第3話 男の人が、いっぱい。
第二章 男の人が、いっぱい。
ニコに促されて再び身形を整えたアニカは、改めてトゥヴェ宮の自室の扉の前に戻ってきた。深呼吸を三度もしてから目配せすると、ニコがついに扉を開ける。そこに広がっていた光景に、アニカは分かっていたはずながら息を呑んだ。
男の人が、いた。しかも六人も。壁に凭れたり長椅子に腰掛けたりと、姿勢こそそれぞれだが、全員がアニカを見ている。
「ん? 何故そちら側から……?」
誰かが当然の疑問を口にするのが聞こえただけで、アニカの心臓は縮み上がった。
(や、やっぱり、ダメかも……!)
ひょえっ、と喉の奥で出かかった悲鳴を、どうにか飲み込む。震えそうになる視線で斜め後ろに控えるニコに助けを求めると、それを合図ととったのかニコが一歩前に出て「皆様、大変お待たせ致しました」と一礼した。
(えっ、ま、待ってニコ! やっぱり私、)
という心の制止は、しかし当然ながら届かない。
「ご紹介いたします。こちら、ネストル国王陛下第二王女アニカ・ココイトゥイ・バチュリア殿下にございます」
流れるように名前を読み上げられ、アニカの頭が一気に真っ白になる。こういった時、まずドレスの裾をつまんで慎ましくお辞儀をするのがマナーだとは教育を受け覚えてもいるのだが、いかんせん冷や汗が流れだし、手は震え、それどころではなかった。十二の瞳から逃れようと、床ばかり見る。それでも、男性特有の香水と体臭と気配は狭い控えの間に充満しているようで、堪らなかった。
(に、逃げたい……っ)
早くも浮かび出した涙を堪えながら、唇を噛み締める。と、背中をトン、と叩かれた。ニコだ。
(そ、そうだ。逃げちゃダメよ。ま、まずは、そう、挨拶を!)
「ア、アニカ・ココイトゥイ・バチュリアと申します。いい以後、お、お見知りおきを」
どもりながらも何とか定型句を言いきって、頭を下げる。と、短い沈黙のあとに「プッ」と遠慮のない笑声が上がった。嘲笑だ。
カッ、と頬が熱くなる。けれど恐ろしさに顔を上げられずにいると、更に
「何ですか、今のは。九歳の妹姫でさえ、もう少し品よくなさいますのに」
少し低めの、明らかに呆れて小馬鹿にした声。
「やめろ。……だが、こんなにも不器用だったか?」
それを諫めるのは、声変わり前のように可愛らしい、けれど懐疑的な声。
「――中身なんかどうでもいい」
ぼそり、と独り言のように冷たく低く呟かれた冷たい声も、アニカの耳には届いた。
他意があってもなくても、辛かった。知らず呼吸が早く浅くなって、息苦しさに眩暈を覚えた時、
「おい、お前らいい加減に、」
「アニカ様。ご無理をなさらないでいいのですよ」
どこか粗野な声と、包み込むように柔らかな声が、同時に上がった。名前を呼ばれたと気付き、ハッと顔を上げる。と遠巻きにする五人から一歩前に出た一人の青年が、困ったように穏やかに微笑んでいた。
「男性が苦手だという話は、妃殿下よりうかがっております。今日は顔と名前を紹介するだけの日だとも聞いております。そう構えず、一番遠くから我々を見て頂ければ結構ですよ」
にこり、と。最後に聞いた優しい声で、青年が宥めるように説明する。無理はしなくていい。その言葉を証明するように、青年は言い終えると、一番距離のある部屋の角へと下がっていった。
圧迫感が少しだけ消えて、息がしやすくなる。と、こちらを睨んでいた長髪の青年もまたそれに従うように、反対の角へと退いてくれた。他の三人も、同様に壁に背中をつける。
(す、すごい……)
正論を振りかざして圧力をかけたわけでもないのに、全員が青年の意向に従った。それは言葉や腕力で解決しようとするアニカの中の男性像からは、かけ離れていることだった。そして、更に気付いた。
(こわく、ない)
顔を上げた時にこそ近くにいるように見えたが、それでも今までのような恐怖までは感じなかった。
(こんなひとも、いるんだ……)
三年前から部屋から出ず、社交界にも当然関わっていなかったアニカにとって、話に聞いただけのその紳士的な対応は、まさに青天の
(もしかしたら、本当に、何とかなるかも……)
この部屋に入った瞬間に消えたと思われた光が、再び胸にさす。と思えたのはけれど一瞬だった。
「あれぇ、みんなそれでいいの? じゃあ遠慮なく、僕から親しちゃおうかな」
「ッ!」
第六の声が、真横から聞こえた。反射的に飛びのこうとして、すかさず右手を握られる。ぎょっとして顔を上げると、拳一つ分もない距離に、金髪碧眼の美しい男の顔があった。
「なっ、なんっ……!」
「初めまして、アニカ姫。僕はマルセル・イアシュヴィリ。二十歳だよ。イアシュヴィリ伯爵家の長男だけど、跡継じゃないから安心してね。趣味は古今東西の呪いがかけられた曰く付きの品を集めることかな。女の子とお話しすることも勿論大好きだよ」
右手をどうにか奪い返そうとする間にも、男は更に距離を詰め、アニカの顔を覗き込んでくる。息がかかりそうで、アニカはもう声も出なかった。
「…………ッ」
「んー、すべすへしてて綺麗な手だなぁ。女の子の手触りって最高だよね。アニカ姫の赤毛はどなた譲りなのかな? 瞳も……王族は魔法の力が強ければ強い程明るい金色に見えるっていうけど」
男が、深い海のような碧眼を近付けて囁く。もう、限界だった。
「ぎょえっ」
「ぎょえ?」
◆
ちゅぴちゅぴゅ、と遠く小鳥の鳴く声が聞こえる。うっすらと目を開けると、眩しい日差しがレースの天蓋越しに優しく降り注いでいた。
(あぁ、もう朝……)
恐ろしい男性に迫られる悪夢を見た気がしたけれど、夢で良かった。現実だったら、とても耐えられない。
「あー、怖かったぁ」
もう一度寝直そうと、掛け布団を首元まで引き上げて寝返りを打つ。
「何が怖かったの?」
「!?」
目の前に、夢の中の男がいた。
「――ひ、」
「ひ?」
「ひゃあぁぁあああああッ!」
がはりっ、と布団を跳ね除けて、一番離れた部屋の角まで全速力で逃げていた。
「ななななな何でいるんですか!? しししかも私の、べべベッドの中に!」
第二王女専用の寝室にいるはずのない存在に、寝起き一秒で恐慌をきたす。壁に背も両腕もつけながら、大量な疑問符が嵐のように湧き上がる。
寝返りを打って横を向いた時に目の前にいたということは、その前からずっと横で一緒に寝ていたということだろうか。
(私のベッドに、男性が勝手にっ?)
理由も状況も理解できなくて、ただただ混乱した。いくら使用人を全員男性に入れ替えると言われても、着替えなど寝室に入る用事まではないはずと思っていたのに。
(まさか着替えも入浴も、全部……?)
死ぬ、と思った。そして同時に思ったのは、理由なんかどうでもいいから今すぐ逃げたい、だった。
「アニカ姫ー? そんな離れないで、こっちにおいでよー」
布団を腰まで掛けた格好でしどけなく手招きする男から逃げるように、きょろきょろと激しく視線を動かす。と、今度は控えの間に続く扉がガンッと乱暴に開かれた。
「なんだ今の悲鳴は!」
そして見たことのある男が五人、この部屋になだれ込んできた。悪夢だ。
(ままま窓、窓から!)
やっぱり夢じゃなかったと嘆く中、先程逃げたばかりの窓を見付ける。その前に、当たり前のようにニコが立っていた。
「ニコ! ニコ! ニコ!」
何故そんな所に、と考えるよりも前にダッシュで駆け寄り、その腰に隠れるように縋りつく。
「おおお男の人が私のベベベッドに! おい追い出してニコ!」
これはもう男性恐怖症とか以前に不審者でしょっ。と泣きつくと、ニコはいたって普通の顔で「いいえ姫様」と首を横に振った。
「確かに行動は大体不審ですが、追い出すことは出来かねます」
「不審者だなんてひどいなー」
全然堪えていない笑顔で寝台上から手を振る男に気付いた乱入者の一人が、「お前、そこで何やってんだ!」とその襟首を掴んで引きずり下ろす。
「何でっ? って言うか今までずっとそこにいたってことは、あの人が寝てる私の横に入ってくるのを止めずに見てたってことっ?」
寝台脇で二人の男がわーわーやっている間にも、もしかしなくてもそうだということに気付き、アニカは愕然とした。ニコだけは口でなんと言おうとも味方だと信じていたのに、こんな所でこんな手酷い裏切りにあおうとは!
しかしいまだ寝室から出る気配のない六人の男たちが怖くて、アニカはニコから離れられなかった。そんなアニカをそっと庇うようにしながら、ニコが最初の問いに答える。
「これもまた、妃殿下からのご命令でございます」
「寝起きに
「寝付くまでの話し相手を選ぶことが、です」
意味が分からなかった。今までの生活で、大抵はニコが話し相手にはなってくれていたが、それもそういう職業で、というわけではない。周りに女性がいなくなるということは必然的に日常的な話し相手もいなくなるということではあるが、寂しくても必要性は全然まったく、これっぽっちも感じなかった。むしろ一人がいい。
「要らないです」
ぷるぷると首を振って拒否した。
「お選びください」
無情に却下された。
「いやいや無理だから! そんな男の人と二人きりになるのも怖いのに、寝る寸前まで誰かと話していないといけないなんて絶対毎日悪夢にうなされちゃうよ!」
「眠れはするんですね」
「大体まだ名前すらろくに聞いてないのに、まず段階ってものが、」
「あ、じゃあ僕は名乗ってるから、僕は大丈夫ってことだよね?」
「違いますっ」
「あ、会話してくれた。嬉しいなぁ。これって心を開いてくれたってことだよね?」
「ニコニコニコニコ!」
「ひとの名前を無闇に連呼しないでください」
いまにも涙腺が崩壊しそうな主を見下ろし、ニコが面倒くさそうに切り捨てる。が、いい加減これでは話が進まないと気付いたのか、そのすぐあとに嘆息を一つ。主から男性陣に視線を移すと、低頭しながら「皆様」と呼びかけた。
「大変申し訳ございませんが、扉の前に横一列にお並びくださいませ」
こういう時、ニコはとても頼りになる、とアニカは思う。過去にも男性恐怖症克服のために社交界に出たことがあったが、その時も卒倒しそうになったアニカをニコが支え、その場を如才なく切り抜けてくれたのだ。
(ニコがいないと、私って本当にダメだわ……)
ニコのあくまで冷静な声と態度に、恐慌をきたしていた精神が僅かながら平静を取り戻す。そっとニコの背に隠れるように立ち上がりながら、アニカは言われるまま一列に並んだ六人の男性を見渡した。
それを確認したように、ニコが右手を差し出す。
「改めて、ご紹介させていただきます。左の殿方から、ラズ・メトレベリ様。メトレベリ公爵家ご三男で、十六歳。王立学校では剣の成績が特に優秀だと聞いております」
「……よろしく」
そう一言ぶっきらぼうに言って、左端に立った青年が頭を下げる。寝台に入ってきた金髪碧眼の男を引きずり出してくれたひとだ。
綺麗な黒髪は肩よりも長く、首の後ろで適当な三つ編みに結われている。意志の強そうな青灰色の瞳は、一時アニカを観察するように真っ直ぐに見つめられたけれど、すぐに右端に立つ金髪碧眼の男を天敵のように睨んでしまった。
(私怨でもあるのかな? ただ単純に嫌いな気もする……。私も一緒です)
変な親近感を抱きつつ、取りあえず同じようにぺこり、とニコの背中から頭を下げる。
「続いて右隣のお方が、レヴィ・リシェリ様。リシェリ侯爵家ご長男で、十七歳。王立学校を首席でご卒業なされました」
「よろしくお見知りおきを、殿下」
紳士が淑女にするように、レヴィと紹介された青年が丁寧なお辞儀をする。控えの間で、無理をしなくてよいと言ってくれたひとだ。
腰まで届きそうな赤みがかった髪はアニカと比べ物にならないくらい美しく、柔らかく細められた新緑色の瞳はどこまでも優しげだ。
(綺麗なひと……)
ひとの警戒心を解くような柔和な表情もさることながら、六人の中では一番中性的な美しさを持っていることが、何よりアニカの恐怖心を和らげてくれる気がした。
「こちらこそ……」と小さくお辞儀を返す。
「続きまして右隣にいらっしゃるのが、ラウル・ヴィッテ様。アルベラーゼ侯爵家ご三男で、同じく十七歳。リシェリ様とはご学友と伺っております」
ずっと目を閉じて腕組みをしていた男性が、一瞬だけ目を開けた。現れたのは三白眼気味の、赤みの強い濃茶色で、控えめに言っても睨んでいた。背はアニカと拳一つほども違わないのに、威圧感がすごい。
ろくに整えられていない黒髪は無造作に跳ね、身だしなみも候補者の中ではあまり気を使っていないように見える。お前のご機嫌を取る気はない、と言われた気がした。
(それなら何でこの話を受けたのよぅ……)
ひぇぇ、と出かかる悲鳴を呑み込んで、どうにか頭を下げる。
「続いて隣に立つお方がマルティ様。御年九歳になられます」
マルティと呼ばれた少年もまた、挨拶はせず、ただニコの背に隠れ続けるアニカを注視していた。美しい亜麻色の髪に、透き通った大きな碧眼。秀でたおでこと小さな鼻は、人形師が丁寧に彫り込んだ精巧な人形のように可愛らしい。
しかしそれよりも、アニカには気になることがあった。
(
婚約者候補として来たのに素性を伏せるのは、アニカにというよりも、他の候補者に知られたくないからだろうか。よくよく見ると、どこかで見たことがある気もするが。
あったとしても三年以上前だ。お互い記憶にないだろう。控えめにお辞儀をする。
「そしてそのお隣に立つのが、ディミリトリー・ミシェリ様。ミシェリ伯爵家のご長男で、二十六歳。リシェリ様と同じく学校では常に主席であったそうです」
「ミシェリとお呼びくださいませ」
唯一呼び方を指定してきた年長の青年が、優雅にお辞儀をする。その仕草は六人の中で最も品位が高く、まるでお手本のようだとアニカは思った。総髪にまとめられた黒髪も切れ長の灰色の瞳もまた、彼の人間味を薄くしている一つのような気がする。
しかし最も近寄りがたい雰囲気を出しているのは、その高い鼻にかけられた掛け眼鏡だろう。
(にっこり挨拶されたはずなのに、眉間に皺が寄ったままとは……)
ある意味難しそうな技術な気がする。既製品のために度が合っていない眼鏡のせいだけ、とはとても思えない。
「はい、ミシェリ様」
深く腰を折りながらお辞儀をする。
これで五人。次は例の金髪碧眼の男だ。右端に立つ六人目に、アニカは怖くて視線さえ向けられなかった。挨拶を交わすだけでも怖くて心臓がばくばくいう。
しかしニコは容赦なく口を開く。
「以上です」
「え?」
あー終わった、と背中で語るニコに、思わず声を上げる。そう言えば、六人目については既に最初に自ら名乗られているから、今更の紹介は要らないということだろうか。
(やった! さすがニコ)
心の中で拳を握る。しかし案の定、男は明るく口を挟んできた。
「ちょっと待って待って。僕は? 僕まだ紹介されてないけど」
「イアシュヴィリ様におかれましては、ご自身より先程既に紹介が終わられていると存じております」
「そんな寂しいこと言わないで。でもニコちゃんのその冷たい視線も中々いいよね。そそられるなぁ」
金髪碧眼の男――マルセル・イアシュヴィリが、仮にも婚約者の目の前で別の女にウインクをする。それはどう見ても、自分の容姿に強い自信を持っているからこその行動に思えた。六人の中で最も高い背に、この国では中々見ない鮮やかな金髪、少し下がった目尻も、どこかしどけなくて色気がある。
アニカにとっては毒にも等しいそれに、けれどニコは少しも表情を変えることなく、「お誉めに預かり光栄です」とさらりと低頭した。
そのあまりの鮮やかさに、おぉーとアニカは内心で感嘆の声を上げた。さすがニコ。とても真似できない。
しかしニコが終わりと言ったからには、もうこの地獄にも等しい空間も終わりということだ。一刻も早くニコが「お引き取り下さい」というのを待っていると、
「では姫様。この中からまずお一方をお選びください」
「…………、ええっ!?」
全く正反対の言葉が降ってきて、アニカはぐいっとニコを振り仰いでいた。そして思い出す。そう言えば、寝る前の話し相手を選ぶという話で始まったのだった。男たちの自己紹介を聞くだけで許容量が超えていたアニカは、すっかり忘れていた。
(そうだった。寝る前の話し相手……要らないのにぃっ)
いい加減我慢の限界がきて、ニコの背に隠れたままわっと顔を覆って床に蹲る。
「あれ、泣いちゃったの?」
そう言って真っ先に距離を詰めてきたのは、やはりというかマルセルだった。咄嗟に視線を向けると、ニコの背後を覗き込むようにして、にこにこと唯一の逃げ道を塞がれた。
「可愛いなぁ。小さな女の子にこんな風に泣かれると、なんだか背中がむずむずして……背徳感っていうの? 悪くないよね」
「っっっ!」
ぞわわっ、と全身が粟立った。自分で自分を掻き抱く。ぷるぷるぷる、と必死で首を横に振っていると、更に別の男の声まで近付いてきた。メトレベリ公爵家のラズだ。
「てめぇ、また! いい加減にしろよ、相手は女の子だぞっ」
背後からマルセルの右腕をとり、強引に引き離してくれた。しかしその程度で引き下がるマルセルでもない。
「女の子だからこそ、もっとお互いを知って仲良くしたいと思っただけだろう?」
「嫌がってんのが分からないのか」
「そんなのは最初だけだよ。そもそも、ここはそのための場所だろう? 近寄らなければ始まるものも始まらないよ」
「それでも、やり方ってもんがあるだろう」
「これが僕のやり方だ。自分たちが王女殿下と懇意に出来ないからって、僕を責めるのはお門違いだよ」
「……はあ?」
あ、青筋。
やはり、知り合い云々より単純に馬が合わないようだ。同感です、と再び胸の内で同意する。
しかしマルセルを離してくれてありがたいと思う一方、目の前で男二人が怒鳴り合うのがまた怖くて、アニカはニコの後ろで身を縮こまらせていた。勝手な言い分だと重々承知しながら、他所でやってほしいと心底思う。
「アニカ殿下」
「はいぃっ?」
他人ごとのように眺めていたら、突然ニコから名前を呼ばれて飛び上がる。見ると、相変わらずの真顔でくいっと顎を向けられた。どうでもいいから早く決めろ、と言いたいのだろう。
(そんな急かされても……だだ誰にしたらいいの?)
恐怖心を堪えて、今一度室内の男性たちを眺めやる。だが半数以上がアニカを睨んでいるような状況で、誰とも話したいと思うはずもなかった。
しかしニコの容赦のなさはまだまだ続くようで、アニカの必死の拒絶を承知しながらも清々しいくらいに「お決まりになりましたか?」と話を進められた。悪魔に見えた。
しかしここでまた泣き伏しても、ニコは怒るしマルセルは寄ってくるだろう。今ここで決めなければ、この地獄の顔合わせは終わらない。アニカは情けない悲鳴を必死に飲み込んで、もう一度全員の顔を順繰りに見た。
(……決めたっ)
そして気付いた。唯一の逃げ道を。
「マルティ様。あなたにお願いします」
「……は?」
ニコにしがみついたまま、一番年少のマルティに向かって深く頭を下げる。アニカには、それしか選択肢がなかった。
あの事件があったのが十二歳の時だから、九歳の少年でも本当は少し怖い。だが他の五人はもっと怖い。消去法で考えても彼しかいなかった。
内心でお願い断らないで、と必死に祈っていると、小さな衣擦れの音がして。
「わか――」
「いけません。何故で――マルティ様がそのようなことを」
二人が同時に声を上げた。マルティ本人と、隣に護衛のように立つディミトリー・ミシェリだった。アニカの視線から庇うように、一歩マルティの前に出る。
そこで、ふとニコが朝に述べた説明を思い出す。確かニコは「うち数人」が候補者だと言った。全員ではないのだ。もしかしたら、ミシェリは本当にマルティの近侍か護衛なのかもしれない。
案の定、マルティは上に立つ者の風格で、前に出たミシェリを牽制した。
「やめろ、ディー」
「……しかし、」
「ぼくは引き受ける。……アニカ殿下、よろしくお願いします」
それでもまだ不服そうなミシェリを抑えて、後半の言葉をアニカに向けて放つ。こちらこそ、と返そうとして、またもマルセルが口を挟んできた。
「えぇー? そんなお子様がいいの? 僕だったら一時も飽きさせないで満足させてあげられるのに……そんなんじゃ、夜がつまらないよ、アニカ姫?」
いつの間にかラズの腕を逃れ、さらりと流し目まで送られた。最早見ているだけでもくらくらする。
「誰がお子様だっ。お前、見た目で判断するなど無礼だぞ!」
「そうです! 今のマルティ様はまさに黄金期! それを
「ディー! だからお前は黙っていろっ」
反論したマルティにミシェリまで加わり、一気に部屋がわちゃわちゃする。
「それじゃあ、僕たちは他に何をしたらいいの?」
「何もしないでいい。とっとと帰れ」
拗ねるように疑問の声を上げたマルセルを、ラズが容赦なく斬り捨てる。だがこれには、それまで沈黙を保っていたリシェリ侯爵家のレヴィも同意するように口を開いた。
「確かに、それは僕も知りたいところですね」
それまで助け舟を出してくれていたレヴィの追及に、ついに「えぇっ」と言葉が漏れていた。そんなものは知らなくていいのでとっととお帰り頂きたい。言えないけど。
しかしニコは我が意を得たりとばかりに頷いて、最悪なお知らせをした。
「それはまた明日以降、殿下と話し合いながら決めて頂く予定です」
「えっ、まだ喋るのっ?」
信じられない発言に、ひっ、と両手を頬に当てる。ニコが振り返って「当たり前です」と言った。また目の前が白くなった気がした。
その後、どうにか働かない頭を振り絞って全員にお帰り頂いた後、アニカは必死にニコを説得した。しかし彼ら全員にアニカと接触する仕事を与えることは王妃の意向であり、拒否はできないといつもの表情で突っぱねられただけだった。
そして、夜。
「…………」
「…………」
食事も湯浴みも済ませ、部屋着に着替えて寝台に潜り込んで少ししてから、マルティは寝室を訪れた。声から察するに、控えの間にはニコとミシェリもいるようだ。まだ納得していないようなミシェリの声を振り切って入ってきたマルティを、しかし入って一歩で押し留めて以降、会話は一向に弾まなかった。
そうして、お互い黙すること早一時間。やっと口を開いたのは、マルティが少しこっくりと船をこいだかと思う頃だった。
「…………、あなたが悪いわけじゃないのよ」
掛布を顎まで引き上げたまま、恐る恐るそう声をかける。と、「ハッ」と目を見開いて、マルティが姿勢を正した。やっぱり眠かったのか。
「何のことだ」
マルティが綺麗に整った眉根を寄せて、訝しむ声を上げる。アニカはまず最初に断っておかなければと思ったことを、何とか言葉にした。
「その、あなたと会話しないのは、あなたに何かあるとかじゃなくて、その……恥ずかしながら父や、兄ともまともに喋れなくて」
「……あぁ、そのようにうかがっている」
「だからその、全然喋れなくて嫌な思いをさせると思うけど、ごめんね」
自分で自分の情けない部分を正直に言うのは、どうしようもなく居たたまれなかった。しかし初日から誤解を与えたままではいけない。特に相手は年下で、九歳だ。アニカには説明する義務があった。
案の定、マルティは逡巡するような沈黙を開けてから、ささやかな疑念を口にした。
「……ぼくが相手でもダメなのか」
「よっぽどお爺ちゃんか赤ちゃんなら平気なんだけど……こればっかりは、体が勝手に反応しちゃうものだから」
もう一度、ごめんね、と小さく付け加える。彼がどんな思惑で婚約者候補としてここにいるのかは分からない。だが、どう頑張っても期待通りにはしてあげられないだろうという思いはあった。
「与えられた役目は全うする。ぼくは気にしない」
アニカの言葉を噛み締めるような間を空けてから、マルティが大人びた言葉で受け入れる。それを微笑ましく思って、取りあえず早く解放してあげようとアニカは目を瞑った。
「ありがとう。毎日なるべく早く寝るからね」
「! ……あぁ、おやすみなさい」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます