狗神の祝~扉の向こうに~

海野しぃる

かのんちゃんウェイ系学生の部屋のドアをキックす

「ギャハハハハ!」


 まだ聞こえている。

 午前二時なのに。

 天井が鳴る音は消えない。

 すっかり目が冴えてしまった。


「ヒーッヒャッヒャッヒャ! ウェ~~~~~イッ!」


 迷惑なのは私だけじゃない筈だ。なんでこんな時間まで平気で騒げるんだろう。

 さっさと寝て、頭の中からアルコールを抜きたいっていうのに。

 私が何か悪いことをした?

 私だけじゃない。そうだ、私以外のこのマンションに住む誰もが、何一つとして悪いことをしていない筈なのに。


「……あぁ、もう、えへへ」


 私の口から笑い声が溢れている。

 寝不足と酔いのせいか、私は私の意識が自分の身体を離れ、遠くから自分を眺めているように感じていた。

 私はサンダルを履くと、ゆっくりと部屋の外に出る。

 ひたり、ひたり、夏の空気はじっとりと湿っていて肌にまとわりついてくる。

 島に居た時と違って、心なしか淀んだ空気だ。

 結局のところ、私には都会の生活なんて向いていないのかも知れない。

 まあ、でも、いいや。どうでもいい。

 なにせ、考え事をする気分にならないくらいうるさいのだ。深夜二時なのに。


「ナーンデモッテルノ! ヘイ! ナーンデモッテルノ! ヘイ! ノミタリナイカラモッテルノ!」

「ナーンデヨッテルノ! ヘイ! ナーンデヨッテルノ! ヘイ! マダマダノムカラガンバッテ!」


 階段をのぼって、一階、二階、信じられないことに声の源は最上階の六階だった。三階に住む私の部屋まで聞こえてくるということは、五階の住人は相当迷惑しているに違いない。

 私は音源となっている部屋の前で足を止めると、自らの決意を胸に拳を握りしめた。こうなったらやってやるしかない。


「グェ~~~~~~グェッ! グェッ!」

「るっせえんだよこんにゃろー!」


 人とも獣ともつかぬ意味不明の狂乱に包まれた部屋の扉に向け、私は流れるよなヤクザキックを決めた。

 私の叫び声さえかき消すほどの巨大な音がマンションの廊下に鳴り響き、周囲は静寂に包み込まれる。

 中から誰か出てくるかもしれないと思ったが、その様子はない。

 さっきまでうるさかった部屋が嘘みたいに静まり返っている。

 周囲が静かになり、多少冷静になると、私も自分のしたことが今更怖くなってきた。誰かが出てくる様子は無い。

 ――悪いのはあいつらだって。気にすることないよ。

 ――逃げるなら今だ。急がないと大変だよ?


「あ、あはは……あははは……」


 私の足はもうとっくに階段を駆け下りて、自分の部屋へと向かっていた。

 鍵をかけ、部屋にあった梅酒をストレートで一気に呷り、布団を被る。もう自分の意識が存在することに耐えられなかった。きっと、これだけ飲めば忘れられる。

 ああ、やっちゃった。やっちゃった。やっちゃった。バレたら怒られるのかな? 今更だけど監視カメラとかに映ってるよね? 弁護士に頼むかな……酔った勢いですごめんなさいで済めば良いなあ……でもこれでゆっくり眠れる。中間試験明けで全然寝てなかったもんね。そう、そのせいで私はどうかしちゃってたんだ。私がシラフでこんなことするわけないし、私じゃない。私のせいじゃない。気の迷いだったんですごめんなさいごめんなさいごめんなさい。パパ、ママの居る田舎に帰りたい……。


「ざっけんなてめぇ! てめぇだろ! マジざっけんなよ!」

「るっせえんだよ! 違うつってんだろ!」 


 ビクリ、と私の身体は震える。

 聞き覚えの有る声と、知らない声が、激しく言い争っている。

 私のせいだ。

 だけど既に大量に飲んだアルコールのせいで、私の身体は動かなくなっていた。

 

     *


「……それが、待ち合わせに遅れた理由?」

「ご、ご、ごめんね橙ちゃん」

「いや、まあ素直に話してくれただけ良いんだ。嘘を吐かれたら騙されたってことだから腹が立つし、隠されたら心の壁を感じて悲しいけど、やらかしたと白状してくれるなら、その後どうすれば良いか考えてあげられるからね」


 大学のすぐ近くにあるカフェで、私は友人の夕野ちゃんと待ち合わせをしていた。

 夕野ちゃんは男の人みたいな服装をしているけど、まつ毛が長くて、スタイルも良くて、すごく綺麗な人だ。


「あ、ありがとう……夕野ちゃん……」

「友達だろう? ノート見せてもらったし、試験勉強も手伝ってもらったし、いまさらその程度で怒らないって。貴方がちょっと遅刻してきただけで、私はそれ以外に一切迷惑かけられてないし。君の話に出てきた連中のことなんて、私は知らないしね」


 夕野ちゃんは胸元の懐中時計をいじりつつそう言って笑ってくれる。

 この人が居てよかった。じゃなきゃ、もうとっくに田舎に帰っていたかもしれない。


「でも気をつけなきゃ駄目だよ? 扉の向こうに何が居るのかなんて、人間わからないものなんだから」

「怖い人かもしれなかったってこと?」


 夕野ちゃんはニコリと笑う。


「そうかもね。それで、試験も終わったことだし、どっか遊びに行くのは良いとして、何処に行くつもりなの?」

「今度、バドミントンサークルでジンギスカンパーティー行こうって話になってるから、その下見に行きたいんだよね。中島公園の方まで」

「ふふ、私は札幌市民だから慣れているけど……丁度良いかも知れないね。良いよ、でもその後は私のお買い物にも付き合ってね?」

「どこに行くの?」

「円山公園は行ったことあったかい? あの辺りは雰囲気が良くて、そう、いかにも都会っぽいよ。でもかのんの故郷みたいに緑も多いし、楽しい場所だよ」

「わぁ! 行く行く!」

「じゃ、そこが終わったらかのんの家に戻って、一緒にお夕飯にしようか」

「オッケー!」


 夕野ちゃんも私と同じ北海道の生まれの筈なのに、なにかにつけ趣味が良い。札幌の人だからかな?

 ともかく、私は夕野ちゃんに誘われるまま、休日の時間を楽しく過ごすことにした。


     *


 楽しい時間はあっという間に過ぎるもので、気がつけば既に午前零時。

 せっかくのお泊りだと言うのに、夕野ちゃんは疲れて眠ってしまっている。

 クールで格好いい見た目に反して、意外とお酒に弱いのだ。


「ふわぁ……あ」


 かくいう私もそろそろ眠い。

 電気を消して、二枚敷いた布団の片方へと潜り込む。


「おやすみなさい……」


 暗がりの向こう側に存在する夕野ちゃんの寝顔に向けてそうつぶやいた。

 丁度、その時。


 がァンっ!


 ドアが蹴飛ばされる音。

 私は怯えて身を縮める。

 まさか、私がやらかしたのがバレちゃった!? あの部屋の人がもしかして来ているのかな!?

 私は急いでドアに駆け寄り、覗き穴を覗く。

 誰も居ない。


「……あれれ」


 そんなのはおかしい。

 私みたいに逃げ出してしまったのかな?

 扉を開けて、外の様子を見てみようかな?


「ん、どうしたの? かのん……」

「ねえねえ夕野ちゃん夕野ちゃん。今ドアがガンガンって鳴らなかった……?」


 夕野ちゃんは不思議そうに首を傾げる。

 お酒のせいで赤くなった頬がなんだか色っぽい。


「気のせいでしょう? 私は聞こえなかったけど……神経が参っているんじゃない? さっさと寝て、ゆっくりおやすみ」

「そっか……」


 なんだか引っかかる。

 でも、夕野ちゃんも居るし、下手に扉を開けて誰か居たら怖いし、やめておこうかな。

 そうだ。今日はやめておこう。


「ねね、夕野ちゃん……」

「どうしたんだい?」

「そっちの布団入っても良いかな……なんだか怖い……」

「良いよ。まあ神経が参ってるって言った手前もあるし、実際音の心当たりが無い訳じゃないし」


 ほれ、おいで。

 そう言って夕野ちゃんは布団に隙間を作る。私はそこにもぐり込み、彼女の腕の中に収まった。


     *


 翌日、朝ごはんを食べさせた後、私は夕野ちゃんに頭を下げた。


「おねがい! もう一晩だけ一緒に居て!」

「い、いや、待って。私も予定があるし、家の掃除とかあるし、ちょっと2日連続ってのは悪いっていうか。彼氏とか居ないの?」

「居る訳ないよぉ……」

「あー、ごめんごめん。私も居ないから安心してね。大丈夫だよ、落ち着いて」

「別にずっと居て欲しいとは言わないんだけど、今晩だけ! 今晩だけ、本当に音が聞こえないかどうか一緒に居て確認してほしいの!」

「……はあ」


 夕野ちゃんはため息をつくが、それからまた笑顔をみせてくれる。


「今晩だけだぞ?」


 助かった……助かった……!


「ありがとうございます……ありがとうございます……」


 自然と頭が床へと近づいていく。


「ナチュラルに土下座に移行しないでちょうだい!?」

「だって、怖いんだよ……もうこんなことしません……反省しました……」

「まあ今さら謝りに行ったところで話通じるかわからないし、素直に知らんふりしてた方が安全かな……良いよ、なーんか放っておけないし」

「ありがとう……」

「そうと決まれば今日の予定は変更しようか。とりあえず部屋片付けて……あ、っていうか私の家に泊まる? そっちの方が安全じゃない?」


 そうか、その手があった。

 別に音の正体を知りたいわけじゃないのだから、私がここに残っている必要は無い。今晩、私の部屋に入ってくるかもしれないのだから、私は部屋から離れていたほうが良いに決っている。


「う、うん! そうする!」

「ちょ~ど部屋の片付けとか手伝ってほしかったんだよね~。来てくれると助かるよ、ありがとかのん。あ、洗面所借りるよ」


 夕野ちゃんはそう言って笑うと洗面所へ向かっていった。

 ――ああ、そうだ。今のうちにゴミ出しちゃおう。

 

     *


「あっ……」


 ゴミステーションまで来た時、マンションの前にタクシーが止まる。

 

「……ったく」


 いかにも機嫌が悪そうな顔をしたガタイの良いお兄さんがタクシーから降りてくる。見れば怪我をしているのか、腕に包帯を巻いている。


「ん?」


 こっち見た! 目が合った!?


「お、おはようございます……」


 するとお兄さんは人懐っこくニカッと笑う。

 

「おはようございます」

「お怪我、大丈夫ですか?」

「ああこれ? 昨日の夜いきなり……いや、色々あってさ」


 そう言いかけてからお兄さんは気まずそうに笑ってごまかす。

 もしかして、私のせいで?


「何かあったんですか? そういえばなんかすごいバタバタしてましたけど……」

「ん? いや大丈夫大丈夫、お嬢さんにゃ関係ないことだ。学生さんかい?」

「はい……」

「お酒には気をつけるんだよ。飲みすぎて喧嘩なんて馬鹿みたいだからさ。まあ女の子だとそんなこともねーか、はは」


 学生って雰囲気ではない。

 となると、もしかして昨日怒鳴り合っていた人?

 そういえばこの声には聞き覚えがあるような気がする。


「あ、あはは……」


 どうしよう。私はなんてことをしてしまったんだろう……。

 マンションの中に帰っていくお兄さんを見送りながら、私は乾いた笑いしか出ない。私は急いで部屋に戻り、夕野ちゃんの家へと向かうことにした。


     *


「おじゃましまーす」

「はい、いらっしゃ~い」


 初めて招待された夕野ちゃんの部屋はとにかく本が沢山あって、本なんてあまり読まない私からしたら少し目が回ってしまいそうになる光景だった。

 

「ああ、驚いた? 殆どは祖父のものなんだけど、外国から個人的に取り寄せた品もあるんだ。驚いてくれてるなら嬉しいなあ」


 私は黙ってうなずく。

 夕野ちゃんは少年みたいに無邪気な顔で喜んでくれた。


「これ、なんの本なの?」


 少し興味が湧いてきて、本を一つずつ指さして中身を尋ねてみることにする。


「それはアフリカの呪術についてまとめた本。そもそもアフリカってずっと昔から奴隷制が盛んで、白人たちはそれに後から乗ってきただけに過ぎないと言われているんだ。だから昔から奴隷を使ったり奴隷が使ったり奴隷に使ったりした呪いが沢山ある」

「こわ……この星のついてる本は? なんだかお洒落だけど」

「昔々アラブのあたりで書かれた魔術書の現代語訳、英語版だけどね。元々の作者は昼日中から魔物に攫われて拷問を受け殺されたなんて言われているけど、当時の権力者から危険視されたんじゃないかなって思ってるよ。まあ当時の権力者が人間だったのかはさておくけど」

「あはは、魔物が王様だったってこと? 面白い面白い……じゃあこれっ!」

「おやお目が高いね。フランス革命直前に親類を頼って国外に逃亡した悪徳貴族の書いた拷問本だ。キリスト教の神とは異なる信仰体系に基づいていることが分かっているんだけど、詳しいことはまだまだ調査中だ」

「げげぇ……あ、日本語の本もあるね……」

「ああ、四国における犬神信仰の本だね」

「犬の神様? 少し可愛いかも」

「可愛いね。何の罪もない犬を餓死させ、その首を刎ねた後、ゆっくりと腐らせて蛆に食わせてその蛆を呪いに使うんだ。死んだ犬の魂は一族の守護霊として」

「もう、なんでそんな怖いものばっかり有るの!?」


 流石に興味も消え失せる。

 夕野ちゃんは残念そうにため息をつく。


「私の研究テーマだからね」

「そうなの?」

「言ってなかった? 私、父親が大学の教授なの。私も父親も、魔術の歴史について研究しているんだ」

「霊能者……」

「私はお化けが見えないからなあ。霊能者とはちょっと違うかな? でもまあ詳しいよ、そういうの」

「へぇ……すごいすごい! ってことは、もしも私が困ったら相談して良い?」

「良いよ。まあそういうのって無料でやるなとは言われてるけど、部屋の片付け手伝ってくれれば十分だからさ」

「すごい……私の家なんか普通だもんな。お父さん、公務員とかだし」

「普通が一番だよ、普通が」


 彼女は私の頭を撫でると、また王子様みたいな笑顔を私に向けてくれた。


     *


「はー? なにこれー……」


 その日の夜、私がもう眠気の限界になって、ベッドの中でウトウトしていると、夕野ちゃんが変な声を上げた。


「どう……したの……?」


 びっくりして意識が戻った私は、隣で眠っている夕野ちゃんに声をかける。

 私を起こしてしまったことことが気になったのか、彼女は小さな声でごめんごめんと謝った後に、スマホの画面を見せてきた。


「オカルトサークルのメンバーが一人、怪我で旅行に来られなくなったみたいで。今度のサークル旅行が延期になっちゃった……」


 オカルトサークルに所属してたんだ。

 こうして家にまで泊まってる仲だけど、まだ出会って三ヶ月くらいだもんね私たち。


「あーあ、残念だねぇ」

「楽しみにしていたんだけどなあ……美唄市の我路まで旅行するつもりだったんだ。心霊スポットだっていうから、私も一回くらい幽霊を見たいなって」

「その人だけ置いていく訳にはいかないの?」

「私もそうしたいんだけど、怪我したって人の彼女さんがね~。サークルの先輩だけどまあ、困った人って感じで」

「困った人?」


 夕野ちゃんは少し言葉に迷ってからゆっくりと話し始める。


「久留米さんって言うんだけど、ガチで手を出しちゃってる感じの人でさ。ちょ~っとメンタルも、こう……不安定な感じの人で……」

「手を出してる?」

「オカルトサークルで手を出すって言ったらあれよあれ、呪いとか魔術とか。なんか気に入らない奴は片っ端からこれで痛い目に遭わせられるって自慢してたりして、ちょっとやばい人なんだ……なんだかそれで本当にサークル来られなくなった人も居るし」

「ひ、ひぇえ……」


 本当にそういうヤバイ人も居るんだ……。

 なんでそんなヤバイところに居るの夕野ちゃん……?


「ああいうのって、知らない人が中途半端に手を出すのが一番良くないって言われているんだけどね」

「え、でもその人って詳しいんじゃないの?」

「知識が有るのと理解しているのって、別なんだよね……あの人、向いてないのに」


 何時になく冷たい表情を浮かべる夕野ちゃん。彼女は黙っていると怜悧な雰囲気で、話しかけにくいタイプだったことを思い出した。

 

「あはは、ごめんごめん。変な話聞かせちゃったかな。電気消そっか。おやすみ」


 また、いつもの優しい表情に戻って、彼女は私に微笑みかける。


「うん、おやすみ」


 私がそう言って瞳を閉じた時。

 がァンっ! という音が、夕野ちゃんの部屋の扉から鳴り響いた。


「ひっ!?」


 私は驚いて飛び起きる。

 夕野ちゃんは目を白黒させて私の方を見ている。

 もしかして今の音、私にしか聞こえていないの?


「かのん?」


 訳がわからないことが起きている。

 夕野ちゃんは力強く私の手を握る。


「大丈夫だよ、怖がらなくて良い。きっと疲れて――」


 もう一度、扉を蹴飛ばすような音。

 もう一度、今度は近づいてきた。

 もう一度、もう一度。


「どうしたのかのん!?」

「来てる……どんどん音が、こっち来てるよぉ……」

「嘘……!」


 夕野ちゃんは本当に、全く何も感じていないみたいだ。

 少しうらやましい。

 鳴り続ける音はどんどん近づいてきて、私たちの寝室手前まで来る。

 夕野ちゃんは大きな身体で私を抱きしめ、掛け布団をかぶせて大丈夫だよと囁いてくれる。

 でも関係無い。

 なまじ視界を奪われた分、音は確かに近づいてきていることが分かってしまう。

 聞こえる。

 がァンっ がァンっ がァンっ がァンっ がァンっ がァンっ がァンっ がァンっ がァンっ がァンっ がァンっ がァンっ がァンっ がァンっ がァンっ がァンっ がァンっ がァンっ がァンっ がァンっ がァンっ がァンっ がァンっ がァンっ がァンっ がァンっ がァンっ がァンっ がァンっ がァンっ がァンっ がァンっ がァンっ がァンっ がァンっ がァンっ がァンっ がァンっ がァンっ がァンっ がァンっ がァンっ がァンっ がァンっ がァンっ がァンっ がァンっ がァンっ がァンっ がァンっ がァンっ がァンっ がァンっ がァンっ がァンっ がァンっ がァンっ がァンっ がァンっ がァンっ がァンっ がァンっ がァンっ がァンっ がァンっ がァンっ がァンっ がァンっ がァンっ がァンっ

 

「見つけた」


 その声が聞こえた瞬間、それまでうるさかった音がピタリと止んだ。

 夕野ちゃんの声でも、私の声でもない。

 知らない女の人の声。

 私の喉からは、私の意思を無視して、信じられないほど大きな悲鳴が出て、それから私は意識を失ってしまった。


     *


「……あれ?」


 目が覚めると、私は変わらずベッドで眠っていた。


「生きてる……」


 私は自分の頬をペタペタと触る。

 特に透けたり、冷たくなったりしている訳ではない。


「あ、起きた?」


 ベッドの傍では、夕野ちゃんがコーヒーとトーストで朝食を済ませていた。

 

「ね、ねえ……あの後何か変なことが起きたりしなかった?」

「大丈夫、あの後はなーんにも無かったよ」


 夕野ちゃんは優しく微笑んでくれる。

 もうちょっとで泣きそうになっちゃったんだけど、夕野ちゃんにこれ以上迷惑をかけたくなくて、私は堪える。

 だけど――


「でもかのん、呪われてるかもしれないね。我が家の魔除けが焦げてたし。物理的なレベルまで来ないと私には何が起きているかわからないから、びっくりしちゃった。一応お祓いに連れていきたいから、ご両親から自分の家が何宗のお寺の檀家さんかだけ聞いておいてくれるかな?」


 そんなこと、あっけらかんと言わないでよ。

 私は耐えきれずに、目尻からツーっと涙が落ちる。

 それを見て慌てた夕野ちゃんは袖で涙を拭いてくれるが、もう涙は止まらない。


「ねえどうして? 誰がそんなことをするの?」

「呪詛を行うには、縁が必要だ。その縁に応じて呪いもどんなものか決まる。今回はドアを蹴るような音が夜になると聞こえるんだから……原因も、犯人も、およそ察しがつくんじゃないかな?」

「それって……一昨日のことが原因ってこと?」


 夕野ちゃんは頷く。


「でも、それだけでこんな強力な呪いができるってのはおかしいんだよね。仮にも研究者だから、あくまでインテリアのつもりだったとはいえ、そこそこ良いお守りを用意してもらってたんだよ。だから、相手が呪いの達人か、それともプロにでも頼んだか、あるいは何か深い縁があるのか……待てよ、相手が悪霊に取り憑かれているのかも。だとすれば“扉を蹴った”程度の些細な縁でも憎い相手を攻撃できる」

「こ、怖くなること言わないでよ!」

「ごめんごめん。ともかく……」


 その時、夕野ちゃんのスマホがブルブルと続けざまに震え始める。


「なんか急に連絡が……ん?」


 夕野ちゃんの顔が真っ青になる。


「どうしたの?」

「かのん、家で待っててくれる? 先輩に呼び出し喰らって」

「嫌だよ! こんな状況で一人になるなんて! 夕野ちゃん、見捨てないで……」

「だーよねー……うーん、しゃーないな。かのん、君のマンションに二人で行こうか」

「わ、わかった! でもどういうこと?」

「えーっとね……」


 夕野ちゃんは少しだけ言いづらそうにした後に、聞こえるかどうかの小さな声で呟く。


「昨日話した先輩、どうもかのんと同じマンションに住んでいるみたいなんだよね」

「えっ」


 もしかして、私の身に起きている事件と関係があるの? でもうるさかったのって男の人だし。

 私は足がすくむ。腰も駄目だ。上手く立ち上がれない。けど、嫌だ。一人は嫌だ。置いていかれるのだけは嫌。

 私は急いで身支度を始めた。


     *


 二人でタクシーに飛び乗っている間、夕野ちゃんはスマホの画面を眺めてずっと困った顔をしていた。

 

「不味いな……保つか?」


 こんな具合なので、運転手さんは少し怪訝そうな顔をしていたが、私は構わずに夕野ちゃんの手を握っていた。

 私たちはマンションの前でタクシーを降りて、私の鍵でマンションの中に入る。

 その瞬間、この世のものとは思えない濁った悲鳴が聞こえた。

 ぎゃあとか、ぎぇえとか、ぐぉおとか、そういうのを混ぜ合わせて濁点を更にふりかけたような奇っ怪な声だ。


「急ごうか」

「何処の部屋なの?」

「五階の505号室だね」


 私の足は止まる。

 私が、やらかしてしまった部屋の番号だ。


「かのん、お部屋に戻ってても良いよ。もうかのんの問題じゃない。あの人が何かをして、そして今、何かが起きている。ここまで来てしまえば、もうかのんは何一つ悪くない。君はもう十分怖い思いもしたし、懲りただろう?」


 そんな訳にはいかない。

 私のせいで何が起きたのか、私の身に何が起きているのか、自分の目で見ないと、報いを受けたなんて言えない。

 ひどく自罰的な気もしたけれど、私はもう止まれないんだ。止まってはいけないんだ。

 夕野ちゃんの先を行くようにして、私は階段を駆け上り始める。

 だがその時、マンションの前で車のブレーキ音と男性の悲鳴が上がった。


「かのん、向こうに行って救急車呼んでくれるかな? 上は私だけで大丈夫だから」


 やむを得ず、私はマンションの外に向けて走り出した。


     *


「うわ……」


 酷い有様だった。

 既に車は居ない。

 ひき逃げだ。


「た、た、たす……」


 その声を聞いて、私はビクリと身体を震わせる。

 聞き覚えが有ったからだ。


「大丈夫ですか!?」


 でも、私はそんなことを少しも感じさせないような素振りで、路上に転がった男の人に駆け寄る。

 足の骨があらぬ方向に折れて、頭からとんでもない量の血が流れている。

 骨折した部分はさておき、出血した部分にハンカチを押し当てて、止血を試みる。


「きゅ、救急車……」


 この人の声には聞き覚えが有った。

 あの夜の人だ。

 あの夜騒いでて、それから多分あのお兄さんと喧嘩した人だ。

 今も少しだけ腹立たしい。

 けど、今は話が別だ。


「名前は言えますか? 今日は何日かわかりますか?」


 私は救急車を電話で呼びながら、相手の意識レベルを確認する。

 自動車学校で習ったものをうろ覚えで試すくらいしかできないけど、こういうのって話し続けて意識を保たないと危ないって聞いたから。


「名前は清田レンヤ……今日は……あの、お姉さん」

「どうしましたか?」

「彼女が、上に、彼女が……」

「彼女?」

「呼ばれたんです……助けてって……電話で……俺が居ない間に、何か……」

「わかりました。私、そこのマンションに住んでいるのでそっちに向かいます。彼女さんのお名前は?」

「久留米リコ……505号室に……」


 次第に騒ぎを聞きつけて野次馬たちが集まってくる。


「何か手伝えることはありますか?」

「あっ、お兄さん!?」


 ゴミステーションでお話したお兄さんがその中から出てきて、話しかけてくる。


「あの、私、505号室に行かなきゃ……」


 そこまで言いかけて気がつく。

 清田さんとお兄さんがお互いのことを見た瞬間に、ギロリと睨み合ったことに。


「あの、その、二人共……何かありましたか?」


 あの夜、この二人が喧嘩していたの?

 だとすると、周囲に野次馬がいるとは言え、この状況はやばいような……?


「あの? お兄さん、お知り合いなんですか……?」


 お兄さんの顔を見上げていると、突如として頬に生暖かい液体がかかる。

 遅れて鼻をつく鉄の匂い。

 振り返ると、清田さんは赤黒い血の塊を吐き出して痙攣していた。


     *


 清田さんは救急車で運ばれ、私は血まみれのままマンションの中に駆け込む。

 そしてそのまま階段の踊り場を駆け上がると、その途中に夕野ちゃんが立っていた。


「夕野ちゃん! そっちはどうなって……」


 夕野ちゃんは無言で首を振る。

 

「見ないほうが良い。余計な縁を作ってしまう。まずはシャワーを浴びよう。外には野次馬も集まっているみたいだし、警官を呼ぶにしても、一旦落ち着いてからだ」


 マンションの中にはすえた匂いが漂っている。


「何が有ったの?」

「何も居なかった」

「ねえ」

「何も、なかった」

 

 私は夕野ちゃんを振り切って五階まで駆け出す。

 

「待てっ!」


 それは聞けなかった。

 何もなかったことにするには、私はあまりにも関わりすぎた。

 せめて、一体何が起きているのかだけでも理解していなければ、私は正気でいられない。

 五階に到着し、505の扉を開け、中を覗く。

 その瞬間、むわっとした腐臭が鼻をついた。胃酸がせり上がり気道が焼ける。涙がこみあげて、思わず目を閉じてしまいそうになる。

 誰も居ない。

 確かに誰も居ない。

 ただ、ひどく散らかっていた。どこのものともわからない星や十字架のインテリアが砕け散り、そこらになにかの燃えカスが散らばっている。まるで統一感の無い部屋は、その中にある全てが徹底的に破壊されていた。


「何も居ないと言ったでしょ?」


 夕野ちゃんが私の肩に手を置く。


「帰るよ。まだできることもあるし」


 有無を言わさない力の強さ。それが逆説的に、ここになにかがあるんだということを、否応なしに私に意識させた。


     *


 私たちは部屋に戻ると、一端シャワーを浴びて服を着替えることにした。


「ごめん……夕野ちゃん」


 シャワーを浴びた後、リビングでスマートフォンをいじっていた夕野ちゃんに素直に謝る。

 勝手なことをしたし、きっと彼女の視点からすればとても危ないことをしたのだろう。迷惑をかけっぱなしだ。


「こういうのは慣れてるから平気」

「慣れてるって、こういうことに関わったりするの? 訳が分からないよ……こんな変なことばっかり起きて……」

「世界が違うんだよ。世界が違えば、常識だって当然異なってくる。いきなりこんな非日常に巻き込まれたら混乱もする。責めていたらキリがない」

「夕野ちゃん、どうしたらいいの? どうしたらこれが終わるの?」


 最初に悪いことをしたのは私の筈だ。

 だから私のところに何かが来て、私を見つけて、私が酷い目に遭う筈だった。

 なのに、なんで?


「そもそもね。扉の向こうに何が居るか理解していなかったのは、君よりもむしろ久留米先輩の方だったんだね」

「どういうこと?」


 私が集めた情報によれば、こういうことが起きていた。

 そう言って夕野ちゃんは説明を始めた。


「そもそも、あの夜、久留米先輩を含めた四人は、大学生らしくご自宅で酔っ払って、時間をわきまえずに大騒ぎしていた。そして君はブチ切れ、酒の勢いも有ってわざわざ彼らの部屋の前に行き、ドアを蹴り飛ばした。隣の部屋の住人と勘違いした清田氏はその後部屋を飛び出して、喧嘩を始めてボコボコにされた。とはいえ、大事になるとお互い不味いからって、表沙汰にはせずにそれぞれ病院へ行ったみたいだよ」

「……ああ、やっぱり」

「知ってたの?」

「ゴミステーションで……怪我した男の人を見て、それに、さっきのタイミングでもその人が清田さんと睨み合ってたから……なんとなくおかしいなって私も思ってたんだ……」


 私たちは顔を見合わせる。

 

「馬鹿だったなあ、私。なんであんなことしちゃったんだろ」

「関わるべきではなかったね。その結果、巻き込まれたのがこの事態だ」

「夕野ちゃん。夕野ちゃんは関わる必要無かったのに、ごめんね」

「……ふふ、慣れてるから。それよりも説明を続けようか」


 夕野ちゃんは私の頭を撫でる。


「その後ね、久留米先輩がやらかしたんだよ。君のことを呪ったんだ。君が蹴った扉を使って、扉を蹴った人間を狙って呪いを仕掛けた。君がここ最近聞こえていたという扉を蹴る音は、おそらくそれだ」

「じゃあ、あの、見つけたって声が聞こえたのは、久留米先輩って人の声?」

「違う」

「じゃあ誰?」

「君だよ、かのん。厳密に言えば君を守っている……守護霊のようなものがこの事態を引き起こしている。『呪詛を行うには、縁が必要だ』と私は言った。今回、君の守護霊は君が呪われたって縁を用いて、呪いの主に反撃を行ったんだよ。いわゆる呪詛返し。私の部屋のお高い魔除けがまっ黒焦げだったのは久留米先輩の力じゃない。君の力が、君の知らないところで、君の敵を見つけたと君に伝えたからだったという訳だ」

「でも、それなら呪った訳じゃない清田さんまで巻き込まれるのは……」

「部屋の扉を使ったんだ。部屋が蹴られた時に居た人間だって無関係ではいられない。特に、久留米先輩の彼氏である清田さんは、彼女と深い縁があり、なおかつあの部屋に何度も来ているだろう」


 縁を結ぶ。

 そう言われて気がつく。

 もしかして、名前を知るのも夕野ちゃんが言うところの縁を結ぶ行為なんだろうか。


「さっき、もしかして清田さんの名前を聞いたりしなかった?」

「あ……う……!」


 だとすればあの時何気なく名前を聞いてしまったのは、偶然だったの?

 それとも、私は無意識に彼らを傷つけようとして聞いてしまってたの?

 私がそんなことをしたのは私の意思? それとも夕野ちゃんの言う守護霊ってもののせい? 私の意思は、本当に私のものなの? 私は既に、何か、恐ろしい化物みたいなものになってるんじゃ……?


「じゃあ、全部、私の……せい? 私が蹴って、私が怒らせて、私がやりかえして、やりすぎて……それで……」


 夕野ちゃんは首を左右に振る。


「それは違う。少なくとも君だけのせいじゃない」

「でも、私の行動が切っ掛けで……」

「呪うっていうのは、そういうことなんだ。こうやって下らないことで、下らない死に方をして、自分はおろか周囲を巻き込む可能性があるんだ。だから本物はひけらかさない。口にすらしない。そしてその究極が……本人にすら自覚させない」

「つまり私が気づかなかっただけで、私が一番危ない存在だったの?」


 夕野ちゃんは頷く。


「でも、まあ、大丈夫だよ」

「どうしてそんなこと言えるの!? だってあの部屋には久留米さんと清田さん以外にも誰かいたでしょう? 巻き込まれるかもしれないじゃん!」

「まだできることがあるって言ったでしょう?」

「それって……!」


 そうか。夕野ちゃんは、私が混乱している間に、他の人たちと接触を……!


「んーっとね、君がシャワーを浴びている間に、あの夜に部屋に集まってた人たち、みんな死んだみたいだから。扉を使って最初の呪いをかけた上に、呪いを仕掛けた本人の名前を知られてしまったのが致命傷だ。君の体毛でも使っていれば、生まれた因果はあくまで呪われた君と呪った久留米先輩の間だけで留まっていただろうに」


 こともなげに、夕野ちゃんはそう言った。


「え……?」

「扉を蹴った因果で呪えば、蹴られた扉のあった部屋の住人を巻き込むに決まっているだろうにな……それなら体毛から因果を結んで……」

「あ、あの、夕野……ちゃん?」

「おっと失礼」


 夕野ちゃんはこほんと咳払いする。


「敵が消えれば呪いも消える。君の意思とは無関係。だからこの惨事の責任は君にない。君がやった悪いことは、酔っ払ってマンションの扉を蹴ったことだけだ」

「で、でも、現に……!」

「それはほら。この一連の事件については、君に憑いたものがやったことだろう? 君は悪くない。恨まれたり、復讐されるいわれはない。霊的な因果関係において、全ては君の知らない場所で君の知らない悪霊が、勝手に君の敵を発見して追跡して皆殺しにした。完璧なロジックだね」

「そ、そんな都合の良いことって……」

「あるんだよ。縁と怨を利用する原始的な呪いの仕組みに着目して、それをより安全かつ合理的な自衛装置として使うシステムが。君も一度見ている筈だよ?」

「なにそれ?」


 夕野ちゃんは少し困ったような顔をして黙り込む。


「……狗神だよ。私の部屋に本が有ったろ? 恨み怒りこの世を呪うしかなくなった魂だけを捕まえて、悪意に反応して勝手に獲物を食い尽くす。尽くせぬ憎悪を燃料に擦り切れるまで動き続ける復讐機関だ。所持者に自覚を与えず継承させるような完成度の高いものは初めて見たけどね」


 言いづらそうな顔だったが、何処かでこの事態を楽しんでいるようにも見えて、私は何も言えなくなってしまった。


     *


 それからの私の人生は、狗神を恐れて、ひどく不自由なものになってしまった。

 善良でなければいけない。

 公平でなければいけない。

 誠実でなければいけない。

 さもなくば誰かが私を恨み――下手をすれば死ぬ。

 大学をそこそこの成績で卒業し、素敵な男性と出会い、子供ができた今もそれは続いている。

 良い人だね、と誰もが言う。

 そして鼻につくよね、と言った人は私の視界から消えていく。

 死ぬとまではいかなくても、奇妙なまでに不幸になって、私の前から消えていくのだ。

 じゃあ生きるのが嫌になっているのか、と聞かれれば私は首を横に振る。

 世の中そんなに悪くない。夫であったり、子供であったり、今目の前に居る彼女であったり。色々と、悪くない。

 

「別にね、君が気づく前からずっとそうだったんだよ? だから君は、君の家は、北海道の片田舎で生きていたんだと思うよ。可能な限り殺さない為にね。君のご両親や祖父は知らなくても、曽祖父か、その上か、そのあたりは自覚が有ったんじゃないかな?」


 夕野ちゃんは、いつまでも年を取らない。

 久しぶりに会った彼女は十年前から飛び出してきたかのように、若くて綺麗だった。

 少しお高いレストランで、注文した料理とドリンクを待ちながら、彼女は昔のように、こともなげに呪いの話をする。


「呪いだよ、こんなの」

「気づいてしまえばね。でも気づかなきゃすごく楽じゃない?」

「気づかなきゃ……ね」

「裏と表だよね。きっとかのんのご先祖様は、自分の子孫を守りたくてこういうことをしたんだと思うんだけど、それが結局かのんの今の悩みになってしまっている訳で。これも人を呪わば穴二つなのかな?」

「私の子供にまでこれが残ってたらどうすれば良いのかな……?」

「普通にしてれば良いんだって。普通が一番だよ、普通が。あれだ。トラブルが起きそうなら呼んでよ。かのんの子供ならタダでも助けちゃうからさ」

「……ありがと」

「それにあれだよ? 別にかのんのそれ、悪いことばっかじゃないんだよ?」

「どういうこと?」

「まあ流石に死人が出ると取り返しがつかないけれどもさ。嫌な人が遠ざかっていくだけなら、その嫌な人にとっても、自然にかのんちゃんから離れることができるってことじゃん。しかもそれは誰かのせいってわけじゃなくて、狗神のせいなんだから、誰も悪くない。それって只の人間が只の人間と距離を取るよりも楽なことじゃない? それに離れた先で幸せになるかも知れないしね。世の中何があるかなんて分からないし、何処に誰がいるかなんて知ることもできないけど、まあ生きていればなにかあるから。それって悪くないよ、うん」

「それ、詭弁だよぉ……」


 そう言われると夕野ちゃんはいたずらっぽく笑う。


「あはは、要は使い方なんだって。そこを間違えなければ、そこまでひどいことにはならない。ずっと言っているけど、普通が一番だ。意識しない、かかわらない、以上」

「プレッシャーだなあ……でもさでもさ……私、そんなの無理だよ」


 ちょうどその時、グラスが運ばれてきた。

 名前は知らないけれど、十年物の赤ワイン。


「かもしれないけど、愚痴は聞いてあげるし、トラブルが起きたら駆けつけるよ。今や私も専門家だからね」

「はいはい、准教授就任おめでとうございます」

「そういうことじゃなくってー!」


 私たちは笑う。こんなにも明るく笑っている。


「ふふ、ありがとね、友達で居てくれて」

「どういたしまして」


 グラスを合わせて鳴る澄んだ音色。

 乾杯、と私たちの声が重なった。

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狗神の祝~扉の向こうに~ 海野しぃる @hibiki

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