに囚われて、悩む必要なんかない」

 先程の制止とは違う、熱く意思を持った手が小さな少女の両手を包む。その熱は、ついぞ触れることのなかった穏やかな温かみに溢れていて、分かってしまった。

 この少年は、ラトの心など持っていないのに、魔女の心を労わったのだと。シルヴェストリ史上最悪の魔女と謳われた、最強の魔法の使い手を、心配して、励ましたのだと。

(……これは、厄介な男よな)

 しかもそれを何の計算もなくするのだから、きっとこの男に惚れた女は苦労するだろうと、他愛もないことを考える。そしてそんなことを考えたことに驚いた。

『貴女のために、貴女を殺します』

 誰かのためなどという偽善的で無意味な言葉に、囚われているつもりなどなかった。

 ラトが何者かに監視者としての役目を果たすよう脅されただろうことは瞭然としていたし、何万もの民と国の名を守るという名分を掲げられて、ラトがそれを振り切れるほど無責任でも利己的でもないこともまた、分かっていた。

 現に、奴はこの身に剣を刺し込みながら、自らが死にそうな顔をして慟哭どうこくしていた。その顔に、不思議と憎しみは抱けなかった。だからいいのだ。

 温かい血潮が胸を、腕を濡らし、指先から氷のような死が這い上がってくるその瞬間も、その泣き顔を眺めていた。あと少し、もう少しと、ただ憐れで、出来ることなら全力で抱きしめて、泣き止むまでずっと頭を撫でてやりたかった。そんなこと、生きている間に一度もしたことなどなかったけれど。

 あの時に、いまわのきわの際に、気付いてしまったのだ。その衝動の意味を。

 奴を愛していると。

 奴になら、殺されてもいいくらいに、愛していたのだと。

 愚かにも、それを生きている間に気付けなかった。伝えられなかったことが、何よりも口惜しい。

 だからこれは罰なのだろうと思った。何十、何百と命を奪ってきたことへの罰など受ける気もないが、奴に愛を伝えられなかった罰なら、甘受するにやぶさかでない。

 そしてもし、奴の言った『最愛』が真実ならば、きっとあの慟哭こそが、あがないようのない罰を得たという証だろう。そう考えれば、愛しい者の腕の中で死んでいけたことが、少しばかり役得とも言えよう。

 だから。

「……いいのだ」

 ゆるゆると首を振って、そう告げる。借りた体の涙腺が弱いせいか、目頭が勝手に熱を帯びる。久しぶりに涙が出そうだった。

(それでも、一つ、心残りがあるとすれば)

 せっかく奴の生まれ変わりに会えたというのに、この想いを伝えられないことだろう。ラズの中に確かに奴がいても、出てこなければいないも同じだ。

「いいって……」

「あぁ、いいのだ。まぁ、会えたら伝えたいことがあったが……詮無いことじゃ」

 封印が壊れたことで意識と魔力が表面に出て、軽く暴走してしまったが、目的は最初から一つ――ラトの宿願がどうなったかを確かめたかっただけだ。生まれ変わりにまみえるなど、ましてや何かを伝えるなど、最初から望んでもいなかった。ラズが困ったような顔をするから、つい口をついてしまったが、どうこうしようとも思わない。のだが。

「聞いておきますよ」と、ラズは軽く頭を掻きながら、気負いもせずに言った。「俺があの英雄の生まれ変わりとか、全然自信も実感もないですけど……他の奴よりは機会があるみたいだから」

 ラズのその言い様に、どこまでも真っ直ぐに育ったのだなと、改めて感じてしまい。

「ふふ……」

 ラトに感じるのとはまた別の感情で、笑みが漏れていた。とくん、と温もる胸に、知らず手を当てる。それから、名案を思い付いた。にこりと、優しく破顔する。

「では、伝言の伝言を頼んでおこう。適宜、聞いて伝えておくれ」

「はい。……はい?」

 その曖昧な依頼に、けれどラズはその性格からすぐさま頷く。その後で、聞くとは誰に、という肝心な部分が抜けていると気付いても、遅い。

 とん、と握っていた手を優しく押しのけて、それまで沈黙を守っていたマルセルを振り返る。少しだけラトを思わせる碧眼が、大きく見開かれた。そして申し訳なさそうに眉尻を下げる。

(そんな顔をするなら、初めからせずば良いものを)

 ラズたちが現れる前に話した時にも思ったことを、再び苦笑とともに思う。あの時は目覚めてすぐで力の調整もきかず、そこにラトを操ろうとしたイアシュヴィリの者と知って苛立ちが抑えきれなかったが、それでも闇雲に暴れようと思っていたわけではない。

 イアシュヴィリの連中に、あのあとラトをどうしたかを聞ければ、それで良かった。答えは、案外呆気なく手に入れられたけれど。

『そなた、目的は何じゃ』

 今にも息絶えそうな男にそう聞いたのは、褒美の代わりでもあった。

『……気に喰わない連中の鼻を、明かしてやりたいだけですよ』

 そう答えた時の顔を、よく知っていた。城の一室に閉じ込められていた子供時代、よく鏡の向こうに見ていた。その真意は、少しで良いから認めて、愛してほしい、だ。

(奴のせいで、へんなものに敏感になってしまったよの)

 優しい自嘲が零れる。それもまた、悪くない。

「マルセル。次からは、面倒なことはせず、直接言うのじゃぞ」

 優しく語りかけたつもりだったのだが、マルセルはびしりと硬直してから、一層情けない顔をして、「……、はい」と頷いた。

 面影があるだけで、慈しむ感情が胸に湧く。それが家族と言うものだろうかと、らしくもなく感傷的に思う。思えばこそ、心残りなどないと思っていたのに、またぞろ、叶えられない望みがふつふつと湧いてくる。出来るなら、奴とこんな風に、家族になってみたかったなどと。

(夢想もいいところじゃ)

 あり得ない空想に思いを馳せるなど、生前なら、きっと一笑に付すどころか、歯牙にもかけなかったことだろう。けれど今は、不思議と心地よかった。

(お前も、こんな気持ちだったのかの)

 そっと、記憶の中の青年に呼びかける。生きている時には感じなかった小さな喜びが、じんわりと体中に染み渡る。

(さよならじゃ、妾の最愛……)



 揺り篭の中でうつらうつらするような心地よさの中で、ずっと二人の他愛ない会話を聞いていた気がする。男性の幾つもの質問と、返したりいなしたりする女性の声。そのどちらもが穏やかで、アニカのざわついて不安だった心を、不思議と落ち着けてくれた。

 その中に時折混じるラズやニコやマルセルの声はどこか遠くて、嬉しくなるのや哀しくなるのは、どちらの感情なのだろうかと思った。

(……でも、怖くない)

 だからいいかと、また会話に耳を傾けようとした時、アニカに向けられた声があった。

 ――そなたに伝言を託すぞ。……に気付いたら、必ず伝えておくれ。

 それはよく知っている声で、だから伝言の意味もすぐに分かった。

(えぇ、もちろん)

 だから二つ返事で了承した。それはとても大事なことだと、分かったから。

 遠く、声が頷く気配がする。目覚める時間だと、慈しみ深く導く。徐々に、体が重さを感じ始め――

「――――……カ! アニカ!」

 気が付くと、悲鳴のような怒号に名前を呼ばれていた。と同時に、両肩を強く握られて揺さぶられていると知る。

 まだはっきりとしない意識にどうにかしがみついて、瞼を押し上げる。けれど、自分の名を呼ぶ声が誰かは、その姿を見る前から分かっていた。

「……ラズ、さま」

「アニカ!」

 視界が開けた瞬間、大きな青灰色の瞳が、すぐ間近にあった。いつもの少し怒ったような顔ではなく、心から心配する色だった。

「アニカ、大丈夫か! 意識は、問題ないかっ?」

 ラズの大きな手が、狼狽えながらもアニカの頬をさする。その感覚がとても気持ちよくて、アニカは目を細めて頷いた。

「うん、大丈夫……」

 何故か体中が鉛のように重くて気怠くて、まだ自力で体も起こせなかったけれど、それでも大丈夫だと答えた。

 クィルシェはもういない。アニカの中にはいても、表にはもう出てこない。だから、ラズの心配は大丈夫なのだ。

「姫様っ!」

「うおっ」

 ラズの手助けでどうにか上半身を引き起こしてもらっていると、そのラズを横に吹き飛ばして、ニコがその首に気遣いながら飛びついてきた。

「ニコ……」

「姫様、心配いたしました。もしお戻りになられなかったらと……」

 言いながら、どんどん首に顔を埋めて涙声になるニコの背を、アニカはとんとんと優しく撫でる。いつもは常に冷静なニコが慰める役なのに、今日ばかりは逆転だと、おかしく思う。

「いつも、心配かけて、ごめんね」

 謝ると、「本当です」と怒られた。

「何故こんなことになったのですか」

 ジト目で睨まれ、困り顔で視線を泳がせていると、居場所もなく佇立していたマルセルに飛び火した。

「それもこれも、あんたが……!」

「ち、違うのよ、ニコ!」

 城では決して使わない素の口調が出てきて、アニカは慌てて口を挟む。

「マルセル様は、その、助けてくれて……でも私が気を失ったから、クィルシェ様が代わりに助けてくれて」

 色々事情を省いてはいるものの、その説明もあながち間違いでもない。実際、クィルシェは男性耐性で限界を迎えたアニカを助けるために交替したようなものだ。

 けれどそれで引き下がるニコでもなく。

「それも全てこの男が企んだことでしょう。姫様は完全な被害者なんですよ。何故庇うのですか!」

 びしり、と指をさして、もう肩身の狭くなっているマルセルを更に追い詰める。庇ったつもりはないのだが、そう言うとまた飛び火した怒りが返ってきそうで、言葉に迷う。と、すぐそばに人の立つ気配がした。

「マルセル、テメェ!」

 振り仰ぐと、こちらに歩いてくるマルセルに対し、復活したラズが牙を剥いているところだった。そのさまは雄々しくて実に男らしいのだが、不思議と怖いとは感じない。

 ラズの警戒を受けながら、マルセルが二歩先で立ち止まる。そして深々と頭を下げた。

「アニカ姫……、その、申し訳ありませんでした」

 記憶が途切れる前のマルセルとはまるで別人のような印象に、アニカは一瞬どう答えたものか戸惑ってしまった。けれどクィルシェとの会話は全部聞こえていたし、マルセルの動機も知ってしまったあとでは、その表情はただ叱られるのを待つ子供にしか見えない。

「いえ。私も、母に認められたくて、武闘大会コンヴェントシアに出ているのですから……一緒ですね」

 ラトの面影もあるせいか、男性恐怖症もどもりもなく、素直にそう言えた。

「アニカ姫……」

 と、マルセルが何故か呆けたように名を呼び、ラズとニコの放つ怒りが一段増す。あれ? と思っていると、一層険しい顔をしたイアシュヴィリ伯爵がマルセルの横に立った。

「……あの、」

 やはりイアシュヴィリ伯爵だけは、五歳の時の印象が強くて尻込みしてしまう。けれど予想した強い言葉はなく、発されたのは思いもかけない謝罪だった。

「第二王女殿下。愚息の考え足らずの行動に巻き込んでしまい、大変申し訳ございませんでした」

「えっ? い、いえ、そんな……」

 マルセルよりも深く身を折ったイアシュヴィリ伯爵に、アニカは驚いて慌てて両手と首を振る。しかしイアシュヴィリ伯爵は顔を上げぬまま、更に続けた。

「クィルシェ女王陛下が目覚めぬためと、マルセルをお側につけようと考えておりましたのに、このような事態になってしまい……処分はいかようにもお受けいたします」

「父上!?」

 父の覚悟に、マルセルが面食らったように名を呼ぶ。しかし驚いたのはアニカも同様だった。まさかそんな話になるとは露も思っていなかった。

 しかし、クィルシェが外壁を壊してから時間も経ち、周囲には確認に来た者や神官や衛兵たちが徐々に集まり出している。何もなかったで済まされる状況でもなかった。

 アニカは必死に状況を整理したうえで、クィルシェが考えていたことをそのまま利用することにした。

「で、では、二つほど、お願いをしてもいいですか?」



 アニカたちが円形競技場に戻ると、まだ準決勝の二回戦が始まらない、という話がちらほらと出ているところだった。ラズが客席から出てきた客を捕まえて聞くと、面の戦士が勝利したということだった。

「ラウルの奴、やりやがったな!」

 初めて見せる子供のような喜色を浮かべて、ラズが拳を握る。それからニコの手引きで、急いで選手の待合天幕に走った。

 二回戦はラズとラウルだ。ラウルが勝ったのなら、そのまま人払いをして天幕にいるはず、という予想は、レヴィのにこやかな笑みに迎えられて確信に変わった。

「レヴィ、やったな!」

 握った拳を突き出すと、レヴィが「君もな」とその掌で受け止める。どうやら、アニカの知らぬ間に二人は随分と仲良しになったらしい。入り込めない雰囲気にあたふたしていると、その笑顔がラズの後ろにいたアニカにも向けられた。

「アニカ殿下も、無事お戻りで、何よりです」

「!」

 レヴィとラウルも、競技場に現れないアニカを心配して協力してくれていたとは、ラズから聞いていた。だがクィルシェのことは知らないはずだ。けれどまるでそのことを言われたように、アニカには思えた。

 一瞬顔を俯けて、それから意を決して頭を下げる。

「あのっ、ご心配をおかけして、すみませんでした」

「殿下。そこはお礼にした方が、男心を掴めますよ」

「へ?」

 予想の斜め上の言葉が返ってきて、アニカはつい間の抜けた声を上げた。顔を上げると、レヴィは変わらずにこにこしていた。

(や、やっぱり、何だか掴めない人だわ)

 どういう意味だろうかとアニカが真剣に悩みだす前に、「さ、中へ」と促された。全員で中に入ると、狭い天幕の奥に、負のオーラをこれでもかと振り撒いて、ラウルが椅子に腕を組んで座っていた。足は色とりどりの布を憎々しげに踏みつけ、その目は完全に据わっている。

「ラウル! やっぱりお前はやってくれると思ったよ」

 それにラズは一切構わず、満面の笑みで手を差し出した。バシィンッ、とけたたましい程の平手が友好の握手を弾き飛ばした。どう見ても怒っていた。

「……何がやってくれると思った、だ。貴様がレヴィにわけの分からん伝言をしたせいで、昔の下らん借りを散々引っ張り出されて……気付けば頭に孔雀のような紐を馬鹿みたいにつけられて……!」

「え、俺?」

 とラズが後ろのレヴィを振り返る。

「顔はともかく、髪型とかはリボンで結構大袈裟に飾らないと、誤魔化せなかったからね」

 それに、ラズからの伝言とした方が怒りを抑えられそうだったから。と、レヴィが笑いを噛み殺しながら補足する。

 つまり、ラウルの足下にあるのは親の仇ではなく、一回戦でアニカに変装した際に使われた装飾品らしい。確かにその手には、アニカの狐の面が、今にも割られそうな勢いで握られている。

「ふんっ」と怒りに任せて投げ捨てられる寸前、アニカは「あっ、わっ、わっ」と慌ててその面を両手に受け取る。

 怒り心頭に発しているラウルの目の前に出るのは怖かったが、面が壊れてはせっかく決勝に出られても全力を出し切れない。それでは、アニカのために頑張ってくれたラウルにも申し訳が立たない。アニカはレヴィの言葉を胸に、深々と頭を下げた。

「ラウル様も、あの、ありがとうございました」

 顔を赤くしながら、どうにか言う。恐る恐る見上げると、三白眼を驚きに見開くラウルが見えた。「……ふん」と、すぐにそっぽを向かれた。

 やはりダメだったか、と落ち込むアニカ。それを助けるように、ラズが「でも、」と話を切り替える。

「二回戦がまだってことは、俺が戻るまで引き延ばしてくれてたんだろ? 不戦勝を受け入れるとか言ってたくせに、ありがとな」

 目の前の激怒を軽く前向きに変換して、ラズがニッと笑う。と再びラウルの怒りが戻ってきた。

「こんな仕打ちを受けて、貴様を滅多打ちにしなけりゃ俺の気が済むか!」

「あぁ、成程。それなら受けて立たねぇとだな」

「えっ、でもラズ様は、お怪我が……」

 軽く請け負うラズに、アニカは思わず心配になって口を挟む。ラズはクィルシェに何度か吹き飛ばされて、あちこち傷を負っているはずだ。まだ医者にも見せていないし、無理をするのはよくないはずだ。

 だがラズはからりと笑って「平気だ」と答えた。

「それにラウルも連戦になるし、こんくらいの状態で五分になって丁度いいだろ」

「負けた時の言い訳にもなるしな」

 途端二人の間でバチバチと火花が散る。そんな二人をレヴィが追い出して、「では決勝の準備をしていてください」と自身も去っていった。

 その言葉を受けて、ニコも準備に取りかかる。アニカから少しでも離れるのが嫌だと、手近な関係者に長剣を借りた。落ちていたリボンも、ラウルが踏みつけていた中で無事な幾つかを拾い、後頭部で結んだ髪に巻き付けてくれる。

 観戦はしなかった。ただ待っている間、どちらの勝利を願えばいいか分からず、ただ二人が大怪我をしないようにだけ祈った。

(でも、ラズ様との約束は……)

 クィルシェを通して聞いた、ラズの切実な『約束』の言葉が胸を苦しくする。そしてずっとしまっていた、あの少年との約束も。

(……聞きたい)

 ラズの本音を。どうしてジーラとして近付いたのか。どうして、婚約者候補として現れたのか。どうして助けに来てくれたのか。

 クィルシェの伝言もあるけれど、アニカ自身が、聞きたい、と思った。

 そうして待つこと、二十分近く。勝敗は、ニコより告げられた。

「決勝のお相手は、メトレベリ様です」

 それを、アニカは複雑な思いで頷いた。

(とにかく、ちゃんと戦おう)

 狐の面を握り締め、立ち上がる。程なく、決勝の声が天幕の外からかけられた。



 狐の面をかぶり、競技場に足を踏み入れる。予想以上の歓声が、アニカを迎え入れた。

(すごい人……)

 予選の時とは比べ物にならない。この大会が、春祭りの目玉の一つであることは言わずもがなだった。だが今は、その大衆にも、男性にも、心は動じない。

 視線は自然と、天幕の張られた王族の観戦席に吸い寄せられていた。中央には父である国王が、その左隣には母である王妃が、ぴくりとも笑わずに座っている。見れば兄である王太子と、末弟のラシャも、傍らに見たことのある人物を従えて並んでいた。

 ラシャの心配げな碧眼に思わず目を細めるが、それも対戦相手の登場でスッと意識が切り替わる。

 競技場の反対側の入口に、長めの黒髪を三つ編みにした、精悍な青年が立っていた。アニカと同じように、腰の剣帯に長剣を吊るしている。服は先程よりも砂がつき、所々擦り切れているようだが、大きな怪我はないようだ。

(良かった)

 ラズが歩み出るのに合わせて、アニカも中央に進む。審判の声に合わせて一礼し、王族席に向き直ってまた一礼する。父の明朗とした激励の声の陰で、さっきの試合凄かったな、気迫が違ったな、などと騒ぐ声が聞こえたが、全部閉めだした。

「構え」の声に合わせて抜剣する。二本の剣の向こうに見える青灰色の瞳には、先程の子供のような笑顔こそなかったが、それでも単純な怖さは、もう感じなかった。

「始め!」

 ザッ、と土を蹴り、一気にラズの懐に入り込む。体格差を活かして体を縮ませ、近付いた瞬間に伸びあがって横腹を切り上げる。

「!」

 が、呆気なく弾き返された。そのまま駆け抜けて、改めて間合いをはかる。と、緩く剣を握りながら、ラズがどこか愉快そうに呟いた。

「すげぇ重み……練習の時とは大違いだな」

 けれどその表情は、言葉とは裏腹に余裕たっぷりだ。

(そう簡単には、いかないよね)

 そんなラズを眺め、全身隙がないと思うのに、不思議と気持ちは軽やかだった。と、面の陰越しにラズと目が合う。ニッ、と口元が上がり、その視界の下で剣先がゆらり、と揺れる、と見えた刹那。

「!」

 ラズの体躯が滑るように突進してきた。反射的に刃を立てて力を削ぐ。そこからは、力押しの打ち合いだった。

 性格そのままに真正面から打ち込んでくるラズの剣筋を、アニカの柔軟な剣が受けては流す。それは王立学校時代、アニカが最も得意としていた戦法だった。

 当時から最も小柄だったアニカでは、力と勢いで押された場合、まともに受けても押し負けるだけだ。脳天を狙って力任せに振り下ろされる剣を、刃先で受け流しながら寸前で避ける。そして次撃に移る前、隙の出来た脇に打ち込むのだ。が。

(いなしきれない……ッ)

 何合も打ち合っては流しながらも、ラズは隙を見せる前に次の攻撃に移る。その速度も動きも無駄がなく、打ち込まれる度にアニカは後ろに下がらざるを得なかった。

(押し切られる……!)

 ギン! と二つの刃がアニカの目の前で鋭く重なる。ギリギリと迫る剣を、どうにか角度をつけて払いながら、後方に飛びすさる――その足元を、薙ぐように風が襲う。面の死角だった。瞬間、アニカは本能的に飛び出していた。前へ。

「ッ」

 ラズが息を呑む気配が至近でする。その首元目がけて最小限の振りで剣を繰り出す。

(当たる!)

 勿論寸止めするつもりだった。それでも、その直前の勢いは強い。アニカが勝利を確信した、その瞬間。

「ッ!?」

 右手首に蹴り付けられるような強烈な痛みが走った。

(しまっ――)

 距離を、と思う間もなく、首筋にひやりと冷たいものが当たる。アニカの手に剣は、ない。

「勝負あり!」

 遠く、そう宣言する審判の声が高らかに競技場に響き渡った。瞬間、会場全体に歓声がどよもした。

 その揺れるような歓声の中、ふぅ、とラズの深い息が、頭上から降る。アニカは首筋の刃を辿るように視線を上げ、見事に背後を取ったラズを見やる。

「まさか、あの体勢から回し蹴りがくるなんて、びっくりです」

「こっちこそ、死角をついたはずなのにあんなにあっさり反撃されるとはびっくりだ」

 確かに、面はアニカの視界を制限するから、男性の圧迫感を減らす代わりに死角も増える。その不安はあったが、実際にはあまり不利には感じなかった。その理由は。

「ニコ・メルアのちょっかいはただの悪戯かと思ってたが、ちゃんと役に立ってたんだな」

「ニコは、いつも私のことを一番に考えてくれていますから」

 複雑そうな顔をするラズに、アニカは面の下で満面の笑みを作る。ニコはいつもアニカの自慢なのだ。

 パッパッと手と膝の砂を払いながら、その場に立ち上がる。

「でも……真っ正直な剣筋は変わらないと思ってましたけど、凄く力が強くなってて、驚きました」

 久しぶりに真剣に打ち合って、昔の稽古を思い出したアニカはしみじみと言う。胸の中ではまだ凄い形相で涙を我慢する男の子がいたのだが、目の前の男性を見れば、もうそんな少年は影もない。妙な感慨に苦笑していると、ラズがしまいかけた剣を取り落として、ぽかんと目と口を開けた。

「?」

「おま……」

 そしてラズが何事か口にしかけた時、

「見事なり。勝者よ、名乗りを上げよ」

 観覧席の中央から、良く響く低い声がかけられた。ラズが慌てて剣を拾って仕舞い、片膝を付く。アニカも後方に下がってそれに倣った。

「メトレベリ公爵家三男、ラズ・メトレベリと申します」

「おぉ、ではおぬしがヴァノ・メトレベリの息子か。ではおぬしの願いも、父同様愛しき者への告白か?」

 ラズのしかつめらしい名乗りに、亜麻色の髪と瞳を持つ国王ネストル三世は、実に福福しい笑顔で聞いてきた。ラズが咄嗟に礼儀を忘れて顔を上げる。

「ち、違いますっ!」

 その顔は真っ赤で、すぐに平伏するがその下で「だから出たくなかったんだ……!」と声を殺して叫んでいる。

 アニカは生まれる前のことだから知らないが、ラズの父ヴァノは、一目惚れした公爵家美人三姉妹の長女ニーナに、大会で優勝して告白の場を頂きたいと願い出た。ニーナにとってはそれが初対面だったらしいが、「まあ」と一言、快諾したという。

 この逸話は一時期大きな話題となり、生まれてきた六人兄弟には良きにつけ悪しきにつけ、その話が付きまとった。特にラズなどは、剣が上達すればするほど、「大会で告白するのかー」などとからかわれたものだ。

 それはさておき。

 ラズは忌々しい脳筋の父を頭から追い払い、思考を切り替える。

「俺――私の願いは、妃殿下のお時間を頂きたく」

 視線を下げたまま、意識だけを隣に座するエリザーベト王妃に向ける。アニカは思わず声が出そうな程驚いたが、国王は春祭りの武闘大会ということもあり、怒ることはせず、「ほう」と面白がるような声を上げた。

「夫の目の前で宣言するとは、さすがヴァノの息子。中々肝の据わった男だな。――どうする?」

 最後の言葉は、沈黙を守る王妃に向けられていた。当の王妃はという、もったいぶるように羽扇で顔を隠し、その陰からラズを値踏みするように注視する。そして、つぅ、と視線を夫に流して、模範解答を返した。

「わたくしの時間は、全て陛下のものにございます。陛下がお許しになられるなら、構いませんわ」

「うむ。たとえ小僧っこでも、愛しい妃を奪われるのは癪であるなぁ」

 いちゃつきだした。公衆の面前なのに。

 今度はアニカが顔を赤くする番だった。

 穴があったら入りたい、と思っていると、ラズの意外な発言がそれを押し留めた。

「と、思っておりましたが、どうもその必要はなくなったようですので、辞退いたします」

「え?」

 今度は予想外過ぎて、ついアニカの口から声が漏れていた。慌ててラズの背を見ていた視線を下向けるが、内心ではラズの目的が分からなくて疑問符が大量生産されていた。それは国王も同じらしく。

「……何と? もうこの時間だけで気が済んだということか?」

「私の願いは、妃殿下が第二王女殿下とお二人で話される時間を持っていただくことでした。けれどもう……私が出しゃばる必要はなくなったようですので」

「!」

 想像もしなかった内容に、アニカは驚いてラズを凝視していた。その視線を感じてか、ラズが肩越しにそっと振り返る。その青灰色の瞳は、今までで一番優しくアニカに語りかけるようだった。もう、自分で言えるだろう、と。

(そんなことを、考えていたなんて……)

 こんな所でラズの真意を知り、アニカは胸が詰まった。アニカはずっと、自分のことばかりを考えていたのに。

「ふむ。では、優勝の褒美は、準優勝者に渡ることになるが」

 その異例の言葉に、会場中が先程よりも大きくざわつき出す。ラズが膝をついたまま後退する中、国王の――父の視線がアニカの頭上に止まる。アニカは久しぶりの父との対面に心臓が暴れる程だったが、決然とその場に立ち上がると、静かに狐の面を外した。

 その下に少女の顔が現れて、会場中が更に驚きに揺れる。だがそれが第二王女だと気付いたのは何人いるか。そして王族席には、そのことで表情を変える者はいなかった。

「お母様」と、アニカは声を張り上げる。「私のお願いを聞いていただく約束、果たしにまいりました」

 心臓が破裂しそうな程緊張しながら、それでもアニカは言った。母が頷けば、そっとしておいてほしい、と続けるつもりだった。だが。

「ならぬ」

 と、母はきっぱりと言った。思わず「え?」と聞き返すと、母はぴくりとも表情を動かさずこう続けた。

「お前、準決勝に出ていないね」

「! き、気付いて……」

 アニカはうっかり忘れていたことを指摘され、思わず声を裏返した。そうだ。準決勝に出たのは狐の面をしたラウルだ。仕上がりがどうだったかは分からないが……アニカでないことは事実だ。

「自分の娘くらい、変装していても分かる」

 呆れたように言う母に、アニカはもう抗う言葉もなかった。

「では……」

「代理人を立てて勝利した者に、褒美を受ける資格はありません」

 高らかに宣言する母に、三度会場中が戸惑う声を上げる。それを止めたのは、王族席に座っていた小さな王子だった。

「待ってください、母上!」

 声変わり前の高い声で、双子の弟ラシャが兄を押しのけて母の前に出る。

「姉様は、母上との約束を果たすために、一生懸命、」

「それでも、不正は不正です」

 言い募るラシャの声を、しかし母は容赦なく遮った。

「王族の出場も異例、その上こんな不正を許したとあっては、もう二度と、この大会は開けなくなるでしょう」

 それはどこまでも至論で、九歳の少年にそれに対抗する言葉のあるはずもなかった。「そんな……」と項垂れる弟に、アニカは嬉しい気持ちを込めて、「いいの」と声をかける。

「マル――」

 ティ、と言いそうになって、そう言えば今は婚約者候補ではなく、ちゃんと弟だったと言い直す。

「ラシャ。いいのよ。お母様は正しいわ。……それに私」

 緩く首を振りながら、アニカはそっと後ろに下がったラズを見る。仮面越しでなく目が合っても、アニカはもう怖いとは感じなかった。

「ちゃんと言えるから」

 再び視線をラシャに戻し、にこりと笑う。それから母をもう一度見、父に視線を止める。そして深々と平伏した。

「陛下。私も、辞退いたします。褒美は次位の者にお願いいたします」

 その言葉に、会場のあちこちから戸惑いの声が上がり出す。視線は物量を持っているのかと思うほどの圧力でアニカを貫いたが、今まで感じていたような気後れも罪悪感もなかった。

(ううん、むしろ清々しいくらい)

 ラウルがしてくれたことを無駄にしてしまうのは申し訳ないが、確かに不正の上で褒美を受け取ることはできない。これで良かったのだと、アニカは晴れ晴れしい気持ちで思った。

(ラウル様には、あとできちんと謝ろう)

 そう思っていると、審判が戸惑いを強く残したまま、「で、では、三位決定戦を、」と口を開く。しかしこれを止めたのは、父の思いもよらぬ一言だった。

「その必要はない。優劣は、既についているはずだ」

「は……? それは、どういう……」

 状況を全く飲み込めていない審判が、答えを求めるように国王を見やる。その頭の上には、先程のアニカのように疑問符をいっぱい並べているのが見えるようだ。

 だが国王もまたラウルの変装に気付いていたとすれば、理由は明快だ。三位決定戦となるラウルの対戦相手は、変装したアニカ――つまりラウルに、既に負けている。

(そっか。ラウル様の願いが叶う、のか)

 そのことに思い至り、いつかレヴィと二人、口論していたことを思い出す。審判がラウルを探しに行く背中を見送りながら、アニカはラウルの望みと父の答えが、アルベラーゼ侯爵家に良い風をもたらすことを願った。



 大会勝者と国王陛下との問答が終わると、春祭りはいよいよ大詰めを迎える。

 円形競技場に集まっていた人々は大通りに流れ出し、隙間なく並んだ天幕カセタに思い思いに顔を出す。国王王妃両陛下は臣下を率いて王室礼拝堂に戻り、春祭りの無事の終了と感謝を述べる。のだが、今年は春祭りの期間中に馬車に繋がれていた馬が突然暴れ出し、外れた馬車が外壁にぶつかったせいで一部が崩落、王室礼拝堂は現在立入禁止だった。

「イアシュヴィリ伯爵は、約束を守ってくれたみたいだな」

 代わりとして、ムゼ宮正面の前庭で祭礼を執り行う両陛下を南庭の東屋トティから眺めながら、ラズが言う。「はい」と小さく頷きながら、アニカはクィルシェのことを思い出していた。

 クィルシェは最初から、ラズたちに危害を加えるつもりではなかった。最初の目覚めこそ、暴発のように力が暴走してしまったが、そのまま終わると、状況は不自然極まりなくなる。そこで原因を意図的に外に作るよう、クィルシェは外壁を破壊したのだ。

 他にも不自然さは色々とあるだろうが、それを誤魔化すぐらいの力は、イアシュヴィリ伯爵にはある。礼拝堂を出る際に合流したアラムにも、ラズから伯爵たちを手伝うようにと言ってくれた。アニカの占断を知る母もまた、伯爵を問い詰めて理由を知れば、王妃らしい力業の解決策を用意してくれるかもしれない。多分大丈夫だろう。

 それが一つ目のお願いだった。そしてもう一つは。

「それよりも……本当に良かったのか?」

 前にここで話した時と同じ位置に座りながら、ラズが少しの逡巡の末問う。それが何を指すか、アニカはすぐに分かった。

 イアシュヴィリ伯爵にしたもう一つのお願い、それは。

『クィルシェ様の再封印は、なさらないでほしいんです』

 クィルシェに復讐の意思はない。そのことをしっかりと説明した上で、アニカは我が儘と承知の上でお願いした。監視者であるイアシュヴィリ伯爵は勿論渋ったが、アニカはこればかりは譲れないと頑なに折れなかった。

「はい。クィルシェ様が出てくることはもうない気もしますが……それでも、封印されていない方が記憶の共有が鮮明になるのであれば、そうしたいと思って」

 封印があってもなくても、アニカの体感は変わらない。瞳の色も元に戻っている。それなら、少しでもクィルシェに伝えたいと思ったのだ。

 憐れんでいるのかと問われれば、それは違うと答える。ただ伝言を受けたからには、その結果くらいまでは、知る権利があるだろうとも思うのだ。

「怖くないのか?」

 ラズの問いに、アニカは一瞬だけ瞠目してから、自分の胸に手を当ててみた。歴史上や伝説の中に見える女王は確かに恐ろしいが、ラトとの感情を教えてくれたクィルシェは、どこにでもいる、ただの不器用な女性だった。

 だから大丈夫だと、変わらず距離を空けて座ってくれるラズににこりと微笑む。

「怖くは、ありません」

「……そうか」

 それに、そう聞いてくれるということは、ラズは純粋にアニカを心配しているということだろう。そのことが、アニカはなぜか嬉しかった。

(やっぱり、ジーラさんのことだって、きっと悪意があったんじゃないわ)

 今を逃したら、きっと聞けなくなる。意を決してラズの瞳を見たアニカはけれど、数秒見つめ合っただけで、上手く言葉が出てこなかった。

(あ、あれ? こ、怖いわけでは、ないと思うんだけど……)

 再び自分の膝を見つめながら、内心で首を傾げる。と、ラズが「そう言えば」と口を開いた。

「マルティは、ラシャ殿下だったんだな」

「え? あ、あぁ……」

 突然の話題転換に驚きながらも、アニカは先程のことを思い出して頬を緩めた。

 ラウルと父との問答も終わり、会場を出ようとした時、ばつの悪そうな顔をしたラシャがディミトリー・ミシェリを後ろに従えて顔を見せた。最初の一言は『ごめんなさい』だった。

『どうして謝るの?』

『それは……姉様を騙していたから』

『? 騙されては……ないけど……』

『……は?』

 辛そうな顔で謝るラシャにアニカの方が心苦しくなりながら、本音を言う。三年会っていなかったが、さすがに可愛い弟の顔を分からなくなったりはしない。

『でも、ぼくと話す時、すごく怯えて、』

『そ、それは、ごめんねっ。男の子は、たった三年でも随分成長するなぁと思ったら、案外ダメで……』

 言い訳をすればするほど恥ずかしいとはこのことだと、六歳も下のしっかりした弟を前にアニカはしみじみと思った。

『それでも、黙っていたことは事実だから』

 そう肩を落とすラシャのことも、アニカはもう怖くはなかった。第三王女サーシャの婚約の話を聞いた時から、ラシャの行動理由にもなんとなく見当はついていた。

『お母様かお兄様に、自分からは言わないようにって、言われたのでしょ?』

『それも、知って……』

『ラシャは、サーシャが一番だものね。サーシャが幸せな結婚ができるように、頑張っているんだろうなって思ったから、私も頑張れたから』

 母はともかく、兄ならば弟たちに意地悪な提案くらい笑ってしそうだ。そう言うと、『ご明察です』と可愛い苦笑が返ってきた。

 きっとあの後、ラシャは一目散にサーシャのもとへと帰ったに違いない。

「ラズ様は、弟たちの顔をご存じなかったんですね」

「あぁ。まだあまり表に出られていないだろう」

「二人ともお人形みたいに可愛くて、性格は正反対なのによく似ていて、可愛いんですよ」

「……そうか? 随分生意気な口の利き方だったと思うが……」

 微笑ましい後ろ姿を思い出してにこにこするアニカとは反対に、ラズはどこか納得のいかない顔をする。

 ちなみに、ずっと後ろにいたミシェリはやはりラシャとサーシャの近侍らしいが、予想通りの双子至上主義らしく、アニカへの態度は変わらなかった。

「姫様」

 と、階段の下から声がかかる。少し場を外していたニコが戻ってきたのだ。

「ニコ。どうだった?」

「はい。テンギス・ベリーエフですが、医者に診せたところ、後遺症が残るような怪我はないとのことでした」

「そう。良かった……」

 ニコには祭礼が終わるのを待つ間、マルセルと共にクィルシェに飛ばされたらしいテンギス・ベリーエフの容態を確認してもらっていた。

 彼のしたことは、やはり怖いし許せない。だが見方を変えれば、彼にとってはアニカこそが突然現れて人生を狂わせた悪役のようなものだろう。あの事件の代償は、アニカにとっては三年の引きこもりだったが、彼にとってはその後の長い人生に大きな影響を与えた。自業自得だとは今も思うが、同情の余地が全くないわけでもない。これ以上、何かの被害を与えたまま知らぬふりをしていたくはなかった。

「あと、これを」

 そう言って、ニコが階段を上がりながら両手を差し出す。色を濃くし始めた西日に照らされたそれを、アニカはぱちくり、と見た。

「お面? が、どうして?」

 その手には、白と赤で彩られた狐の面と、可愛らしい兎の面とが用意されていた。だが、もう用は済んだはずだ。意図が分からず小首を傾げると、「どうぞお持ちください」と渡された。

「今は、藁人形よりも、こちらの方が良いでしょう」

「?」

 それでも二つの面を持ちながら困惑していると、ニコが声を潜めてこう囁いた。

「ご武運を」

「!」

 ニコには、ラズとジーラのことは話していない。それでも、アニカがラズに何事か思うところがあることは、すでに気付いていたのだろう。

 アニカはぎゅっと面を握り締めると、ニコに頷きで返す。それから立ち上がって狐の面をつけると、キッとラズの方を振り向いた。戻ってきた狭い視界に助けられて、つかつかと歩み寄る。

「あ? な、なんだ今更、」

 突然の不審な行動に、ラズが座ったまま体を後ろに下げる。しかしアニカは構わず、手に持ったもう一つの面を、ラズの顔に合わせる位置に持ち上げた。

「ラ、ラズ様」

 呼びかけた声は上擦っていたけれど、今度は逃げずに、ラズを真っ直ぐに見られた。心臓はどくどくと激しく高鳴っていたが、可愛らしい兎の面が隠してくれたお陰で、どうにか次の言葉も出てくる。

「あのっ、王立学校で、……あの時、ニコと一緒に私を助けてくれたと聞きました。すぐにお礼が言えず、申し訳ありませんでした」

「……は?」

 それは、テンギス・ベリーエフの言葉で気付いたことだった。アニカが身を硬くして必死に蹲っていた時、ニコと他の誰かがいたことには気付いていた。ずっと教師か誰かだろうと思っていたのだが、もしかして、と思い後でニコに確認を取ったところ、当たりだった。

「それに、私がいなくなったあとも、私のために怒ってくれたとも……」

 その時に込み上げた感情を、アニカは嬉しいような申し訳なような思いで噛み締めた。

 ラズの王立学校での悪評については知らなかったが、それもアニカを思っての行動だったと知り、アニカが真っ先に抱いたのは、罪悪感だった。アニカはそう思うだろうから、ずっと伝えなかったし、お互い知らぬ者同士としていたとも、ニコは明かした。

『だから、ご自分のためにと悔やまれるのではなく、姫様なりの感謝を、伝えてください』

 感謝なら、いっぱいある。罪悪感もあるけれど、それはこれから自分の中で折り合いをつけるものだと思った。だからアニカは素直に、お礼を言いたいと思った。

 ニコだけでなく、自分のために怒ってくれた人がいたことが、それがラズだったことが、体中が温かくなるほど嬉しかったから。

「その節は、ありがとうございました」

「……くそ、ニコ・メルアか……!」

 ぺこり、と頭を下げると、真っ先にニコの名前を毒づかれた。その声は怒っているようにも聞こえたけれど、アニカにはラズが照れているような気がした。だから、もう一つのことも、どうにか切り出せた。

「それと、あの……聞きたいことが、あるのですが……」

 ぼそぼそと小さくなった声でそう言うと、兎の面からはみ出していた黒髪の三つ編みが、びくっと跳ねた、気がした。一応の間を置いてみてから、「嫌だ」と言う声が上がらなかったので、アニカは意を決して先を続ける。

「どうして、侍女の姿で私の前に現れたのでしょうか……?」

 ごんっ。

 という音がして、アニカは驚いて兎の面を下げる。見れば膝の上に作った両の拳に、ラズの額が大きくめり込んでいた。今のはその音らしい。

「あ、あのっ、大丈夫、」

「不可抗力だ!」

 ですか、と続けようとしたところ、凄い形相で遮られた。ちなみに凄い形相というのは、凛々しい眉は吊り上がり、口は引き結ばれているのに顔は真っ赤で、目が完全に泳いでいる顔のことだ。つまり。

(あれ、照れていらっしゃる?)

 やはり恐ろしい計画ではなく、趣味だったのだろうか、と思考が過ったところで、ラズが絞り出すような言い訳を続けた。

「侍女の姿は、その、乳兄弟から逃げ出すのに適当に変装するのに借りただけで、殿下の前に現れたのは不幸中の不幸な事故だ」

「事故……一度目も、二度目も?」

「当ったり前だ! 誰があんな格好で人前に出たがるかっ」

 顔が真っ赤だった。とても嘘とは思えない。やはり、何か目的があって待ち伏せしていたというわけではないらしい。

「……良かったぁ~」

 兎の面を持ったままの手を胸に当て、ふぁぁ、とアニカは息を吐き出した。ラズが嘘をついていないこと以上に、ジーラの時の言葉が真心からのものだったと知れたからだ。

 ずっと、ラズが何かしら目的を持って女装して近付いたのであれば、ジーラの時の言葉も、アニカのためではなく、ただアニカの望む言葉に合わせていただけなのでは、という疑念が拭えなかった。

(でも、そうじゃなかった)

 あの言葉は真実、苦しむアニカを見て発せられたものだった。そして答えを得た今なら、自分があんなにも悩んでラズを遠ざけていた理由も分かる。ラズに目的があったかどうかよりも、そのことにこそ、アニカは傷付いていたのだ。

 しかしその一方で、解せない部分もある。

「でも、どうして今まで仰ってくださらなかったのですか?」

 言い出す機会はいくらでもあったのに、と狐の面越しになじるように見ると、「馬鹿を言うな」と返された。

「んなこと、男が恥ずかしくて言えるか」

 そのそっぽを向いた横顔が、あまりにあどけなくて、アニカは思わず思ってしまった。

(か、かわいい……)

 ラズはアニカよりも頭一つ分背が高いし、肩回りは一回り以上大きい。顔つきも中性的なレヴィと違って男臭いのに、頬を赤らめて口を尖らせる姿は、普段の厳めしい印象との違いもあって、きゅん、と胸が高鳴った。ラズの姉たちが弟を構い倒すという話に、つい仕方ないと納得できてしまう。

 アニカらしくなく、もうちょっと羞恥に悶えるラズを眺めていたいと思っていたところ。

「もうそろそろ、人形ファジャの焚き上げが始まります」

「ッ」

 入口で存在を消して控えていたニコが、唐突に声をかけてきた。少々邪まな思考に走っていたアニカは、びくぅっ、と背後を振り返る。見れば祭礼は終わり、使用人たちが城中に飾られていた魔女の人形を集め出しているところだった。

「姫様におかれましては、こちらを」

 言葉と共にニコが何かを差し出す。お面の他にもまだ隠し持っていたのかと感心しながら視線を移すと、懐かしいものがそこにはあった。

藁人形ツァヴィ!」

 久しぶりに見た相棒に思わず飛びつく。ずっと男性が近づく度にこの人形に恐怖心を訴え、怯えた心を落ち着かせるために釘を打ち込んでいた人形は、ニコの手の上で少しだけ綺麗になって横たわっていた。

「返してくれるのっ?」

 期待に目をきらきらさせてニコの顔を窺うと、「お返ししてもよろしいのですが、」と意味深な言葉で返された。

「姫様には、もう必要のないものかと思いまして」

 言いながら、ニコの視線が背後――前庭に組み上げられた焚き上げ台に滑る。そこでやっと、アニカはその真意を理解した。

 藁人形は、ニコ以外誰にも不安や恐怖を打ち明ける相手のいなかったアニカにとって、心の支えだった。けれど今、アニカはまだこわごわとだけれど男性と話せるようになり、母にも対峙しようと決めた。武闘大会の閉会後に会いに行った時、数日以内に時間を取ってくれると了解も得ている。男性恐怖症を克服した自信はまだなかったけれど、もう隠れて藁人形に釘を打ち込まなくても、立ち直れる気がした。

「よろしければ、焚き上げをお願いしてきますが」

 ニコが、優しく目許を和ませていた。少しの寂しさは感じたけれど、部屋中を歩き回った時のような動揺はもうなかった。

「うん。お願いしてもいい?」

 ことり、と首を少しだけ傾けて、藁人形から手を放す。ニコは心得たとばかりに頷くと、颯爽と木材で組み上げられたやぐらへと向かっていった。それを見送っていると、城下の町中からも、わぁぁ、と歓声らしき声が波のうねりのように風に乗って届けられた。

 町でも行進アフルミィの始まりに合わせて、家々の軒先に吊るされた人形が外され始めているのだろう。通り道では、春の花嫁パタルザリに選ばれた少女と、優勝者改め褒美の受賞者であるラウルのあとを、子供たちが手作りした紙飾りや花で飾り立てられた荷車が、大小さまざまな人形を増やしながらついていっているはずだ。

「……ラウル様は、大丈夫でしょうか」

「絶対しかめっ面してるな」

 思わず零れた心配に、ラズがふっと笑って断言した。すると互いに目が合って、自然に笑い合っていた。

「一緒に見に行くか?」

「えっ」

 ラズがごく普通に掛けてくれた声に、アニカは二重の意味で動揺した。

「っていうのは、まだ……あれか」

 それをどう受け取ったか、ラズは早計だったとすぐに打ち消す。確かに、男女入り乱れる人混みの中に飛び込めるほど完全に男性恐怖症を克服したとは、まだ言えそうにない。けれどそれ以上に、男女で人形の焚き上げを見物するというのは、表面的な意味以上のものがあった。アニカにはそのことの方にこそ、より動揺したのだが。

(……でもあの表情だと、絶対知らなさそう)

 肩に落ちてきた三つ編みを払って神妙な顔をしているラズからは、そんな艶のある話は微塵も感じられなかった。

(一人慌てて……恥ずかしい)

 面の下でほんのり赤くなった頬を意識しながら、アニカはでも、と思う。ラズのせっかくの申し出を断って、一人部屋から見る遠い火は、

(きっと、寂しいだろうな……)

 けれどその胸に芽生えた思いを正しく口に出来る程、アニカは敏感でもなければ器用でもなかった。

 結局、どちらもその先を続けられず、城のあちこちから人形を持って前庭に戻ってくる人々を漫然と眺めていると、

「……ひ、姫様のお部屋からでしたら、広場の焚火ならご覧になれるのでは」

 地を這うような低い声が、背後からもたらされた。予想外に早く戻ってきたニコだ。しかし走ってきたような息遣いにしては、赤みを帯びてきた西日に照らされた顔は今にも引き付けを起こしそうな程蒼白に引きつっている。

「ニ、ニコっ? どうしたの? 顔色が近年稀にみるほど悪いけど!」

 慌てて駆け寄ると、「お、お気になさらず」と死にそうな顔で断られた。凄まじく気になる。だがそこは侍女としての矜持なのか、低頭したまま低い声を絞り出した。

「よろしければ、メトレベリ様も、ご、ご、ご、」

「死にそうな理由はそれか」

 何故か「ご」で詰まるニコに、ラズが得心したように呆れきった声で突っ込む。アニカにはなにが「それ」なのかさっぱりだったが、ニコはそこで一度深呼吸すると、最後の言葉を一息に言い切った。

「……ご一緒されてはいかがでしょう」

「え?」

 それは、この場では唐突な提案に思えたけれど、よくよく考えれば、ニコは最初から婚約者候補の中から一人を選ぶ補佐を、母から言いつかっているのだった。アニカがラズを選ぶように仕向けるのは、思えば当然と言えた。のだが、当の提案者はやはり苦虫をかみつぶしたような顔のまま固まっている。

「そっか、まだ婚約者候補、だもんね……」

「……はい。いえ、ですが、やはりまだ抵抗もお強いでしょうし、勿論、わたくしもそんなことをお勧めするのは断腸の思いですので、姫様がお嫌であればもう全然きっぱりと力強く拒んでいただいて構いません」

「少しは俺への敵意を隠せ」

 取り繕うように早口で捲し立てるニコに、ラズが目を据わらせて文句を言う。それを聞くともなしに聞きながら、アニカは考えた。

 男の人と二人きりになるのは、マルセルの件もあり、まだ怖い。けれどラズとなら、この面を着けたままなら、少しなら大丈夫なはずだ。ニコも、お願いすれば一緒にいてくれるだろう。

 そして何より、先程感じた寂しさや言えない思いを、もう一度胸にしまい直すのは、嫌だ、と思った。

 だからアニカは、狐の面をつけた顔を決然と上げ、なけなしの勇気を総動員して返す言葉を決めた。

「ですから、もし姫様が、」

「はい、是非」

「「…………、へ?」」

 長い沈黙のあとに上がった声は、二つ重なっていた。ニコとラズがアニカを見、それから確認するように互いを見合っている。そこで、アニカは肝心なことに気が付いた。

「あっ、でももし、ラズ様が、その、良ければ、ということですが……」

 行きがかり上、ラズたちは何度かアニカの部屋に入っているが、それでも好んで異性の部屋に入るのはマルセルくらいだろう。そう思って聞いたのだが、二人は何故かもう一度互いを見、アニカを見てから、綻ぶようにふうわりと苦笑した。

「え? あの……っ」

 その意味が分からず、アニカが一人困惑していると、

「もちろん、アニカ殿下さえ良ければ」

 ラズが、くすぐったくなるくらい甘く優しい声で、そう頷いた。その笑みがあまりに綺麗だったものだから、アニカは面を取って直接見たいような、全力で顔を背けたいような、変な衝動に駆られてとっても困ってしまった。



 三人でアニカの寝室に入ると、ラマズフヴァル城の正門前から真っ直ぐにのびる大通りの先にある広場の喧騒を、遠くに眺めることができた。

 可愛らしい春の妖精を模した衣装に身を包んだ少女の前に、次々と色とりどりの魔女の人形が積まれている最中だ。周りには篝火が幾つも見え、その時が近いことが分かる。

「間に合いましたね」

 城内を面を着けたまま歩くことはさすがに注目を浴びると分かっていたので、今は外していた。ニコの言葉に、アニカと、ラズが少し遠慮気味に窓辺に歩み寄る。

「結構見えるもんなんだな」

「はい。姉が嫁いでからは、いつもここから見ていました」

 ニコが譲った場所から覗き込んだラズに、アニカが振り返って頷く。だがその近さに驚いて、アニカは慌てて前を向いた。

(そ、そうよね。ここの窓は、そんなに大きくないもの)

 だからと言って、別々の窓から見るのは少々間抜けだと、さすがのアニカでも分かる。結局窓の向こうの景色を必死に見続けていると、ラズが「……あのさ、」と言いにくそうに切り出した。

「アニカ……殿下は、いつ俺があの時のガキだって、気付いたんだ?」

 あの時のガキ、というのが何を指すのか、アニカは一瞬分からなかった。けれど聞きたいことは分かった。

「クィルシェ様との会話でおっしゃっていた『約束』の言葉で」

「聞こえてたのか?」

「はい。夢現ながら、ですけれど」

「だったら、何ですぐに言わなかったんだ」

 気まずげに詰るラズに、アニカは苦笑しながら弁明する。

「確信はなかったんです。決勝で剣を交えるまで。だって、あんなに泣いていた子が、ラズ様みたいに立派になられているとは、思えなくて」

「なんでそんなところを覚えてるんだ……」

 唸るようにラズが文句を言う。

「でも、決勝でラズ様の剣筋を見て、思い出したんです。王立学校の時、あの子が勝ったら、お庭を一緒に散歩しようと約束していたことを」

 ちらり、と答え合わせをするように隣のラズを見上げる。だが返されたのは、

「……は!?」

 素っ頓狂な声だった。

(あれ? ま、間違っていたかしら)

 急に自分の記憶に自信がなくなって、頭の中で子供たちの会話を反芻する。確か。

「確か、ラズ様が『おれが勝ったら、おれの家来に――』」

「わああっ、分かった悪かった! それで間違いない!」

 確認しようとしたら、突然大声を上げて遮られた。小首を傾げると、視界の端でなせかニコが隠しナイフを取り出そうとしていて、余計に状況把握が困難になる。

 アニカの記憶の中では、ラズは『おれが勝ったら、おれの家来になれ』と言ったと思う。だがアニカは王族で、多分家来にはなれないから、代替案として『一緒にお庭を歩きながら、お話しするのならいいよ』と答えたと思ったのだが。

(私の思い違い、かしら?)

 確かめる術もないまま、小首を更にむむむと傾げる。と、わぁぁ…、と遠く歓声が湧くのが聞こえた。見れば窓の向こうに、大きな煙と火柱が上がり出したところだった。

「あ、始まったな!」

 ラズがことさら大きな声を出して、その場の気を逸らす。ニコもナイフを収め、アニカも額を窓ガラスにつきそうな程近付けて。

「――――」

 息を呑んだ。遠すぎて見えないはずなのに、火の中で大小の人形が踊っているのが脳に直接映像化されて。

「!? ア、アニカっ? どこか痛むのか?」

「――――え?」

 ぎょっとした声でラズに呼ばれ、アニカは緩慢に振り返った。見上げたラズの顔が今までで一番慌てふためいていて、アニカは目をしばたたいた。

「ど、どうしましたか?」

「どうかしたのはお前だろう! なんで泣いてるんだっ?」

「え」

 言われて初めて、アニカは自分の頬を濡らす温かい雫に気が付いた。指で触れれば、ぽろろぽろろと、涙は次から次へと溢れてアニカの細い顎を伝う。

 アニカは、何故という問いに、ゆっくりと思考を向けた。真っ先に浮かんだのは、胸を真綿で締められるような、緩やかな痛みだった。

(でも、多分これは、私のものではない)

 まるで自分の分身が憎しみの炎に焼かれるようなこの苦しさも辛さも、感じているのはきっとアニカではない。アニカの中の、クィルシェの哀しみだろう。

 国のために生きた女王は、国のために殺され、死して尚、災厄の象徴として連綿と炎に焼かれ続けている。その仕打ちにも、クィルシェは頑として前を見続けるだろう。

 けれどクィルシェの想いが残るアニカの体は、涙腺が弱いのだ。心がクィルシェで、体がアニカなら、泣いてしまうのも無理はないと、アニカは思った。

「クィルシェが……死んだあとも、火に焼かれる程憎まれているのは、なぜかしら」

 まだ涙は止められないまま、アニカは純粋な疑問を口にする。落ちてくる涙を全部受け止めようとするかのように両手をくっつけて慌てていたラズは、その問いに大きく目を見開いた。一拍の間を空けてから、得心したように頭を下げ、アニカのヘーゼルの瞳を真正面から覗き込む。

「二人とも、知らないのか」

 二人、と言うのがアニカとクィルシェを指すことは、何となく分かった。ラズが続ける。

「勘違いしてる奴も多いみたいだけど、あれは、火刑じゃない。あれは、最後まで国を強く守った偉大な女王に感謝して、彼女の死後の幸せを願ったものだ」

 だから、泣かなくていいと。

 ラズがそっとアニカの目尻の涙を掬いとる。その指が自分のものと違い太くて、不器用で、温かくて。目の前にある青灰色の瞳が、あまりにも穏やかで慈しみに満ちていて。

 ――必ず伝えておくれ。

 遠く、クィルシェのささやかな願いが胸の奥でこだまする。クィルシェはアニカに伝言を頼んだ。でもそれは、アニカ自身がに気付いた時には、と指定した。それは。

(『愛』に、気付いたら)

 ――『愛している』と、奴に。

 ラト・ハハレイシヴィリに。彼の生まれ変わりに。

(その意味を、あの時はとても深いところで理解できた気がしたのに)

 今は、ラズの顔がきらきらと輝いて見えて、目がちかちかして、それどころではなかった。頭がくらくらして、呼吸さえままならないような気さえしてくる。

(こ、これは、なに? 病気かしら?)

 頬が火照り、胸がどきどきと煩いくらいに暴れている。ついにはラズの顔をまた見られなくなり、バッと下を向く。

「アニカ? どうした、今度は顔が真っ赤だぞ」

 それに応じるようにラズも慌ててその顔を覗き込む。その心配ぶりがあまりに本気で、アニカは益々顔を上げられなくなった。

「だだ、大丈夫、ですので、その……は、離れ……」

 両手で顔を覆い後ずさりながら、アニカが必死にラズを押し留める。だが突然泣いたり赤くなったりしたアニカに、ラズの心配は簡単には止まってくれない。

「大丈夫って、足がふらついてるだろ。やっぱり、今日の疲れが出たんだな。早く休んで、」

「や、休みますっ、休みますから、それ以上……」

 逃げるアニカに気付かず、ぐんぐん迫ってくるラズ。もう限界だ、と狐の面を持ち上げた時、「実は」と唐突に第三者の声が割って入った。それまで沈黙を守っていたニコだ。

 あまりの唐突さに、二人そろってニコを振り返る。軽く低頭したその顔は、その場に似つかわしくない程深刻そうだった。

「ど、どうしたの、ニコ?」

「ずっと、姫様に言い出せないことがあったのですが」

 侍女頭として失敗したところなど見たことのないアニカとしては、ニコこそ体調不良なのかと心配になったのだが、切り出されたのは全く別のことだった。そう言えば、ラズと東屋トティで会うとなった時も、何か言いたげにしていたなと思い出す。

「最初に姫様のお部屋から取り上げた侍女のお仕着せですが」

「え? あぁ、剣や藁人形ツァヴィと一緒に」

 そう言えば、まだ侍女のお仕着せだけは返されていない。いつ返されるのだろうと、アニカが純真無垢な目でニコを見詰める傍ら、ラズが小声で「嫌な予感がする……」と呟いた。そんなラズをちらりと一瞥して、

「隣の空き部屋に仮置きしていた間に、忽然と消えてしまいまして」

「え」

「げっ!」

 全く見当違いの話をされて驚いたアニカだが、最後の奇声を上げたのは、この件に無関係なはずのラズだった。「え?」と見やると、ラズが顔面蒼白になってその場に頭を抱えて蹲っている。

「ど、どうしましたか、ラズ様っ?」

 驚いてその背に手をかけようとしたアニカに、ニコが更にぼそりと「侍女のお仕着せ」と呟く。まるで呪いをかけるようなその低い声に、アニカの混乱は益々深まる。

「え、え? 二人とも、一体どうしたの?」

 しかし狼狽えるアニカはほっぽって、ラズがくわりとニコに食って掛かる。

「テメェ、最初から知ってたのか!」

「いえ、東屋での会話を聞いて、もしやと」

「それでも今ここで言う奴があるかっ」

「今ここで言わずしていつ言えと言うのですか」

「嫉妬にかられた姑かお前は!」

「事務処理です」

 二人が喧々囂々と言い合う中、アニカはすっかりついていけずに取り残されてしまった。ふと見れば窓の向こうで、焚き上げの火の粉が、輝く星に導かれるように天に昇っていくさまが見えた。

 王立学校では一度も口をきいた様子のない二人が、意外にも仲良しだったことに少しばかり寂しさを感じていたアニカだが、それもまた良いことだと赤々と燃える火を眺めやる。

「きれい」

 そう零したアニカの顔は、今までで一番晴れ晴れしかった。

 だが。その裏でいまだ言い合う二人の会話の内容が、実はアニカの侍女のお仕着せを間違ってラズが女装に着てしまったことだとは、露も気付かないアニカであった。

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男性恐怖症王女の奮闘 ~男子わたくしに近寄らず!~ 仕黒 頓(緋目 稔) @ryozyo_kunshi

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