第4話 男の人と、お話合い。

 朝は小鳥の囀りと、人の気配で目が覚めた。

(疲れた……)

 寝起きだというのに、頭が痛くて体が怠い。瞼が開けられそうになかった。何故だっけ、と考えながら寝返りを打つ。と、

「おはようございます。今日は爽やかな朝ですね」

 ごく近くから聞き慣れぬ低音がして、ぎょっと目を剥いた。と同時に昨日の出来事が一瞬の内に脳内を駆け巡った。そしてまた寝台の中かと蛙のように飛んで逃げる。

「ままままたこんな所まで入ってきて……ッ」

 昨日と同じ部屋の角まで逃げて前掛けの下の短剣を探――そうとして、違う、と気付く。

(お仕着せ取り上げられてるんだったぁぁっ)

 もうダメだ逃げ場がないぃぃ、と頭を抱え込んでその場に小さくなるアニカ。その頭上に、「大丈夫ですか?」と声がかかった。よく聞けば、マルセルとは違う、優しげで穏やかな声だ。

 そっと腕の隙間から改めて声の主を確認すると、寝台ではなく扉の近くに控えるように、一人の男性が立っていた。侍従のお仕着せを身に纏っている。

「…………どなた?」

 結局男には変わりがないので、アニカは兎のように縮こまったまま問う。すると男性は、返事があったことにとても満足したように微笑んで、「失礼いたしました」と頭を下げた。

「ミリアン・ベルンシュテインと申します。メルア嬢から引き継ぎまして、本日よりアニカ様の身の回りのお世話をさせて頂きます」

 物腰柔らかく顔を上げると、再びにこりと微笑まれた。父と同じだからだろうか、落ち着いた亜麻色の髪と瞳は、底抜けに優しそうに見える。しかしアニカは床に両手をついて愕然と項垂れた。

(ほ、本当にニコまでいなくなった……!)

 しかし一方で、残りの五人の中から侍従長を選ばずに済んで、僅かながら安堵してもいた。とは言っても、アニカはこんな人の好さそうな人でさえも、気を抜いて近寄ることが出来ない。

 どうしようかと困っていると、それをどうとったのか、ミリアンが慌てて言葉を足した。

「あ、でもお着替えや湯浴みなどに関しては、今まで通り侍女が対応させて頂きますので、ご安心くださいね」

「よ、良かったぁ……」

 その言葉に、体から力が抜けるように安堵する。しかし最もアニカを慰めたのは、男性に裸を見られる危険がなくなったことでも、男性が一時的にいなくなる時間ができたことでもなかった。

(じ、常識人がいたぁ~)

 はぁぁ、と心の中で両手を合わせる。この人のことは心のオアシスにしよう、と勝手に決める。

 それを微笑ましく見守ってから、ミリアンが物柔らかに言を繋ぐ。

「わたくしのことは、空気のように思っていただければ結構です。質問などはなるべく、是か否で答えられるようにお伺いさせていただきます。お返事もご無理をなさらず、首を振って頂ければ大丈夫ですよ」

「…………」

 泣くかと思った。感激で。

(常識人では足りなかったわ。天使ね)

 勝手に格上げする。それ程に、ミリアンの言葉は慈愛に満ちていた。と同時に、この人ならなんとかやっていけるのではと思う。

 ミリアンには、アニカが苦手とする男性特有の威圧感が微塵もなければ、儀礼的な雰囲気すら感じられない。もしこれが完璧な演技で、実は裏で何かを企んでいると言われても、表面的な部分の評価だけで許せそうな気さえする。

 まともに会話が出来ない失礼を補うように、必死で何度も首を縦に振る。その熱意が伝わったのか、ミリアンも福福と頷いてくれた。

「では、もしよろしければ朝のお食事をさせて頂きますが、いかがでしょうか?」

 こくこく、と再び頷くアニカ。そうして部屋の隅に縮こまっている間に、ミリアンは何度か部屋を出入りし、丸テーブルの上に朝食の用意を済ませた。

「では三十分後にお食事を下げに参りますね。その後に侍女を呼んで、身支度を手伝わさせて頂きます」

 そして言葉通り、アニカに一切の無理を強いることなく、ニコ不在の朝は何の問題もなく進捗しんちょくした。

 そして再び、昨日のような華やかで少女らしい淡黄色と若草色のドレスを着させられ。

(平和は終わった……)

 ニコが戻ってきた。例の婚約者候補たちを引き連れて。

(ミリアンさんの方が心が落ち着くって、どうなんだろう)

 もしやこれこそが母やニコの作戦だろうかとも勘繰って隣を盗み見るが、長年傍にいる侍女頭は相変わらず無情だった。

「本日は、ご婚約者候補の方々との相互理解を深めるため、お一方ずつ姫様とご歓談をして頂きます」

「はぁ……」

 ニコに案内され、控えの間から同じ階の談話室サロンに場所を移したアニカは、強制的に座らされた逃げ場のない一人掛けの椅子から、気のない返事をした。

 昨日、男性陣の仕事については話して決める、と聞かされていたから、昨日程には取り乱したりしないが、気乗りしないことには変わりない。レヴィとマルティ以外の全員と話すのが今から億劫で、頭の中では会話よりもいつ逃げようかということばかりが頭を占めていた。

「では早速、マルティ様をお呼びして参ります」

 アニカの心の準備については一言の確認もないまま、ニコが早くも隣室で待つ婚約者候補を呼びに行く。

「マルティ様です」

 ニコがそう言って招き入れたのはしかし、少年一人だけではなかった。当然のようにミシェリがついてきている。

(やっぱり……)

 がっくりと項垂れながらも、ミシェリと二人きりで話すよりはましかと気持ちを切り替える。

 ニコに促された二人は談話室の反対側の壁を背に、マルティが椅子に座り、その傍らにミシェリが直立する。談話室は寝室よりも広いのだが、こればっかりは何度もニコに念押ししたのだ。こうでもしないと、顔を見るどころかまともに会話が出来ないからだ。

 辛うじて顔が判別できる距離で、まずマルティが口を開く。

「よろしく」

「よ、よろしくお願いします」

 昨夜ぶりなのだが、ミシェリがいるせいか、昨日よりも緊張度が高い。この状況で一体何を話したら、とニコを見ると、早くしろと言いたげに顎を動かされた。

(うぅぅ、帰りたい……)

 早くも涙目になりそうな自分をどうにか叱咤して、事前にニコと話したことを思い出す。まず、男たちにお願いする仕事は護衛が二人、侍従長補佐が二人と考えればいいとのことだった。

 次に、会話に困ったら、理想の結婚や夫婦像、結婚後の生活の希望について聞いてみると良いと言われた。

 早速困ったので、そのまま聞いてみる。

「あ、あの、け、結婚したら、どんな風に過ごそうとお考えですか?」

 唐突過ぎる質問に、九歳のマルティは碧い瞳を見開き、ミシェリは鋭い目つきを更に険しくした。

(それは、そうよねぇ)

 我ながら九歳に何ということを聞くのかと思うが、この時間を早く終わらせるには聞かないわけにもいかない。それはマルティも分かってくれたようで、一度頷いてから答えてくれた。

「結婚は、男として生まれた者の義務だと心得ている。家のためとはいえ、出来る限り相手の女性を第一に大事にしたい。なるべく一緒にいる時間を作って、お互いの理解に努めたいとも思っている」

「そ、そこまで考えているの? やっぱりマルティは立派ねぇ」

 一言目からグサッと来る内容ではあったが、その内容は将来をしっかりと見据え、よく考えられたものだった。すっかり親心が芽生えて、つい感心の声を上げてしまう。

 これに「勿論です」と胸を張って答えたのは、何故かというかまたもやミシェリだった。

「で――マルティ様は常に上に立つ者としての自覚を持ち、下の者に対する配慮も欠かしません。その心意気たるや、生まれた時から王者の風格。その上この奇跡のようにサラサラで美しい御髪おぐし! 太陽よりも眩しく輝く瞳! 頬ずりしたくなるような桃色の頬! その成長途中の未発達な体がもつ至高の美しさは、他にたとえようもな――」

「ディー、黙れ」

 舞台役者もかくやという程の身振りのついた長口上を、マルティが一言で捻り潰した。「御意」と、ミシェリも何の抵抗もなく低頭する。どうやらよくあることらしい。

 と同時に思う。ミシェリの仕事はマルティの護衛以外にはなさそうだ。

(これはもう、この人には聞かなくてもいい……よね?)

 という思いで、ちらりと扉の前に控えるニコを見る。当然のような顔をして首を横に振られた。悪魔め。

「ち、ちなみに、ミシェリさんは、結婚については……」

「世に言う結婚適齢期の人間は、既に美を放棄し始めている段階です。あり得ません」

「…………はぁ」

 よく意味が分からなかった。結婚するつもりはない、ということだろうか。だとしたら完全に候補者から外れたと考えていいだろう。

(良かったぁ。つまりこの人とはもう二度と話さなくていいってことよね?)

 全員の中で二番目に目つきが悪いと感じていたので、心底安心する。

「で、では、ミシェリさんにはマルティのことをよろしくお願いします」

 これで終わりとばかりに頭を下げる。

「言われなくとも死守致します」

 ミシェリも、しかつめらしい顔をして低頭した。

 ニコが扉を開けて二人を見送る。ホッと息をついたのも束の間、次の候補者はすぐに現れた。全員の中で一番目に目つきの悪いラウルだった。

(早速この人っ? できれば二番目はレヴィ様が良かった……)

 難易度は徐々に上げていってもらいたかった。しかしラウルもまた、マルティと同じ椅子に座り、最長距離を取ってくれた。腕と足を組む姿はやはり威圧感が無駄に溢れているが、長時間直視しなければなんとかなるはずだ。多分。

「ラウル・ヴィッテだ」

 座って一拍を置いてから、ラウルが腕組みをした姿勢のまま改めて名乗った。その意外に丁寧な物言いに、おや、と思う。どうやら、敵意や不満があるというよりは、その在り方は基本のようだ。

 そう結論付けるまで十分にラウルを観察してから、アニカは先程の轍を踏まないよう、少し気になっていたことをまず聞いてみた。

「あの、ヴィッテ様は、アルベラーゼ様とお呼びした方が良いのでしょうか?」

「アルベラーゼの名は今後一切呼ぶな」

「は、はいっ」

 侯爵家三男との紹介なのに家の名を名乗らないのは何故だろうと思っていたが、どうやら触れてはならない話題だったようだ。びくっ、と亀のように首を引っ込めて押し黙る。

 それだけのことで、次の会話が怖くて切り出せなくなった。

(やっぱり本題から話せば良かった。どうしよう……)

 最早赤茶色の鋭利な瞳すらも見られず、自分の爪先ばかりを見つめていると、

「ラウルでいい」

 少し苛々した口調で、そう続けられた。はっと見ると、それまでずっとアニカを捉えていた瞳は気まずげに逸らされ、眉根も少しだけ困惑したように皺が寄っている。

(怒っている……のでは、ないのかしら)

 その感情をまだ上手く読み取れず、アニカも戸惑う。だがどうにか会話を続けられそうで、アニカは何とか本題への糸口を掴む。

「で、では、ラウル様」

「敬称も不要だ」

「ラ、ラウル……さん、は、結婚したら、家族とどのように過ごそうとお考えですか?」

 呼び捨ては無理だったので、すごすごとさんを付ける。だがラウルにはそれ以上に引っかかる単語があったらしい。

「家族……」

 すっと表情を翳らせ、呟く。逸らされたその横顔は、一時離れている家族を懐かしむ、というにはあまりに痛々しくて。

「家族との過ごし方……を、俺はよく知らない。近付くなと言うならそうする。要求は、出されれば可能な限り呑む」

 そう続けられた内容は、聞いているこちらまで哀しくなるようなものだった。ラウルが女性であれば、そっと手を取って「そんなことは言わないで」と慰めることもできたのに。

 しかし眼前にいるのはどこからどう見ても男なので、それは不可能だ。代わりに、どうしても知りたいことを口にしていた。

「そ、それで、ラウルさんはその、寂しくは、ないのですか?」

 結婚後はずっと放置してくれるというのだから、アニカにとっては今のところ好物件なわけだが、それ以上にそのことが気になった。

 それは、常に仲睦まじい両親を見ているせいもあるかもしれない。けれど家督を継がないラウルが結婚すれば、領地のどこかに夫婦二人で住むことは多分間違いない。それなのに、妻が希望すれば一切近付かないという宣言は、どうしても寂しいと思ってしまった。

 しかしラウルはその言葉が余程予想外だったのか、初めて仏頂面以外の顔をしてアニカを凝視した。

「えっ? あ、あの……」

 そんなに見ないでください。怖い。

「……そんな感情は、俺には無縁だ」

 思いが通じたのか、ラウルがやっと視線を外してそう答える。

 結局、それ以上会話をすることは出来ず、ニコが「ではラウル様には護衛をお願いするということでよろしいですね?」と終了を告げるまで、お互い黙していた。

 ずっとそばでラウルが睨みをきかしている姿を想像すると怖いばかりだったが、部屋から出なければ護衛は扉の外だ。アニカは逡巡の末、「はい」と頷いた。

 そうしてニコに促されて立ち上がったラウルはしかし、談話室を出る寸前、立ち止まって振り返った。

「アニカ殿下」

「っはい」

「近寄るなと言うなら近寄らない。会話もしない。だから……俺を選べ」

「…………」

 口調は命令に近いのに、その響きがまるで懇願に聞こえて、アニカは是も否も言えずただ見つめ返してしまった。しかしラウルはアニカの返事は求めていなかったようで、そのまま扉の向こうに消える。

(選べるものなら選びたいけれど……)

 ただ怖い、というだけで、彼の切なる要望に応えてあげられない。こういう時に、早く克服したい、と強く思う。その手立ては、いまだに分からないのだけれど。

 落ち込む間にも、ニコが再び出入りして、新たな候補者が部屋にいざなわれる。「失礼します」という丁寧な挨拶とともに顔を上げたのは、レヴィ・リシェリだった。

「よろしくお願いしますね、アニカ殿下」

 目が合い、にこりと微笑まれる。緊張はまだあったが、ラウルの後ということもあり、「こちらこそ」とどもらず挨拶を返せた。

 レヴィがゆったりと椅子に腰かける。長い足を軽く組み、両手を膝の上で組む姿は、やはり今まで見た誰よりも優雅で、貴公子然としている。

(社交界で、引く手数多だろうに)

 何故わざわざ外れ物件としか言いようのないアニカの前にいるのだろうか。不思議でならない。

「何故レヴィ様は婚約のお話をお受けになったのですか?」

 不思議すぎて、思わず聞いていた。聞いてから、しまった、と思う。先程ラウルの時に失敗したのだから、本題から聞くべきだったのに。

「あっ、いえあのっ、レヴィ様であればこんな変な話をお受けにならずとも、お相手には困らないのではとっ」

 慌てて両手を振って弁明する。しかしレヴィは不快な顔をすることもなく、「実は、」と苦笑した。

「殿下のお耳に入れるのはお恥ずかしい話ですが、実は私は庶子で、リシェリ侯爵家にもまだ籍は入っていないのです」

「あ……」

 だから長男と言いながら家督を継ぐこともなく、引きこもりの第二王女に宛がわれたということか。一発目からとても繊細な質問をしてしまったと後悔する。

 そして次に浮かんだのは、家族について、辛そうな顔をしたラウルだった。もしかしたら、彼にもそういった複雑な事情があったのかもしれない。

(私は、人の心にずけずけと……)

 あまりの失礼さに、胃が痛くなる。

「ご、ごめんなさい。知らないこととは言え」

「いいえ。殿下が謝ることではありません。これは私の個人的な問題ですから」

 青くなって謝ると、レヴィは鷹揚に首を横に振って笑みを作った。その笑い方は、ミリアンを見た後だからか、温かみというよりもどこか冷めているように思えて。

「やはり、ご家族とはあまり……?」

 おずおずと聞くと、「いいえ?」と明るく否定された。

「父は庶子の私を引き取って飢えることなく育ててくれまたし、弟は半分でも血が繋がっていると思えないくらい優秀で純朴で可愛らしいですからね。とても尊敬していますよ」

「あ、そうなんですか?」

「ええ。今回のお話も、本当は少しでも父の役に立ちたくて決めたんです。それくらいしか、私に出来ることはないですからね」

 少しの屈託を笑みに隠して、レヴィが笑う。王立学校を首席で卒業したとなれば、爵位を継がなくても父から認知されるだけで貴族たちは放っておかないだろうに。美しい貴公子にもまた、どうしようもない劣等感があるということだろうか。

「一緒、ですね」

 知らず、そう零していた。ふと視線を感じて目線を戻すと、レヴィと真正面から視線がぶつかった。

「赤毛も、お揃いですしね」

 ふうわり、と妖艶に微笑まれて、どきり、と心臓が跳ねる。もしこれが計算だとしたら、とてもではないがアニカなど相手にならない。

「それに、私も殿下と同じで、異性が少々苦手なんです。これも一緒ですね」

「そ、そうですよねっ。怖いですよね、異性!」

 少しの照れを見せながら答えるその姿に、アニカは一気に共感を覚えた。誰も怖いとは言っていない、とニコの無言の視線が突き刺さったが、勿論無視した。

「ではもし結婚なさっても、同居などとは考えもよらないですよねっ?」

 勿論同意しかないだろうという勢いで尋ねる。が、何故かレヴィは「それはどうでしょう」と小首を傾げた。

「もし同居しなければ、別の相手と愛を語らうかもしれないと、お考えにはなりませんか?」

「…………はい?」

 すぐには意味が理解できず、アニカは思わず間抜けな声を上げていた。異性が苦手だというのに、結婚相手以外の異性とわざわざ仲良くするという発想が、そもそもアニカには全くなかったのだ。まるでそれを読み取ったように、レヴィは再び意味ありげに笑みを深め、こう続けた。

「相手は、異性だけとは限りませんよ?」

 異性だけではない、というのはつまり。

(だだだ男性同士ってことっ?)

 一瞬の思考の間にざーっと変な想像が頭を過り、アニカはぼんっと顔を真っ赤にした。途端にまたレヴィを直視できなくなり、視線を彷徨わせる。

「そそ、それはそのっ、全然、どうぞお構いなくというかっ……ででは、レヴィ様が第一候補ということで!」

「…………」

「…………」

 後で考えれば、一言「問題ありませんわ」と言えば良かったのに、昨日ニコと話した内容が甦り、アニカの頭はすっかり混乱していた。この場を早く切り上げたくて出た言葉は、最早最悪と言って良かった。

(なにその選考基準はぁぁ~っ)

 覆水盆に返らず。自分の最低な発言に、顔を覆って身を折る。これは流石のレヴィでも呆れられる、と沈黙に散々羞恥を苛まれていると、くすり、と小さな笑声が耳を打った。

「っ?」

 恐る恐る顔を上げると、どこか年相応に崩れた表情で、レヴィが笑っていた。「そんなに可愛らしく言われては」と眉尻を下げている。

(あら、もしかして、この笑顔が素かしら)

 そんな風に思って眺めていると、不意に真顔に戻って問いかけられた。

「殿下は、私のような者を気持ち悪いとは思わないのですか?」

「へっ? あ、そんなことは、全然まったく」

 考えもしなかった、と思う。むしろ大歓迎です。とまでは言葉にはしないが。

「そうですか。では……」

 と、どこか安堵したようにレヴィが口元を綻ばせる。そして。

「手始めに、一晩同衾どうきんしてみましょうか」

 にこにこと、満面の笑みで言われた。爆発するかと思った。

 完全に機能停止したアニカに代わり、ニコが「ではリシェリ様は侍従職ということでお願いいたします」ととっとと追い出す。今ばかりは、ニコの仕事人間ぶりに感謝した。



「もうダメ、完全に限界を超えたわ……」

 少し休憩にしましょう、と言って出された紅茶を一気にあおったあと、アニカは傍机に突っ伏した。何故この順番かと思ったが、難易度は着実に上がっていた。しかも残す二人にはマルセルがいる。意識を保っていられる自信がなかった。

「皆様方、それぞれのお考えで姫様とのご婚約をお受けしております。真摯に聞かなければ、失礼に当たります」

 珍しく、ニコが正論で諭してきた。それについては、アニカも三人の言葉の端々から感じ取っていた。それでも、マルセルに関してだけは一考の余地もない気がしている。

(あったらどうしよう……)

 元来、気が弱く、人に同情しやすいところがあるのは自覚していた。それが学校では裏目に出て、結果男性恐怖症を発症することになってしまったのだ。

「では、そろそろ次の方をお呼びいたします」

 待って、と言っても無駄だと学習したアニカは、ニコの号令にすごすごと椅子に座り直す。難易度から考えれば、次はきっとラズだろう。全体的な印象は怖いが、レヴィのようなことはしそうにないし、余計なことをしゃべらなければきっと切り抜けられる、と考えた時、扉が開かれた。

「っ!?」

 そこに立っていたのは、なぜか金髪碧眼のマルセルだった。瞬間的に思わず飛び上がって悲鳴を上げなかった自分を、まず褒めてほしいと思いながら椅子の背にしがみつく。非難がましくニコを睨むが、しれっと無視された。

 その間にも、マルセルはニコの誘導を無視して歩を進める。

「こんな離れた所で話しても寂しいよ。ね、隣に座っていいでしょ?」

 嫌です、とは言えず、必死に首を横に振る。だがマルセルは構わず、結局一番近くの席に腰を下ろした。男が付けるには甘ったるい香水の匂いが、すぐ右側から漂ってくる。克服のために出た社交界の記憶が誘発されて、頭がくらりとした。

(こ、こわい……)

 純粋な恐怖に身を強張らせる隣で、しかしマルセルはまるで社交界のお手本のように自然に会話を始める。

「やっと二人きりになれたね。さぁ、何から話そうか」

 馴れ馴れしい言葉に、まだ触れられてもいないのに動悸がする。

「まずは僕のことを知ってもらう必要があるよね。何を知りたい?」

 必死に俯くアニカの顔を覗き込もうとする視線から更に逃げて、アニカは一刻も早くこの時間が終わることを願った。

「……あ、あの、では、結婚後のことについて、ですが……」

「もう僕との結婚のことを考えてくれてるの? 嬉しいなぁ。じゃあもうこんな茶番は止めて、とっとと婚約の発表パーティーでもしようよ」

「っ!」

 言葉を間違えた、と気付いた時には後の祭りだった。一気に距離を詰めようとしてくるマルセルから、堪えきれずに椅子から飛び出す。

「ちち違いますっ、そういう意味じゃなくて!」

「でも結婚には前向きということでしょ?」

「だからっ、そうじゃなくて、あなたのことは全然知りませんしっ」

 椅子を乗り越え追いかけてくるマルセルを、アニカは更に別の椅子を飛び越えて逃げ続ける。

(あぁ、今ここに藁人形ツァヴィかせめて短剣でもあればっ)

 あったら一体何をする気かと突っ込むはずのニコは、一気に慌しくなったこの状況にも変わらず無関心を装っている。およそ助けは望めない。

「とととにかく、落ち着いて、一度ちゃんと話し合いをっ」

 ひぃぃっ、と情けない声でどうにかマルセルを押し留めようと言葉を絞り出すアニカ。その熱意が伝わったのか、それとも追いかけるのに疲れたのか――恐らく後者だろう。息が上がっている――マルセルがやっと手近な椅子に腰かけてくれた。

「そう? じゃあ、何を知りたいの?」

「えっと……」

 一番離れた窓に背を付けながら、アニカは結婚とは違う話題を探す。今度は絶対に外せない。必死に頭を働かせていると、マルセルの家名が、アニカの知っている数少ない貴族の一つだと思い出した。

「あの、イアシュヴィリ伯爵家と言えば、魔法の監視者の一族と伺ったことがあるのですが、事実なのでしょうか?」

 それは遥か昔、シルヴェストリの母なる泉デダ・ツカリだけに限らず、大陸のあちこちに魔法が満ち、人々の生活にずっと身近だった時代。魔法の力の強い者程、権力者や時の王侯貴族に取り立てられ隆盛を見せ始めたのと同時期に、その名は現れた。呼び名は異なれど、各国で同様の存在は見られ、シルヴェストリ王国の歴史の中でも、監視者アクレットの名前で何度か登場している。

 ある地域では魔法使いや精霊の寵児ちょうじなどと呼ばれ、時に戦力として、時に芸術として重宝されてきた彼らの力は、けれど一方で強大なものは天気を操り、災害と呼べるものにまで匹敵したとも云う。

 その最大にして最悪の象徴が、シルヴェストリの魔女と呼ばれた女王クィルシェだ。太陽のように輝く金の瞳を持っていたという彼女は、念じるだけで嵐を起こし大地を裂いたという逸話まである。

 魔法の監視者とは、そういった非道を働く魔法の使い手を監視し、時に粛清してきた裏の権力者だと、王家の歴史を学んだ際に教わった。そしてそれが、イアシュヴィリ伯爵家だとも。事実、彼らは今も政治に強い影響力を持っている。

 しかし、現代に魔法はもうない。

 大陸の歴史上では、数百年前から技術が進歩し、力の安定しない魔法は廃れ、様々な道具に取って代わられたとある。バチュリア王家も、森林が消え、泉が枯れたことにより、代を経るごとにその力を弱めていったという。そして今、魔法はすっかり伝説の中の不思議の術となり、一族の役目も形骸化した。

(本当だったら、歴史の生き証人みたいなものよね)

 伝説と史実の境目は、いつだって曖昧だ。それでも、長い王家の歴史の中には、その後も魔法のような力を、ごく弱いながらも持って生まれる者もいる。草木をそよがせたり、煙を少し晴らしたりといった程度ではあるが、最近では先代国王がそうだったと聞いている。

 王家を除けば、魔法に関する唯一の有識者であろう。

 果たして、マルセルは長い間を空けてから「よく知ってるね」と破顔した。

「やっぱり、王家も魔法に関していまだ変わらず勉強してるのかな。誰もろくに使えないのにね」

 それはどこか鼻で笑うような、少し棘のある言い方だった。

 王家も、と言ったからには、イアシュヴィリ家でも魔法や歴史について、同様に覚え込まされるのだろう。魔法を全く感じないアニカにとっては、魔法の勉強はほぼ冒険小説を読む感覚だったが、興味のない者には眠いだけの退屈な時間なのかもしれない。

 けれど、とも思う。

「でも、イアシュヴィリ家は占術師としての顔もお持ちですよね?」

 魔法の力が弱くなってきた一族は、代わりに古くからある幾つかの占いを用いて、過去、未来などを視る術を得たという。その術で、イアシュヴィリは王侯貴族専門の呪術師として再び、宮廷での地位を確固たるものにした。

 実際、アニカも王家の子供が必ず受ける占断を、幼い頃に受けたことがある。

 だからマルセルもまた占術の使い手なのかと思ったのだが。

「そうだね。僕以外はね」

「あ……」

 今度は完全に、マルセルは皮肉げにそう言い放った。魔法は完全な血筋だが、占術はどうなのだろう。勉強すれば誰でも習得できるものなのだろうか。それにしても、才能や得手不得手はあるはずだ。つまり。

「もう分かるでしょ。僕が長男なのに今この場所にいる理由が」

 窓に背を付けながら、アニカは小さくこくん、と頷く。

「弟は白昼夢のように他人の過去や未来を視るというけど、僕はどんなに知識を頭に詰め込んでも、さっぱりだった。色々と他の術にも手を出してみけど、呪いを解いたり術を壊すことは出来ても、導くことや作り出すことは出来なかった」

 それはきっと、才能とは別の相性のような気もした。マルセルが単に不器用だとか努力不足だとかではなく、どうにもできない分野だったのだろう。けれど家名を重んじる貴族の中にあっては、それだけの理由で継嗣とされず、落伍者の烙印を押される。

 どんなに学校で優秀な成績を収めても、どうにもならない。その生き辛さを、アニカは知っている。

(結局、よく考えて喋っても、私はダメね)

 類は友を呼ぶとも言う。どんなにお互いを知ろうと努力しても、そもそも知られて嬉しくないことが多すぎるのだ。少しも仲良くなれる気がしない。

(次は困ったら天気か花の話にしよう)

 半ば諦念気味に考える。と、

「でもさ、」

「!」

 声調の変わった声がすぐ頭上でした。驚いて顔を上げると、すぐ目の前に、両腕を檻のようにしてアニカを閉じ込めようとするマルセルがいた。その距離の近さに、それまでの思考が一気に吹き飛ぶ。

「壊すばかりの僕になら、アニカ姫を縛るものだって壊してあげられると思うんだ。だからさ、」

「…………ッ」

 ぐっと、端麗な顔が距離を詰める。マルセルの碧眼に自分の顔が見えそうな程の近さに、アニカはもうまともに息も出来なくなって。

「僕にめちゃくちゃに壊されてみない?」

「っっっっ!!」

 そこからの記憶は歯抜けのように曖昧だった。どがしゃーんっ、という音がしてマルセルが視界から消え、気付いた時にはどこかの階段をひた駆けていた。

(こここわいっこわいっもうやだぁぁあ!)

 ドレスの裾がめくれ上がるのも気にせず、一階の空いていた窓からがむしゃらに庭園に飛び出す。

(なな、何で、こんな目に私が遭わなくちゃいけないのっ?)

 誰にだって怖いものの一つや二つはあるはずだ。それがアニカにとっては男性というだけで、何故こんな思いをしなければならないのだろう。出来るだけ波風を立てず、そっと生きていきたいだけなのに。

(どうして、誰も分かってくれないの?)

 王族だからだろうか。女だからだろうか。それでも母は自分の力で、父の横を得た。嘆くばかりではだめだと、分かってはいるのだけれど。

(そうだねって、ただ頷いてくれるだけでいいのに……)

 それだけのことが、とても難しくて。

「もう、やだ……っ」

 幾何学模様に刈り込まれた植え込みの一角に飛び込んだ時、

「っぅ、わ!」

「っ!?」

 同じく飛び出してきた誰かにぶつかってしまった。アニカの方が速度が出ていたせいか、そのまま相手のお腹の上に転んでしまう。

「ご、ごめんなさい!」

 つい最近もこんなことがあったと思いながら咄嗟に謝る。体を起こすと、ドレスの下にいつかと同じお仕着せが見えた。まさかと顔を見ると、案の定、波打つ黒髪に縁どられた青灰色の瞳が、重たい荷物に文句を言うように見上げていた。

「お前、また……っ」

 明らかに怒気のこもった声が、早くどけと言わんばかりに放たれる。

「ごごごめんなさいぃっ」

 ひぃっ、と慌てて横にどき、ほぼ土下座状態で平謝りする。まさか同じ人物を連日潰す羽目になるとは。

「まさかお前、毎日こんなことをしているのか?」

 その場で上半身を起こした侍女が、後頭部をさすりながら非難する。そう思われても仕方がないが、一応事情があるのだと言い訳する。

「いえ、窓から逃げるのは本当にたまにしか……」

「なぜ窓から逃げる!?」

 先にそちらを指摘され、それもそうかと気付く。普通の婦女子は、当たり前だが玄関から出入りする。

「ちょっと、のっぴきならない事情が頻発していまして」

 説明しながら、流石にはしたなかったかと恥ずかしくなる。顔を赤くして俯くと、数秒をあけて、「はぁ~」と大きな溜息をいただいてしまった。

「とにかく、こんなことばっかりしてると、そのうち大怪我するぞ」

「え?」

 罵声が来ると思っていたアニカは、予想外の内容に一瞬理解が遅れた。口調こそ怒っているようだが、内容はアニカのことをちゃんと心配してくれているようだ。

(もしかして、私の周り以外には、常識人が結構いるのかしら……?)

 じぃん、と両手を組んで感じ入る。感動で見つめていると、侍女が気まずげに「それに、」と続けた。

「もしぶつかった相手が男だったら、どうするんだ」

「あっ」

 言われて初めて、その可能性に気付いた。トゥヴェ宮内では女性率が高いが、庭園では来客以外にも庭師や掃除夫など男性率が上がる。子供の頃のくせで南庭の築山の上にある東屋あずまやにいつも逃げ込んでいたのだが、脇目も振らず、というのはいい加減止めた方が良さそうだ。

「本当です。二度もぶつかったのが貴方で良かったです」

 情けない気持ちで苦笑しながら、改めてお礼を言う。と、侍女の頬が少しだけ恥ずかしそうに赤くなった。照れ屋さんのようだ、と思った時、遠く人を呼ぶ声が聞こえた。

「でんかぁー。アニカ殿下ー」

「ラーズー様ー。どこに逃げたんですかぁ」

 別々の方向から、それぞれの名を呼んでいる。そしてピンときた。侍女の仕事内容はアニカには分からないが、生垣にこそこそ隠れる必要があるとは思えない。

 そっと目の前の青灰色の瞳を覗き込むと、「ちっ」という舌打ちの後、目が合った。

「ひ、ひとまず逃げましょう」

「はっ?」

 突然の提案に目を丸くする侍女の手を掴むと、アニカは腰を上げた。侍女は一瞬抗おうとしたが、追手を確認すると、アニカにならって腰を低くしたまま駆けだした。



 いつもの東屋に逃げると確実にニコに発見されるような気がしたので、政治の中心であるムゼ宮の北側にある小さな噴水を囲む庭園の一角で、二人は腰を落ち着けた。

「何故逃げたんだ」

 ベンチの端に座った侍女が、困ったような声で問いかける。しかしアニカは相手が満足するような答えを持ってはいなかった。

「つい」

 えへ、と誤魔化すように笑う。と、再び大きな溜息とともに侍女は片手で顔を覆った。呆れられてしまったようだ。

「お互い、追われているようだったので」

「一緒に逃げたら、追手が倍増するだけだろ」

 何となく言葉を足すと、更に呆れられてしまった。その通りだと、思わず頷く。

「巻き込んでしまってごめんなさい」

 しゅん、と肩を落として謝る。

「別に、怒ってるわけじゃない。あと、何度も謝罪は要らない」

 男性のような下町言葉だが、相変わらずその内容は気遣いがある。「はい」と微笑むと、気まずいとも違う沈黙が訪れた。風に揺れる草木の音が、耳に心地よい。

(戻りたくない……けど、そうはいかないものね)

 さて、このあとはどうしよう、と考えていると、侍女が遠慮がちに口を開いた。

「今日は、婚約者候補の男たちと話し合いをしてるんじゃなかったのか?」

「よくご存じですね」

 驚きながらも首肯する。もしや、今回の件は城中に広まっているのだろうか。だとしたら、毎回の逃走の件も知られている可能性もある。母の耳に入っていたら、怒りを買うだけでは済まないかもしれない。

「それは、その、その通りだったのですが……多分、私が押し倒してしまったようで」

「押し倒した!?」

 ぼそぼそと喋っていると、突然侍女が仰天したような声を上げた。そこで、言葉の使い方を間違えたと気付く。その言い方では、まるでアニカがマルセルを襲ったように聞こえてしまう。

「あっ、ち、違いますっ。そういう意味じゃなくて! 距離が近かったものだからつい、咄嗟に押し返したというか……」

 両手を振りながら、真っ赤になって否定する。その弾みに、その両手に感じた男性特有の硬い体の質感が甦り、アニカは背筋が寒くなった。

 アレは、怖いものだ。女の力では、どうにもならないほどに。

「……怖くて……」

 ぽそりと呟く。今も、気を抜けば三年前のことが甦り、震えが止まらなくなりそうだった。この侍女も、きっとそんなことで、と言うだろう。実際、城の侍女や小間使いは、仕事の合間に結婚相手を探しているようなところもある。男性と一定以上にお近づきになる行為は、報告し合いこそすれ、忌避するようなものではないのだ。

 これ以上嫌われる前に離れよう、とアニカが考えた時、けれど信じられない言葉を聞いた。

「……そうだな。怖い、よな」

 と。同じベンチに距離をあけて座った女性は、どこを見るともなく、そう同意してくれた。その声の真摯さに、アニカはどきりとする。と同時に不思議な感じがした。

 ずっと、この小さなどうしようもない感情に、頷いてくれる相手が欲しかった。その相手を、こんな所で思いがけず得られるなんて。

(あぁ、やっぱり、こんなにも嬉しい……)

 こんなささやかなことで、泣いてしまいそうだった。言葉が、勝手に溢れる。

「みんなは、きちんと話せば相手のことが分かって怖くなくなるって言うけど、話すことが怖いの。近くにいるだけでも怖くて。男の人だって、悪い人ばっかりじゃないって分かっているけど、どうしようもないの」

 こんな話は、ニコにもあまりしたことがなかった。努力しなければと思う心に同居する、根深い諦念。

 そっと隣を窺い見ると、一瞬だけ目が合った。すぐに前を向いてしまったけれど、言葉は、しっかりとアニカに向いていた。

「分かるよ。体が勝手に反応するんだろ。お――ワタシも、子供の頃に散々いじられたせいで姉たちが苦手で、いまだに近寄れない」

 そう語る横顔に一瞬眉間に皺が寄り、アニカは一緒だと強く思う。

「でも、いつかは克服しなきゃとは思っている。その為に必要なのは、やっぱり相互理解だとは、思う」

 それは、アニカも否定できないとは思う。未知の存在が恐ろしいのは、知らないからだ。知れば闇雲な怖さは半減する。

(つまり私は、男性というものを研究するところから始めた方が良かったのでは?)

 一瞬名案が浮かんだ気もしたが、すぐに書物以外の方法が取れないと気付く。

「話し合いは、上手くいかなかったのか?」

「分かりません。六人中五人とは、一応会話をしたのですが……」

 人となりを少しばかり知れただけで、恐怖心が薄れたとは感じられない。そう正直に答えると、「それは会話ではないだろう」と否定された。意味が分からないでいると、侍女が言葉を選ぶようにしながら、補足してくれた。

「相互理解ってのは、相手の素性を根掘り葉掘り聞くことじゃないだろ。何を考え、それぞれの状況でどう動くかを知るものだろ」

 確かに、アニカは五人のことをそんな風に知ろうとは考えもしなかった。ただただあの時間が早く終わる事ばかりを考えていた。それは、相手を知ろうとする行為とは言えないのかもしれない。

「それに、相互ってことは、自分のことも相手に知ってもらう必要があるってことだろ。あん――殿下は、自分のことは話したのか? 怖いとばかり言ってないで、何をどうしたら怖い、ここまでなら怖くないと、はっきり相手に伝えたのか?」

 その問いかけは、まるでアニカの中にないもので、愕然とした。自分のことを知ってもらうなど、その発想自体がなかった気がする。

 確かにアニカは今まで、誰にも分かってもらえないと嘆きながら、男性に分かってもらおうと具体的に行動したことはなかった。

「伝えたら……変わるでしょうか」

 どこか呆然と、問う。いつの間にか侍女を凝視していた。その視線の熱さに気付いたように、青灰色の瞳がアニカを見る。

「変わってくれた奴だけ、相手すればいい」

「!」

 それは、少なからず人の上に立つ王族としては、傲慢で独善的で、良い考え方ではないかもしれない。けれど小さな人間関係のことで言えば、それは至極当たり前のことだった。

 価値観は様々で、好き嫌いも千差万別だ。万人から好かれるなど、聖者にも神にも至難の業だ。だから、アニカのことを分かって、歩み寄ってくれる相手のことだけを考えればいいと、侍女は言う。

 真っ先に浮かんだのは目の前の女性で、そして家族やニコ、侍従長になったミリアンだった。

(そうだ。良い人は、いっぱいいる)

 無理解に接したり近付いたりする相手に振り回される必要など、少しもなかったのだ。

 そして嬉しくなった。この出会いは運命だったのかもしれないと思うくらいに。

「ありがとうございます」

 万感の思いを込めて、深々と頭を下げた。それから両手を組んで運命の女性の顔を覗き込んだ。

「このご恩は絶対にお返しします。ですからお名前をお教えください」

「っ」

 ぐっ、と力を込めて見上げると、侍女が大きく仰け反った。ちょっと力み過ぎたかもしれない。

「礼なんかいらない。ちょっと話をしただけだろ」

「貴方にとっては小さなことかもしれませんが、私にとっては人生の大きな転機になったといっても過言ではありません」

「過言すぎる!」

「ですから是非! お名前を教えてください。あと職場と、良ければご実家も、」

「待て待て待てっ。話がでかくなりすぎてる!」

 慌てて後ずさる侍女の顔が引きつっていて、熱くなり過ぎたと気付く。しかしどうしても、この感謝の気持ちを伝えたかった。

「せめてお名前だけでも教えて頂かなければ、帰れません」と脅迫まがいに伝えると、すごい長考の末、「……分かった」と渋々了解をくれた。

「名前は、ジーラだ。職場は、あー、まだ入ったばかりで変わるかもしれないから」

「そう、なのですね。どうすればまた会えるでしょうか?」

「はっ?」

 心底困ったように尋ねると、今度はジーラがすごい勢いで狼狽ろうばいした。やはり、王族と個人的に会うのは面倒なのだろうか。

 全身で悲しみを表していると、三度みたび大きな溜息が頭上でした。

「暇が出来た時は、庭園ここに来る。ここは人も少なくて、身を隠すには丁度良さそうだから」

「……はい!」

 また会ってもいいと言われて、アニカは一瞬で水をもらった花のようにパッと笑顔を取り戻した。



「本日のお話合いの予定は、明日に変更されましたよ」

 お仕着せを脱ぎ、黒髪を適当な三つ編みにしながら戻ると、アラムが腕組みをして待っていた。その責めるような視線に、二度目の敵前逃亡をしたラズも、流石に気が引ける。しかしそれでも、まだ納得が出来ていないのだから仕方がない。

「会うのが嫌だって言ってる奴に、無理やり会っても意味ないだろ」

「それが貴方の今のお役目です」

 苦い顔で理由を告げると、しれっと正論で返された。それは分かっているのだが、もう少し方法があるだろう、と頭が痛くなる。

「お前、昨日あんなに嫌がって泣きそうだった王女の顔を見てないのか?」

「下男ごときが王族の部屋に出入りを許されるわけないでしょう」

 阿呆ですか、という目で睨まれた。そう言えば、アラムはあの部屋には行かなかったのだった。けれどマルセルに近付かれただけでああも取り乱し、侍女の後ろに隠れ、兎のように隅で震えあがる姿を見た後では、自分がそれを強要しようとはとても思えなかった。

「泣いてる女の子を見て、誰も何も思わないなんて、変だろ」

 そんな変な奴らと一緒には、なりたくなかった。

「ですが、貴方が逃げても問題は解決しません」

「それは分かってるけど……」

 考えれば考える程、北の庭園でアニカが語ったことが胸に染みて、ラズは板挟みのように悩んだ。アニカが男を怖いというように、ラズもまた自分を散々女装させたり騙したりしてからかった姉たちが苦手だった。あの姉たちと今すぐ同じ部屋で仲良く話せと言われても、疑心暗鬼から全く頭が働かないだろう。

 アニカは、王立学校では並ぶ者のない程の腕前だったはずだが、先程はそんなことを微塵も感じさせない、ただ人と違うことに思い悩む、普通の女の子だった。そんな相手に、自分まで無理強いはしたくなかった。

 けれどラズ一人が拒否していても、アニカの婚約の話は消えてなくなったりしない。どころか、放っておけばマルセルがまた何をするか分からない。

(逃げても解決しない、か)

 はっきりと相手に伝えていないのは、ラズも同じだ。もう少し、別の行動をとる必要がある。ということは分かるのだが。

「あーっ」

 最適な答えが出せず、ラズは頭を掻きむしった。

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