第5話 男の人は、限界です。

 部屋に戻ると、ニコがいつもの鉄面皮で待ち構えていた。

(あれは怒ってる。絶対怒ってる)

 ひょぇぇ、と閉めた扉の前で無言で怯えていると、ニコにまで溜息をつかれてしまった。

「イアシュヴィリ様にお怪我はありませんでした」

「あ……」

 責めるでもなく、談話室でのことを報告され、アニカは自分のしたことの大きさを改めて思い知らされた。

 あの時は必死だったとはいえ、貴族の子息を力任せに突き飛ばしたのだ。マルセルが文官の例に漏れず非力だったら、あの音であれば大怪我の可能性もあった。

 ニコは、ジーラの言葉を受けた後でもあり、素直に謝った。

「ごめんなさい。あんまりにも、近かったものだから、つい……」

 しょんぼりと小さくなる。アニカは「つい」でその場から走って逃げたが、ニコは残って色々と対応しなければならなかったはずだ。マルセルを介抱し、事情を説明し謝罪も代わりにしてくれただろう。マルセルの性格がまだ読めないが、普通の貴族だったら恥をかかせたと激怒してもおかしくない。そう考えると、余計に心苦しかった。

「ニコにも、いつも迷惑をかけて、ごめんなさい」

 この状況を作ったのは母だが、原因は自分だ。巻き込まれただけのニコには、申し訳なさしかない。いつまでもそうしていると、「初めてですね」という言葉が降ってきた。そろりと顔を上げると、すぐ近くまでニコが来ていた。

「初めてって……?」

「姫様が、わたくしの立場から物を見、考えたことが、です」

「そう……だったかしら」

 呟きながらも、我が身を振り返って、そうかもしれない、と思う。ニコはいつだってアニカの話を聞いてくれるし、怖いと逃げれば助けてくれた。今でこそ母の難題に協力するためアニカに無理を言いもするが、それでも陰ながら支えてくれているのは間違いない。

(ニコはいつだって私のことを考えてくれていたのに、私は)

 無理だ嫌だ怖いと言うばかりで、言われたニコの立場を考えたことなど、なかったかもしれない。アニカが出来ないと言ったら、ニコはどうすればいいのだろう。今までだったら、アニカの努力の範囲だから、残念で済んだかもしれない。けれどこれは母の命令だ。そのまま無理でした、と伝えられるわけもない。

(もしこのまま男性恐怖症を治せなければ、ニコはどうなってしまうのかしら)

 今は総入れ替えされただけだが、解雇はされないと言い切れるだろうか。結果が伴わなければ、唯一残ったニコが責任を問われる可能性は、皆無と言えるだろうか。

 そして気付く。

(私は、ニコの気持ちすら、聞いたことがない……)

 ニコがこの男性恐怖症をどう思っているのか、今の自分をどう感じているのか、考えたこともなかった。いつもそばにいるからと、ニコは何でもお見通しだと、勝手に思っていた。けれどそれは、相互理解には遠く及ばない。

「ごめんなさい、私、ニコのこと、全然分かっていなかった」

 あまりの愚かさに、血の気が引く思いだった。自分のことばかりを言う主を、ニコはどんな思いで見ていたのだろうか。

 改めて深々と頭を下げる。でも本音は、ニコの目を見るのが怖かったのだと思う。そしてまた顔を上げられずにいると、ふっ、と小さな呼気が聞こえた。

「今更ですね」

「……ッ」

 いつも平淡で、時に挑発的にも聞こえる声が、柔らかく苦笑するようにそう言った。ハッと顔を上げると、ニコがとても久しぶりに相好を崩していた。

「姫様が剣を習うと言い出したきっかけのことを、覚えていますか?」

 そして突然、ニコが随分昔のことを持ち出してきた。

「覚えてる、けど」

 それは十歳になる前のことだ。王立学校の生活について、王太子である兄とお茶しがてら報告した時、何故女子は剣の授業を受けないのか、という話になったのだ。女が実技を受けてはいけない規則はないはずだと。そして兄は、こう続けた。

『知ってるか? 母上がいつも持ってる扇、あれ実は鉄で出来てるんだぞ』

 そしていざとなればあれで敵を撃退するんだ、と言われたのだ。

 当時から母は多くの貴族を引き連れては采配を振るい、問題を解決し、常に話題の中心にいた。その母が敵に襲われた時、ドレスを翻して華麗に鉄扇を振るう姿を想像したアニカは、「私もなりたいっ」と言って剣の授業を志願した。

 今考えればあれはどう見ても象牙と羽だし、母は自ら戦う前に近衛に下知を飛ばす人だ。あれも兄お得意の嘘だったのだが、剣の稽古はアニカには性に合っていた。

 度々報告に行った時の兄の『がんばれ~』には十割十分気持ちがこもっていなかったが、六歳下の弟妹の『ねえさま、すごいっ』は眩しかった。弟には、もう少し大きくなったら剣を教える約束もしていた。アニカが引きこもるようになり、その約束は果たせないままになってしまったが。

「あの時姫様は、危険だからお止めくださいと反対したわたくしに、『ニコも私が守ってあげるからね』と本気で仰いました」

「あ、そう言えば……」

 言われて思い出す。喜んでもらいたくて言ったのだが、そのあとニコに真顔で「それでは役目が逆転しています」と拒否されたのだ。それで結局、二人して剣の授業を受けることになった。今のところそれが役に立っているのは、アニカの運動不足解消くらいだが。

「あの時、本当はとても嬉しくて、わたくしも姫様をお守りしたいと思ったのです」

「え」

 それは初耳だった。主のお守りで仕方なく付き合ってくれているのだとばかり思っていた。

「ですがそれは、御身だけのことではありません」

 中々見られない笑みを深めて、ニコがアニカの手を取る。その手はいつになく冷たかった。先程までアニカを探し回っていたせいだろうか。初春とはいえ、まだ風が吹けば寒さを感じる時もある。改めて、申し訳ないことをしたと思う。

「あと一秒でも姫様が動くのが遅ければ、わたくしが止めておりました」

「ニコ……!」

「もう、あの時のような後悔は、したくありません……!」

 あの時、と苦しそうに絞り出すニコの声に、アニカは何も言えなくなる。

 三年前のあの時、稽古中に押し倒されたアニカを救い出してくれたのは、他ならぬニコだった。数人がかりで周囲を囲まれ、大人の目も届かぬように周到に計画された少年たちの悪戯を、鬼神の如き動きで蹴散らしてくれた。本当はニコ一人ではなかった気もするが、あの時の混乱のせいで記憶は曖昧だった。

 あの時にアニカは回復の見込みもない病気を発症したが、ニコもまた心に傷を負ったのかもしれない。そう思うと、今更ながらどうしようもない悲しみと後悔が込み上げてきた。

 けれどあれ以降、あの時の少年たちは二度とアニカの前に姿を見せなかったし、一度だけ顔を出した社交界にも、絶対にいないとニコに断言された。きっと、ニコか母が何かしらしてくれたのだろう。何かしら。

 しかしその時の優しさは、今は頑丈に封印されているらしく。

「ですが、毎回この調子では話が一向に進展致しません。今回限りにしてください」

「うっ……、はい」

 一瞬の感動は、すぐさま真顔に戻ったニコの当然の釘刺しに呆気なく引っ込んだ。あれ、見間違いだったかな。

「あと、メトレベリ様に関しましては、明日時間を調整させて頂きます」

「はい」

「今度は逃げてはいけませんよ」

 その後も懇々とニコの釘は打ち続けられ、そのまま湯浴みが終わるまで、二人は反省会という名のお喋りを続けた。



 その後、食事の前にニコはミリアンと交替して退出し、夜になれば、またマルティが話し相手として部屋を訪れた。

「今日、ある人に、伝え合うことの大切さを教えてもらったの」

 寝台に潜り込み、扉の前に立ったままの少年に話しかける。勇気はいったが、昨日のように時間はかからなかった。マルティのことを知りたい、と思ったからだ。

「今日、マルティと話したけれど、あれでお互いのことを理解できたかというと、とてもそうではないと思うの。だから、マルティのことをもっと知りたいし、私のことも知ってほしくて」

 何か聞きたいことはある? と聞くと、マルティは少し考えてから、躊躇いの気持ちを乗せながらこう聞いた。

「では、兄妹について、どう思っているか聞きたい」

「兄妹?」

 予想外の質問だったが、それも自分自身のことかと改めて知る。それから、順に四人の兄弟の顔を思い浮かべた。

「そうね。兄様は、王太子としては完璧みたいだけど、人をからかうのが好きで、嘘が上手過ぎるのが玉に瑕よね」

「……確かに」

「でも、場の雰囲気を掴むのがすごく上手で、それって人の気持ちを汲むのに長けているということだから、純粋に憧れているわ」

「そう、なのか?」

「姉様はいつも社交界の華で、お姫様の鑑みたいな人だったわね。でもいつも発言がお茶目で、時々過激だったから、よく驚かされた気がする」

「それは、少し意外だな」

「そうでしょう? 姉様が嫁がれる前は、妹のサーシャと三人で、よくお茶会をしてたわ。でもサーシャは双子の兄のラシャが大好きで、離れるといつもラシャのことばかり気にしてたの」

「……それは初耳だ」

 恥ずかしがり屋で引っ込み思案な妹の話題になると、マルティが小さく目を見開いた。確かに、サーシャはまだ九歳ということもあり、社交界のデビューもまだであれば、公務にも縁遠い。サーシャと口をきいたことのない貴族の方が圧倒的に多いだろう。

 アニカは少し面白くなって、くすっと笑ってしまった。

「三人でのお喋りは楽しいんだけどね、三人の中で一番最初に帰るって言いだすのもサーシャだったわ」

 いつもラシャの陰に隠れているサーシャの珍しい自己主張は、いつも瓜二つの兄に関することばかりだった。

「それで、姉様はサーシャを見送ると、いつもこう言うの。『ラシャは、サーシャと離れると死んでしまうのよ』って」

「……そんなわけあるか」

 思い出してくすくすと笑い続けるアニカに、マルティがいじけたように突っ込む。距離はまだ縮められないけれど、少しだけこの時間が楽しくなっていた。

「でも、私もラシャはサーシャがいないと寂しくて泣いちゃうんじゃないかって、ちょっと思うの。あの二人は、いつも一緒で、いつもお互いを一番大事にしているから」

 可愛い二人の弟妹の顔を思い出して、にやにやが止まらなくなる。「ふん」とマルティが鼻息を荒くしたが、アニカはおやすみを言うまでにやにやが止まらなかった。



「本日は、お約束通りメトレベリ様とご歓談頂きます」

「はい」

 侍従長のミリアンと入れ替わりに入ってきたニコに促され、今日も今日とて動きにくいドレスを着付けられながら、アニカは頷いた。しかしその返事は、昨日までの諦めとは少しだけ違う気持ちだった。

(話をしよう。ちゃんと、私のことも聞いてもらおう)

 藁人形も短剣もないが、代わりにジーラの言葉を胸に部屋を出る。

 今日は、相手のラズの希望で、南庭のトティと呼ばれる東屋で話すことになった。それもまた、アニカの不安を少しだけ和らげてくれた。あの場所は少し小高くなった場所に建ち、築山の下に広がる花壇や人の行き交うのが、よく見通せる。密室よりもいくらか気が楽だった。

 ニコに先導されて庭園に入ると、すぐに白い三角屋根に一つの尖塔を持つ建物が見えた。壁はなく、列柱が周りを囲む中を、初春の爽やかな風が通り抜けていく。状況は昨日と同じだが、いつでも逃げ出せるという状況は、アニカの心に余裕を持たせてくれた。

「姫様」

「うん。行ってきます」

 怖いけど、という言葉は飲み込んだ。始まる前から弱音は良くない。と思っていると、何故かニコに数秒見つめられてしまった。

(な、何か変だったかな?)

 緊張している自覚はあるが、それはここ数日は毎日のことなので、今更のような気もする。おどおどしながら「な、なに?」と聞くと、少しの間のあと「……いえ。いってらっしゃいませ」と送り出された。何だったのだろうか。

 ニコにしては珍しく煮え切らない態度を不思議には思ったが、いつまでも相手を待たせてもいられない。ニコをトティの入口に残して、短い階段を上る。先客は、既に一番奥のベンチに座っていた。足音に振り向いた青年が、軽くお辞儀をする。アニカもぺこりと頭を下げ、すぐ手前のベンチに腰を下ろした。

 距離は、昨日の談話室よりも少し近い。だが向き合う格好でない分、焦りは少なかった。さて、何から話そうか、と考えていると、ラズの方が先に話題を振ってくれた。

「ここは、いいですね。周りがよく見える」

 少し高めの掠れた声は、意外に穏やかで耳に心地よかった。そして、今まで怒声しか聞いていないと気付く。この人は、どんな人だろうか、と思いながら、「はい」と頷く。

「私もここの景色が好きで、子供の頃はよく遊びに来ていました」

 顔を見る代わりに、ラズと同じ方向を見る。春に向けての今は、左右対称に刈り込まれた生垣の間に、赤や白、ピンクやアプリコット色の薔薇の蕾が、ちらほらと見えだしている。

「今は、来ないのですか」

「王立学校に入ってからは、縁遠くなってしまいました」

「学校では、すごかったですね」

「み、見られていたのですか?」

 思わぬ言葉に、アニカは恥ずかしさに赤くなった。思えばラズは一つ年上なだけだ。アニカと違いずっと王立学校に属しているなら、アニカが剣を振るう姿も見られていた可能性は確かにあるのだ。

「お恥ずかしい限りです……」

 あの頃は剣を習うのが楽しく、周りで男子たちが何を言っても、少しくらいしか気にしないでいられた。だが今思えば、周りが遠慮しているのに気付かず喜んでいただけの、世間知らずなお遊びだったろう。

「いえ、貴方は強かったですよ」

 けれど返されたのは、しっかりとした否定だった。その声があまりに強く、思わず離れた場所にいるラズを見つめる。

 それは今まで聞いた、剣の師範や大人の貴族の言う、形式的な誉め言葉とはまるで違う、純粋な賛辞だった。ラズの声も瞳もあまりに真っ直ぐで、少しの嘘も追従ついしょうもないと分かるから、アニカは余計に頬が熱くなった。

「あ、ありがとうございます」

 三年の時を経て初めて感じる純粋な嬉しさを噛み締めながら、慌てて頭を下げる。まだ顔を見るのは辛いが、この人はあまり怖くないかもしれない、と思う。

 ちらり、と遠く左端に座るラズへと視線を移してみる。

「!」

 タイミングが良かったのか悪かったのか、こちらを振り返ったラズとばっちり目が合ってしまった。また慌てて下を向く。そして思った。

(お、終わりが分からない)

 家と結婚以外の話を、と思っていたが、そうするといつまで経っても終わらないことに今気付いた。やはり本題を切り出さなければならないのか、と思うと、途端に空気が重くなった気がする。

(なんて切り出そう……)

 とにかく、婚約に対するお互いの考え方などを話し合わなければ、何も始まらないし終わらない。

「あ、あの、ここ婚約について、ですが」

 と、どうにか勇気を振り絞って切り出した時、

「ラウル!」

 と、甲高く呼ぶ声が遠く聞こえ、アニカは咄嗟に周囲を見回していた。そして庭園の終わりの方に、確かにラウルがいた。そしてその彼の下に駆け寄っているのは、流行の華やかなドレスに身を包んだ可愛らしい女性だった。

(えっ、まさか)

 思わず列柱の下部分を囲む手摺に身を隠しながら、ラウルを覗き見る。見れば、離れた隣でもラズが同じような姿勢で成り行きを見守っていた。

「あ、逢引きでしょうか?」

「まさか……だが」

 距離を取りながらも小声でやり取りする。いけないと知りつつつい聞き耳を立てていたアニカだが、予想に反して女性はラウルに抱きつきはしなかった。

「こんな所で何してるの!?」

 険しい顔をするラウルの前に仁王立ちして、女性がキンと高い声で責める。もしや第二王女の婚約者として城にいると聞き、嫉妬で乗り込んできたのだろうか。まさか彼らの中に既に心に決めた人がいるとは思わず、アニカは途端に悪いことをしたと胸が痛くなった。

「第二王女との婚約の話は、ご存じのはずですが」

「だからっ? あたしの手紙読んでないの? 姉が困ってるって言ってるのよ。すぐに動きなさいよ!」

 ラウルらしからぬ小さな声に応えたのはしかし、予想外の単語だった。

(姉? じゃあ、アルベラーゼ侯爵家のご令嬢かしら)

 髪色も瞳も、雰囲気すら似ていないが、姉であれば隠れる必要はない。と思うのだが、顔を出す勇気はなかった。

 ラウルが、鋭い視線を更に険しくして首を横に振る。

「すぐには無理です。あとで理由を説明して、一旦屋敷に戻りますから」

「はあ? 王女なんて、引きこもってるだけで何もしない人でしょ。そんなのいいから、今すぐ行ってきて」

 女性のあまりに直截ちょくさいな言い方に、アニカはきゅっと心臓を掴まれたような思いだった。全くの至論だったからだ。

「随分と、仲の悪い姉弟だな」

 ラズが、小声で呟く。それが遠回しな表現だとは、アニカも気付いていた。女性が続ける。

「もう三日もあんな醜男ぶおとこに付きまとわれてるのよ。気持ち悪いったらないわ。早く追い払ってきて」

「付き合っていた相手ではないのですか」

「一、二度遊んだだけよ。すごく詰まらなかったわ。いいから早くして。あんたが家にいる理由なんて、それくらいしかないでしょ」

「……分かりました」

 女性の言葉は、あまりに心ないものだった。昨日ラウルと話し、ラウルが家族の中で居場所がないようだというのは感じていたが、これではあまりに酷い。あれでは、弟というよりも召使いにするような態度ではないか。

 しかし昨日のこともあり、アニカはとても二人の間に出しゃばることは出来なかった。ラズも弁えているのか、動こうとはしない。

 貴族のお家事情は繊細だ。たとえ善意でも、口を挟まれるのは恥を知られるようなものと、嫌う者は多かった。

 結局二人は盗み聞きをしただけで、女性がラウルのもとを振り返りもせず去っていくのを、ただ見ているだけだった。

(ラウルさん……)

 昨日感じた思いが、再び胸に込み上げる。見ていたと言ったら、彼は怒るだろうか。だが、放っておくのは嫌だった。声もかけられないくせにその場に立ち上がろうとした時、

「ラウル」

 と、再びその名を呼ぶ声がした。今度は女性が去ったのとは反対方向から、男性の声だ。慌てて隠れて見ると、赤髪の美しい男性が歩いてくるところだった。

「レヴィ」

 俯いていたラウルが、そっと振り返る。そう言えば、二人は学友だと言っていた。もしかしたら、互いに事情を知っているのかもしれない。

「大丈夫?」

 レヴィが、ラウルのすぐ前で立ち止まって気遣わしげな声を掛ける。その手が持ち上がって、あちこちに跳ねた黒髪に触れようとした寸前、パシリとラウルがそれを叩き落した。

「いちいち触んな」

 そう言われたレヴィの新緑色の瞳は、距離こそあったが、傷付いているようにアニカには見えた。黙ってしまったレヴィに、ラウルが逡巡の末「……大丈夫だ」と言葉を足す。そのやり取りに、二人の関係が少しだけ見える気がした。

「良かった……」

 ラウルが独りで抱え込むことにならなくて、アニカは強く安堵した。辛い思いを分かち合ってくれる誰かがいることはとても大事だと、昨日教わったばかりだから、余計に。

「本当、良かったな」

 独り言のつもりだった言葉に同意があり、アニカは「はい」と頷いてそちらを見る。と、今度はしっかりとラズがこちらを見ていた。その青灰色の眼差しの強さに、一瞬目が逸らせなくて、強い動悸を感じる。けれどそれは怖いだけとは違うようで、アニカは混乱した。

(ど、どうしよう)

 そう言えば、会話が止まったままだった。取りあえず、すごすごとベンチに戻って、何食わぬ顔で話を再開させればいいのだろうか、と考えた時、

「お二人とも、何をなさっているのですか」

「ひゃあっ」

「わっ」

 出し抜けに背後から声をかけられ、二人はその場でババッと立ち上がった。振り返ると、ニコが入口で直立して、間の抜けた格好でしゃがんでいた二人を眺めていた。

「こっ、これはそのっ、」

「別にやましいことをしてたわけじゃ、」

「盗み聞きとかじゃなくてっ、」

「そう、声が聞こえてきたから、」

 二人で慌てながら釈明する。その態度が既にやましいのだが、ニコは敢えて指摘しなかった。代わりに、絶対聞こえていただろう進捗状況を確認してくる。

「それで、お話しは済みましたか?」

「えっ?」

「あ、ああ」

 そう言えばそうだったと、もう一度お互いの顔を見る。そしてすぐに逸らした。何故か異様に恥ずかしくて顔が見られない。まぁ、見られないのは前からなのだが。

「ではメトレベリ様のお役目は何になりましたか?」

「あっ」

 言われて思い出す。勿論決まってなどいない。素直にまだです、と言おうとした寸前、ラズが先に答えた。

「護衛だ」

 え、そうなの? と思わずラズを見――ようとして、やめる。今はまだ見ない方がいい。ニコはそれをどう取ったのか、物言いたげな間を空けてから「分かりました」と頭を下げた。

 よく分からないが、今日の話し合いは一応終わったらしい。

(これで、良かったのかしら?)

 始まる前の決意に反し、何も知ることも知ってもらうことも出来なかった。相手を不快にさせたり失敗もしなくて済んだようなのは良かったが、結局変われなかったような気がして、アニカは複雑な心持ちだった。



 そうして、全員と一通りの会話を済ませたあとは、各々自分の役目に就くという形で、アニカとの距離を取った。

 ラズとラウルが護衛として常には部屋の前に待機し、移動時には少し離れて付き従う。マルセルとレヴィは侍従補佐として、ミリアンとともに給仕したり、来客や出入りの商人との仲介をしたりした。マルティは夜の話し相手だけで、その付き添いであるミシェリとは顔を合わせない方が多かった。

 今はまだ春祭りガザクフリが始まる前でもあり、社交界はまだ静かなのが救いだった。そうでなければ、マルセルなどは率先してアニカをダンスに誘っただろう。死んでしまう。

 だが、ダンスがなくてもマルセルは相変わらずマルセルで。

「ねぇ、アニカ姫。今日は一緒に庭を散歩しない? 色とりどりの薔薇が咲き始めたよ。僕がエスコートしてあげるから」

「け、結構です。それより、食事を……」

「ねぇ、アニカ姫。たまには二人きりで抜け出そうよ。こんなに鬱陶しい男たちに囲まれてたら、息が詰まるでしょ? 息抜きの仕方を教えてあげるよ」

「ち、ちか……近いですっ。おお願いですから、それ以上近寄るのは……」

「アニカ姫の髪って、細くて触り心地良さそうだよね。誰かに触らせたことある? ない? なら僕が一番になりたいなぁ。ね、頬ずりしてもいい?」

「ひぃぃいやぁぁぁあっ」

 事あるごとにマルセルが甘い言葉を囁き、アニカが悲鳴を逃げる。毎日、こんなやり取りが繰り返された。

 朝の給仕から始まり、着替えてすぐ、刺繍や勉強の時間、くつろぐはずのお茶の時間でさえも、マルセルの笑顔に休みはなかった。

 アニカが悲鳴を上げる度にラズとラウルが割って入り、レヴィがアニカに離れているようにと間に立ってくれた。しかしマルセルに悪気はないのか、何度そんな状態になろうとも態度を改める気配は一切なかった。

 ラウルの顔には、このやり取りが起こるたびに険が増し、レヴィからは明らかに緊急度が消えていった。

 アニカも慣れなければいけないと分かっているのだが、どうしても鳥肌が立って、本能的に逃げたくなってしまうのだ。お陰で、マルセルとの会話もろくに成立していなかった。

「全然、出来ない……」

 今日も、お茶の時間にミリアンと共に給仕をしていたはずのマルセルに迫られ、一騒動を起こしたばかりだ。今はラウルがマルセルを追い出し、部屋にはレヴィとラズが残っている。

 その二人もなるべく壁付近に立ってもらい、アニカは肩身も狭く、本日のおやつをフォークでつつく。だがいかんせん喉を通らなかった。

「イアシュヴィリと仲良くなりたいのですか?」

 ティーカップを睨んだまま静止したアニカに、レヴィが苦笑交じりに声を掛ける。最初こそびくっと構えるが、アニカはん、と息を整えるときちんとレヴィに顔を向けた。

「仲良くなりたい、というか、知らないまま怖がってばかりでは、何も変わらないと思うので」

「変わりたいのですか?」

 レヴィが少し意外そうに聞き返す。今までのアニカの態度を見れば、そう思っても仕方がないかもしれない。

「勿論です」と、アニカは珍しく強く言い切った。「男性というだけで、顔を見た瞬間怖がることが失礼な行為だとは、ちゃんとわかっているんです。それに、男性恐怖症だっていつかは治さないといけないものなら、今、色んな人に迷惑をかけているうちに治さなければとも思うし……」

 自分の反応を見た、周りのひとのことを考える。考え出すと、今のこの状況を、嫌だだけで終わらせてはいけないとひしひしと思う。そして同時に気付く。世間話よりも、こういった目的のある会話の方が、躓かずに話せると。

「真面目ですね」

 レヴィが、優しく肯定してくれる。そうなるとまた恥ずかしくて、アニカはどきり、と脈が乱れるのを感じた。

「そ、そんなことありません」

 慌てて俯いて首を振る。と、ふっ、と小さな笑声が追ってきた。

「貴方が男性恐怖症になったのは、そもそも男が原因でしょう。そんな男のために、貴方がそこまで身を削って努力する必要などないと、僕は思いますけどね」

「え……」

 思いがけない突き放した考え方に、アニカは一瞬思考が遅れてしまった。レヴィは、どこか冷めた笑みを浮かべて、続ける。

「僕自身、出生や外見や成績や、様々なもののせいで、いつも周りからの評価に振り回されてきました。あれは、実に意味のないものだと思います」

 レヴィは、最初の談話で自身を庶子だと告白していた。容姿端麗で成績も優秀なレヴィが、けれどその出生ゆえに不遇を受けたというのは、多分貴族社会ではよくある話なのだ。アニカも、王立学校でそんな場面に幾度となく遭遇した。

 アニカ自身、あの中には慇懃無礼と理不尽が嵐のように詰まっていたと思う。レヴィも、ラウルもまた、少なからず辛酸を舐めたのだろう。

「だから、殿下のそのお心は、とても崇高だと思います。ね、メトレベリ様」

「あ? あぁ」

 それまで無言で控えていたラズにも、レヴィは明るく同意を求める。ラズは突然話題を振られて驚きはしたが、真剣な顔で頷いた。

 けれどアニカは、そう言われれば言われる程、心苦しかった。

(私は、そんなんじゃないのに)

 ジーラに励まされ、頑張ろうと思ったけれど、まだ何も成せていない。レヴィの言葉は、自身の情けなさを浮き彫りにされるようで辛かった。

 結局、ほとんど手をつけることなく、お茶の時間は終わりを告げた。

「ついでに、ラウルたちの様子を見てきますね」

 茶器を下げながら、レヴィが告げる。アニカは引き留める手段も理由もなく、その背中を見送った。



 第二王女の部屋を退室し、待機していた侍従長に茶器を託したあと、レヴィは一人になって、ふっと息を零した。一度背後の扉を肩越しに振り返り、それからおもむろに前髪を掻き上げる。

 はらりと落ちてきた前髪の下の新緑色の瞳は、まるで瞬きにより感情も一緒に押し流されてしまったかのように冷ややかだった。

「……さて」

 無感動に呟き、廊下を歩き出す。歩みに迷いはなかった。幾つかの部屋の前を素通りし、小間使いや下男が使用する奥の小階段周りにある空間を順に確認していく。目的のものは、すぐに見つかった。

「……は、あの王女様でなくてもいいんじゃない?」

 声が聞こえる距離まで近付いて、レヴィはそっと壁の死角に身を隠した。マルセルの潜められた声に、腕組みをして耳を澄ます。

「僕は彼女じゃないと意味がないんだ。だからさ、君は手を引いてくれない?」

「…………」

 問いかけに、返事はない。けれど相手が誰かは分かっていた。ラウルだ。レヴィの位置からでは二人の表情は見えないが、ラウルがどんな顔をしているかはレヴィには手に取るように分かった。

 しかしマルセルはまるで気にせず続ける。

「だんまり? 君がどんな目的でこの話を受けたかは、おおよそ見当がつくよ。どうせ、家の中での立場の改善とかでしょ?」

「……黙れ」

「父親? 母親の方だっけ? まぁ、どっちでもいいけど。将来的に爵位でも狙ってるとか? でも君の上に嫡出ちゃくしゅつの兄が二人もいたよね。目的が爵位じゃないなら、僕が手助けしてあげてもいいよ」

「殺されたいのか」

 その言葉よりも早く、ラウルが腰の剣をマルセルの首筋に押し当てていた。しかしマルセルは軽く両手を上げて肩をすくめる程度で、まるで動揺を見せない。どころか、すぐ拳一つ分に迫ったラウルの鋭い眼光を直視して、へらりと笑ってみせた。

「黙ってたら交渉にならないでしょ?」

「貴様と交渉する気はない。その綺麗なつらを失いたくないなら、今すぐ黙って引き返せ」

「僕だってこんな話はしたくないよ。でも僕にも一族の中の立場ってものがあってね。適当に切り上げるわけにもいかないんだ。……君だって、似たようなものでしょ?」

 まるで挑発するように、マルセルが自ら顔を近付けて耳元で囁く。ラウルが一瞬怯んだのを、レヴィは確かに見た。

(ラウルの苦手なやり方にもう気付いたか)

 女の周りをふらふらしているだけのようにも見えたが、目敏く観察力が高いことは何となく予想していた。マルセルは年齢こそ二歳上だが、王立学校時代からその浮名はよく耳にしていた。それでも女に刺されたというような話を聞かないのは、それだけ周囲の心理を上手く把握していたということに他ならない。

(次は僕かな)

 イアシュヴィリ家は王侯貴族専門の占術師で、伯爵ながら資産家だ。ラウルやレヴィの素性を探ることなど朝飯前だろう。

 さて、いつ邪魔しに行こうか、とレヴィが思考を次に移した時、ラウルがすっと剣を引いた。それでも、人を射殺せそうな目つきの悪さはそのままに吐き捨てる。

「それでも、貴様の言に従う義理はごうもない。二度と近寄るな」

 カチン、と納剣し、ラウルが踵を返す。苛立たしげな足音が近付いてきたが、レヴィはその場から動かなかった。静かに目を閉じていると、すぐ近くで数秒足音が止まる。

「……フン」

 忌々しげな鼻息がすぐ鼻先で聞こえたが、それだけだった。そっと瞼を押し開けると、つんつんと跳ねた黒髪が目の前を通り過ぎるところだった。

(あとで一言かけないとうるさそうだな)

 胸中で一人苦笑する。そうしていると、今度は変わらず優雅な靴音が近付いてきた。仕方なく視線を向ける。

「順番待ちかな?」

「いいえ」

 にこやかな金髪碧眼の美男子に、レヴィもにこりと微笑み返す。それを嫌味だと承知しているだろうに、マルセルは笑みを崩すことなく体を近付けてきた。甘ったるい香水が鼻につく。

「君とも、ゆっくり話がしたいと思っていたんだ」

「話? 脅迫の間違いでは?」

「つれないことを言うね。僕はいつだって対等な話し合いを望んでいるのに」

 そう話す間にも、マルセルは自然に距離を詰めてきた。そしてレヴィの胸に流れていた髪の一房を掬うと、軽く口付けられた。その瞬間甘い香水が一層強く香って、一瞬視界がくらりと歪む。

(……何だ?)

 しかしそれは次の瞬きの後には消えていた。気のせいかと、触れられた髪をざっと背に払う。

「面白い冗談ですね」

 そして、貴様の笑い方は気色悪い、とラウルに言われた笑みで冷たく切り捨てる。それでもマルセルは気分を害した風もなく、すっと顔を上げた。マルセルとは身長差が少ないから、その意図の読み取れない碧眼がすぐ目の前にくる。

「君とは、楽しく会話ができるような気がしていたんだけど、僕の思い違いかな」

 第二王女の婚約者の座には固執していないように見えると言いたいのだろう。それは、確かに間違いではない。だが正直に答える義理もないので、適当にはぐらかす。

「そのようですね」

「君の望むものはなんだい?」

 それでも、マルセルは食い下がってきた。その声のあまりの艶めかしさに、成程、とりこになる女性がいるのも頷ける、とレヴィは思う。

 だからレヴィもお返しに、とろけるような極上の冷たい笑顔で、正直に答えることにした。

「貴方には、決して用意できないものですよ」



 ラズと二人きりになり、けれど話すことも目を合わすことも出来ず、時間だけが過ぎていた。

「…………遅い、ですね」

「…………あぁ」

 何もせず三十分も過ぎた間に交わした会話は、それだけだった。

(ち、沈黙がつらい)

 立ち上がる機会を逸し、ずっと椅子に座り続けていたものだから、そろそろお尻ももぞもぞしてきた。しかしラズも他に人がおらず、部屋の外に下がるに下がれないのだろう。

 アニカは、ずっとぐるぐると考えていた。これは好機と考えて、東屋での話の続きをするべきか。それとも一人取り残された憐れな護衛に、もう大丈夫ですよ、と引き際を提示するべきか。

「……あの、」

 結論はいまだに出せなかったけれど、とにかく勇気を出して声を出してみる。黙って扉の向こうを見ていたラズが、そのか細い声に反応して振り向いた。青灰色の瞳と目が合う。

 そして気付く。こうしてラズときちんと向かい合うのは、初めてかもしれないと。けれど何故だろうか、どこか見たことがあるような気がするのは。

(あ、ジーラさんと同じなんだ)

 力強いその瞳が、つい最近心の師と仰いだ女性と同じ色をしているからだと気付く。髪こそ後ろで三つ編みにしているし、眉間には常に皺が寄っている気がするから雰囲気の硬さが全然違うが、もうちょっと微笑めば少しは似ている気がする。

(そうよ。みんな、もうちょっと笑ってくれたら)

 レヴィやマルセルのような線の細い端麗さはないが、ラズも目鼻立ちが整い、精悍な好青年という風だ。きりりと太めの眉と、少し少年っぽさを残した頬は、貴婦人たちが好みそうな純朴さがある。

(それに、あの子とも――)

「……なんだ?」

「あっ」

 ジーラのことからあらぬ方へと思考が転がっていたアニカは、無意識に凝視していたことに気付いて、一瞬で赤面した。慌てて目を逸らすが、頭の中はとっちらかって一気に収拾がつかなくなる。

「い、いえ、あの、」

 誤魔化すためにも何か言わなければ、と言葉を探すが、焦れば焦るほど何も出てこなかった。逃げたいと逃げちゃダメが行き交い、大渋滞を起こす。結局どうにも思考がまとまらなくて、諦めの言葉を絞り出そうとした時、

「……アニカ殿下、」

「あ、あの、もも、もう、」

 二人の声が重なった。期せずして再び見つめ合う。そして次に口を開いたのは、どちらが先だったか。けれどそれは、コンコン、という不躾なノックの音に遮られた。

「……はい」

 アニカは急の訪問に驚いたが、ラズはどうやら少し前から気付いていたらしい。物言いたげな沈黙を挟んで返事をすると、渋々寝室を後にした。

「アニカ殿下はご在室か?」

 控えの間の扉を開いてすぐ、その声は聞こえてきた。婚約者候補たちに比べると低くしわがれており、年が大分上だと分かる。

(だ、誰だろう)

 アニカを尋ねるような年嵩の男性など、心当たりが一切なかった。あるとすれば、母に言われて新しい試練を持ってきた母の取り巻きくらいだ。

(そ、そんなことされたら、もう許容量が!)

 まだ何も言われていないのに、母の無言の圧力が怖くて思わず頭を抱えるアニカ。しかしラズの「ご用件は」という返しに、来客はまた別の名前を口にした。

「マルセルがここにいるはずなのだが」

「先程席を外したところです。マルセルにご用事でしたら、言付けますが」

 ラズの事務的な対応に、しかし男は応じるでもなく険しい声で語気を強めた。

「何だと? 奴め、殿下の側を離れて、一体何を……」

 その先は独り言のように小さくなったため聞こえなかったが、マルセルが自分のせいで責められそうだと気付き、アニカは考えるよりも先に椅子から立ち上がっていた。

「あ、あの!」

 控えの間の角まで走り、更にラズの背で自分が隠れるように小さくなりながら声を上げる。

「は?」「ん?」

 と、二人がそれぞれ姿なき声に疑問符を浮かべる中、アニカは誤解だけは解かなければと言葉を繋ぐ。

「ま、マルセル様は、私が無理を言って、その……お使いをお願いしたところで!」

 まさか迫られたのが怖くて追い出したとはとても言えない。

「それは、アニカ殿下自ら?」

 声の主を部屋の主だと特定したらしい客が、聞きながらぬっとラズの向こうから首を出してきた。そこでついに見付けられ、アニカはびくっと身構えて、顔だけでもと俯ける。

「そ、そうです。あの、マルセル様にしか、頼めなくて」

 マルセルに非はない。あれは多分天性の性分だ。普通の淑女ならきっと笑って躱せる程度のはずだ。現にニコも何度か同じような言葉をかけられているが、全部冷静に無視している。

 思い出して、青くなったり赤くなったりするアニカを見てどう思ったのか。男は最初に意外な顔をしたあと、何故か満足そうに頷いた。

「そうですか。そこまでマルセルを」

 男が何度もふむふむと何度も繰り返すが、何に納得したのかアニカにはさっぱりだった。それでも、もう逃げていいかしら、と思って男の顔をもう一度盗み見た時、あれ、と思った。

(この方、どこかで……)

 見たことがある気がする。と、古い記憶を漁る。そして、子供の頃の、苦い思い出と共に、その名前は蘇った。

「……イアシュヴィリ、伯爵様?」

「あぁ、名乗るのが遅れて申し訳ありませんでした。マルセルの父、ニコロズ・イアシュヴィリです」

 厳めしい顔付きのまま、男が軽く一礼する。あぁ、と声を上げたのはラズで、アニカは感情が凍ってしまったように表情が消えていた。

 ラズの背を盾にしていたことも忘れ、その場に立ち上がる。そして「覚えて、います」と囁くような声で口にした。

「あの時……五歳になった私の過去と未来を占断した、あなたのこと」

「!」

 ラズが驚いたように振り返るが、アニカの目の前には当時鮮烈に刻まれた王室礼拝堂の記憶が浮かび上がっていた。

 神話の一部を精緻に描き上げたフレスコ画やステンドグラス、装飾的な列柱が美しい礼拝堂内部とは違い、一番奥に作られた小聖堂は、正面に大きなフレスコ画が一枚あるだけだった。森の中の小村に過ぎなかったシルヴェストリを、一代で今の半分ほどにまで大きくした祖王アプシュルトス。

 鷹を従えた祖王と、神官服を着た何人もの男たちが見下ろすその息苦しい空間で、王族は五歳の誕生日に、イアシュヴィリ家の当代監視者アクレットから、過去と未来の占断を受ける。過去とは生まれる前の生き様であり、未来は王家に栄華と災禍のどちらをもたらすかというような、曖昧なものであるはずだった。

 けれど、アニカは違った。

『これは……魔女クィルシェ……!』

 魔女クィルシェ。それは歴代の王族の中でも、魔法の力が最も強かった女王の名前だ。彼女は史上最大の版図を獲得した強王であると同時に、愛人を何人も持っていたことでも知られている。彼女は寵臣や愛人のために法を変え、何人もの夫や重臣を処刑した悪女でもあった。

 イアシュヴィリ伯爵が、アニカを通して何を見たかは分からない。けれどあの瞬間に、アニカの未来は決まったのだ。

 第二王女アニカは降嫁し、王籍を剥奪する。

 アニカが少しでも魔女の再来とならぬように。アニカの中の魔女が僅かでも目覚めぬように。

 その説明を母から受けた時、不安はあったが、抗う気持ちはなかった。ただあの時のイアシュヴィリ伯爵の異様な目付きだけが、幼いアニカの心に恐怖とともに焼き付いていた。あまりに怖かったのか、魔女と言われてから、小聖堂を出るまでの記憶が途切れているほどだ。

(怖くて、ずっと思い出さないようにしていたのに……)

 そんなアニカの想いなどまるで知る由もなく、イアシュヴィリ伯爵は僅かに眉を誇らしげに持ち上げる。

「おぉ、それは光栄の至り」

 イアシュヴィリ家では、監視者になることが名誉で、当たり前のことだ。マルセルは違うというから、あまり思い出しはしなかったけれど。

(この方にとっては、ただの『光栄』なのね)

 思えば、あの頃から大人の男が苦手になり出したことも同時に思い出し、アニカの気持ちは重く沈むばかりだった。この男に非も悪意もないと分かっているけれど、体は震え、体中の血が凍るようだった。

「殿下も、あの時の占断を心に留め、日々努力されているようですね。大変感心でございます」

 表面だけへりくだるような声調で、イアシュヴィリ伯爵がアニカを舐めるように観察する。魔女の片鱗が見えないか、体中を毛穴の奥まで観察されているような気分だった。

 限界だった。

「っ殿下!」

 くらりと視界が眩んでその場にしゃがみ込んだアニカに、ラズが声を上げて駆け寄る。だがその手が届く寸前、アニカは「来ないで!」と悲鳴を上げた。

 壁を頼ってどうにか後ずさる。その耳に、「もしや、貴殿……」とイアシュヴィリ伯爵の声が聞こえたが、もう誰の目も見るのが怖くて、アニカはそのまま寝室に戻った。どうにか扉を閉めた時、「父上?」と呼ぶ声が聞こえた。丁度マルセルが帰って来たようだ。

(良かった……)

 行き違いにならなくて良かった。そう思う以上に、まだ自分がそう思えることにこそ安堵していた。



 来客を放って主人を追いかけても、ラズに出来ることはない。その想いが次の行動を躊躇わせていると、「もし」と声をかけられた。

 こんな時に野次馬根性かと嫌気が差したが、振り返ってみた男の目は、アニカの消えた寝室ではなくラズを真っ直ぐに見つめていた。

「……何でしょうか」

「貴殿、名前は」

「……ラズ・メトレベリと申します」

 突然興味を向けられ、ラズは警戒しながらも正直に名乗る。さらにイアシュヴィリ伯爵が何事か口を開こうとした時、「父上?」とマルセルの声がした。見ると廊下の向こうから戻ってきた姿を捉える。

「マルセル」

 イアシュヴィリ伯爵が振り向き、二人が扉の前で向かい合う。ラズはこれ幸いとばかりに一礼し、静かに控えの間の扉を閉めた。親子の会話を邪魔しては悪いという以上に、とっととアニカの様子を確認したかったからだ。

 だが。

(仲は悪いのか?)

 扉を閉める寸前に見えたマルセルの顔は、いつもアニカに迫るような陽気なものとはかけ離れた、厳しいものだった。その僅かな疑問の間に、扉の向こうで会話が始まる。

「何故王女のもとを離れた」

「四六時中ってのは、無理があるでしょう」

 ひそめられた父親の叱責と、げんなりしたように応じる息子の声。やはり仲は良くなさそうだが、立ち聞きも良くない。離れて、寝室に入るかどうするか、と考えるが、その間にも二人の会話は進んでしまう。

「それでも、他の候補者たちに出し抜かれないよう、最もそばにいて印象を残すのがお前の仕事だろう」

「やっていますよ。毎日口説いてる」

「一族に恥ばかりかかせるその唯一の特技で、篭絡ろうらくしてみせると言ったのはお前だぞ」

「落としますよ、必ず」

 その先の会話はなく、代わりに重い靴音が遠ざかるのが聞こえた。

(あいつがあんなにしつこいのは、家からの圧力のせいか)

 ラズにも圧力はあるが、あれは兄姉たちが面白がっているだけで、両親は半分も期待していない。意味合いがまるで違うだろう。

(全員訳ありか)

 それも仕方ない、とラズは思う。王族に関する占断は重要機密だが、アニカが降嫁する話は前々から知られている。王族との関わりを強くしたいと考える貴族たちの間では、アニカは“外れ”だった。

「はぁー。全く、嫌になるね」

 声と共に扉が開き、マルセルが入ってきた。しまった、とラズは焦る。悠長に考えていたせいで、行動の機会を逸してしまった。

「ねぇ、君もそう思わない? メトレベリの」

 金髪を掻き上げながらこちらに歩いてきたマルセルが、気だるげに同意を求める。ラズは、まともに会話するのはこれが初めてかもしれないと思いながら首を傾げた。

「さぁな。うちは、あまり期待されてないもんで」

「あー。それも分かる。見限られてるよね」

 本気とも冗談ともつかない顔で、マルセルが応じる。そうだな、と返すわけにもいかず、無難な言葉を探していると、「ねぇ」と続けて声を掛けられた。

「君って、問題児なんだって?」

 突然の話題転換に、ラズは一瞬押し黙る。だが、いつかは誰かから言われるだろうことは覚悟していた。知らず険しくなるラズの視線など気にも留めず、マルセルは笑顔で続ける。

「少し前、王立学校で、片っ端から喧嘩を売っては、いけ好かない相手をぼこぼこにしていたって聞いたけど。血に飢えてるとか?」

 相手の事情も背景も鑑みず、単純な好奇心で聞いてくる相手を、ラズは鬱陶しいとは思えども、どうでも良かった。こういった連中はいつでもどこにでもいて、好意を盾に退屈しのぎの面白い話を聞くくらいの気持ちで近寄ってくる。真剣に相手をする価値はなかった。

「かもな」

「適当だねぇ。一部では評判最悪みたいだけど」

「三男だからな。いざとなれば切って捨ててくれと言ってある」

「へぇ。あっさりしたものだね」

 言いながらも、マルセルの受け方もまたあっさりしたものだった。事実も理由も、ラズに話す気がないと察しているからだろうか。

(不気味な奴だ)

 しかし自分からそれ以上会話を膨らませるつもりも毛頭ない。そのまま黙っていると、そのままマルセルがラズの前を通り過ぎ、寝室の扉に手をかけた。

 つい現状を忘れかけていたラズは「あっ」と声を上げ、咄嗟にマルセルの腕を掴む。男でも色気があると思える碧眼が、つぅ、とラズを振り返った。

「僕、女性専門なんだけど?」

 気色悪い誤解をされた。くわっと目を見開く。

「バッ、違ぇよ! 今なかに殿下がいて、」

「だから行くんでしょ」

「だから、今ちょっと調子が悪くて、」

「へぇ。じゃあ尚更お慰めしないとね」

 相変わらず会話が成立しない。その間にもラズの手を振り切ったマルセルが、扉を押し開こうとした時、

「入ってこないで!」

 今にも泣き出しそうな声が、そう叫んだ。

 さすがのマルセルも異常を感じたのか、ラズと目を見合わせる。しかしこのまま放っておくこともできない、とラズが考えるよりも先に、再びマルセルが扉を開けようとする。

「やめろ」

 ラズは迷わずその前に体を滑り込ませていた。額がぶつかりそうな至近距離で、二人が睨みあう。

「君に命令されるいわれはない」

 マルセルの珍しく低く凄んだ声に、ラズも本能的に身構える。だが一触即発のその場は、がちゃり、と反対側の扉が開いた音に引き留められた。

「イアシュヴィリ様」

 そう言って顔を出したのは、今までどこにいたのか、侍女のニコ・メルアだった。頭を下げたまま、「申し訳ありませんが、こちらへ」と廊下へ呼び出す。急用でも言付かったのだろうか。ともかく、事を荒立てずに済んだ。

 二人が廊下の向こうに去っていく寸前、ニコ・メルアと一瞬目が合った。

(なんだ?)

 頷かれたような気がして怪訝に思うも、確かめる間もなく二人は去ってしまった。ラズは少しの逡巡の末、寝室に続く扉に向かって声をかけた。

「殿下。ラズです」

 余計に怖がらせるかもしれないとも思ったが、いつまでも隣室に男がいると思って怖がらせるのも可哀想だ。返事はなかったが、ラズは続けた。

「イアシュヴィリはメルア殿と出ていきました。自分も部屋の外で待機して、他の者は入れないようにしますので、安心して休んでいてください」

 一気に伝えたが、やはり返事はなかった。というか、動く気配がしない。不安になったラズは、念のためと更に言葉を重ねた。

「殿下? 了解なら、扉を一度ノックしてください」

 待つ。ノックはない。躊躇は一瞬だった。

「殿下!?」

 何もかもが嫌になって、またいつものように窓から逃亡したのだろうか、という予想は、更に悪い方に裏切られた。扉を開けて三歩も行かない所で、アニカが床に倒れていたのだ。

「殿下! アニカ殿下!」

 慌てて駆け寄って抱き起す。きつく眉根を寄せて瞳を閉じたその顔は、紙のように白かった。何かの病気かとも思ったが、婚約の話を受ける時に至って健康体と聞いている。次に考えたのは、極度の精神的疲労だった。

(だが、どっちか分からないまま放っておくのは危険だ)

 侍女に頼んで、侍医を呼んでもらうか。しかし、その間だけでもアニカを床に横たえるのは忍びなかった。ご免、と心の中で一言断ってから、意識のないアニカを横抱きに抱える。

(軽い)

 いつもぶつかってばかりだったからか、気合を入れて持ち上げた体は予想以上に軽かった。子供の頃は手を伸ばしても届かないような存在に思えたのに、今は一歳下という以上に小さく思える。

(毎日、怯えて震えているからか)

 不思議な気分だった。子供の頃には守るという発想すら出ない程に強かったアニカを、今は守らなければと考えている。

(……阿呆か。この中で一番やる気がないのは俺だろうが)

 おかしなことを考える自分に反論しながら、そっとアニカを寝台に降ろす。それから、聞こえていないと承知で、眠る主人に断りを入れる。

「殿下。今から侍医に来てもらうように頼んでくる。辛いだろうが、もう暫く辛抱してくれ」

 そしてそっと横たえた体の下から腕を引き抜いた時、「……まって」とか細い声が呼び止めた。ぎくっ、と動きが止まる。まさか気付いたのか、という動揺はけれど、続く言葉で違うと知れた。

「少し、疲れただけだから……ジーラさん、いて……」

 途切れ途切れに紡がれる言葉はどこか夢現ゆめうつつで、見れば目はまだ開いていない。

(あ、声か)

 なるほど、意識が混濁する中で呼び止めたのは、ラズではなくジーラの方だったのか。と知れて、ラズは無意識にチッと舌打ちする。

(ん? なんで舌打ちが)

 いやそれよりも、とラズは悩んだ。病人の大丈夫は基本信じてはいけないが、アニカがジーラにいてほしいと望んだことを無下にも出来ない。ラズは散々悩んだ末、人目がないことを確認してから部屋を抜け出した。

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