第8話 魔女と、裏切者。

 春祭りガザクフリはついに佳境となる最終日を迎え、朝から町のあちこちで歌や踊りの賑やかな声が青空を震わせていた。武闘大会コンヴェントシアも午前のうちに準決勝、決勝が行われる予定で、これには王族も臨席する。午後の行進アフルミィには、春の花嫁パタルザリとともに優勝者が市中を練り歩く予定だ。そして夜には、町中の魔女の人形ファジャを集めて一斉に焚き上げる。

「決勝まで行けば、相手はメトレベリ様かラウル様のどちらか勝った方となるはずです」

「うん……」

 自室でニコに手伝われていつもの衣装に袖を通しながら、アニカは嬉しくない追加情報に力なく頷く。今日、二回勝てば、アニカは母にお願いできる。衆人環視の中で発された言葉には、大きな影響力が宿る。

「あと二回で、終わる」

 終わったら、本当にみんな居なくなるのだろうか。マルティも訪れず、ミリアンもニコに戻り、婚約者候補たちは目的を遂げられないまま、家に戻るのだろうか。マルセルもレヴィも父の期待に応えられず、ラウルは母のために何もできず。ラズの真意を質す機会も、二度とやってこないまま。

(そして私は、またこの部屋に独り……)

 それが自分の望む最善。そう思うのに、気持ちは今までで一番沈んでいた。大した努力もせず、何の進歩も変化もなく、色んな人を巻き込むだけ巻き込んで迷惑をかけて、結局最後は全部の問題から逃げる。アニカが優勝するというのは、結局そう言うことだ。そして。

(私が勝っても、多分誰も喜ばない)

 きっと、自分自身も含めて。

 それが分かっているのに、アニカには他にどうすればいいか分からなかった。

「姫様」

 ニコが名を呼び、狐の面を差し出す。迷いながらも、それに手を伸ばしかけた時、

 コンコン、と扉がノックされた。

「…………」

「…………」

 思わず二人で見つめ合う。祭りの最終日に、朝から公務も与えられないような第二王女を訪れる者など、思いつかない。ニコが無言でアニカの了承を取ると、慎重に扉に近付き把手に手をかけた。



 武闘大会本戦の最終日は、王族を円形競技場に迎えるところから始まる。行われる試合は三試合だけだが、その緊張感は前日までの比ではない。

 準決勝第一試合目の対戦者は早い時間から会場に入り、入念に試合に向けての準備を整えるのが常だった。のだが。

「アニカ殿下がまだ来ていない?」

 大会の受付で話を聞いたラズは、思わずそう繰り返していた。思わず、ともについてきたアラムを振り返る。準決勝の二回戦はラズとラウルの対戦で、アニカのあとだ。まだというのは明らかにおかしい。

「いい加減、自分のやってることの無意味さに気付いたんだろ」

 隣で同じく受付を済ませていたラウルが、酷薄に言い捨てる。そちらを睨むと、同じく苛立ったような赤茶色の瞳とぶつかった。

 ラウルとは同じ護衛役としてしばらく同じ行動をしていたが、直接私的な会話を交わすのは、思えばこれが初めてだった。南庭で盗み見してしまったこともあり、何となく声を掛けづらいというのもあった。

 だが今は、そんな遠慮もなく反駁はんばくしていた。

「殿下は、黙って勝手に放り投げたりするような性格じゃない」

「男が怖いってだけで、いつも逃げてるような女だ。怖いものからは、何だって逃げておしまいなんだろ」

「やめろ」

 ハッ、と鼻で嗤ったラウルの襟首を、衝動的に掴み上げていた。「ラズ様」とアラムが引き留めるが無視した。目つきの悪い男が二人、額をぶつけそうな勢いで睨みあう。

「あいつは、いつだって全力で頑張ってる。それでもどうにも出来ないくらい相手がデカいから、独りで苦しんでんだろ。お前、あいつが逃げて、その先で能天気に笑ってるとでも思ってんのか」

「……興味がない」

「んなもん、なくていい。ただお前にだって、抗いがたい何かがあるんじゃないのか。だから、あいつの前に現れて、今ここに立ってるんじゃないのか」

「分かったような口をきくな」

「だから、分かんねぇって。でもな、馬鹿みてぇに苦しんで足掻いてる奴が、同じように足掻いてる奴を嗤うなよ」

 低く唸るように話すラズの声は、怒鳴るというよりも、理解を求めるようだった。別にアニカが出来なかった「知ってもらう」ことを、代わりにしているつもりはない。だが、こんな形で誤解されるのはラズが嫌だった。

「……知るか」

 パシッ、とラズの腕をはたき落とし、ラウルが襟首を直す。しかしその目にも雰囲気にも苛立ちは消えていて、ラズは自分の手の早さを後悔せずに済んだ。

「俺は、殿下を探してくる」

 言うが早いか踵を返すと、「は?」とラウルの声が上がった。

「馬鹿か。一試合目が不戦敗で片付けば、次の出番はすぐだぞ」

 なるほど、辛辣しんらつな物言いは基本なんだな、と思いながら、ラズは応える。

「陛下たちのお言葉もあるし、まだ開始までは時間がある。それまでには戻る」

「貴様が間に合わなくとも、俺は不戦勝を受け入れるぞ」

 再び険しい表情に戻ってラウルが宣言する。怒っているのとも違うその気配に、ラズはまた一つ得心する。

「心配してくれてんのか。ありがとう。大丈夫だ」

「バッ、誰が!」

「僕も行くよ」

 三白眼気味の目を見開いて怒鳴ろうとしたラウルを丁度遮って、聞き覚えのある声が割って入ってきた。レヴィだ。昨日負けたはずだが、どうやら今日は観客として来ていたらしい。

「助かる。とりあえずまずは殿下の部屋を見てくる」

「分かった。ラウル。頼むよ」

「はぁっ? 俺は何も、」

 とラウルが何やら反論を続けたが、レヴィは構わず「ムゼ宮の方はどうする」と話を進めていく。

「そっちは、アラム、頼めるか」

「分かりました。入れる所だけでも先に見て回りましょう」

 背後にいたアラムが頷き、話が纏まる。「こらっ、待て貴様ら、」と後方で叫ぶラウルの了承は置き去りに、三人はラマズフヴァル城に向かって駆けだした。



 アニカの部屋をノックしても、返事はなかった。ラズはきちんと説明と断りを入れてから扉を開けたが、案の定寝室には誰もいなかった。長椅子の足下に、アニカの狐の面が落ちている。

「どういうことだ? 殿下が面なしで大会に出るはずはないし」

「争った形跡まではないけど、何か予定外の事態が起きたのかもね」

 部屋を粗方検分しながら、レヴィが答える。確かに、部屋が荒らされた様子はなかった。とすると、アニカが自らの意思で部屋を出たことにはなるが、面を持っていないということは大会に出るためではなかった。

「何か、緊急事態でも起きたのか?」

「春祭りの続行に関しての何らかがあったとしても、アニカ殿下が呼ばれる必要性はない。殿下自身の緊急ということになるけど」

「家族に何か……ということになったら、陛下たちは競技場には来ないよな」

 レヴィと様々な可能性を出し合いながら話してみても、具体的な状況は思い浮かばなかった。ニコが一緒であれば、大会に遅れる旨を連絡するだろうし、ニコが甘んじて送り出したというのなら、危険な状況ではないとも考えられるのだが。

「嫌な予感がする」

 小さく呟くと、レヴィも深刻な顔で同意を示した。

「このままだと、殿下は本当に試合に出られないかもしれない」

「それはダメだ。あいつは、妃殿下に認めてほしくて、分かってほしくて頑張ってたんだ」

 婚約者候補の件を中止にしてほしいと願うのは、つまり母と正面から話し合いたいということだ。今までは母との約束を守れなかった後ろめたさと正論に気後れして話し出せなかったようだが、この機会を失ってほしくはなかった。

(あいつ、どこに行ったんだ)

 行き先の見当が皆目つかず、焦りを感じていると、何故かふっ、と笑われた。

「……何だよ」

「いや、随分親身になるんだなと思って」

 レヴィが、優しく微笑む。と見せかけて、それは兄や姉たちが見せるただの好奇心やお節介の色に似て、ラズはちょっとげんなりした。こいつは苦手かもしれない。

「何でもいいだろ。今はとにかく殿下の身の安全が第一だ」

「あと、試合の参加だね」

 誤魔化すように話を戻すと、レヴィも真顔に戻って頷く。それもまたどうしたものか、と考えていると、「貸して」と狐の面を促された。

「何をする気だ?」

「仮面だと、顔は見えないしね。髪に飾り紐でも巻いて隠せば、背が同じなら気付かれない」

 言いながら、レヴィが勝手にクロゼットを開けだした。背丈が同じで腕が立つ奴って誰だ、と考えて、一人思い当る。いやそれは荒れるだろ、と言おうとしたところ、幾つかの服を避けていたレヴィの手が止まった。

「? どうした」

「これは……」

 レヴィが言葉を切り、くん、と狐の面の匂いを嗅ぐ。これがマルセルだったらすぐさま引っぺがすところだが、レヴィがこの状況で変態行為に走るとも思えない。

「ラズ。この匂いに覚えはないかい」

「はっ? 何す――」

 レヴィが面から顔を上げると、君も嗅げとばかりに面を顔に押し付けられた。一瞬、アニカがずっとつけていた印象のせいで咄嗟に赤面して身を引いてしまったが、鼻腔に嗅いだことのある香りがきて、ラズは合点がいった。

「これは、マルセルの奴の」

「男がつけるにはずいぶん甘ったるい香水だと思っていたから、恐らく間違いないだろう」

「そういうことか……!」

 瞬間、頭の隅がちかちか光るような理解と怒りが同時に沸騰した。参加を表明しないままアニカの練習を毎日眺めていた時もそうだ。ラウルやレヴィの出現率が下がり、アニカが一人になる時間を狙っていた。あの時はアニカのことが心配すぎて一発しか殴らなかったが、もう十発ぐらい殴って問い詰めておくべきだった。

(あんの垂れ目の軟派クソ野郎が!)

 アニカが優勝すれば、マルセルは父親の命令を果たせなくなる。それがどれほどマルセルを追い詰めるのかは知らないが、どこかの時点でアニカの邪魔をすることは十分考えられた。直前で大会の不参加を決めたのも、この時を狙っていたからか。

「あいつがアニカを連れ去りそうな場所は、どこか思い当るか?」

「いや……。祭りの最中はどこも来客が頻繁に出入りするから、城内の使用していない部屋と言っても隠れるには向かない。だが、人ひとりを抱えてこの賑やかな城や庭を移動するのは危険なはずだ」

「まだ城の中にいる可能性が高い、か」

「クロゼットの中には大会用の衣装もなかった。準備を全て整えた後にマルセルが来たのなら、時間もそう経っていないはずだ」

 となると、城の中で、来客用でなく、小階段奥の使用人が忙しなく行き来する辺りでもない場所は大分限られる。

「控えの間や衛兵や大使の間の周辺は、まずないよな」

「大階段辺りの動線も避けるはずだ」

「人がいないのは寝室とか、図書室とか、浴室とか……」

「それでも、入口には衛兵が少なからず詰めている」

 二人でああでもこうでもないと話す内にも、時間はどんどん過ぎていく。焦燥は募るばかりだった。

「とにかく、俺は手あたり次第探してみる」

「分かった。なら僕は先に試合の方を何とかしよう」

 言いながら、レヴィが面と幾つかのリボンや飾り布を持って部屋を出る。ラズも反対方向に走り出そうとした時、「ラズ」と呼び止められた。

「何だ」

「あの匂いには、気を付けた方がいい」

「……どういうことだ?」

「近付いた時、一瞬意識が揺らいだ。幻覚作用があるかもしれない」



 夢を見た。それは、自分の記憶のはずなのに自分のことでないような、どこか遠くて、けれど体の芯が疼くように最も深い部分に眠る、忘れることのできない甘く苦い幻想のようでもあって――。


 夢は、毎日たくさんの家族に囲まれて、朝から晩までわいわい遊んで騒いで、退屈する時間なんかひとつもない暮らしをすることだと、その男は言った。

 下らない、ないものねだりだと分かっていた。望まぬ力を持って生まれたせいで、母を死なせ、生家から引き離され、こんなところに放り込まれて。今生では最早叶う欠片すらない望みだった。

 しかもこんな得体の知れぬ魔女の監視が仕事とは。

 どんなに美しく磨かれた回廊も、希少価値の高い美術品も、至る所に施された精緻なフレスコ画も、歪みのない高価なガラス窓も、その男にとっては牢獄と変わらない。

 だから、イアシュヴィリ家の当主じじいに手を引かれて初めて登城した時も、憐れな傀儡くぐつよ、と思う程度だった。

 金や権力や血筋や魔法、望むものは違えど、この身に群がる連中がわらわ越しに見ているのは、大概が見え透いた欲望だった。媚びへつらう者に、追従ついしょうする者、憐れな生贄や身代わりもいた。出過ぎた杭は全て首を落としてきた。それでも連中はうじのように湧き続けた。

 イアシュヴィリ家は監視者アクレットという大義名分で正義面をして諫言かんげんをばらまいていたが、それもまた私欲にまみれていることは、城中の人間が知っていた。

 だというのに、イアシュヴィリの新しい手先は、何故か会うたびに笑顔を振りまいた。魔法を無効化できる力が稀に見る程高いということは調べて知っていたが、そこからくる余裕というには、違うようだった。

『陛下が今一番欲しいものは何ですか?』

『陛下はお子様は何人欲しいですか?』

『陛下は、何をしている時が一番幸せですか?』

 その笑顔で、毎日、意図の分からない問いをされた。監視者なのだから最も側にいる時間が長いのは仕方がないが、最初はあまりに類を見ない存在に怪訝しかなかった。

『陛下の好みはどんな男ですか?』

『陛下は……生涯誰とも添い遂げないというのは、本当ですか?』

『陛下はご自分よりもお強い男が好みと噂で聞いたのですが……腕相撲とかでもいいですか?』

 意味が分からなかった。何故腕を倒し合うことで男女の色恋が生まれるのか。何故毎日政治とも軍事とも金とも人脈とも違うことばかりを聞くのか。何故、妾の目をまっすぐに見て無邪気に微笑めるのか。

 ことごとく分からないことばかりの男だった。どんな目的を持って近付いてきた人間でも、寵が欲しいと一晩を共にした男でも、この深い黄金色の瞳を真正面から見据えて笑った者などいなかった。いつその目が輝きを増し、城の中に嵐が吹き荒れ自分の命が潰えるかと、愛想笑いも凍えていた。

『そなた、名は何という』

 男が城に伺候しこうして何週間か経った頃、初めて名を聞いた。その時のはちきれんばかりの笑顔に、ついに思い知るしかなかった。

『ラト・ハハレイシヴィリです!』

 こやつは、本物の阿呆な能天気者だと。それからのラトは、ほぼ懐いた犬ころだった。そして周囲からは、気紛れに男を摘まみ飽きては捨てていると言われている妾の、新しい寵臣とみなされた。

 どうでも良いことだった。今まで通り、噂が先に飽きるか、男が先に擦り切れるか、それだけだ。監視者だから殺すのは面倒があるだろうが、それもささいなことだ。だが、度重なる親征に心身共に疲弊しきって戻ってきた時の、ラトの能天気な質問と夢物語は、不思議と気持ちが安らいだ。

『俺の理想は、兄妹もたくさんいて、毎日誰彼となく構われて、一緒に泥だらけになって、たまには喧嘩して、母に怒られて……』

 愚かな男だと、いつも思う。母親はラトの無効化の力のせいで出産時に死亡したというし、本家に力のことが知られたせいで、幼少期に金で買われたようなものだ。それなのに、何故そんなありもしない家族の話で笑えるのだろうか。

 先の国王も、この身に宿る魔法の強大さに恐れをなし、何年も実の娘を塔に閉じ込めていた。家族など、妾にとっては笑って話すなど狂気の沙汰だった。

 それでも、ラトは虚しい夢物語をやめなかった。

『今生で無理でも、来世ではきっと叶います。それで、陛下を一番最初に見付けるんです。そして誰よりも先に求婚します!』

『阿呆。子供を一番に見付けるのは、産婆じゃ』

 呆れる点が多すぎて、ついていけないのはいつものことだった。言葉遊びのような、頓智のような、生産性の欠片もない非建設的な会話。後から思えば、無駄ばかりなのが、心地よかったのかもしれない。焼き切れそうなほどに頭を使い、人を疑い、徹底的に調べ上げて裏をかくのは、疲れるものだから。

『だったら、俺があなたを取り上げます』

『何度生まれ変わろうと、産婆と結婚したがる酔狂にだけはならん』

 きらきらと目を輝かせ『約束します!』と拳を握るラトを、何度も『阿呆』と言っていなす。

 どうでも良い、あってもなくても良いような日常だった。だから、いつ終わっても悔いも惜しみもなかった。人は皆、妾の前をただ通り過ぎる。ラトは、監視者だから長くいただけだ。執着などない。

 それでも、奴の言葉で二つだけ、価値のあるものがあった。一つは、何故妾のことばかり知りたがるのかと聞いた時、顔を真っ赤にして答えたもの。

『……一目惚れだと言ったら、陛下は信じてくれますか?』

 そして、もう一つは。


『貴女のために、貴女を殺します。さようなら、……俺の最愛』



「――――ッ」

 ハッと目を覚ましたアニカは、胸に冷たい鋼の感触があるような気がして、蒼白になってそこに手を当てた。

「…………ない……?」

 しかしあると思った刃は影も形もなく、アニカの成長途中の胸も赤く染まったりはしていない。あれ、と思うと同時に、夢の中との齟齬そごが、はっきりしだした意識の中で薄れていく。けれど胸を打つ激しい動悸は一向に収まらなかった。

 怖い、と思う。けれどその恐怖は、男性を前にした時の比ではなかった。

(怖くて、悲しくて、辛くて……そして少しだけ、違う感じがした)

 何だったんだろう、と今まで見ていたはずの夢を思い返そうとする。けれども、何故か少しも思い出せなかった。嫌な焦燥感が、胸を焦がす。

 だがその理由にゆっくり思いを馳せる時間はなかった。両手首が縛られているのだ。上半身を起こすと、足首も同様に麻紐のようなもので縛られていた。

「ちっ、もう目が覚めたか」

「……え?」

 何故、と考えていると、背後から男の声が聞こえた。わぁん、と妙に声が響いている。そこで初めて、ここが自分の寝室でないと気付く。

 薄暗く狭い室内を、三か所の壁龕へきがんに置かれた燭台がゆらゆらと照らしている。視界の端にあるのは、祖王アプシュルトスの大きなフレスコ画。忘れようもない、五歳のアニカが占断を受けた、あの小聖堂だ。蝋燭には香りがついているのか、噎せるような甘い匂いが狭い堂内に濃く充満している。

(あれ、何で……確か、部屋にいて)

 ニコと大会の準備をしていた所に、確か来客があったのだ。話し声しか聞こえなかったが、相手は……そう、マルセルだった。

『やぁ、ニコちゃん。少し気になることを聞いたんだけど』

『急用でなければ、大会終了後にお願いしたく存じます』

『その冷たい感じ、やっぱりそそられるなぁ。攻略したくなるよ』

『では失礼致します』

『扉を閉じてもいいけど、ちょっと早計だと思うよ』

 二人の全く噛み合っていない会話に、アニカは扉越しに耳をそばだてていた。最初は早く帰ってと心の中の藁人形に釘をかんかん打ち付けていたのだが。

『噂で聞いただけなんだけど、最近ベリーエフ伯爵家の息子が、こそこそ動いてるって』

『!』

『大会の二日目にも見たって奴がいるし、少し警戒した方がいいと思って』

『ご慧眼けいがん、痛み入ります』

 ベリーエフと聞いた瞬間、ニコが態度を翻した。聞いたこともある気もするが、アニカには思い出せない。

『もし誰か人に頼むなら、その間、僕がここにいようか』

『…………では、お願い致します。が、絶対に中には入らぬようにお願い致します』

 ドスのきいた声で何度も念押しした後、ニコが離れる気配がする。つまり、それ程のことをマルセルは報せに来たということだ。

 けれどアニカには、扉越しとはいえマルセルと二人きりにされたことの方が何倍も恐ろしかった。そして案の定、ニコが戻ってくる前に扉は開かれた。しかし入ってきたのはマルセルではなかった。

 そこにいたのは。

「ふん。相変わらず、気の弱そうな小娘が」

 焦げ茶色の髪に、一重の瞼とうっすら残ったそばかすを持った同じ年頃の少年が、アニカを心底嫌そうに見下ろしていた。

「…………っ!」

 だれ、という問いはけれど、喉の奥であがった悲鳴に掻き消された。忘れるはずもない。その顔。その顔は、三年前のあの日、仲間たちに周りを囲ませて、アニカを意図的に押し倒した張本人と同じ。

(ベリーエフ……この男が、ベリーエフなんだ……!)

 ニコが態度を一変させた理由が、やっと分かった。この男がアニカに近付くことを恐れたニコが、マルセルの危険を一時置いても行動を急いだのだ。

 だがこの男は現れた。

 扉の向こうにこの顔が見えた瞬間、アニカは硬直して窓から逃げることすら出来なかった。ふっと意識が飛び、そして気が付けば、ここにいた。

「な、なん……っ」

 なんであなたがここにいるの、と言いたいのに、声は震えて少しも音にならなかった。後ろから見せつけるように一歩一歩近付いてくる男に、アニカは蒼褪めながらお尻をずって後ずさる。

「お前、噂になってるぞ。三年ぶりに第二王女が表舞台に出てくるって」

 男が、アニカの膝先で止まる。大嫌いな虫けらを見下すようなその目は、蝋燭の明かりに照らされてぎらぎらと薄闇に浮かび上がっていた。

「ずっとそのまま引っ込んでいれば良かったのによ」

 男が口を開く度に、アニカの脳裏に引っ掻き傷のように無数に刻まれてきた恐怖が、一つ一つ鮮明な映像となって蘇る。

(怖い)

 十年前の、イアシュヴィリ伯爵が告げた嫌悪の混じった声と顔が。

「頭のおかしい面なんかつけて、正体隠しやがって」

(怖い)

 三年前の少年の圧し掛かるような体と、その向こう側に見える嗤い合う少年たちが。

「王族のくせに、優勝してこれ以上まだ何かを望む気か? 図々しい」

(怖い)

 社交界で、男性を見ただけで泣きそうになったアニカを、さざめくように扇の向こうで笑っていた者たちが。

「お前が出てくると、俺の立場がどんどん悪くなるんだよ!」

(怖い)

 怖い、という単語が、アニカから思考力を奪い、体中を侵食する。気付けば襟首を掴まれ、男の顔がすぐ近くに迫っていた。

「俺を学校から追い出しただけじゃまだ足りないか」

「ッ?」

 そばかすが数えられるほどに男の顔が迫り、アニカは思考が回らないながら必死にいやいやと首を振る。学校から逃げたのはアニカだ。その後でこの男一人を追い出しても、アニカはもう学校に戻れない。無意味なことだ。

「お前さえいなければ、女に負けたなんて馬鹿なことを言われずに済んだのに……!」

 男が口惜しそうに唾を飛ばす。その言葉の意味を理解した瞬間、アニカは愕然とした。

 剣の授業ではずっと邪険にされていることには気付いていたが、アニカは今初めてその具体的な理由を知った。

 アニカはただ強くなりたくて、学校の授業の一環で剣を楽しんでいたが、少年たちにしてみれば突然乱入してきた少女に、練習とは言えあっさり負けてしまったのだ。その不名誉を強く詰る親も少なからずいただろう。そんな親からの叱責や体面を守るために、アニカは三年前、あの場で背をつかせられたのだ。

(そんな、そんなことのためだけに……!)

 貴族の男にとっては、体面が何よりも大事だとは、知識として知っている。だが女のアニカにとっては、とても三年間の恐怖と引き換えにするほどのものには思えなかった。涙が、悔しさに視界を熱く滲ませる。

 けれど男は、アニカの様子など構わず捲し立てた。

「学校からいなくなったと思えば変な男使って潰しにきて、次は侍女に指図して退学に追い込んで……俺が家の中でどれだけ肩身が狭くなったか分かるか!」

 変な男のことは意味が分からなかったが、侍女はきっとニコのことだろう。社交界にも決して出てこないと断言したのは、きっとそういうことだったのだ。

「それもこれも全部お前のせいだ!」

「っ!」

 ドンッ、と掴んでいた襟首を投げるように床に叩きつけられる。容赦なく後頭部を打った。視界がぶれて目がちかちかする。けれどそれは悔しさのせいだけではなかった。

 男の目に宿る、あの日と同じ感情――嫉妬、侮蔑、嫌悪、劣等感……。そしてその激しさは、三年前とは比べ物にならない。そしてそれは、アニカも同じだった。

 それは自業自得だと、三年前なら少しは言えたはずだ。けれど今は、息すらまともに吐き出せなかった。

 ハッ、ハッ、と二人の短い呼気が狭い小聖堂に幾重にも響く。男は怒気で、アニカは恐怖で、空気がヒリヒリするほどに引きつっていた。

「大会の褒美なんか貰えると思うなよ。大会が終わるまでずっとここに閉じ込めてやる」

 ハッハッ、と男が昏く笑いながら、床に転がったままのアニカを跨いでそそり立つ。

(怖い……っ)

 涙がぼろぼろと、壊れたように頬を濡らした。唇が、指先が、体中が震えて止まらない。そんなアニカをどこか満足そうに見下して、男が嗜虐心しぎゃくしんたっぷりに上唇をめくりあげる。

「あぁ、そうだ……ただ待つだけってのも退屈だし、あの時出来なかった続きでもするか」

「…………!?」

「第二王女がうちに降嫁するなら、俺の汚名もすすげて一気に立場も回復する。お前も手垢がついて売れ残るくらいなら、俺に囲われた方がマシだろう」

「――――ッ」

(怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い)

 男が、下卑た笑みを浮かべながらゆっくりと屈んでくる。けれど必死で縛られた両足で床を蹴っても、少しも逃げられなかった。感情の回路が、もう、暴れ回ってぐちゃぐちゃに千切れそうだった。

 恐怖や悔しさ以外の様々な情動が、体の奥の、よく分からないところから湧いてくる。

 ――何故やり返さない、と。

 自分のものとは思えない思考が、あちこちから狂った暴れ馬のようにアニカを翻弄する。

 ――そんな驕児きょうじなど殺してしまえ、と。お前には、その力があるだろう、と。

(殺す……なんて)

 ――殺すことなぞ造作もない。ただ望めばいい。強く、強く望め。目の前の男を、その汚らしい手を我が身に伸ばし、畏れ多くも触れようと考える愚物ぐぶつを、本能のままに切り刻め。

(本能の、ままに……)

 理性のたがが、外れる。

「――――こ」

「あぁ?」

「っ…………来ないでッ!」

 喉を駆ける寸前で言葉を変えた。そうしなければ、殺す、と叫んでいた。叫んでしまえば最後、この小聖堂を吹き飛ばすほどの嵐が男を襲うだろうと、強い確信があった。

 だから、何も起きないことにこそ、アニカは大きく安堵した。

 荒く息を吐き、途中で止まった男を懇願するように睨み上げる。殺したくない。殺してはダメだ、と自分に強く言い聞かせる。けれど。

「はあ? はは、王女なら命令してみろよ」

 男が、小馬鹿にするように鼻で嗤う。体と手が、再びアニカに迫ってくる。その剣だこもないような手が、三年前のように、アニカの服に手をかけた――瞬間、

「ッッ!?」

 男が横に吹き飛んだ。そのまますぐ側にあったフレスコ画前の祭壇に頭を打ち、床に沈む。

「…………」

 アニカは、あまりに突然の出来事に、ただ目と口を開いてその事態を見守るしか出来なかった。男が吹き飛んだのは、奥の入口から伸びてきた長い足に蹴り飛ばされたからだ。だがアニカが驚いたのは、その行動よりも足の主の方にだった。

「大丈夫だった?」

 金髪碧眼の美しい男が、小聖堂に満ちる香りと同じ甘さを纏って、どこまでも穏やかに微笑んでいた。

「…………マルセル様?」

 呆然と身を起こしながら、複雑な思いでその名を呼ぶ。寝室で襲われそうになった記憶はいまだに新しい。だがそれ以上に、こんな風に勇ましく助けに来るような人物とは思っていなかった。

(こんなことをしそうなのは、マルセル様というよりもラズ……)

 ぼんやりと場違いなことを考えていたら出てきた名前に、アニカはなぜか瞬間的に目を逸らしていた。

(な、なにかしら、今の?)

 縛られたままの手首を見つめ、よく分からない衝動に頭を疑問符でいっぱいにする。だがその答えが出る前に、マルセルがその手首に手を伸ばしてきた。

「!」

 反射的に顔を上げると、いつの間に来たのか、マルセルがしゃがみ込んだままのアニカに視線を合わせるように、すぐ目の前で膝を折っていた。

「顔が赤いね。見惚れてた?」

 触れられた手の熱に、寝室での恐怖が一気に全身に蘇る。びくり、と身を引くが、手を取られていて少しも逃げられない。一瞬顔が赤かったとしてもそれはマルセルが理由ではないし、今はもう蒼白だと確信があった。

「こんなことされて……怖かったね」

 マルセルが、親身な声で縄のかかったままの手首をさする。危機を救ってくれた美男子にこんなにも間近で優しく労われれば、普通の少女であればその純真な胸を薔薇色にときめかせただろう。

 けれどアニカはダメだった。あの日の恐怖以上に、もう生理的に受け付けなかった。体中の神経がびりびりと、嫌だと叫んでいる。

 けれどその理由を考える前に、マルセルの両手がアニカの背に回ってきた。せるような甘い香りとともにその胸が迫る。

「でももう大丈夫。僕がずっとついてるから」

 限界だった。

「ぃやぁぁッ」

 縛られたままの両手で、必死にマルセルの胸を押し返す。止まったはずの涙が、再びまなじりを濡らす。

「おね、がい……来ないで……っ」

 一歩分も離れなかったマルセルに、知らず懇願する。マルセルは一瞬瞠目したあと、ゆっくりと口端を持ち上げた。

「強引に攻めるのがダメなら、弱ってるところを懐柔しようと思ったんだけど……やっぱりダメかぁ」

「…………え?」

 そして改めてアニカの頬を両手で挟み、にっこりと笑う。

「そいつ、一緒に殺してあげるって言ったら、僕のものになってくれる?」

 アニカの視界いっぱいに、濁った碧眼が映り込む。その色が、まるで人を呑み込む嵐の海のようで。

(本気、なんだわ……)

 冗談のような口ぶりなのにどこまでも真摯で、背筋が冷えた。本能が、怯えるようにふるふると首を横に震わせる。

「私は、誰も、殺したいなんて……」

「家のために君を傷付けようとした男なのに? 名誉や体面なんて目に見えないもののために女性を泣かせるなんて、あまりに低俗だよ」

 憐れむようにマルセルが囁く。けれどそれは誘導だと、僅かに残った理性でアニカは気付く。

 監視者の一族の長子として生まれながら継嗣でないマルセルは、王家専属の占術師にはなれない。それなのにアニカの婚約者候補として現れた理由は、ただただ魔女の生まれ変わりであるアニカの監視が目的のはずだ。それはどこまでも家のためでしかない。それが本人の意思に沿うかどうかは別として。

「家のため、というのなら、あなただって、」

「あぁ、同じだって? 僕も、あんな馬鹿と同じ無能で下衆で低俗な、役立たずだって?」

 アニカの言葉を遮って、マルセルが苦笑する。才能がないからと、継嗣になれなかった男が。

「まぁ確かに、家のためといえば、そうかもね。だからさ」

 あっけらかんと、マルセルが言い放つ。それは二人で歓談した日の皮肉の中に見えた嫉妬に似ていたが、それ以上に深い諦念が、昏い海の底に横たわっていて。

「僕に壊されてくれるよね?」

 ぱきん、と頭の奥で何かが壊れる音が、した気がした。



「メトレベリ様!」

 先にムゼ宮をあらためていたアラムと落ち合ったあと、まだ捜索していない場所を手分けして探していたところに、悲鳴のような声で名を呼ばれた。振り返ると、回廊の向こうから見知った侍女が必死の形相で走ってくるところだった。

「ニコ・メルア!」

 ラズも踵を返してニコの下に走る。近付けば、いつもの鉄仮面は跡形もなく、今にも泣きそうだった。

 この顔には見覚えがあると、ラズは焦る気持ちとは別の所で思い出す。あれは三年前、ラズが治りきらない風邪を引きずって途中から授業に出た日。乱闘騒ぎの真ん中で、ひとり獣のように叫んで暴れているニコがこんな顔だった。

『姫様を助けて……!』

 顔を出して三秒での悲鳴に、ラズは最初全く事態を呑み込めなかった。だがテンギス・ベリーエフとその取り巻きたちに囲まれるようにして地面にうずくまっている少女を見付けた瞬間、手近な奴の木剣を奪ってそいつらを蹴散らしていた。

 勿論多勢に無勢ではあったが、途中から教師陣が応援を呼び、アニカとニコは大人たちに引きずられるように連れていかれた。ラズが学校でアニカを見た、それが最後だった。

 ラズはその日の夜に熱をぶり返し、やっと母に許可を得て学校に戻った時には、アニカは自主退学という形を取っていた。偶然学校にいたニコを捕まえて事情を聞いて初めて、ラズはベリーエフたちの卑劣なやり口を知ったのだ。

『姫様をお守りできなかった……ッ』

 そう言って歯を食いしばったニコの姿が、今に重なる。

「姫様がいらっしゃらないのです!」

 ラズに取りつくなり、ニコが叫ぶ。ラズは嫌な予想が当たったと、表情を険しくした。

「やっぱり、一緒じゃないのか」

「テンギス・ベリーエフが姫様の様子を嗅ぎまわっていると聞いて、他の者に確認と、護衛も頼んで戻ってきたら」

「ベリーエフ!?」

 想像外の名前が出てきて、ラズは声を裏返した。思わず、今までお互いのことなんか知りもしないという顔をしてきたことも忘れて叫ぶ。

「あいつは、お前が城の周辺も近寄れないくらい徹底的に追い込んで二度と表に出てこれなくしたはずだろ!」

「そうです。メトレベリ様があいつとその取り巻きを徹底的にボコッて心をくじけさせて二度と姫様に近寄らないように恐喝してまわったお陰で、噂すら聞かなくなったはずなのに!」

「…………」

「…………」

 思わず無言になって見つめ合う二人。再会した瞬間初対面を決め込んだ腹で、お互いにどう思っていたかがよく分かった瞬間だった。

「アニカ殿下が動き出したことで、触発されたか」

「短絡的な人間でしたから、思い付きで復讐を考えても不思議ではありません」

 二人は、先程の件についてはお互い不問にすることにして会話を再開した。

「誰に聞いたんだ」

「イアシュヴィリ様です」

「やっぱりあいつか」

 レヴィに受けた忠告が、ぴたりとはまる。問題は、マルセルがどこにアニカを連れ込んだかだが。

「お前はどこを探した」

「わたくしはトゥヴェ宮をほとんど」

「俺もアラムとムゼ宮を西から順に見てきた」

 トゥヴェ宮は王族の居住空間としての私的な部屋が多く、ラズや下男のアラムには立ち入れない場所が多かった。それはマルセルも同じかと、ムゼ宮を見てきたのだが、気配もなかった。となると残すは。

「「王室礼拝堂」」

 二人の声が重なる。城の東端に立つ礼拝堂は、春祭りの初日こそ王侯貴族の礼拝や儀式で賑わうが、中日なかびはムゼ宮や円形競技場などに人が集まり、最終日の夜の式典まで人は少ない。

 それにマルセルは監視者の一族イアシュヴィリの人間だ。礼拝堂とは縁がある。二人は一瞬で合意して同じ方向に駆けだした。そして幸運なことに、礼拝堂の入口近くで、見知った人物を見付けることが出来た。

「イアシュヴィリ伯爵様!」

 ニコが駆け寄って名を呼ぶ。

 祭礼用の正装に身を包んだニコロズ・イアシュヴィリは、春祭りに似つかわしくない甲高い声で呼ばれ、眉間に強い不快感を刻みながら二人を振り返った。

「何だ? 突然失礼だろう」

「申し訳ありません、ですが、」

「アニカ殿下を探しています」

 侍女ごときが、という白眼視を感じ、ラズが続きを引き取る。と、明らかにニコロズの視線が変わった。

 ラズは粗野で品がなくとも、家柄だけはきちんとした公爵家だ。と思ったのだが、目を眇めて観察するような視線は、どうも意味が違う気がする。だがラズは構わず続けた。

「貴方の息子と一緒にいる可能性が高い。居場所をご存じでないですか」

 ニコを脇に避けて詰め寄る。だが返されたのは、少し予想外の発言だった。

「侍女殿が探せば十分だろう。君は第二王女には近寄るな」

「は? 何故今そんなことを」

 思わず失礼と知りながら間の抜けた声が出ていた。こんな時にまで、息子の競争相手を蹴落とそうというのだろうか。そんなことよりも早く答えろ、と内心苛立つラズに、ニコロズは更に想像だにしない言葉を続けてきた。

「自覚はないだろうが、君の前世の一つは監視者ラト・イアシュヴィリだ。魔女の関係者が近くをうろつけば、魔女の覚醒を誘発しかねない。今すぐ婚約者候補の話を断れ」

「…………は?」

 理解が追いつかなかった。

 前世は、シルヴェストリ王国ではお伽噺のようなレベルで信じられている程度だ。王家の子供が前世の占断を受ける話は有名で、それにあやかるように貴族の間でも占断を依頼することはよくある。

 だが普通は商人とか兵士とか、曖昧で適当なはずだ。個人名で占断されるなど、異例中の異例だ。しかも監視者ラト・イアシュヴィリと言えば、魔女クィルシェを討った五百年前の英雄。全く本気とは思えなかった。

「今は前世の話なんかどうでもいい。早くマルセルの居場所を、」

「子供の頃に占断を受けただろう」

「んなもん忘れた」

「これだからメトレベリ家は……!」

 急かすラズの言葉を遮って問うニコロズに苛立ち、ラズはついに敬語も忘れて本音で返す。ニコロズが皺の増えた眉間を抑えて呻いたが、ラズはどうでも良かった。

 恐らく、九割脳筋の父は、形式上占断は依頼しても、六人兄弟の前世も未来もほとんど興味などないはずだ。多分、勝手に育てくらいにしか思っていない。

(くそ、こんなことしてる場合じゃねぇのに)

 今は一分一秒も惜しい。ニコロズが教える気がないのなら、これ以上構っていられない。

「知らないのなら結構です。では」

 軽く一礼すると同時に再び駆けだす。その背にニコが続き、ニコロズが「待て、だから君は探すなと、」としつこく声をかけた時だった。

 どごぉんっ……! 

 大地を揺るがすような大きな衝撃音が、辺り一帯に響き渡った。



 目の前の景色が、やけに鮮やかに見えた。

 壁に叩きつけられ折れた燭台の銀色。飛んだ祭壇のせいで割れたフレスコ画の、鷹の赤茶色や緑色の破片。風圧で崩れて入口の用を失った壁の向こうから降る、金に輝く光の柱。その向こうで幻想的に輝くバラ窓のステンドグラスは、血のような赤が特に印象的だった。

(久しぶりに、生身の目で見ているからか)

 久しぶりにじかに吸う空気は、あちこちが崩れたせいか、随分埃っぽい。清々しい気分とは言い難かった。気のせいか、魔法の力も弱い。それでも、五感全てで感じる自然の在り様は、死ぬ前と何ら変わりない。それで十分だった。

(さて、次は誰にしようか)

 爪の先から髪の一本まで、自身に触れる全ての存在をゆっくりと噛み締めるように確かめてから、ふらりと足を踏み出す。がしゃり、と瓦礫を踏んだ時、「ぅ……っ」と呻くような声が足元から上がった。

 踏んだ足は上げぬまま、瓦礫の間にある足のようなものを見る。そのまま視線を右にずらすと、金髪碧眼の男が額から血を流して倒れていた。

(死んではおらなんだか)

 淡々と、思う。目覚めたばかりで、力がまだ完全に戻り切っていなかったせいかと、瓦礫を睨む。玩具を掌でもてあそぶ感覚で、瓦礫を風で包み、持ち上げ、その顔面に叩き落す――寸前、「ふふ……っ」と笑声が響いた。瓦礫が、その高い鼻梁びりょうのすぐ手前で止まる。

 風の加減を変え、瓦礫を耳のすぐ横に落とす。そしてまた風を操り、顔にかかった金髪を避けた。

「はは……本当に、風に生気を感じる……」

 自身こそ生気のない碧眼をこちらに向けながら、男がどこか愉快そうに笑う。こんな風に笑ってくる者もまたいなかったなと、毛ほどの興味が男を観察する。そして気付く。

「ほぅ。妾の封印を壊したのは、お前か」

 この身にかけられた薄膜のような、鬱陶しい枷を外した術者の力を感じ、皮肉げに口端を上げる。

「そうですよ。クィルシェ女王陛下。……あぁ、本当に、太陽のように輝いている」

 十五歳の少女の矮躯に向けて、男が恍惚と呟く。その感嘆がこの双眸に向けられていることは、あやまたず分かった。聞き飽きた賛辞だ。途端、興味が失せる。

「至貴ぞ。褒美に、捻り殺してやろう」

 呼び寄せた風を握って圧縮するようにして、男の体を床から持ち上げる。そこら中打ち身で機能しないのか、男の四肢はだらりと垂れ下がっていた。だというのに、男は更に顔を歪ませて、息も切れ切れに嗤う。

「おかしいなァ。陛下は、美しい男が好物だと、伝え聞いていたんだけど」

「男など、この世で最も嫌いじゃ」

「シルヴェストリ史上、もっとも多くの愛人を作った貴方が?」

「愛人だと、妾が呼んだか? これだから男は嫌いじゃ」

 この状態でよく舌が回るものだと、小さく呆れる。そして最低の伝聞を残した連中に改めて殺意が湧く。

 クィルシェは確かに二度結婚し、一度目は死別、二度目は離婚している。だがしつこく夫を宛がってきたのは周りの宰相をはじめとする老臣どもだし、離婚を成立させたのも奴らだ。我こそは女王の寵を得ていると勝手に触れ回っていたのも、権力争いが三度の飯よりも好きな男どもで、その中から適当に相手を選んでも、二晩と続いた輩はいない。

 愛した者など、どこにもいない。

「確かに……。では、男嫌いは、貴方のせいでしたか」

 誰の、とは言わなかったが、察しはついた。何百年と経ってもひとの思考は変わらぬかと、いい加減呆れの溜息が出る。

「どいつもこいつも、妾のせいにするのが好きよな。自分の意思が他人に負けていると、なぜ自ら認めたがるのか。理解に苦しむ」

「意思が、他人に負けてる……?」

「そうであろう。自分の意思が誰かに左右されていると考える時点で、負けを認めていることに相違なかろう」

 逆に言えば、強固な意志を持ち続けるには、全ての行いも結果も自身の実力だと受け止める度量がいる。だがそれは、人の上に立つ者として、当たり前の前提条件だ。そのどこに感銘を受けるものがあったか知らないが、男は「あぁ」と吐息をもらした。

「結局、僕が跡継になれないのは、感覚だけで動く弟のせいじゃなくて、弟のせいにした僕のせいか……」

 そろそろ、体を取り巻く風のせいで呼吸もしづらくなってきたらしい。男が喘ぐように諦念を色濃くする。今まで何度も見てきた、生を手放す顔だ。

(わざわざ手を下すもなしか)

 肩慣らしにもならぬと、男を持ち上げていた風の塊を解放する。ががしゃっ、と下の瓦礫が追撃を喰らって文句を言う。

「殺さないのですか? 阻害者は、全て殺してきた貴方が」

 けほっ、と声を掠れさせながら、男が心底不思議そうな声を上げる。まるで殺してほしそうな声だった。けれど応える必要すらない問いだった。

 無視して次の目的へと歩き出すと、男の声が縋るように追ってきた。

「せっかく目覚めたのですから、ついでに復讐でもしませんか」

 追従するようなその声は、けれど野心を秘めていた家臣たちとは少し違っていた。まるで、一緒に破滅への道行きを誘うような、懇願するような声音だった。

(憐れな男よ)

 それでも、構うものではないと更に先に進む。と、更に追ってきた声についに足を止める。

「監視者の一族も、まだ生きていますよ」

「……小うるさい爺どもか」

 卑しい笑みで諫言と甘言を繰り返してはコバエのようにたかってきた男たちの顔が甦り、顔を顰める。だが、

「そして、陛下を殺したラト・イアシュヴィリも、陛下と同様に今に生まれ変わっています」

 続いた言葉に、足を止めざるを得なかった。と同時に、一つの疑問が口をつく。

「……イアシュヴィリ? 奴の名前はラト・ハハレイシヴィリじゃろう」

「ハハ……? あぁ、それは多分生家の名前ですね。もう途絶えた分家の」

 やっと違う反応が引き出せたことが嬉しいように、男が満足そうに答える。だが反対に、一瞬見開かれた金の瞳は、ゆるゆると虚空をさまよった。そして少しの時間を空けてから、一言。

「……途絶えたか」

 そう、小さく呟いた。

 それはそうであろうと、内心では頷いていた。ラトの母はラトを産んだために亡くなり、父も唯一の子を本家に召し上げられた。跡継のない分家など、潰れて当然だ。

 だが反面、蘇るのは無邪気に笑って語っていた、愚かな夢物語で。

『夢は、毎日たくさんの家族に囲まれて、朝から晩までわいわい遊んで騒いで、退屈する時間なんかひとつもない暮らしをすることです!』

 生家の名で残っていないということは、新しい家族も作れず、本家に元の名を握り潰されたということ。つまり。

(使い捨てられたか)

『貴女のために、貴女を殺します』

 そう言ったくせに、殺した後、自分のためには生きなかったのか。生きられなかったのか。

(あの裏切者めが)

 ちろり、と形容できない怒りが胸の底に小さく湧き上がる。最後に見た顔が、感情の最も深い所で苦く燻っていた。死の間際に感じた情動が、探さねば、と矮躯を急かす。

「……どこにいる」

 瓦礫に倒れたままの男を一瞥する。感情が制御できず、輝くような赤髪が視界の端でゆらゆらと広がっていた。

 それをまた男は愉悦を浮かべて見上げながら、ははと笑った。

「探さずとも、もうすぐ来ますよ」

 企図した通りに動いたとでも思ったのだろうか。だが他人の思惑など、どうでも良かった。

 ラト・ハハレイシヴィリとまみえる。それだけで、既に一度は止まったはずの胸が高鳴る。その感情の名前を静かに探しながら、死にかけの男と二、三の言葉を交わしていた時、その者は飛び込んできた。



 王室礼拝堂の正面入口は、春祭りの最中だというのに閉じられていた。普段から立っている衛兵の姿も見当たらない。もしかしたら、マルセルが何事か言って離したのかもしれない。

 ラズは隣のニコに目配せをして、精緻な透かし彫りの施された美しい樫の扉に手をかける。中は、身廊の左右に整然と並んだ長椅子に、二階の回廊から差す光とステンドグラスが通す色彩が幻想的に舞い降る、荘厳で静謐な空間――であるはずだった。

 だがラズの目に前に広がっていたのは、静謐とはかけ離れた、大きな破壊の痕跡だった。

(さっきの音は、やっぱりこれか)

 慎重に身廊の奥へと足を運びながら、目の前の惨状をどうにか確認する。正面の数段高くなった祭壇と左の翼廊との間にあったはずの壁が、嵐の直撃でも受けたかのようにほとんど全面が無残に床に散らばっている。近くにあった長椅子の一部も、巨人が足で薙ぎ払ったかのようにあちこちに飛び散り、哀れに打ち砕かれている。

「なっ、何だこれは!」

 背後から、遅れて入ってきたニコロズの声が届く。そう叫びたくなるのも分かる、痛々しい光景だった。

 だがそれを嘆く余裕は、ラズにはなかった。光が埃に反射して視界の悪い中を、目を凝らしてアニカを探す。果たして、その小さな少女の姿は、光と瓦礫の向こうに見付けることが出来た。

「アニカ殿下!」

「姫様!」

 二人同時に名を呼んで駆けだす。一足早かったのはニコだった。そのまま飛びつくかと思われた勢いはけれど、その寸前でぴたり、と停止した。

 一瞬不審に思ったものの、とにかく安否が気がかりでその体に手を伸ばそうとして、

「マルセル! これは一体何事だ!」

 出し抜けに背後から叫ばれて、意識をそちらに奪われた。ニコロズだ。確かに、アニカのそばにマルセルもいるはずだ。素早く視線を巡らせて優男の長躯を探す。が、その姿はどこにも見当たらなかった。

「マルセル、どこだ! 返事を、」

 ニコロズが、瓦礫の山にもたつきながら、小聖堂だった空間に足を踏み入れようと進む。その声はけれど、真横から上がった凍えるような声音に遮られた。

「――イアシュヴィリ、だな」

「っ?」

 ぎくりっ、とニコロズが全身で驚いて声のした方を振り返る。そこにいたのは、確かに赤味の強い亜麻色の髪と白い肌を持った、十五歳の少女だった。けれどいつもの困り果てたように下がっていた眉は怒りを表すように吊り上がり、唇は血の気を失う程かたく引き結ばれている。それだけで、受ける印象はまるで違った。

 だが決定的に違っていたのは、ニコロズを射殺すように鋭く細められた瞳の、その色。落陽を思わせるような、濃い金色をしていた。

「第二王女殿下……その、目の色は……」

 ニコロズが、戦慄くように声を震わせる。その意味を、ラズもお伽噺程度には知っていた。魔法の力が強ければ強い程、その瞳の色は金に近付く。伝説の女王クィルシェなどは純金の太陽のような瞳を持ち、誰もその瞳を直視できなかったという。

「アニカ殿下は、魔法の力に目覚めた、のか?」

 問いながらも、その存在感は昨日までとは明らかに異質だった。それを肯定するように、隣で固まったままのニコが、「……違う」と掠れた声で呟く。

「殿下、マルセルに何をされたのですか」

 ニコロズが、恐れを抑え込むようにしてアニカに問う。けれど返るはずの弱々しい声は、ここにはなかった。

「殿下、とは妾のことか? 二度も敬称を間違えるとは、いい度胸じゃな」

「! では、やはり……」

 何がやはりなのか、ニコロズはアニカを凝視したまま、その先を口にすることはなかった。焦れたラズが「どういうことだ」と説明を求める。

 ニコロズは、虚無を内包するような凍えた金の瞳を窺うように一瞥したあと、口を開いた。

「覚醒、したのだ……。十年前に厳重にかけておいたまじないを壊され、クィルシェ女王陛下として」

 魔女クィルシェ。五百年前に、監視者ラト・イアシュヴィリに討たれて死んだ強王。国力を増やし、領土を広げるために、度重なる侵略戦争を指揮し、逆らう者を殺してきた独裁者。

 しかし晩年、膨れ上がるばかりの戦費と遊興費に快進撃は曇り、内憂外患は悪化の一途を辿った。だが彼女が弑逆されたきっかけは、当時、帝国の追撃軍が国内を通過したことだった。

 応対した国境警備部隊が大敗を喫した翌年にも帝国が遠征軍を出し、それを撃退するためにクィルシェが陣頭に立って撃退すると宣言した。それは大陸随一の軍事力を有する帝国への宣戦布告でもあり、宮廷中が反対した。ここで逆らえば、他の国のように併吞されるだけでなく、女王を始め重臣たちはことごとく処刑されるだろう、と。それよりも帝国への従順を示し、保護領となって国を存続させるべきだと。

 あるいはクィルシェにならば、帝国の何万という軍隊でも勝利は不可能ではなかったかもしれない。だがクィルシェは強大な魔法の使い手ではあったが、不死ではなかった。クィルシェの死と同時に再び帝国がその牙をむけば、シルヴェストリは一日ともたずに歴史からその姿を消していただろう。

 結果として、宮廷は女王クィルシェを弑することで、帝国に恭順の意を示した。シルヴェストリ王国はそれから約百年以上、賢王ヴァシリー五世が帝国勢力を放逐するまで、植民地として支配された。

 それが。

「覚醒? でも、殿下は殿下だろ?」

 意味が分からなかった。瞳こそ変わったように見えるが、ラズの目の前に立つのは、どう見ても小柄な十五歳の少女でしかない。しかしそれに答えをくれたのは、横で顔を蒼褪めさせたニコだった。

「殿下の前世は、クィルシェ女王陛下だと、占断を……」

「!」

 その一言で、ラズは幾つかのことを理解した。アニカが子供の頃から王族籍を剥奪され、降嫁することが決まっていた理由を。ニコロズがアニカに近付くなと言った理由を。そして今、アニカの雰囲気が真逆に変わってしまった理由も。

「じゃあ、今の殿下は……」

「そろそろ説明と理解は済んだか」

「!」

 すぐ目の前で、アニカの時よりも一段低くなった声が問う。その声に、全員が改めて瓦礫の上に立つ少女を見た。

 アニカでは絶対にしないような、睥睨するような鋭い目つきで、三人を順に眺めている。そこから放たれる威圧感は、前世や魔法をお伽噺の中だけのものと思っているラズにすら、俄かに信じさせるほどの凄味があった。

(本当に、目の前の人物がアニカではなく、クィルシェ女王だとしたら……)

 だがラズがその先を心配して声を上げるよりも先に、ニコよりも青白い顔をしたニコロズが口を開いた。

「……陛下。マルセルは……陛下を呼び起こした男は、どこにいますか」

 僅かにラズを長く見ていたと思われた金の瞳が、ゆるりとニコロズに滑る。自身よりもはるか上にある顔を冷たく見下しながら、少女の姿を借りた女王は傲慢に「ふん」と鼻を鳴らした。

「無能者など、一族に不要ではなかったのか? 妾の機嫌を窺うよりも先に問う程重要なことには思えんな」

 暗に、跪いて覚醒を祝えとクィルシェが告げる。その右手が軽く持ち上げられ、ニコロズの周りにだけ風が起きている意味はつまり、しないのならば強引にでも跪かせようということか。

 しかしニコロズは、ラズの予想に反して頑強に膝をつこうとはしなかった。

「確かに、奴には占断の力もなく、問題しか起こしませんが……それでも、」

 キッ、とそれまでずっと瞳の奥にあった畏怖を振り払って、ニコロズが強王を睨む。

「貴女に言われる筋合いはありません」

 それをどこか満足そうに受けて、クィルシェが初めて口の形を笑みに変えた。

「奇遇だな。同意じゃ」

「ッ!」

 瞬間、ニコロズが背後に吹き飛んだ。小さな瓦礫とともに、翼廊の壁に背中から叩きつけられる。

「イアシュヴィリ伯爵!」

 突然の事態に、思わずラズが叫ぶ。ニコも短い悲鳴を上げ、そのまま床に崩れ落ちたニコロズに駆け寄った。

「喜べ。これがそなたの息子の望みじゃ」

 そして、ニコに助けられ、その場に上半身を起こすニコロズを虫けらのように見下ろして、クィルシェが嘲るように言う。

「……望み?」

 ニコロズが、かはっ、と噎せながら、愕然と繰り返す。信じたくない、と言外に滲む声に、けれどクィルシェはまるで斟酌しんしゃくせずに淡々と頷いた。

「妾を目覚めさせることで、己を認めぬ者を排し、自身の価値を自身で作り上げる。昔から変わらぬ欲望じゃ」

「…………っ」

 溜息交じりの語尾は最早、嘲笑を通り越して憐みすら感じさせた。その意味を都合よく理解しないでいられるほど、ニコロズも傲慢ではなかった。

 それはつまり、ニコロズが行ったアニカの封印を破壊し、父の意に反することで、父と弟によって抑え付けられてきた不満を晴らすということだろう。

 遠目にも、ニコロズがそのことを理解したのが分かった。がっしりとした体が微かに震えている。俯いた表情こそ窺えないが、そこにあるのは怒りか、悲しみか。

 けれどクィルシェは、まるでそんなものに興味はないように、もう一度ラズの目の前で右手を持ち上げる。その仕草に今見たばかりの風の威力を思い出し、ラズは咄嗟にクィルシェの眼前に飛び出していた。

「待て!」

 両手を広げ、自分の胸程の身長しかない少女の視界を阻む。こうして対峙してみれば、こんな小さな女の子が、五百年前にシルヴェストリ王国の最大版図を成し遂げた女王だとは、とても思えなかった。

(アニカ……その中にいるのか……?)

 呼びかけるように、目の前の金の瞳を見下ろす。見返す双眸は、ラズを見ながらも、どこか遠くを見晴るかしているようだった。その表情の中に一瞬、アニカの泣き顔が重なった気がして、ラズは恐怖とは違う何かに呑まれそうな錯覚に陥った。

 それを引き戻したのは、アニカの声で冷たくうそぶく女王だった。

「……退かぬなら、ともに葬るぞ」

「だ、だから待ってくれって! それで何で殿下……じゃなくて陛下が、こんなことをする話になるんだ」

 マルセルが、家族に対し表面上とは異なる気持ちを抱いていたことは分かった。だがだからと言って、クィルシェがそれに荷担する理由が分からない。そう告げると、クィルシェは美しい金色がかった赤髪をさらりと揺らして、さも当然のようにこう答えた。

「こやつがイアシュヴィリだからじゃ。他に理由がいるか?」

 何故聞かれるのか分からない、という風に返すクィルシェのあまりの純粋さに、ラズは思わず言葉を失った。

 確かに、ラト・イアシュヴィリは女王クィルシェを殺した。だがそれは過去の出来事で、ラト本人も暗殺の数か月後に死亡している。いくらラトが憎くても、その代償に子孫を殺すのは道理が違う。

 ラズは、まるで幼子のような理屈で人を殺そうとするクィルシェに、改めて背筋が寒くなった。

「……それは、先祖がやったことだ。今の人間には関係ないだろ」

 微かに震える声で否定する。それをクィルシェはまるで道化の戯言のように受けて、ハッと吐き捨てた。

「それこそ妾には関係ない。監視者アクレットは監視者じゃ。妾を殺すように仕向けた」

 その言葉に込められた憎悪に、ラズは最早正論すらも口に出来なくなった。監視者が監視者の役目を全うするのは当然で、クィルシェを殺した人間がもうこの世にいないのも当然で。では彼女の復讐の正当性は、どうなるのだろうか。彼女が受けた裏切りや消化出来ない憎悪は、どこへ行けばいいのだろう。

 クィルシェには、二人の夫と数え切れぬ愛人がいたが、本当に心を許した相手はいなかったとも言う。それでも歴史上では、ラト・イアシュヴィリはクィルシェの最後の寵臣だった。少しでも信じていた相手に、最悪の形で裏切られた女性の心を、一体誰が分かると言えるだろう。ましてや煩い程賑やかで鬱陶しくても、まっとうに愛されて育ったラズには、その答えなど到底推し量れるものではなかった。

 だから、それには同情するなどいう上っ面だけの言葉など、決して口には出来なかった。

 だから代わりに、ラズもまた自分の勝手な望みを口にする。

「それでも、アニカの体を使ってこんなことはするな」

「妾に命令するのか」

「違う。これは、当たり前のことだ」

 言下に否定する。そう、それはラズの倫理観からすれば当然のことだった。だが、目の前の矮躯に巣食う人物は、あまりに違っていた。

「ッ!」

 身構える暇もなくラズの体が宙に浮く。と思った次の瞬間には、体中に痺れるような衝撃が走っていた。

「がッ……!」

 弾丸のような突風に吹き飛ばされたラズの体が、礼拝堂の壁に激しく打ち付けられる。そのままどさっ、と床に落ちた男を塵のように見下ろして、クィルシェはクィルシェの倫理観を説いた。

「笑わせる……。当たり前なのは、家族でもいがみ合い、必要であれば殺し合うということの方じゃ。――なぁ、マルセルとやら?」

「!」

 最後の言葉はラズではなく、小聖堂の奥の方へと向けられたものだった。まさかと思いながら、全員の目がそちらを向く。果たして、元はフレスコ画があった壁に打ち付けられて半壊した祭壇の陰から、一人の男がのそりと現れた。

 足を引きずり、額からは血を流し、満身創痍ではあるものの、その金髪碧眼は間違えようもない。

「マルセル……!」

 最初にその名を呼んだのは、無論ニコロズだった。よく見れば、その足元には焦げ茶色の頭も見える。テンギス・ベリーエフだ。

(やっぱり、一緒だったか)

 ニコの話から、マルセルがアニカに近付くためにベリーエフに接触を図ったのだろうとは思ったが、まさかこんな大それたことを計画していたとは。

「マルセル……お前が、ベリーエフを焚き付けたのか……!」

 体中の骨が砕けたような痛みで言うことを聞かない体を押し上げて、ラズが確信を持って問う。案の定、マルセルは酷く緩慢な動きながら、いつもの甘い笑みで応えた。

「それが一番、彼女を動揺させられるだろうと思ってね。期待通り、彼女のまじないを壊すことが出来たよ」

 ラズに答えたはずのその視線が、ゆっくりと滑り、ニコロズのもとで止まる。口の端を更に吊り上げるような行為は、まるでざまあみろ、と言っているようで。

「てめぇ……!」

 父親の鼻を明かすためだけに、アニカを利用し、傷付けたのかと思うと、無性に腹が立った。それがどんなに奴にとって至上の願いでも、アニカを巻き込んだことが許せなかった。

「僕はイアシュヴィリの家に生まれながら、占断の力もなく、まともに占いも出来なかった。だというのに、術者からは最も嫌われる、壊す力だけは、不思議と使えたんだ」

 だから、仕方ないだろう? と、肩を竦めて続けたマルセルに、ラズの怒りは沸点を超えた。体中を縛る痛みも押して駆けだそうとした、その直前、

「マルセル……!」

 体を起こし立ち上がったニコロズが、マルセルに向かって飛び出した。その顔は先程の蒼褪めた時から一転、何かを堪えるように赤黒く染まっていた。

 それを正面から迎えるように――あるいは、体中の傷のせいでそれ以上そこから動けないまま――マルセルが笑う。

「父上もご立腹のようで、重畳ちょうじょうです」

「マルセル、お前……」

「将来を約束された弟と父上を、ずっと困らせたか――」

 マルセルの皮肉たっぷりの言葉はけれど、そこで不自然に途切れた。ニコロズが、痛む体を押して息子の元まで辿り着いたからだ。そして。

「無事だったか……!」

 互いの血がつくのも構わず、その傷だらけの体を確かめるようにしっかりと抱き寄せた。背ばかりはマルセルの方が拳一つ分程出ていたが、体格はニコロズの方が大きく、優男の体はすっぽりとその両腕の中に納まってしまった。

 ニコロズの思いがけない行動に全員が沈黙すると、その荒い息遣いと、息子を抱きしめる衣擦れの音だけが、破壊された礼拝堂内に何重にも響く。その強さが、語るよりも雄弁に、子の生死を案じていた父の内心を物語っていた。

 だがこの中で最も意表を突かれたのは、誰あろうマルセル本人だったろう。

「父上……?」

 力強い両腕の中で、先程までとは打って変わった戸惑った声を、マルセルが上げる。その頬を、バシッ、と大きな手が打った。

「な、ん……?」

 突然のことに、マルセルが目を見開く。だが、音に反してその平手がそれほど強くないことは、離れていたラズにでも分かった。

 体を離し、マルセルの目を真っ直ぐに見つめて、ニコロズは息子を叱る。

「いいか、マルセル。魔女クィルシェは、目覚めてしまえば誰にも対抗できる手段はない。ラト・イアシュヴィリのような無力化の力も、我ら監視者にはもう二度と生まれ出でないだろう」

「……そんなことは、更々承知し、」

「分かっておらん! 女王を殺したのは国を守るためではあったが、その怒りはお前ごときの私怨で晴れる程安くはないのだぞ」

 脅すように凄むニコロズの声はけれど、どこまでも真剣だった。それはつまり、自分を殺した国自体を、女王が許すはずがないという確信だった。薄ら笑いが消えたマルセルが、焦土と化した故国を想像したかどうかは、分からない。だがそれを、それまで沈黙していたクィルシェが「ふふっ」と可愛らしい笑声で、肯定した。

「道理で魔法の力が弱いはずじゃ。今や、魔法の使い手は一人もおらぬか」

 改めて確認するようにニコロズを見、マルセルを見、そして最後にラズを見る。そして、にたり、と笑みを深めた。そこに滲んだ凄絶さは、とても十五歳の少女の造作ぞうさくではなかった。

「その様子では、母なる泉デダ・ツカリもとうの昔の枯れ果てたか。枯れたのは、ころころと変わる人の価値観か信仰心のせいか――とまれかくまれ、妾の独壇場ということじゃな」

 金の瞳が、猛禽のように強く煌めき、三度みたびその華奢な繊手が持ち上がる。その手を、今にも零れそうな涙を懸命に飲み込んで駆け寄ったニコが、縋りつくように押し留めた。

「陛下! おやめください!」

 潤んだ栗色の瞳を、つ、と無感動な瞳が見上げる。その口が、知るはずのない名を呼んだ。

「――ニコか」

「! ……わたくしの名を、存じて……」

「あのような稚拙な呪いで、妾の意識まで完全に封じ込むことなど出来るはずもない」

 ニコは一瞬驚いたが、すぐに顎を引くようにしてクィルシェの前に片膝をついた。キッ、と金の瞳を見上げ、「では、陛下」と改めて頭を下げる。

「後生ですから、アニカ第二王女殿下をお返しください。姫様の体で、どうかこれ以上のご無体はなさらないでください」

 それはラズと同様、その少女の体の中にまだアニカが眠っていると考え、体を明け渡すようにという願いだった。だがそれは同時に、女王に復讐を諦めろということで。

「無体? 無体とはなんじゃ? ……こういうことかっ?」

 ぱしりっ、とニコの手を振り払う。と同時に風が堂内を吹き荒れ、長椅子が飛び、壁も床も抉れるようにひび割れた。

 最も近くにいたニコは吹き飛ばされ蹲り、マルセルとニコロズは互いを庇いながら壁まで押し戻される。最も離れた場所にいたラズでさえ、両足を踏ん張っても飛ばされそうだった。

(腕の一振りだけで、これほどか……!)

 魔女クィルシェを止める方法など、ラズの頭では到底浮かばなかった。それでも、立ち上がって走り出す。アニカの下へと。

「や、おやめください!」と、床に這いつくばりながら、ニコが涙を散らして叫ぶ。「魔法は、使えば酷く体力を消耗すると聞きます。姫様は、一度も使ったことがないのです。そんなことをしたら、姫様が倒れてしまいます……ッ」

「では妾がこの体をずっと使ってやろう。さすれば、無用の苦痛を感じることもあるまい?」

 子供の頃からそばにいたことを知る女の懇願を、魔女はおかしみを込めて混ぜ返す。そして見せびらかすようにその掌を翼廊の壁の方――ニコと、その向こうのマルセルとニコロズが立つ方へと向ける。

「……いや――」

 ニコが、小さく首を振る。繊手が、緩やかに風を纏いだす。その手が巨大な風の塊を動かすのと、ラズが飛びかかるのは同時だった。

「やめろ!」

「きゃああっ」

 ドガァンッ、と壁を崩す衝撃が、ラズの怒声とニコの悲鳴を掻き消して幾重にも木霊する。そこに更に瓦礫と成り果てた壁が地面に落ちる音が何十、何百と重なり、轟音が耳をつんざいた。しかし。

「……生きて……」

 そう呟いたのは誰だったか。瓦礫が巻き起こす煙の向こうに、確かにニコやマルセルたちの姿は見えていた。

 僅かに芽生えた安堵を噛み締めて、ラズは捕まえていた両腕にもう一度力を込めた。実に不快げに睨み上げてくる少女の正面に回り込み、ともすれば怒鳴り散らしそうになる気持ちを呑み込んで呼気を整える。

「アニカは、これから大事な試合があるんだ。ラウルが勝ってくれていれば、最後の決勝に間に合う。体を、アニカに返してくれ」

 レヴィに選ばれた憐れな生贄のことを思いながら、ラズは自分に冷静にと言い聞かせる。クィルシェは手こそ振り払わなかったが、その目は下らぬと嘲罵ちょうばするように冷ややかだった。

「妾を殺した人間を讃える大会にか? 随分愉快なことを言う小僧じゃな」

「それも知ってるんなら、承知してくれ。アニカはこの大会で優勝して、母親に自分の気持ちを伝えるんだ。これを逃したら、きっとアニカは二度と言えなくなる」

「意味が分からんな。優勝せずとも、意見を言うのに誰に何をはばかることのある?」

「それが出来たら、アニカはあんなに困って泣いたりしねぇよ!」

 どこまでも嘲弄するクィルシェの態度に、ラズはついに我慢ならずに声を荒げていた。

 何度も挫けそうになりながら、それでも苦手な男たちに話しかけようとしていたアニカのことを。母の期待に応えたくて、出来なくて、それでも自分の気持ちを知ってもらいたくて頑張ろうとしていたアニカのことを。知りもしないで馬鹿にされるのは、どうしても許せなかった。

 けれどそんなことで、クィルシェの気持ちが揺らぐことなどなく。

「難儀よな。余計に妾のままの方が良かろうに」

 びんぜんと眉尻を下げて、笑う。そのさまが、あまりにアニカとかけ離れていて。

(ダメだ。伝わらない……)

 相手のことを考え過ぎて、相手の反応が怖くて、たった一言を発するだけでも臆してしまうようなアニカと、目の前の人間全てを従え屈服させてきたクィルシェとでは、その価値観が違い過ぎて。細腕を掴む手の、力が緩む。

「……それでも。それでもアニカには、俺との約束があるんだ……」

 抜けそうになった手に力を込め、少女の瞳の奥の奥を覗き込む。金の瞳の奥に閉じ込められた、ヘーゼルの瞳に届くように、強く。

『次こそは絶対! 絶対おれが勝つから!』

 三年前、再戦を約束して、けれど果たせずじまいだった約束を。今日果たせるのだと、ずっとこの日を待っていたのに。

「だから……」

 だけど、ラズにはもうこれ以上、クィルシェの心を開かせる言葉を思いつかなくて。

「『約束』……」

 そう呟いた声が誰のものか、一瞬分からなかった。その声は、クィルシェのものというにはあまりに儚げで、アニカのものというにはあまりに切なげで。

 目の前で揺らめく瞳は金色なのに、やはりどこか、今にも泣き出しそうなほど寂しげに見えて。

「『俺の、最愛』……」

「――――」

 一瞬、視界がぼやけて、思考がくらんだ。そして束の間、無数の記憶が脳裏を駆け巡った。自分のものと、自分のものでない様々な、時に胸が締め付けられるような思い出。そしてその最後に、ぽんっと残ったのは、始まりの――あるいは再起のあの日。

 そう、父の下から奪われ、名も奪われ、地獄のような修練をして、これから死ぬまで、悪鬼の棲む城で暮らすのだと言われて登城したあの日。

 謁見の間の遥か遠くに、今まで見た何ものよりも神々しく美しいその御姿みすがたを見付けて。けれどそれ以上に、その太陽のように輝く瞳に過った刹那の寂しさに、心を囚われて。

 痛切に、思ったのだ。あんなに孤独な太陽では、あまりに可哀想だと。傍に行って、その瞳に自分を映して、少しでも笑わせてあげたい、と。

(一目惚れ、だったんだ)


 そう、男どもの中でたった一人、懸命に身の丈に合わぬ木剣を振るっていたその懸命な姿に、一瞬で目を奪われた。

(一目惚れ、だったんだろう、きっと)

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