第7話 男の人と、春祭り。

 自室に戻ってきた記憶はなかった。ドレスのまま部屋の隅に蹲り、捨てられた仔猫のように震えて丸まった。寝台は、マルセルとの記憶が蘇って怖くて、とても近寄れなかった。

 マルセルの細く骨張った感触も、頭が痛くなるような香水の匂いも、足の間に強引に入ってきた足の感覚も、ずっと体中に張り付いて離れない。どんなに体を拭っても、心にまとわりつくような不快感は消えてくれなかった。

(でも、……違う)

 この胸に嵐のように渦巻く怒りみたいな、悲しみみたいな情動は、マルセルとは違うところにある。脳裏に浮かぶのは、ジーラの、ラズの、二人の重なった顔。優しい、優しいと思っていた、偽りの言葉。そして。

(騙されてた……ずっと)

 そんな言葉ばかりが、ずっと終わりのない螺旋のように頭の中をぐるぐると回っていた。

(ずっと、何回も、そばにいた……男の人が)

 男、と考えただけで全身がぶるり、と震えた。ラズの顔の後にマルセルと、そして三年前の少年の顔が浮かび、歯の根が噛み合わない。

 ラズが何の目的で正体を隠していたのかは分からない。一度目も二度目も偶然だと思っていたけれど、そうでなかったら。

(どうしよう……怖い……こわいよ……)

 何度でも何度でもジーラの顔が浮かび、アニカはぎゅっと目を閉じた。

 三年前の少年もそうだった。焦げ茶色の髪に、一重の瞼とそばかす。名前もよく知らないのに、その顔だけは忘れたくても忘れられない。ただ剣の稽古でたまに打ち合ううちの一人で、会話はろくに交わしたこともなかった。よろしくお願いしますと、ありがとうございました、だけ。

 でも、彼が貴族の子弟たちの中でも発言力のある少年であることは知っていた。アニカがいなくなると、途端に唾を吐き捨ててアニカを罵っていたからだ。

『王女が、遊びでしゃしゃり出てきやがって』『少し出来るからって生意気に』『王女だから全員から手を抜かれてるって、まだ気付いてないのか』『師範せんせいたちも甘やかして』

 最初はアニカのいない所で話していた彼らも、次第に練習中でも聞えよがしに話すようになっていった。

『あの世間知らずに実戦ってやつを教えてやる』

 最後に聞いたのは、そんな言葉だった。悪意は怖かったし悲しかったけれど、それでも大丈夫だろうと思っていた。

 そしてその日。いつものように二人一組に分かれて打ち合う練習の時。少年と木剣を持って向き合って、数合も打ち合う前に、異変はあった。

 こつん、と何かがアニカに当たったのだ。最初は気のせいかと思った。けれどそれは何度も続き、額にも腕にも痛みが走った。小石だ、と気付いた時には足を掬われ、押し倒されていた。

『や、やめて……ッ』

『本物の戦場で、やめてって言ってやめてもらえると思ってるのか?』

 下卑た笑いを浮かべる少年は、もう木剣を持ってもいなかった。服の胸元を破られ、土のついた手が腹を撫でた。アニカの手の中にあったはずの木剣は、周りで同じく稽古していたはずの別の少年に蹴り飛ばされていた。もがいて助けを求めたが、周りを少年の仲間たちが壁のように隠して、無駄だった。

 あの時に、知ったのだ。これが、男という生き物なのだと。全員で、全力で、ひ弱な獲物を狩る。それが男のやり方なのだと。

 あの瞬間の絶望は、言葉にならなかった。がむしゃらに悲鳴を上げて抗う向こうで、ニコや誰かの怒声が少年たちを蹴散らすのが見えたが、前後の記憶は混乱していて、よく思い出せなかった。

 ただあの時の絶望は、何日経ってもアニカの心を蝕んだ。だから、マルセルの行為も、きっと何日もアニカの心を縛るだろう。

 けれど何度も繰り返し脳裏をよぎるのは、なぜかラズのことばかりだった。

 嘘をつかれていたことが、何よりも哀しい。

 婚約者の話が上がってから、ジーラの言葉や存在はアニカにとってとても大きな救いだった。アニカの恐怖を否定せず同意してくれて、励ますでも突き放すでもなく、ただ導いてくれた。彼女の言葉が心からのものだと思えたからこそ、男性でも理解するために頑張れたいと思えたのに。

(本当は、違ったの……?)

 ラウルやレヴィやマルセルのように、家庭や個人の事情があって、第二王女を利用しようとしていただけなのだろうか。そのために、男では近づけないから、変装して誤魔化したのだろうか。

 侍女だと最初に勘違いしたのは、確かにアニカかもしれない。けれど、言い出す機会はいくらでもあったはずだ。それを黙っていたということは。

(……他に、どんな理由があるの?)

 何度も何度も、記憶の中のジーラに問いかける。三つ編みを解いた背中は、一度も振り向いてはくれなかった。



 その夜、マルティがいつもの時間にアニカの部屋を訪れても、入室の許可は一向に下りなかった。

「もう寝てしまったのか?」

 独りごちると、金魚のふんのようについてきたディミトリー・ミシェリが一々憤慨した。

「殿下を呼びつけておいて先に寝るなどと、礼がなっていないにも程があります!」

「ディー。ここではマルティだ」

 後ろで喚く近侍に小声で釘を刺し、もう一度ノックする。やはり返事はなく、痺れを切らしたディミトリーが退室を促そうとした頃、マルティを呼ぶ声が、扉越しにささやかに届いた。

「今日は、ごめんね。ここからでも、いい?」

 物を隔てているというだけでなく、今夜のアニカの声は酷く弱々しく疲れているようだった。

 普段からマルセルが言い寄っているようだとはディミトリーから聞いていたが、それに加えて母上の強引な提案で春祭りガザクフリ武闘大会コンヴェントシアに参加するため、再び剣の稽古を始めたとも聞いている。心身ともに疲れているのは当然なのだろうが。

「何かあったのか?」

 扉は開けないまま、静かに聞く。その瞬間の動揺や迷いは、扉越しでも感じ取れた。

「大丈夫、なのか?」

 アニカが三年も自室にこもっていたのは知っているが、マルティの中の第二王女と言えば王立学校で剣を振るい、家族の中でも溌溂はつらつとした笑顔を振るうあどけない存在だった。こんなにも気落ちした声を聞くのは、思えば初めてだった。

 しかしマルティの心配に反し、返ってきたのは小さな笑声だった。

「マルティは、やっぱり心配性ね。染みついちゃったのかしら」

 心配をかけまいとしているのか、それともマルティの声を聞いて少しでも気分が安らいだのか。後者はないな、とマルティは少なからず寂しく思う。

(寂しい、か。今更だな)

 アニカに対するそんな感情は、三年前に諦めている。嫌なことを思い出し、マルティが返す言葉を探せずにいると、

「マルティは、大会に出るの?」

 アニカが逡巡を滲ませながらそう聞いてきた。マルティは再び沈黙する。

 春祭りの大会は、優勝賞品が王族からの褒美ということもあり、王族の参加は暗黙の内に認められていなかった。アニカは女性であることと、母の鶴の一声で例外的に許されただけだ。マルティもディミトリーも、参加するつもりはない。しかしそれを正直に伝えることは出来なかった。

 自分からは正体を明かさないこと。それが母と兄との条件だから。

(全ては、サーシャのため)

 マルティが最も優先するのは、アニカではない。マルティは無意識ながら声を落として、「いや」と応えた。

「大会には出ない。ぼくも、ディーも」

 少しの引け目を感じながら、そう続ける。アニカはどう思うだろうか。二人だけずるい、と詰るだろうか。

 けれど少しの間を空けて返ってきたのは、予想外に優しい声だった。

「そう、良かった」

「え……なんで」

「だって、マルティが怪我でもしたら、サー……みんな、心配するでしょ?」

 そう言う声に強がる様子は感じられず、戸惑うマルティを心配しているようだった。少しも不公平を責める様子がないのは、アニカがとことん鈍いからだろうか。それとも、分かっていて、それでもただ純粋に相手のことを思って心配できるのだろうか。

 そんなのは無理だ、とマルティは思う。マルティは妹のことしか考えていないし、心配もしない。けれど。

(サーシャも、そうか)

 妹はマルティと違って恥ずかしがり屋で引っ込み思案で、いつも人をよく観察している。その為なのか、妹はいつだって周りに気を遣って、自分を後回しにする。

 一度、『気疲れしないのか』と聞いたことがある。『見ない振りをする方が、気になって疲れちゃう』と答えられた。マルティにはいまいちピンとこない考え方だったが、もしかしたらアニカも似たようなところがあるのかもしれない。

「今夜は、もう下がります」

 今日はもうこれ以上この場にいるのが辛くて、マルティは自分からそう願い出た。

「うん、ありがとう。おやすみなさい」

 返ってきたのは、少しの安堵と少しの繕い。頼られないことの寂しさをまた感じながら、マルティは「失礼」と控えの間を退室した。



 翌日は、朝から春祭りガザクフリの祝砲が天を震わせた。

 春祭りの初日は、ラマズフヴァル城の謁見の間に多くの貴族が訪れ、国王王妃両陛下に今日の良き日と春の訪れを言祝ぐことから始まる。国王はもとより、王妃も贅を極めた豪奢なドレスと華やかに揺れる金糸の上着をなびかせ、挨拶に声をかけてくる貴婦人がいつも以上に後を絶たない。

 いつもは斜に構えた王太子ですら、今日ばかりはチョハと呼ばれる丈の長いコートに、細身のロングブーツという格好で、両肩の端から礼装のマントを翻す姿は、黙っていれば美丈夫に見えないこともない。

(見てないけど)

 結局、アニカは昨日の二つの出来事もあり、部屋に籠って誰とも会わないまま、自室からそれらの喧騒を聞いていた。

 春祭りが始まるとなると、その一月前くらいから城内で働く人々は慌しく、ぴりぴりしてくる。それでもいざ祭りが始まれば、城内に籠っていた緊張は一気に祝賀の雰囲気に変わり、人々の顔も明るくなる。

 窓から見下ろす南庭も、庭師がこの日に完璧に合わせた薔薇の花々が一面に咲き誇り、無数に行き交う人々の笑顔を一層綻ばせている。

(見てないけど)

 更に進んで城門をくぐれば、伝統的な民族衣装をまとった踊り子や観光客がそこかしこに溢れているはずだ。大通りの両脇には無数の天幕カセタが立ち、様々な料理や歌を振る舞って道行く人々を手招きする。

 民家の軒先には魔女クィルシェを模した色とりどりの人形ファジャが厄除けとして飾られ、最終日にはあちこちの広場で豪快に火にくべられるのだ。その火が燃え尽きる瞬間を共に見た男女は、末永く幸せになるというジンクスもある。

(見てないけど。というか、もう二度と見に行けないかも……)

 子供の頃に姉と一緒に少しだけ見物して回った頃の記憶が懐かしくて、しんみりと思い出す。あの時、毎年市井の十二歳以下の少女の中から選ばれるという春の花嫁パタルザリが自分よりもよっぽどお姫様らしくて、純粋に目を輝かせて見上げていた記憶がある。

 しかし男性恐怖症を治す見込みがない今となっては、町に下りることなど夢のまた夢だろう。

 ニコも、事情を聞いているのかどうか、昨日一声かけただけで、剣の稽古も婚約者候補と話すことも強要しなかった。けれど最終日の本戦に向けて、一日目から無所属の一般部門の予選は始まっている。そして明日と明後日の二日間で、騎士団や学校出身者の予選も行われる。掛布にくるまっていられるのも、この一日だけだ。

(明日には……)

 明日には二日間の予選、そして四日目と五日目には本戦に出場しなければならない。しかも本戦が一対一の勝ち抜き式に対し、予選は組ごとに分かれての全員参加型の乱戦形式だ。対戦相手の九割は恐らく男だろう。それを考えるだけでまた一層気が滅入った。

「姫様。明日のお衣装をお持ちしました。ご試着なさいますか?」

 昼頃、ニコが寝室の扉をノックした。アニカは重い体を引きずってニコを招き入れた。

 ニコは、誰から聞いたのか、あのあと寝室に顔を出すと、無言で寝台のシーツを全部剥いで出ていった。そして新しい寝具を持ってきてベッドメイキングが完了するまで、一言もアニカに事情を聞いたりはしなかった。

 結局、夜にマルティが扉をノックする寸前まで、アニカはニコにしがみついてしゃくり上げていた。ニコは、今までのようにただ「大丈夫です」と言って、アニカが落ち着くまで背中をさすってくれた。

 ただ側にいてくれるだけのことが、どんなに心強いか。改めて、ニコと離されたらやっぱり死んでしまうと、アニカは思った。

「王立学校時代に着用していた物と同じ型で整えました。その方が、動きやすいでしょう」

「……ありがとう」

 言われた通り、もそもそと着替える。男性用の立ち襟の制服を基本に、前合わせの丈長の上着や幅広の腰帯で女性らしさを出した作りだ。今までのドレスよりも断然動きやすいが、気持ちは塞ぐばかりだった。

「私に、出来るかしら……」

「では、どなたかをお選びになりますか?」

 手に持った狐の面を眺めながら呟くと、すかさずニコが無情な提案をねじ込んできた。昨日の優しさは既に時間切れらしい。だがそれに文句を言うよりも先に、脳裏にラズの顔が浮かんで、アニカは慌てて首を横に振った。

「そんな……簡単にできたら、こんなに悩んでないわ」

「…………」

 ニコの物言いたげな視線には応えられず、アニカは再びドレスに袖を通す。その横で大会用の服を畳みながら、ニコが「そう言えば、」と切り出した。

「メトレベリ様が」

「っ!」

「何度もお話をしたいと、姫様への取次ぎを希望されていましたが」

「だだダメ! 絶対ダメよ!」

「はい。絶対に誰も通すなとのことでしたので、それはもうこっぴどく追い返しました」

「そこまで!?」

 出し抜けに頭の中にいたひとの名前を呼ばれ挙動不審にもその場に飛び上がったアニカだが、続く言葉の容赦のなさに思わず声を上げていた。ニコがこっぴどくというからには、アニカの想像以上に冷たく容赦なくボロボロに追い返したに違いない。

 想像した途端、ラズに悪いことをしてしまったと思う。昨日、ニコがマルセルの触れた寝具を全て取り換えてくれたのは、他でもないラズが報告してくれたからだろう。それが計算でも善意でも、アニカには有り難かった。でもやはり、ラズがジーラであることを隠し近付いたことを思い出すとまだ怖いし、許せないし、当然の対応、のはずだと思う。けれど。

「そういう意味じゃなかったんだけど……」

「では、どういった意味合いで?」

「どうって……」

 ニコに追及されても、胸の中のもやもやした感情は、うまく言い表せなかった。会いたくないのは本心だが、このままずっと会わないままというのは、それもまた望んでいないような気が、する。

「ジーラさんに会いたい……」

 悶々と考えていた末にぽそりと出てきた自分の声に、アニカは驚いて口を塞ぐ。しかしニコにはしっかり聞こえていたようで、栗色の瞳にじぃ、と見つめられた。

「ジーラ、ですか?」

「あっ……」

 正体を知る前なら何の抵抗もなく聞けただろうが、今はとても相談できない。ニコにからかわれるという心配よりも、男性が女性の服を着ていたという事実を許可もなく他人に吹聴するのは、嫌なことをされた相手でもさすがに憚られた。

(趣味……じゃない、ものね?)

 でも、もし趣味だったら悪意ではないのかも、と一瞬考える。すぐにまさかね、と否定はしてみるものの、こればかりは本人に聞いてみないと分からない。

 そして浮かんだのは、ジーラが教えてくれた言葉だった。

『何を考え、それぞれの状況でどう動くかを知るものだろ』

 アニカが相互理解について悩んでいた時にかけてくれた言葉。まだ誰に対しても、全然実践できていないけれど。

(ラズ様が何を考え、どう動くのか……)

 ジーラだったら、少しだけだが分かるような気もする。けれどラズに置き換えると、よく分からない。二人は、同一人物のはずなのに。

 考えれば考える程頭がこんがらがってきたアニカに、ニコは更に余計な情報を与えくれた。

「ちなみに、話すのが無理なら伝言をと頼まれておりますが、お聞きになりますか?」

「伝言?」

 一瞬、実は趣味なんだ、と言われるかと思い、目で続きを促す。それが失敗だった。

「『俺は今度こそ殿下に勝って、必ず優勝する』だそうです」

「!」

 予想外の強い宣言に、アニカは僅かに浮き上がった心が再び地に沈むのを、否応なく感じてしまった。



 武闘大会コンヴェントシアは、王家の東の森に面した円形競技場で行われる。ラマズフヴァル城は小高い丘の上にあり、その斜面を活かすように観客席が階段状に作られている。普段は軍の演習や馬上槍試合などに使われるくらいであまり人気がないが、この日ばかりは貴賤の別なく大勢の人が出入りしていた。

 周囲や町の中心部に続く道には無数の天幕が並び、春の花が咲き乱れ、出番のない時間は皆自由に祭りを満喫している。

 が。

「ここここここわくないいいいっっ」

「残念ながら全く説得力がございません」

 ニコに誘導されて出場者の受付を済ませ、出場する組の待合天幕に顔を出したアニカは、速攻で回れ右をして人のいない隅で震える声を上げていた。

 今年の参加者は全部で百五十八人。予選ではそれぞれ十人前後で一組とし、一般では六組、貴族では二日間で十組の試合が行われる。三日間の予選でその十六人に残れば、四日目からの勝ち抜き戦への参加資格を得る。

 ちなみにニコにお願いして聞いてもらった女性参加者の割合は、一割程度らしい。

(聞かなきゃ良かったぁ)

 久しぶりに引っ張り出してきた愛用の長剣を抱えながら、アニカはその場に蹲る。男性服を着ている分余計に小さい印象が強くなり、その姿はどう見ても弱そうだった。同じ組の参加者にこんな姿を見られたら、開始と同時に集中攻撃されるのは目に見えている。

 しかしこれもニコにとっては予想通りの始まりだったらしい。ニコは欠片の動揺も見せず、後頭部で一つにまとめた馬の尻尾のような主の後ろ髪を見下ろしながら、「姫様」と呼びかけた。

「姫様は今、面で顔を隠し、服装も真っ平らでまるで男性のようです」

「……いま一瞬他意を感じたのは気のせいかしら」

 思わず、怖くないと言い聞かせるのを止めて、自分の膨らみの見当たらない胸をさする。

 確かに、男性らしい精悍な服に、奇妙な狐の面で顔の上半分を隠した姿は、少しも女性らしさはない。どちらかというと中性的というか、少年的というか。

(あ、自分で自分を落としてしまった)

 ずーん、とショックを受けるアニカには気付きながらも、ニコは淡々と話を続ける。

「姫様を女性だとすぐに気付く者は、そうそう現れないでしょう。しかし代わりに、弱そうな少年だとは思われるでしょう。侮られて開始と同時に集中攻撃を受けないためには、姫様が常に男性らしく威風堂々と振る舞う必要がございます」

「……そんなの、出来たら苦労しないよ」

「いえ、折角その変な面をつけているのです」

「変って、選んできたのはニコでしょ?」

 自分の狐も相当だが、ラズの可愛らしい兎は、アニカのためという以上に絶対面白がっていたと思う。

 が、やっぱりニコは気にしない。

「実戦慣れしていない相手を倒すくらいであれば、仮面の狭い視野で、更に相手の腹と足元だけを注視するようにしても、姫様には問題ないでしょう」

「お腹と足元……」

「そうです。一見しただけでは性別の分からない、腹と足です」

 ぐっ、と親指を立てられた。

「…………ニコ!」

 飛びついた。

「そうよね! 男性だって頭が認識しなければいいんだわ! そして女だってバレる前に全てを片付けてしまえば、一切の問題は発生しないッ」

「そうです、姫様。一世一代の役者となって、この四日間は男になりきるのです!」

 再びの光明が、アニカの頭上に輝いた。



 二日目の予選に、凄腕の仮面の少年が現れた、という噂は、瞬く間に会場中を駆け巡った。

 十二、三歳ほどの体格ながら成人が扱うような長剣を軽々と振り、開始の合図とともに疾風のように駆けだし、油断していた対戦者たちの足下を次々と払っては戦闘不能にさせた。その圧倒的な速さと強さに、会場は大いに沸いた。顔の半分を狐のような妙な仮面で覆っているため、表情も素性も見えず、性別も分からないという点もまた、観客たちの興味を引いた。

「姫様、やりましたね」

「ニコ!」

 自身の出場が終わった途端、逃げるように会場を走り去ったアニカは、人気のない所で待っていたニコに飛びついた。

「できた! 私できたよ!」

「はい、姫様。お見事でした」

 アニカの背をさすりながら、ニコが万感のこもった声で応じる。男性はまだ怖いが、それでも目的は達成できた。何も出来なかった三年間に比べれば、これは大きな前進と言えた。

「ニコ……。本当に、今までありがとうね」

 久しぶりに嬉しくて涙が滲みそうになるアニカに、ニコも「いいえ」と何度も頷く。

「これも全て、姫様が頑張ってこられたからこそです。おめでとうございます」

 祝福の言葉以上に、ニコの嬉しそうな笑顔こそが、アニカにとって一番のご褒美に思えた。



 三日目はまた部屋に籠って、アニカは四日目に備えた。ラズやラウル、レヴィも予選を通過したという知らせは、ニコから聞いた。ラズも圧倒的だったそうだが、ラウルには鬼気迫るものがあったという。

 そして迎えた四日目。町では春の花嫁パタルザリに選ばれた少女たちが、籠にたっぷり摘んだ春の花々を人々に配っている頃。

「こここわくないぃぃいっ」

 アニカは対戦順の番号札を握り締めながら、再び人の来ない一角で蹲っていた。二日目と同様に後頭部で髪をまとめ、男性物の立ち襟と上着姿だが、今日はより男性らしく見えるように、腰帯の代わりに剣帯を吊るしている。が、その行動のせいで全ては台無しだった。

「姫様、男性らしく、です」

 頭上からかけられたニコの声に、アニカはひゃっと思い出したようにぴしりと背筋を伸ばす。

「わ、分かってるわっ」

 ずれた狐の面を直し、深呼吸して気持ちを入れ替える。そして改めて、手の中の木札を確認する。そこには八番と彫られてあった。

 ニコが言うには、振り分けは単純に予選三日間の対戦組の順番が、そのまま勝ち抜き方式の本戦に反映されただけだろうとのことだった。現に、三日目に予選を戦ったラズたち三人は後半組らしく、決勝までいかなければ当たることはない。

(ラズ様とは、まともに戦える気がしない……)

 考えてまた気落ちしながら、アニカは人目を避けて順番を待った。

 沿道に並ぶ天幕から漂う、肉の焼ける匂いや甘い香りに腹が空きだした頃、四組目のアニカの順番が回ってきた。競技場に入ると予想外に観戦席が埋まっていてびっくりしたが、予定通り相手が動く前に勝利した。

 しかし夕方に始まった二回戦目は、あまり上手くはいかなかった。一回戦よりも一回り以上体格差があったこと以上に、相手の警戒心が強かった。アニカの噂を聞いたのか、開始直後の速攻を警戒され、一撃目を躱されたあとは全く打ち込めなくなった。だがそれでも対戦相手が抗戦に出た瞬間を狙い、なんとか一撃で仕留めた。

「こっ、こ、こっ、」

「鶏の真似ですか? 大変お上手です」

「怖かったぁぁっ」

 退場と同時にニコの胸に飛び込んだアニカは、半泣きになりながら訴えた。

「レヴィ様より背が高くて、横幅も胸板も確実に倍はあった! 性別不明と思い込むとか! 無理があるぅっ!」

 いやいやと、ニコの胸に額をこすりつけて首を振る。その背をぽんぽんと叩くニコ。

 人気の出た出場者には、毎年退場後に観客が群がるものだが、ニコの人払い以上に、仮面を外し上着を女性物に変えるだけで、効果は十分あった。特に第二王女と言いながら三年程顔を晒してこなかったアニカに、そもそも気付く者も少なかった。

「怪我の功名ですね」

「ふぇ?」

 一人頷くニコに、ひとしきり喚き終わったアニカが顔を上げる。と、次の出場者であるラズが競技場に入っていくのが見えた。

「……ラズ様は、優勝したら何を願うのかしら」

 入口の奥に消える背中を見送りながら、ぽそりと呟く。知らず漏れていた声だったが、反応はあった。

「恐らく、メトレベリ様は優勝が目的ではないでしょう」

「目的……」

 ラズはニコからの伝言で「今度こそ」と言っていた。つまりアニカとは過去にも対戦したことがあるということだ。けれどアニカが手合わせしたのは、王立学校でだけだ。ラズが何をそこまで拘っているのかは分からないが、アニカとの手合わせを気にする者など限られている。

「…………っ」

 考えた瞬間鳥肌が立って、アニカは自身の両腕をさすった。やっぱり、少し前進できたと思っても、あの時のことを考えると身動きが取れなくなる。

 王立学校の、同じ年頃の少年。もし、ラズがあのそばかすの少年の仲間だったら。正体を隠して近付いてきたのも、ニコたちが何かしらしたことに対する報復のためだったら。

 考え出せば、キリがなかった。ラズの伝言を聞いたあとは、夜目を閉じても色々なひとたちの顔が浮かんで、マルティともろくに会話が出来なかった。

 そんなアニカを見かねてか、ニコが話題を変えるように「姫様は、」と矛先を変えた。

「優勝したら、何をお望みですか?」

「それは……もちろん、」

 二度と男性と関わらないように、と言おうとして、けれど言葉は続かなかった。アニカのこんなささやかな望みにも、両親は頓智で答えるのだろうか。男性ということは、父も兄も弟もかとか、降嫁の約束は反故ほごにするのかとか。

(まだ優勝もしていないのに、バカみたい)

 魔女クィルシェは蘇らない。それでも、アニカは城から出なければならない。この男性恐怖症が治っても、治らなくても。

「……まだ、分からないけど、とにかく今みたいな強引な婚約の話は、やめてほしいってお願いしてみるつもり」

「そんなことを言うためだけに、この大会に出たのか」

「!」

 返ると思っていたニコの声よりも随分低い声が返事をして、アニカは驚いて後ろを振り返った。そこにいたのは、元々の三白眼を更に険しく細めたラウルだった。背後にはレヴィと、遠まきにマルセルもいる。

 ラウルとレヴィは二回戦に出場するため近くにいても不思議ではないが、マルセルは確か直前に不参加を表明したはずだ。アニカたちを観察するような静かな視線に、春祭りの前日のことを思い出して、どうしようもなく全身が震えだす。

 けれどそれ以上に、眼前に立つラウルが放つ怒気に、アニカは視線が逸らせずにいた。

「ラウル、さん……」

 ラウルはいつも厳しい顔付きをしてはいたが、アニカに対して怒ったことは、多分なかったはずだ。けれど今アニカに向けられる眼差しは、怒りを通り越して、軽蔑しているようにすら見えた。

「婚約者を押し付けられるのが嫌なら、それを言えばいいだけだろ。そんなことのために、こんな大袈裟な話にしたのか」

 ずいっ、と一歩距離を詰め、ラウルが非の打ち所のない正論でアニカを詰る。アニカは本能的にニコの背中に隠れてしまった。けれど背丈はほぼ変わらないはずなのに、放たれる威圧感はニコをものともせずアニカの意思を挫けさせる。

「そ、それは……でも、言えなくて……」

「決めたのは妃殿下だろう。たかが母親に、嫌だというだけのことが言えないのか」

「い、言いたいです、けど……怖いというか、」

「何でもかんでも怖いか。やってみもしないうちから」

 口を開く度に苛々の増すラウルに、アニカは返す言葉もなかった。母に対して強く言えないのは、確かに怖いというのも勿論ある。だがそれ以上に、提示された猶予期限に母の期待に応える成果を出すことが出来なかった、その負い目の方が強くあるのだと思う。

 母は過程よりも結果を重んじる。それは王族として必要な姿勢だとは理解している。そして、アニカは出来なかった。その上で発言権があるなどと思える程、アニカは分を弁えていないわけでもなかった。

「母親の言いなりにもなれないなら、あの眼鏡野郎じゃないが、婚約の話を粛々と受けたという第三王女の方が、余程覚悟が決まっている」

 ニコの背中で押し黙ってしまったアニカに、ラウルが忌々しげに嘆息して吐き捨てる。あまりの反論の余地のなさに唸ったアニカはけれど、その中に聞き逃せない単語が入っていたのに気付き、思わず声を上げていた。

「え、それって、サーシャのこと……?」

 ラウルの視線が怖くて、代わりにそっとニコを見上げる。と、小さく頷かれた。

「二週間程前のことだと思いますが、まだ意思の確認が行われた程度だとはお聞きしました。ラシャ様などは、その日のうちに妃殿下に直談判に行かれたと伺っています」

 初耳だった。部屋から出ない分、城内の噂にも疎くなるのは致し方のないことだが、九歳の妹にまでもうそんな話が出ていることが驚きだった。

(だから、ラシャはあんなことを……)

 そしてやっと、双子の弟の不可解な行動に少しだけ得心が行く。きっと兄か母になにごとか吹き込まれたのだろう。そして同時に、九歳の双子ですら頑張っているのに、今もニコの背中にしがみついて震えている自分が、どうしようもなくダメな人間に思えて。

「今年は、俺が優勝する」

「っ」

「こんな下らんことを言う奴に負ける謂れはない」

 ラウルの覚悟と、アニカのそれでは、きっと比べ物にならない。そう思ってしまう時点で、気持ちで負けているということを、アニカは嫌になるほど実感した。

 反論など、微塵もない。すっかり委縮してしまったアニカの耳に、その時、ふっ、と場違いな笑声が届いた。驚いて視線を上げると、それまでラウルの後ろで黙していたレヴィが、皮肉げに口元を歪めてラウルを一瞥していた。

「君がそれを言う?」

「……何だと」

「君だって、父親に直接言えないから、こんな回りくどい手段を使って望みを叶えようとしているくせに」

「黙れ」

「母親に素直にものを言えないのは、結局君も同じだと思うけどね」

「黙れ!」

 アニカの前では初めて見せるレヴィの挑発的な態度に、ラウルの鋭い怒声が飛ぶ。そのあまりの剣幕に、アニカは自分に向けられたわけでもないのにびくりと縮こまった。

 一触即発の雰囲気で睨みあう二人からは、とても学生時代からの付き合いという親しさは感じられない。けれどアニカがそこで思い出したのは、剣の稽古を始める前に立ち聞きしてしまった二人の会話だった。

 あの時のレヴィは、強くラウルを心配していた。それが何のことかは分からなかったが、今の話を聞く限り、ラウルが家名のアルベラーゼを名乗らない理由と同じところに原因があるようだが。

 だがそれ以上に、アニカにはあの時のレヴィの切なげな表情の方が気になった。なぜラウルを挑発するのかは分からないが、それがレヴィの本意だとは思えない。だが。

「黙らせたいなら、次の対戦で僕を倒せばいい。君には簡単なことだろう」

「…………」

 最後の一言に、ラウルの雰囲気が決定的に変わる。腰の剣帯に右手が伸び、レヴィもまた戦闘態勢に入る――寸前。

「わっ、私は!」

 アニカは必死に絞り出した大声で、無理やり本題に話を戻した。二人の視線が両頬に突き刺さる。早くも逃げ出したくなったが、アニカはぎゅっと一度目を瞑ってから、決然と顔を上げた。

「私は、確かに家族の中でも意志が弱く、流されやすい性格だという自覚はあります」

 ぎゅっと掴んでいたニコの服を手放し、何とか今まで伝えられなかったことを伝えようと言葉を選ぶ。

「それでも結婚となれば、一生ご迷惑をおかけするかもしれない相手。言われるままに望まぬ人を選んで、その後ずっとその方を困らせたり苦しませたり、傷付けたくはないのです」

 アニカは、たとえどんな良い人の下に嫁いでも、普通の女性のように寄り添って微笑んだり、一緒にパーティーに行ったりはきっと出来ない。最初はそれで良くても、顔を見るたびに怯えたり距離を取ったりを続ければ、段々と嫌気が差すだろう。

 自分が怖いという以上に、誰かにそんな思いをさせるのが、心苦しかった。

「……詭弁きべんだな」

 ラウルが、冷たく切り捨てる。その通りだと、アニカも思った。結局、それすらも自分の良心の呵責を誤魔化すための言い訳なのだろうとも、思う。

「それも、重々承知しています。それでも、私の事情を承知した上で、私自身をちゃんと見て、見下さないで接してくださるラウルさんたちを、このまま治せないからと嫌いになりたくはなくて……」

 男性というだけで、アニカにとっては恐怖の対象なのだが、その人柄自体が怖いかと言うのはまた別だ。実際、彼らが全員女性であれば、ここまで極端に逃げたりはしなかっただろう。

 もじもじと尻すぼみに弱くなったアニカに、ラウルも今度ばかりは言下に否定したりはしなかった。結局ラウルの無言が怖くて視線を落としてしまうと、かちん、と剣帯の音がした。そして今度は、先程とは明らかに違う柔らかな笑い声がそのあとを追ってきた。

「見下さない、だって」

 レヴィが、先程までの殺気立った雰囲気が嘘のように、眉尻を下げて楽しげに笑っている。

「見た目と出自以上に、その態度の無愛想さに大抵の人間が腹を立ててあらぬ噂を流しては君を忌避するのに」

「……うるさい」

 苦々しげに制止するラウルなどまるで気にも留めず、レヴィは堪えきれないという風に笑い続けている。なぜそんなにも笑えるのかアニカにはさっぱりだったが、ひとしきり笑って満足したのか、レヴィは笑いを少しだけ引っ込めてから、「君の負けだね」と言った。

「はあ?」

「そろそろ、アニカ殿下のことは同族嫌悪だって認めて、睨むのもやめてあげれば?」

「ハッ、誰がこんな小娘に!」

 にやにやと続けたレヴィに、ラウルが眉間のしわを本日最大数に増やしてくわりと反撃する。

(一応仮にも王女なのですが……)

 小娘と呼ばれた当の本人は少しだけ思う所もあったが、不思議と諫めたいとは思わなかった。学校や城での一線を引いた、腫れ物に触るような扱いより、全然平気だ。ラウルの裏表のない物言いのせいだろうか、不思議にすっきりした心地すらある。

 そのせいか、つい芽生えた疑問が考えるよりも先に口から零れていた。

「もしかして、ラウルさんも、自分に自信が……?」

 レヴィの言う同族嫌悪というと、思い当るのはそれくらいしかない。ニコ越しでなく、直接赤茶色の瞳を覗き込んでいると、

「……知るか!」

 投げやりな一言で会話を打ち切って、競技場の中へと速足で去ってしまった。

(ま、またやってしまった……)

 相変わらず勝手に動く口に自己嫌悪していると、まだおかしみが残るような表情で、レヴィが声をかけた。

「アニカ殿下。ありがとうございました」

「え……え?」

 駄目出しされることはあっても、感謝されるような覚えはない。間の抜けた顔で端麗な白貌を見上げると、にこり、と笑みを深くされた。

「我々の喧嘩を、仲裁していただき。殿下のお声がなければ、二回戦が始まる前に斬り合いになるところでした」

「あ……、いえ、そんな大層なことは、全然」

 きらきらしい笑顔で真っ直ぐに見つめられ、アニカは頬が熱くなり、居心地が悪くなる。早くこの場を離れたくて、アニカは思ったことを早口で捲し立てた。

「ただその、た、大切な人と喧嘩みたいになるのは、どんなに相手のためを思っていても、悲しいことですから」

 言っているうちに恥ずかしさが増し、アニカは俯きながら両手を突き出して顔を隠す。だから、次の言葉がどんな表情でもたらされたのか、アニカには分からなかった。

「……同族嫌悪」

「え?」

 再びの単語に、つられるように顔を上げる。と、どこか諦念の滲んだような新緑色の瞳と目が合った。

「私も、彼と似たようなものなのです。実の母親をこの世で最も嫌悪しているくせに……いつまでも囚われている」

「……それは、」

「殿下の言葉はいつも純朴で、少しだけ救われます」

 どういう意味、と問う前に、レヴィがいつもの鉄壁の笑顔に戻り、「失礼」と踵を返してしまった。背まで流れる赤みがかった茶髪が揺れるのを眺めながら、アニカは困惑してしまった。

 レヴィが庶子であるという話は、本人から聞いた。家族仲は悪くないと言っていたが、思えば母のことは一切話題にしなかった。実の母と、育ての母。そこにある確執が容易でないのは当然だろう。

 それでも、レヴィが少しでも自らのことを話してくれたのは、大きな一歩のようにも思えた。そのことに小さく感動していると、

「ベルンシュテイン殿に任せている間に、それぞれの殿方の事情を調べていたのですが」

 ニコが二人を見送った視線のまま、おもむろにとんでもないことを言い出した。

「あっさりミリアンさんに仕事を丸投げしたと思ったら、そんなことしてたの?」

 呆れながら問うと、やっとニコが振り返った。トゥヴェ宮に戻りながら話そうと、先を促される。この意図が示す先にマルセルがいるのかと思い視線を巡らせるが、いつの間に消えたのか、金髪碧眼の美男子の姿はもうどこにもなかった。

「ラウル・ヴィッテ様がアルベラーゼ侯爵家を名乗らないのは、侯爵夫人の不義密通により生まれた子だからのようです」

 南庭の人通りの少ない道を行きながら、ニコが抑えた声で言う。

「籍こそ侯爵家にあるようですが、父親や兄姉たちからは、出生が分かった時から疎まれ、召使のような扱いを受けていたようですね」

「だから家名を名乗りたがらなかったのね」

 頷きながら、頭の中では、ラズと共に見てしまった女性とのやりとりを思い出す。姉と名乗りながらヒステリックに叫んでいた彼女は、きっとあの時のようと同じように今まで何度も無理難題を押し付けて困らせてきたのだろう。

(ひどい……と思うのは、私が片方の事情しか知らないからなんだろうけれど)

 生まれた時からいる家で、自分の存在価値を根底から否定されることの恐怖は、アニカには想像も出来ない。唯一の血縁と分かった母ですら、自分の複雑な生い立ちを作った原因だと思えば、アニカだったらどう接していいか、頭が焼き切れるくらい悩むだろう。

「ご母堂についても、家では腫れ物に触るような扱いで、誰とも接触せず、ここ最近は離れから一歩も出ていないとも聞いています。今回の参加はご当主からの命令のようですが、目的はどうやらご母堂の立場をどうにかしたくて受けられたようですね」

 そんなごく個人的な情報まで一体どこから仕入れてきたのかと突っ込みたいが、実は城の人間と出入りする人間のほとんどは顔見知りだと、以前聞いたことがある。深くは追及するまい。

 代わりに考えたのは、ラウルと最初に話した時、懇願するように『俺を選べ』と言った言葉。その裏に込められた深意に、アニカは眉尻を落とす。

「お母様が、とってもお好きなのね」

 そして同時に、レヴィの言葉も思う。彼もまた、自身のことを庶子だと言っていた。だからこそ余計に、ラウルに共感を持って心配するのかもしれない。

 好きだからこそ、悩む。好きな相手が自分の存在のために苦しんでいるのなら、その葛藤はいかばかりか。

「私は、勝つ意味があるのかな……」

 誰かの強い意志に触れれば触れる程、自分の芯の弱さが浮き彫りになって嫌になる。

 強くなりたいと、焦がれるように痛烈に思った。

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