第2話 男の人、こわいです。

 深い森の奥の、母なる泉デダ・ツカリに魔力が宿ったことから始まったと云われる小国、シルヴェストリ王国は、自然豊かな大小の山脈と内海に囲まれた、肥沃な土地を持つ。その土地柄ゆえ、古来より数多くの民族が行き交う交通の要衝であり、幾度も帝国をはじめとする他国の脅威にさらされてきたが、古代の王たちは、母なる泉の恩恵である不思議の力――魔法を使い、民と土地を守ってきた。

 だが度重なる戦争や、森林の開拓ゆえに、森が消え、泉が枯れると、王家の魔法の力もまた徐々に弱まっていった。現代では魔法やその使い手といえば、お伽噺ややんちゃな子供を言い聞かせる言い伝えの中だけの存在となったが、王家への信頼はいまだ変わらず続いていた。

 ――しかし。

「アニカ王女様って、結局どんなお方だったんでしょう?」

 ラマズフヴァル城の西側にあるトゥヴェ宮の一室。結局、本日も何の商談も成立出来ず肩を落とす羽目になった服飾商人を見送ったあと。

 部屋を片付け始めた侍女たちの一人が、そう呟いた。見れば今年王城勤めになったばかりの新人が、世話係の先達に困惑顔で尋ねているところだった。

「もしかして、結局一度も動くところを見ていない?」

 手際よく既存のドレスやリボンを片付けていた年嵩の侍女が、少しだけ目を大きくして問い返す。

「はい。結局毎朝の身支度くらいしか接点がなく……。もう数日で、例の期限も来てしまいますし」

 そう言って少し肩を落とす新人に、年嵩の侍女は「そうだったわね」と頷くと、どこか感慨深いように口を開いた。

「姫様は、昔はそれはそれはお可愛らしくてね。おぐしも今より金に近くて、本当にお人形さんみたいだったわね」

 当時を思い出すようにしみじみ語ると、もう一人の侍女も触発されたように言葉を重ねる。

「お優しくて純粋で、お兄様の嘘を信じてはいつも泣かされていましたね」

「そうそう。王太子殿下はそれが楽しくてまた嘘をついて」

「その嘘がきっかけで、男の子たちに混じって剣のお稽古まで始められて」

「習い事は何でもお上手ではあったけれど、あの頃は剣が一番お強かったわね」

「同い年の中では向かう所敵なしだったとか」

「賢王ヴァシリー五世の再来とか言われてたっけ」

 いつしか二人で思い出話に花を咲かせだした先輩たちに、新人侍女はついていけずに困惑を深める。話が進むほどに、皆に愛される優秀な王女様像が出来上がっていき、新人はついに信じられないというような色を滲ませて疑問を零していた。

「そ、そんなに凄いお方だったんですか?」

 新人が、本当にそれはこの扉の向こうにいるはずの人物のことかと、目線で問う。と、二人の先輩は一転、申し合わせたように眉尻を下げて、後輩の視線をなぞった。そして。

「「……三年前まではねぇ」」

 手に手に持った刺繍も煌びやかな服飾品を丁寧に畳みながら、嘆息交じりに呟いた。



「って言ってましたよ」

 侍女たちが続きの間をすっかり片付けて無人となったあと、侍女頭であるニコ・メルアは、諸々の報告のために奥の寝室にノックと共に乗り込んだ。

「…………」

 返事はない。姿も見えない。が、いることは分かっていた。閉めた両開き扉の前で直立不動のまま、待つこと数秒。

「――ももも、もう、」

 無人に見える室内のどこからともなく、蚊の鳴くような声が上がった。すかさず、「子牛の真似ですか? 大変お上手です」と相槌を打つ。が、声はそんな冗談に構う余裕もないように、

「もう商人は帰ったっ?」

 と続いた。その必死さに、もうちょっと茶化そうかと考えていたニコは、数秒物言いたげな沈黙を挟んでから、「はい」と神妙に頷いた。

「今し方、めっきり持ってくる量の減った荷物を引きずって、お帰りになられましたよ」

「ほほ、本当? 男の人は、もういない?」

「本当です。この階の廊下は、姫様のせいでほぼ殿方禁制となっておりますので」

「よ、良かったぁ」

「ちっとも良くはございません」

「…………」

 ぴしゃり、と否定する。反論がないところを見ると、自分の我が儘で周囲に迷惑をかけている自覚はあるらしい。更に待つと、やっと壁と寝台に挟まれた狭い隙間から、ひょこり、と癖の強い赤茶色の髪が現れた。おずおず、という表現がぴったりの速度で、その下も順に現れる。

 気弱さを表すように下がった眉に、泳ぎまくっているヘーゼル色の瞳。低い鼻に薄い唇。そうして現れたのは、背も低くて肩も細くて胸も薄い、全体的に残念な少女だった。

 アニカ・ココイトゥイ・バチュリア、十五歳。由緒正しきバチュリア王家直系の第二王女だ。

 だが、社交界で引く手数多となるはずの肩書を全力で台無しにしているのは、そのびくびくした態度でも、何故か着用している侍女用のお仕着せでもない。胸の下で力強く握られた人形ひとがたをした何か、だった。

 少女が持つようなお人形にんぎょう、ではない。それは全身が麦藁むぎわらでできており、可愛らしいドレスの代わりに細い麻縄で関節各所を縛っただけの、愛らしさの欠片もない物体だった。しかも足らしき部分には、天井の梁にでも打ち込むような特大の釘が刺さっている。

 ニコはそれを視認しても、悲鳴を上げるどころか眉一つ動かさず、世間話のついでのようにこう聞いた。

「して、今回はどなたに見立てておいでだったのですか」

 この問いに、そこで初めて部屋の主は常人に追いつく速度でバッと立ち上がった。得意満面、例の気持ち悪い藁人形をぐっと顔の前に突き出した。

「もちろんさっきの商人に決まっているでしょうっ。これ以上私の方に近寄らないで早く帰ってって念じていたの!」

「道理で、あの商人、足を引きずりながら帰っていくなと思いました」

 しかめつらで頷く。本当は、単純に年頃の王女という格好の大口顧客を相手にしているのに、ここ数年一向に売り上げが出ないことへの嘆きなのだが、親切に教える気は更々ない。案の定、突き出したボロボロの藁人形をまた胸元に抱え込み、「えっ」と狼狽えた。

「ほ、本当に効いたの? やだ、そんなつもりじゃなかったのに」

 藁人形といえば、海を隔てた東方諸島では相手を呪うための呪具の一種だ。という売り込みで出入りの商人から買ったくせに、では一体何のつもりなのかという突っ込みは、もうしない。

「悪いことをしちゃったわ。明日には治っているかしら……」

 すっかり落ち込んだ女主人に、ニコは仕方なく「まぁ」と適当な相槌を打つ。新しい商談でも成立すれば、たちまち元気になるであろう。

「良かったぁ。でもそれなら、もうあの商人はここには来ないかしらね?」

 ね? と嬉しそうにはにかむ少女に、ついにニコは溜息をもらし、「僭越せんえつながら、」と具申した。

「王族の私的空間である寝室に無断で入ってくるような不届き者は、そうそうございません」

「あら、でもニコはいつも勝手に入ってくるじゃない」

「…………」

 本気の真顔で心底不思議そうに返され、ニコは一瞬押し黙ったあと、お仕着せのドレスの裾をそろりと後ろ手でまくり上げた。そこから太ももに取り付けた剣帯が露わになり、しゅらん、と左手で引き抜いたモノをそのまま指の間に挟む。そして。

「……それは、姫様が、お返事なさらないからでしょう!」

 シュッ、と主めがけて投げつけた。アニカが「ひゃあ!」と気の抜けた悲鳴を上げて眼前の寝台の上に飛んで逃げる。

「突然なにするのっ」

 藁人形を貫いて壁に突き刺さった手の平大のナイフを指さしながら、アニカが叫ぶ。だが主の非難など聞き飽きているニコは、構わず剣帯から追撃のナイフを二本、右手に取る。

「突然ではありません。いい加減その男性恐怖症を治してくださいと、散々申し上げておりますでしょう!」

 そしてシュタタッ、と今度は二本いっぺんに寝台上の主に投げつけた。が、今度はアニカは避けず、右腕を大きく振りかぶった。カンカンッ、と鈍い金属音が二度、立て続けるに上がる。アニカが、藁人形とともに持っていた小ぶりの金鎚で弾いたのだ。

「わ、私だって治したいけど!」

 カキン、カキン!

 涙目になりながら抗議を続ける間にも更に襲いくるナイフを、アニカは弱腰の口調とは正反対の俊敏な動きで叩き落していく。

「男の人って聞くだけで鳥肌が立って、怖くて震えちゃうんだものっ」

 シュッ、カキンカキンッ!

 飛び交うナイフから逃げながらも、昔の稽古の癖で、今度はアニカがお仕着せの前掛けの下に隠していた短剣で反撃に出る。

「仕方ないじゃない!」

「仕方ないなんておっしゃって何もなさらないから、もう王妃様とのお約束の日が目前に迫っているのですよ。どうなさるおつもりですか!」

 迫るアニカの短剣を横に転がって避けながら、床に落ちたナイフを拾って更に投げつけるニコ。その首元めがけ、アニカの短剣がまた迫る。

「どうするって!」

 ザン! と、捌ききれなかったアニカの短剣が、ニコの左頬脇の床に突き刺さった。装飾のない細身の柄を握っていたアニカの手から、ゆっくりと力が抜ける。

「それで解決策が浮かんでたら……、恐怖症になんてなっていないわ」

 すっかり覇気の消えた声でそう呟いて、アニカが両膝を着く。そうして前掛けの下に隠した剣帯に短剣を戻す姿に、三年前まで王立学校の実技で負け知らずだった面影は微塵もない。

 男性が怖い。ただその一点をどうしても克服できず、アニカは学校にも行けなくなり、侍従や下男すらも避けて通るようになった。今や家族である国王や兄弟に会うことすらも、極度の緊張を強いられる有り様だ。

 原因は分かっていた。王都で最も歴史のある教会に付属して創設されたギロツァヴト王立学校で、剣の実技練習を受けていた最中だった。本来なら男子しか受けない実技ではあったが、アニカは兄の助言もあり、特別に志願していた。当時十二歳だったアニカは、同年代の男子を押しのけて、最も優秀だった。それが周囲の反感を買った。

 手合わせの時に、大勢の男子生徒たちに取り囲まれる中、倍もの体格差があるような男子に押し倒されたのだ。女のくせにとか、王女だから手加減されてるのを分かっていないとか、そんな陰口を叩かれるくらいなら我慢できた。けれどあの時の、子供から少年になりはじめた体つきや乱暴な手つき、荒い息遣い、何より周囲からの無数の目が、十二歳のアニカには死ぬほど怖かった。

 あの時の恐怖が、男性を見るたびにいまだに蘇るのだ。父も兄も弟も、みんな優しいことは分かっている。それでも、震えて冷や汗を流す体は言うことを聞いてはくれなかった。

(逃げちゃだめだって分かってるけど……体が勝手に怯えるんだもの)

 自分一人では、どうしようもなかった。

 家族は、当然心配した。ラマズフヴァル城の陰の実力者と呼ばれ、常に泰然自若としている母でさえ、最初は心配してアニカの望み通り男性を遠ざけてくれた。しかしそれも二年も経つ頃には、変化がないとみた母が、別の手段にうって出た。

『一年以内に、その男性恐怖症を克服なさい。翌年同日までに克服できていなかった場合、母は強硬手段に出ます』

 重そうなはねおうぎをぴしりと突き付けられて、血も涙もなく宣告されてから、早一年近く。ニコとともに様々なことを試し、行き詰まるたびに、息抜き代わりにこうして体を動かした。だが結局、同室で挨拶を交わすのが限界だと分かっただけで、母の望むような成果は出せなかった。そして約束の期限はもう明後日に迫っていた。

 母の強硬手段。どう甘く見積もっても荒療治の気配しかない。

 当日をどうやって逃げ切るか。ここ最近のアニカの思考はそのことばかりだった。

「姫様……」

 ニコも、そんな主の精神的不安をどうにか取り除いてやりたかったが、全ての努力は徒労に終わっていた。

 ぺたり、と床に座り込んでしまった主に向かい合うように、ニコも床につけていた背中を起こし、その場に座る。

「ですが、ご自身の寝室で常時隠し武器を携帯してすみっちょに潜むのは、政情不安なお国の王太子ですらなさいませんので、いい加減お控えください」

 そして諫言かんげんした。わっ、とアニカが床に泣き伏した。

「これがないと、怖くて部屋から一歩も出られないんだものっ」

「残念ながら、今でもほとんど出ておられません」

 しかつめらしい顔をして言下に否定する。だが例の期日が近づいている今、現状を維持するのは難しい。侍女頭であるニコのところにも、その予兆は既に現れていた。

「ですが、二日後には持っていた方が良い状況になるやもしれませんね」

 床でうじうじしている女主人の癖毛を眺めながら、意味深に呟く。と、アニカが驚いたように顔を戻してきた。

「そ、それってどういうこと?」

「このままですと、わたくしともお別れということです」

「それはイヤよっ。ニコと離れたら死んでしまうわ!」

 神妙な顔で伝えると、アニカが悲鳴のような声を上げて抱きついてきた。その反応に、ニコは感極まったように「姫様……!」と肩を抱き返す。そして。

「それは精神的にですか? それとも、物理的に、ということでしょうか」

 実に冷静に糾弾した。

「何を言っているの、ニコ。両方よ」

 アニカもまた、ごく真剣に応えた。

「…………」

「…………」

 閑話休題。

「それでも、王妃様はすると言ったら必ず実行されるお方です」

 来るべき日に備え、重々しく覚悟を促す。すると今度はしおしおと青菜が萎れるように、アニカがその場に突っ伏した。

「……千尋せんじんの谷って、本当は這い上がれないって知ってた?」

「まだ落とされてはおりません」

 前途は多難だった。



 翌日は一日寝台の中で夢の世界に逃げ、更に翌日。恐怖は朝からやってきた。

「姫様、おはようございます。そしてさようならにございます」

「…………ふぇ?」

 寝台を囲んで下がる薄絹の天蓋の向こうで、ニコがいつもの挨拶と、初めて聞く挨拶を述べた。母に千尋の谷に突き落とされる悪夢を見ていたアニカは、一瞬まだ夢の中にいるのかと思った。呆けたままの主には構わず、今朝は第二王女付きの侍女全員を引き連れた侍女頭が続ける。

「本日を持ちまして、王妃殿下との約束の期日となりました」

「え……あぁ、それは、」

「我々侍女一同は、本日限りでアニカ王女殿下のお世話係を外されましたので、朝のお着替え、お食事が終わりましたら、速やかに退出させて頂きます」

「そうな……えっ!?」

 予想外の発言に、まだ寝ぼけていた頭が一気に目覚める。慌てて掛布を跳ね除けると、当たり前のように侍女たちに誘導されて鏡台の前に座らされた。

「身支度を終えられたあとは、殿下のお世話係として新たに任命された者が順次この部屋に到着予定です」

「ちょ、ちょっと待っ、」

「全員妃殿下が直々に選定、下知げちした方々で、家柄、人柄などについてのご心配はいりません」

 元々伯爵令嬢で礼儀見習いにラマズフヴァル城に上がっているニコが、方々、というということは、生家は伯爵以上ということだろうか。だが身分などよりも、今まで慣れ親しんだ侍女たちを入れ替える理由の方が、アニカには心配だった。もしや、侍女と言いつつ全員矯正役の貴婦人が寄越されるのだろうか。

 しかしニコはアニカの不安にも答える気はないようで、どんどん事務報告を進めていく。

「なお、今回の人員入れ替えにつきましては、侍女に限らず殿下に関わる全ての者を対象に行われます」

「え?」

「近衛を筆頭に、侍従長も給仕も小間使いも伝令も掃除夫も下男も、全員本日から交替します」

「…………え?」

 思考が、一瞬停止した。

 近衛は少ないながら男女ともにいるが、侍従と言えば男性を指す言葉だ。同様に、掃除夫も下男も、男性にしか使わない。

(……聞き間違い、よね)

 いつも完璧なニコにしては珍しいが、きっと言い間違えたのだ。椅子に座って髪をとかれながら、アニカはどくどくと高鳴る胸を押さえて、慎重に言葉を探す。

「えっと、ニコ? 私の聞き間違いだと思うのだけれど、今入れ替えるって言ったのは、」

「全員、男で」

「ぃやぁぁああああああっ!」

 す、と言い切る前に悲鳴が上がっていた。折角艶やかにとかした赤みがかった栗色の髪が、ものの数秒で荒れ果てる。

「無理! 無理無理無理無理絶対無理!」

「しかし既に決められたことです」

「死んじゃう! 一日で死んじゃうわッ」

「妃殿下の決定です。誰にもくつがえせません」

「それは分かってるけど無理なものは無理なの! 治す前に死んだら元も子もないでしょっ?」

「ですが、本日の交替以降、殿下と口をきいた女は左遷させん候補と言われておりますので」

「そんなところで恐怖政治が!?」

 椅子から逃げるように寝台まで後退し、頬に両手を当てて蒼褪めるアニカ。よくよく見れば、ニコの後ろに控えた侍女たちは皆一様に表情が強張っている。つまりそれ程に母は本気だということだ。母はいつだって全力で本気なのだが。

「そんなことを言っている間にも、殿方たちは着実にこの部屋に近付いております」

「恐怖が! 恐怖が這い寄って来てるわ!」

 ひぃぃっ、と寝台に逃げ込み、先程はいだばかりの掛布の中に潜り込む。最早身支度どうこう以前の問題だった。

 寝台の中で子リスのように震えるアニカに、しかしニコは容赦なく追い打ちをかける。

「今日以降、そのように、声高に怖い怖いと連呼なさりませんように」

「だって、怖いものは怖いのだから仕方ないじゃないぃっ」

「ですが、本日殿下にご挨拶申し上げるうちの数人は、殿下のご婚約者候補でもあります。あまり失礼があってはなりません」

 今度は、思考が完全に停止した。

「…………こん、やく?」

 何だろうそれ美味しいやつかな、と考えたのが最後だった。悲鳴を上げた気もするけれど、結局布団から引きずり出され、気付けば着替えも食事も終わっていた。



 逃げなければ。

 パタン、という扉の開閉音がして、アニカは我に返った。そして真っ先に考えたのはそれだった。

 衝動的に立ち上がって、扉と窓のどちらから、と考えた時、服が重い、と気付く。いつも着ているような、フリルもリボンも少ないのっぺりとしたドレスではない。余計に貧相に見えるからと、いつもハイネックを選んでいたはずの首元は鎖骨があらわになり、腰は必要以上に締め上げられ、赤や金の刺繍がふんだんに施された幅広の飾り帯が、膝下まで優雅に垂らされている。

 略式の時にしか着用しない上着には、胸元にきらきらしい大ぶりの留め飾りが付けられ、ゆったりとした作りの袖には内側に大きく切れ込みが入り、肘から下がちらりと見えている。

 去年姉が他国に嫁いだ時に見たきりの淑女が、姿見の中にいた。しかも全身淡くも華やかな桃色に身を包んで。

(目がちかちかする……ッ)

 完璧な淑女レディーと言われ、社交界の華だった姉ならまだしも、家族の中で一番地味な自分がしていい恰好ではなかった。あまりの場違いさに一気に羞恥心に顔が赤くなり、逃げるのも忘れてその場に蹲る。

 アニカは、自分の容姿も中身も、全てが嫌いだった。父譲りのはずの亜麻色の髪は日に焼けて赤くくすんでいくし、母譲りのはずの癖毛も全然母のように美しく波打たない。背が高くないのは姉と同じだが、姉のような可憐さも豊かな胸もない。社交性に至っては、双子の弟妹よりも劣ると自覚していた。

(こんなダメな人間が、誰かと結婚なんて……)

 喜ぶ人間などいるはずがない。きっと誰も彼も王妃の権力に逆らえず、嫌々やってくるに違いないのだ。そんな男たちと、これから関わらないといけないなんて――。

「――――ッ」

 男、と考えただけで、羞恥に熱くなっていた体が一瞬で冷まされる。ゾッ、と背筋を滑った冷たいものに、ヒュッ、と息を呑む。恐ろしさに、声も出なかった。考えてはいけない、と自分に何度も言い聞かせても、震えは止まらなかった。

 母は、どういうつもりなのだろうか。強制的に男性と接触する機会を増やせば、勝手に治るとでも思っているのだろうか。それとも単純に、結婚の適齢期が来たから相手をあてがおうと考えただけだろうか。

(……無理です、お母様)

 母がいつこの計画に無理があると気付くのかは分からないが、それまで無事生き延びる自信は、自慢ではないがほぼ皆無だった。

「……取りあえず、着替えよう」

 自己嫌悪と恐怖心をどうにか心の片隅に追いやって、頭を切り替える。何をするにもこの格好では難しい。そそくさとクロゼットに駆け寄って戸を開け、いつものお仕着せを探す。空だった。

「…………え、えっ?」

 今までなら、文句を言いながらも侍女のお仕着せが取り上げられることはなかったし、一人で着られる簡易ドレスも数着は常備してあったはずだ。しかし今は何もかかっていない。しかも。

「なっ、ない!」

 最も大事な短剣も帯も、心の拠り所でもあった藁人形一式もなくなっていた。

「私の藁人形ツァヴィが!」

 ひぇぇっ、と死にそうな悲鳴が零れる。頭が真っ白になった。どどどどうしよう、とその場でうろうろし、寝台に行き、窓辺に行き、またクロゼットの前に戻ってくる。そして、涙目で項垂れながら、考えた。

 とにかく、この格好では扉からしか出られない。どの位呆けていたのかは分からないが、誰かが来る前にこの部屋から逃げなければ、と控えの間に続く扉に手をかけて。

(…………いる)

 人の気配が、した。しかも一人ではない。一瞬心配したニコが待っていてくれたのかと思ったが、すぐに違う、と思い直す。

(危険だわ)

 やっぱり、服を少し汚してでも窓から逃げよう、と踵を返す。そして窓に手をかけ、窓一つ分しかない狭いバルコニーに出る。

 アニカの部屋は、王族の居住空間である西側のトゥヴェ宮二階にあり、そのまま飛び降りるにはさすがに高すぎる。だが柵の外側に出て、壁面の装飾に足をかけて少し高度を落とせば、アニカには不可能ではなかった。子供の頃にはよく飛び降りて、下の階の兄の部屋まで遊びに行ったものだ。閉じこもっていた間も、強引な商人から逃げるために何度か飛び降りている。

(ドレスが邪魔だけど、背に腹はかえられない)

 ぐっと身を乗り出すと、風に乗って外の喧騒がよく聞こえた。逃げられて、とか、服が、とか聞こえるが、判然としない。どちらにしろ、内容など無事降りてから考えればいい。

 アニカはドレスの裾を右手でたくし上げると、下着が丸見えになるのも構わず左手で柵を掴み跨ぎ超えた。両手で柵の下部を掴み、壁に足をかけ、数段下がった位置で勢いよく壁を蹴る。

(成功っ)

 心の中で喝采する。だがそれは少しばかり早すぎた。

「バッ、何やって――!」

 下から、あるはずのない声が上り。え、と声を上げる間もなく、着地と同時に誰かにぶつかった――



(やっぱり、こんなことやってられるか)

 第二王女の控えの間に向かう足を止め、ラズ・メトレベリはついに決断した。父からの圧力と姉たちの脅迫まがいに負けてここまで足を運んでみたものの、結局納得は出来なかった。

 男性恐怖症で結婚を嫌がる女性の部屋に、複数の男が突然結婚を迫って押し掛けるなど、最悪の恐怖だろう。とてもこの先何十年と連れ添おうという女性に対する仕打ちではない。

「アラム。やっぱり帰るぞ」

 ラズは、今は城の下男として後ろに付き従ってきた乳兄弟にそう告げる。基本的に何事も真正直に行動する性格ゆえの宣言だったのだが、後で考えればそれは失敗だった。

「なりません」

 一つ年上のアラムが、呆れたような声で反対する。ラズはムッとなって背後を振り返った。

「お前はおかしいと思わないのか? 男が怖いって言ってる女のところに男が押し掛けるなんて、どう考えても嫌がらせ以外の何物でもない」

「王妃殿下にも旦那様にも、我々には及びもつかない遠大な計画があるのでしょう。まずは従うべきです」

 王妃の考えなどラズに分かるはずもないが、父であるメトレベリ公爵に関しては、多分絶対深い考えなんかない。父の頭は九割筋肉だ。お、丁度いいなーと思ったくらいだ、絶対。

「婚約するどころか、一瞬で嫌われるぞ」

「それを嫌われないようにするのが、貴方の腕の見せ所でしょう」

「剣しか取り柄がないのは、家族全員承知のはずだ。それを分かってて行かせるのなんか、兄姉あいつら全員面白がってるだけだ」

 今回、最も末弟を行かせたがったのは、二人の兄よりも三人の姉の方だった。きゃっきゃと言いながらラズの服を仕立て、王女の落とし方をああでもないこうでもないと楽しげに議論していた。あれは完全に新しい玩具を見付けた時の顔だった。

「ですが奥様は、心から貴方の幸せを願っておいでです。今回の話が上手くいけば、奥様はどんなにお喜びになられるか」

「それは……そうかもしれないが」

 メトレベリ家唯一の良心、それが母だ。最も子供たちのことを理解しようという姿勢は感じるのだが、いかんせん箱入りお嬢様時代の気質が抜けず、自由で話が通じない。

 今回も、「嫌です」と真っ向から断ったのに、「まぁ、照れちゃって」と返された。

 そしてアラムもまた同じ末っ子として散々姉たちに玩具にされてきたくせに、何故かいまだに姉と母には絶対服従だった。

「お前、いざとなったら俺と母上、どっちの命令を優先するつもりだ」

 今後の行動に不安をきたし、念のための確認をする。しかし悲しいかな、答えはあまりに予想通りだった。

「勿論奥様です」

 何を今更、という顔で断言された。この熟女好きが、と心の中で舌打ちする。

「とにかく、俺は帰る。この話は断って――ッ」

 しかし言葉は最後まで続かなかった。きびすを返したラズの左肩と手首を、アラムが後ろから押さえにきたのだ。

「アラム、てめえッ」

 ぐっと首を捻って背後のアラムを睨む。だがアラムは至って平静だった。

「力づくでも連れて行けと、旦那様に言われておりますので」

「実行する奴があるかッ」

「ここにいます」

「見りゃ分からぁ!」

 阿呆な問答に腹を立てながら、ラズは腕の力を抜く。そして一瞬できた緩みに体をねじり、右足を大きく振り上げた。

「!」

 どん、と軽い手応えのあと、アラムの拘束が外れる。だがアラムは軽く右肩を押さえただけだった。剣技はラズの方が上だが、読みが上手いのはアラムの方だ。だがその隙にラズは一気に駆けだしてその場を離脱した。

「ラズ!」

 アラムが走り出す前に角を曲がり、近くの部屋に入って姿を晦ます。それから部屋同士を繋ぐ扉を何度も通り、居場所を攪乱かくらんする。

(さて、このあとどうやって逃げるか)

 アラムとは子供の頃からこんな鬼ごっこばかり繰り返している。見つけられるのは時間の問題だ。何か身を隠す物は、と周りを見た時、何故か侍女のお仕着せが雑然と置かれてあるのが目に留まった。

(何でこんな所に……)

 不自然ではあったが、使えるかも、とも思う。子供の頃、姉たちの遊びの一環で、しょっちゅう女物の服を着させられて、着方は分かる。十六歳になってさすがに無理があるのは分かるが、アラムの目を誤魔化す時間稼ぎにはなるだろう。

 最善手、に思えたが、過去の苦い記憶が実行するのを躊躇わせた。

(女装なんか二度とするか)

 やっぱり却下だ、と別案を考えようとした時、

「ラーズー様、逃げても無駄ですよー」

 アラムの本気かどうか分からない捜し声が近付いてきた。まずい、と思うと同時に、慌てて服の上からお仕着せをかぶっていた。それからまた隣の部屋に逃げ、三つ編みにしていた黒髪を解く。そこから回廊に出て、それらしい顔をして静かに歩いた。

「ラズ様ー。もうお時間ですよー」

 すると前方から、あまりやる気の感じられないアラムの呼び声が聞こえた。顔を俯け、気付くなよ、と念じながらすれ違う。

(成功した)

 アラムが視界の後方に消え、心の中で拳を握りしめる。だがその直後。

「ラズ様?」

 アラムが振り返った気配がした。と気付いた瞬間、手近な窓から身を乗り出していた。迷わず二階の窓枠を蹴る。

「ラズ様!」

 背中に声がかかる頃には、ラズは地上に着地していた。アラムは律儀に階段を回ってくるだろう。その間に逃げて、お仕着せも脱ぐ。捕まるよりも、まずお仕着せ姿を見られるのが嫌だった。絶対姉たちに報告される。

 しかしすぐさま走り出そうとした瞬間、上から妙に大きな影がかかり。

 ふっと顔を上げて見えたものに、ラズは思わず叫んでいた。

「バッ、何やって――!」



「ぐえっ」

「きゃあっ」

 二つの悲鳴が同じ場所から上がる。その声の低さに男だと気付き、アニカは考えるよりも前にその場から逃げ――ようとして、下敷きにしたのが見慣れたお仕着せだと気付き、思いとどまる。

「え、あれ? ご、ごめんなさい!」

 アニカの代わりに尻餅をつく羽目になった侍女に、アニカは慌てて駆け戻った。

「大丈夫? ちゃんと下を確認して、誰もいないと思って飛んだんだけど……」

「飛んだ? 俺はてっきり落っこちたのか、と――!」

 ドレスにもたつくような仕草の彼女に手を貸し顔を覗き込むと、同じく顔を上げた侍女と至近距離で目が合った。その青灰色の瞳が、ぎょっと目を剥く。

(あら。見ない顔だけど、私の顔は知っていたのかしら)

 この三年で、随分認知度は落ちたものと思っていたが、勤勉な者もいたものだ。しかも、ぶつかったのはどうやら、アニカが間違って転落したのだと思って、助けようとしてくれたかららしい。

 ニコであれば黙って放置されるところなので、久しぶりの親切にちょっと感動してしまった。

「それは親切にありがとうございます。でも慣れているので大丈夫ですよ」

「慣れてって……」

 アニカの説明に困惑する侍女の声は、やはり男性のように低い。だが侍女のお仕着せを着る男性がこの城内にいるはずもない。何より目の前の彼女は、美しい瞳こそ少しきつい印象はあるが、綺麗な黒髪は背中近くまであり、可憐に波打っている。アニカは素直な疑問として零していた。

「それにしても、随分低いお声ですけど、お風邪でも、」

 召されたのですか、と続けようとしたところ、その侍女がげほがふっと突然むせた。

「まあっ、大丈夫ですか?」

 慌てて背中をさする。と、「大丈夫だ」と押し返された。どうやら謙虚な人物のようだ。

「声は、その……元々低くて、今は風邪もこじらせてて、だから……気になさらないでくださいませ、ほほほっ」

 意外に大きな手で口元を隠し、上品に笑う侍女。しかしアニカは笑い事ではなかった。風邪引きを心配させた上に、下敷きにしてしまったのだ。風邪が悪化したらアニカのせいだ。

「ご、ごめんなさい。体調の悪い方に突然体当たりのような真似をして」

 改めて頭を下げる。何かしらの謝罪をしたいと思ったが、いかんせん今は逃げ始めたばかりだ。ゆっくりしていたら、いつどこからニコが現れるか分かったものではない。

「謝罪に何かをしたいんだけど、今ちょっと取り込んでて、」

「いや、そんなものはいい」

 アニカの言を遮って手を振りとっとと立ち去ろうとする侍女を、アニカは慌てて手を掴んで引き留める。

「いいえ、そういうわけにはいきませんっ。後で……いえ、職場と、お名前を教えてください。また機会を作ってご挨拶に行きますから」

「そこまでっ? あんた王女だろうに」

「挨拶と礼儀に身分は関係ないと徹底的に教え込まれていますので」

 過去の教育課程を思い出して少し蒼褪めるアニカに、侍女が少しだけ憐憫れんびんの眼差しを向ける。

「……だが、やっぱりそんなものはいい。お――ワタシが勝手に着地点に入ってしまったようだし」

「でも、お怪我が、」

 と食い下がろうとした言葉はけれど、遠く聞こえてきた呼び声に、ぴたりと止まった。

「げっ、ニコ・メルア!」

「え?」

 先にその名を呼んだのは侍女の方だった。と同時にバッと顔を背ける。その仕草を不審がりながらも振り返ると、確かにニコがこちらへ走ってくるところだった。

「「見付かった!」」

 声が重なり、反射的にまた隣を見る。と、侍女が振り向いた先を見てまた慌てていた。

「そ、それではっ」

「あぁ、じゃあな!」

 お互いこれ以上の会話は無用、とばかりに二人同時に反対方向へ走り出す。背後で侍女が距離を空けてニコとすれ違う瞬間、アニカも下男の恰好をした男性と大分距離を空けてすれ違ったが、顔を見る余裕はなかった。



 とにかくじぐざぐに庭園を走り、どうにかニコをまけた、と思って更に次の角を曲がった瞬間、

「そのような格好で、よくもこのニコから逃げられるとお思いですね」

「ひゃあっ」

 ニコの顔がにゅっと現れた。あまりに心臓に悪い登場の仕方に、声が物の見事に裏返る。

「なな何でそんな所から現れるのっ?」

 胸を押さえて問いただすと、ニコはまるで今日の予定を告げるような調子でしれっと答えた。

「姫様がこちらから逃げるだろうことは想定済みでしたので」

「だからそんな所で待ち構えていたの?」

「姫様に殿方全員をご紹介するまでが、仕事ですので」

 なるほど、お膳立てをするだけして早くも放置、というつもりではなかったらしい。少しだけほっと胸を撫で下ろしつつも、先程味わった絶望感から、文句の一つも言いたくなる。

「だったらなんで気付いたら服が全部なくなってて、一人ぼっちにさせられてたの」

「それは姫様が何を言っても反応がなかったので、回復するまでにやるべきことをやり、そっとしておいた結果ですね」

「無情!」

 思わず叫んでいた。つまりアニカが呆然としている間に、逃亡阻止等の手段を済ませていたということか。だったらきっちり逃げおおせるまで、もう少しそっとしておいてほしかった。

「情けは昨日までで捨てるようにと、王妃様が」

 したり顔で頷くニコを、ジト目で睨む。二人きりの時など、誰の目もないのだから、そんなに忠実に守る必要もないだろうに。恨みがましく愚痴を言いながら藁人形に釘を打ち付けたいところだが、今はそんな道具も時間もない。アニカは思考を切り替えて、ニコに縋りついた。

「お願い! 今日だけでいいから見逃して!」

「では明日ならばきちんとお会いになられると?」

「そ、それは……!」

 早速言葉に詰まった。今のが心からの懇願でも決意表明でもなければ、ただの問題の先送りでしかない。アニカは図星を指され、反論も浮かばずに悄然しょうぜんと本音を答えた。

「だって、まだ心の準備が全然できてないのに……」

「姫様が年頃になれば、王妃様がしかるべき殿方を選んで降嫁なされるのは、もうずっと昔に決まっていたことです」

 尻すぼみに声を小さくするアニカに、けれどニコは表情をぴくりとも変えず、そう返す。

 そう、アニカは子供の頃に受けた占断の結果、姉のように他国や権力者には嫁がず、結婚して王族籍から抜けることだけは決まっていた。それ自体には、不満はない。子供の頃は意味がまだ理解できていなかったし、男性恐怖症となった今では、結婚に夢も希望もない。

 たとえ母が今回のことを機に、結婚と恐怖症の二つの問題を同時に厄介払いしようと思っても、仕方ないと頭では理解できる。

 だが、今の問題はそこではないのだ。

「そういうことじゃなくて!」と、アニカは声を大にして反論する。「だから、顔も名前も知らない人に突然会うなんて、怖くて、挨拶どころじゃないもの……」

「では、全員分の絵姿を用意し、詳細な個人情報を暗記するまで叩き込めば大丈夫ですか? ……そうではないでしょう」

 冷静に現実的な提案をしながらも、その結びの声には少しだけ同情するような気配が現れていた。その意味を、分からないアニカでは分かった。

 実際、事前情報を徹底的に詰め込んだことは、今までにもあった。けれどどんなに自分の中で人物像を予想して身構えても、いざ会って少しでも差異があると、すぐにパニックになって逃げだしてしまうのだ。

 結局、構えすぎないことが大事だとは、アニカも分かってはいるのだ。けれど、頭と心はいつだってあべこべで、言うことを聞いてはくれない。

「……でも、無理よ。私には、出来ない」

 ニコの、時に挑発的にもなる平板な物言いに抗う気力すら消えて、アニカは肩を落とす。

 頑張りたいとも思っているのに、口から出てくる言葉は消極的な言い訳ばかり。男性から逃げて現実から逃げて、絶対にやってくる未来からも逃げている。情けなくて仕方がなかった。嫌いな自分が、もっと嫌いになる。

 もしかしたら母からの最後通牒かもしれないことも、本当は分かっているのだ。これ以上呆れられて本当に見捨てられる前に、死ぬ気で控えの間で待つであろう男性の中に飛び込む覚悟が必要だということも。

 けれどこの小さな体は、意に反してすぐに逃げようと反対方向に走り出してしまうのだ。

(きっと、ニコもさすがに呆れてる……見限られちゃう)

 それがきっと何より怖いことだと、分かっているのに。

「姫様」

「!」

 また考え込んでしまったアニカを、そっと導くようにニコが呼ぶ。いつの間にか俯いていた顔を、アニカは恐る恐る上向けた。六歳の頃からずっとそばにいてくれた友達は、笑っていた。ほんの少しだけだけれど。

「これは、良い機会です。男性恐怖症は、克服しなければ今までのように一生怯え続けるしかありません。しかしもし、今回の状況を利用して克服できたなら……。嵐は耐えるしか術がありませんが、去った後には晴天が待っているものです」

「それは……頭では、分かってはいるのだけれど、でもどうしても、体が言うことを聞いてくれなくて、」

 アニカのためを思っての言葉だと分かっているのに、思いきれない。ついに、ごめんね、という言葉が出そうになった時、「姫様」と強い声がアニカの迷いを押しのけた。

「姫様は、勘違いしていらっしゃいます」

「……へ?」

 意味を汲み取れず困惑する主の手を取り、ニコが言い聞かせるように言葉に力を込める。

「婚約者といっても、適齢期の、女性に普通に興味のあるそれなりの男性、である必要はないのです」

「……はい?」

「男性と一口に言っても、様々な方がおります。それこそ国王陛下のように、妻を大事にし、そこそこ普通に女性に接する方もおられるでしょう。しかし!」

 ガッ、とニコが胸の前で力強く拳を作る。

「世の中には女性に興味のない方や、仕事や出世や金至上主義の殿方も少なくなくいるのです。他にも既に現役を退いたようなご老人や、男性にしか興味のない男性というのも存在します。要は、社交界の主役たちが避けて通るような、姫様にとっての優良物件を獲得できればいいのです! そうすれば不要な接触を持つことも、危機感を覚えることもなく、二つの問題を同時に解決できるのです!」

「…………そ、」

 あまりの力説に、すぐには声が出なかった。天啓だと思った。

「それよニコ! なんで今まで思い浮かばなかったの!」

 ニコの拳を両手で掴みながら、アニカも小声で快哉かいさいを叫んだ。

「そうよ。結婚と言っても、誰もが仲睦まじく四六時中一緒にべたべたしているわけじゃないものね! お互い利害関係だけで結ばれる仮面夫婦だって、立派な夫婦よね!」

「そうです姫様、その意気です!」

 母が選んだと言っても、有力貴族の跡取りはまずないし、そもそもアニカの評判は三年前から地を這っている。社交界の売れ残りくらいしか来ないはずだ。その中でも特に女性に興味のない相手を選べば、運が良ければ一生放っておかれる可能性だってある。

 先程まで千尋の崖っぷちに立たされているようだったのが、今は分厚い雲間から一筋の光明が降り注いでいる気分だった。

「私、やれるかも!」

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