くらげのような雲

 海までは約20キロ。

 高低差を見越しても二時間ほどで着くだろう。

 時間は…、使い物にならないと思っていた時計でも、一応逆回転していると言うことさえわかれば逆算できるので、持ってきていた。

 時計の針は2時36分を指していた。やえもどうやらスマホを持ってきているようだ。

 もう、どこにも繋がらない気がするそれは、ただの時計だった。


「10時24分…かな?」

「夜中の12時ぴったりから逆回転してるならね」


 ああ、それもそうか。

 父や母が砂になったのは12時ではなかっただろうし、今日少年たちが砂になったのも朝だったと言うことだし、時計の逆回転のスタートが12時だろうというのは思い込みだ。

 特に僕は食欲があまりないから、腹時計もさっぱりだし。

 でも、結局時間などというものは、便利なだけで必要ではないと気づいた。

 今は朝日が出ていてまだ正午になっていないようだ、というのが分かるだけでいいのではないかと。


「進むスピードは変わってないから、カップ麺の時間くらいは分かっていいね」

「ああ、それもそうだね」


 そういえば、ストップウォッチは逆回転するのだろうか。

 逆回転であるということは、すなわち0の次は99.99.99から始まると言うことに、なる…のかな?

 それを自転車を漕ぎながら伝えるとやえは、なるほど、どうでもいいね! と笑った。


 途中で見かける砂の山を避けながら、僕らは道をひた走る。散らばっているものは…もうどうしようもないので踏んでいくが。

 でもよく考えたら、車は走ってこないのだから、車道の真ん中を走ればいいのか。その提案には、やえも乗ってくれた。

 まあ、時々車が電信柱やガードレールにぶつかって止まっているからそれだけを避けるのは面倒だったが。

 時々すれ違う少女たちは、大体が僕をぎょっとした顔で見ていた。

 この世界で、どれだけの少年が残っているのだろう。もしかして僕だけだったりするのだろうか。

 僕が最後の希望だったとしても、結局一ヶ月で何ができると言うのかという話だが。

 それに僕は……。


 街を走っていると所々で煙が上がっているのが見える。

 それもそうか、恐らく大人が砂になったのは夜中だったとはいえ、そのまま火が付きっぱなしだった家もあっただろう。


「海に行くのは、正解かもしれないね。火事は私たちじゃどうにもならないし、ああ、途中でコンビニとかスーパー見つけたら、必要な分だけ水とか飲み物とかもらおう。あと、畑に生えてるものとかは、枯れる前にはもらうけど、民家からなにか貰うのは、出来れば最終手段にしたいね」

「そうだね」

「ただ、矛盾するけど寝る場所は欲しいから、海に近い家をどこか寝る場所に借りよう。どうせ、もう大人はいないんだし」


 やえは割と冷静だった。

 僕はいつ死んでもいいと思っていて、多分やえも勝手にそうだと思っていた。

 けれど、どうやらやえはそうではないのだろうか。一ヶ月生きるために必要なものは人から奪うことは考えていないが、でもとりあえず今すぐ死んでもいいという感じではない。


「やえ、君は生きたいんだね」

「変なこと言うねえ。そうだよ、生きたいよ。ゆうたは今も死んでもいいと思ってるの?」

「思ってないよ。

「そう、ならよかった」


 その時やえがどんな顔をしたか、僕には見えなかったが、よかったという声が甘く耳に響いた。

 そんな話をしている内に、海が見えてきた。


「海だー!!」

「わっ、びっくりした。なにいきなり」


 いきなりやえが叫ぶ。

 やえはへへ、と笑って


「山ではやっほーって言うでしょ? でも海はそういうのないよね。じゃあもう海にテンション上がった時には海だって言うしかないなと思って」

「な、なるほど…?」


 自転車を堤防の内側に置いて、僕たちは砂なのか元人なのか分からない場所に降りていく。そりゃ、もちろんほとんどは元々砂だろうけど。

 砂浜に繋がる階段をゆっくり降りていくと、途中で海の上にぽっかりと浮かんでいる雲が、エチゼンクラゲっぽいねと彼女はまた笑った。

 九月はくらげがいっぱいになるから、もう海に入るのは危ないよね、とも。


「入るつもりだったの?」

「まだ暑いけど九月だし、そんなつもりはなかったけど。くらげの形の雲を見つけたらそう思っただけ。暑いし、足先位は入れてもいいよね」


 彼女は靴を脱いでその辺に捨てた。靴下も脱いで素足になって、わー! と子供のような声を上げながら全速力で走っていく。

 速いなと思いながら、僕もついていった。


「はー! 気持ちいい! ゆうたも脱ぎなよ靴!」

「いや、僕は」

「いいから!! 思い出づくり、でしょ!」


 僕が靴を脱いでいる間に、彼女は穿いていた膝ほどのスカートをたくし上げて、ざぶざぶと進んでいく。

 僕も少しだけズボンの袖を捲りあげて、水に入った。

 ああ、足の裏が引いていく水と砂でゾワゾワする。

 やえは海水が太ももギリギリの辺りで進むのを止めて、こちらを振り返った。


「パンツ、見たい?」


 いきなり何を言い出すんだ。

 唐突な質問に、僕はどう答えるのが正解なのかと考えた。

 もちろん自分の気持ちは無視して。そして僕が出した答えは。


「見せたいの?」

「思春期の男の子がそう返しちゃいますか! …ふふっ、見せたいって言ったら、見てくれるの?」

「そうだね」


 もう、法律も倫理もなく警察もいないこの世界で。

 僕ら二人だけしかいないこの海で。

 彼女はスカートをさらに上げて、僕にそれを見せた。

 薄いピンク地に、可愛らしい赤のリボンがついていた。


「はい、おしまい」


 その布地があらわになっていたのは五秒ほどだっただろうか、もう少し短かったかもしれない。

 そう言って、またその眩しい布地は隠されてしまった。

 ここは、普通ならもっとドキドキするところなのだろう。

 僕もそれなりにはドキドキしていた…と、思う。

 ちりちりと胸が焦げる気がするのは、こんな昼間にハプニングなどではなく下着を見た背徳感からだろう。

 だがこんな世界で、誰に対して背徳感を持つというのか。

 もう砂になった父と母か、それともやえの父と母か。


「バルーンスカートって、くらげみたいでもあるね」


 さっき見つけたくらげの雲を見上げながら、やえはそう抑揚のない声で言った。


「そう言われれば、そうかもしれないね」

「もうちょっと、動揺してよ」

「してるよ、これでも」


 僕は感情が表に出にくい性質なんだ、と言いかけてやめた。


 陸上のくらげのなかには、人をドキドキさせる布地が隠れている。

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