底に沈む本能
やえは、海から上がって浜辺に腰を下ろした。
そして僕はその隣に少し距離を置いて座った。
海から目を離さずに、やえは僕に聞こえるか聞こえないかの声で、
「静かだね」
「うん、波の音しか聞こえない。」
「私たちだけになったのかと思うね」
「自転車に乗ってここまで来る途中で誰にも会わなかったら、本当にそう思ったかもしれない」
やえはごろりと寝転んで、
「本当にそうだったらいいのに」
と、焦点の定まらない目をしてぼんやりと言った。
酷く煩わしいものばかりの世界に生きていた僕らは、あの時から人を憎んで生きてきた。
見えない場所を殴る親や、彼女にあんなことをする彼女の親を筆頭に。
そして誰も助けてくれないこの世界で、僕らは僕らがお互いにその秘密を知ってしまったことによって、会うことをやめた。
それが、お互いを一番救う道だと信じていたから。
僕へのその虐待行為は、やえに見られたことで大分少なくなった。
それでも、全てがなくなったわけではなかったけれど。
だから僕はやえに助けられたと言えるだろう。
でも、でも僕は…やえには親に暴力を振るわれているところを見られたくなかった。
助けてほしいと思っていたけれど、それは絶対に彼女であってほしくなかった。
彼女にだけは、見られたくなかった。
これは、きっと僕の自分勝手な自尊心からだ。
そして僕は身勝手に、やえもそうなのだと思った。
本当はどうだったのだろうか。
僕があれを見てしまったことによって、彼女はきっとひどく傷ついただろう。きっと、誰にも見られたくなかったはずの、その行為を。
大人は、卑怯で下劣で、巧妙に僕らを縛り
僕は大人になりたくなかった。
大人になる自分の体に絶望して、死にたいと思いながら死ねずに。
彼女に逢いたいと思いながら逢えずに。
殺したいと思いながら殺せずに。
あんなに近くにいて、その自分自身に巻き付けた鎖でがんじがらめにした。
―――――
20××年11月29日
ぼくは今日はやえと遊ぶ約束をしていなかったけれど、その時は親もきげんが良くて、外に出ることをゆるしてもらえました。
やえのことが好きだったぼくは、かのじょの家にかけ足で向かいました。
今日は、五番町の少し大きな公園のぞうのすべり台の下で、また二人でひみつの話をしようと思っていました。
近くのコンビニエンスストアで、もらえたおこづかいでおかしを買って。
やえの自転車があったし、やえのお父さんの車もあったので、やえは家にいると分かりました。
そして、ぼくはやえをおどろかせようと思って、開いていたやえの家のドアをこっそり開けて、二階のやえの部屋にしのびこみました。
けれど、いつまでたってもやえが来ないので、ろうかにでてみると入ってはいけないと言われていたやえのおとうさんの部屋から、やえの声が聞こえてきました。さっきまで開いていなかったドアが開いていたのです。
そこから聞こえる声は、ひどく辛そうでした。
ぼくが、お父さんとお母さんになぐられたり、タバコをおし付けたりされたときに出す声ににている気がしました。
いけないことだと思ったので、ぼくは帰ろうと思いました。
「ゆうた君…?」
「ひっ」
心ぞうが口から出てくるかと思いました。
ふり返ると、そこにははだかのやえのお母さんが立っていました。
その声でドアが開いて、はだかのやえのお父さんが出てきました。
やえのお父さんのちんちんは、ぼくのお父さんのちんちんより大きくて、上を向いていました。
それがとてもグロテスクで、おぞましいと僕は思いました。
そして、見てはいけないのにその部屋のおくを見てしまいました。
はだかのやえは、赤い、赤いロープでしばられてベッドの上にすわっていました。
ぼくがしばられる時はよごれた茶色いロープなので、ぼくはふつうの家に赤いロープなんてあるんだと思いました。
ぼくは、その時ほど悲しい気持ちになったことはないです。
やえの体にはロープの他にもなんだか別の赤い点のようなしみがついていて、その時のぼくにはわからなかったけれど、それはろうそくのろうでした。
やえはぼくから目をそらして、下をむいて泣き出しました。
もう泣いていたのかもしれないけれど、声を出して泣き出しました。
その後は、よく覚えていませんが、ぼくは家に帰らされました。
やえのお父さんが、お母さんに「なんでかぎを閉めてなかったんだ」とおこっていたことだけば覚えています。
家に帰って、ぼくは部屋の中で泣きました。
その時にはもうやえにぼくがお父さんやお母さんからなぐられているのを知られていたので、ぼくはやえがぼくと同じようにぼう力をふるわれていたのだと思って泣きました。
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