醜悪な深海生物
その夜、やえとやえのお父さんお母さんがやえを連れてぼくの家に来ました。
やえと二人で、ぼくの部屋に行っておくようにと言われました。
けれどやえもぼくも、一回は部屋に行ったものの、ばれないように両親たちが話している部屋の前にいました。
やえはぼくになにもしゃべりませんでした。
なぜかしゃべらなくてもやえの考えていることが分かるような気がしました。
「とうまさん、あなたのところ、ゆうた君をぎゃく待してるよね」
「なにをばかな事を。どこにそんなしょうこが?」
「いやいや、かくさなくていいんだ。実は今日ね、わたしらも見られたんだよ」
「何をだ」
「ゆうた君に、やえをなぶっているところを」
「なんだ、あんたもやってるのか。てっきりおどしに来たのかと思った」
「あなたのところとは、少しちがうけれどね。一つ、てい案がある」
「なんだ」
「わたしらは、君たちの事をばらさない。だから君たちも、わたしらのことをばらさないでほしいんだ」
「なんだ、そんなことか。もちろんかまわない」
ぼくは、おなかから夕方食べたご飯が出そうでした。やえも、ぼくと同じような顔をしていました。
そして、ぼくらはまたそうっとぼくの部屋に戻りました。
「ゆうた、ゆうた…。もう、わたしたち、会うのをやめよう」
「うん」
「会っても、もうわたしゆうたに話しかけない。ゆうたもそうして」
「うん」
「……っく…うっ、うっ……。辛いよ、ゆうた」
「やえ、ぼくも…苦しいよ。…うっ…ううー」
ぼくらはだき合って、声をおさえながら泣きました。このまま二人でひからびて死んでしまえればいいとぼくは思っていました。
好きな女の子と話をできないのは、とても辛いことでしたが、話をすると泣いてしまうのは分かっていました。
なのでぼくらは、言葉を発しないことで、ぼくら自身をおたがいに守っているつもりでいました。
ぼくは、やえと一生話をできないなら、これで泣くのを最後にしようと思いました。やえもそのつもりでいることが言わなくても分かりました。
やえがやえの両親によばれて階だんをおりていきます。
ぼくも一しょにおりていきました。
大人たちはきっと、ぼくらが泣いていたのに気付いていたと思います。僕らの目は 真っ赤になって、ぼてっとしていました。
けれど、どちらの親もその事にはふれませんでした。
かれらにとって、ぼくらが泣くのはよくあることで、気になることではなかったのかもしれません。
ぼくは、やえの両親をにらみました。
人をころしたいと思ったのは、多分後にも先にもその時だけだと思います。
やえの目も同じように、ぼくの両親をころしたいとにらんでいました。
――――――
「今じゃなくて、あの時…両親がいなくなればよかったのに」
僕が考えていたあの時のことを、どうやらやえも考えていたらしい。
僕らが出逢って行き着くのは、あの出来事なのだ。
「そうしたら、僕は今頃君を抱いていたかもしれないから、これでよかったのかもしれない」
この答えは、多分聞きたくないと言われた彼女の告白の答えになってしまう。
それが分かっていても、言わずにいられなかった。
「聞きたくないって言ったのに、どうしてそんなことを今言うの。ほんの数時間前にした約束、いきなり破らないでよ」
「どのみち僕は、君を抱けないから」
「えっ?」
「
やえのあの性的虐待の場面がフラッシュバックする。
実際、僕の精通はあの場面だった。
けれど、その一回の射精がどれだけ僕を絶望させたか分からない。
大人になるということそれ自体が、やえを傷つけることになると思っていたから。僕はずっと、やえを傷つけない子どもでいたかった。
あれが、僕の中では禁忌になっていて、そういった行為の臭いを感じると、拒否反応で吐き気がするようになった。
そうして避けている内に、今度は勃たなくなった。
そうなって、やっと逢えないやえを傷つけずに済むとほっとした自分がいたのが事実だった。
「私の、せい……?」
目に涙を
「うっ、うっぁああー…っごめん…なさい! ごめんなさい…っ!! ゆうた…! あ…あぁ…、わたし…わたしなんかが…ゆうたを好きだったから…!」
「違う! やえは悪くない。悪いのは僕なんだ。君は僕に遊べる日はこの日とこの日だって、教えてくれてた。それを破ったのは僕なんだ。僕が殴られなかった日に浮かれて、やえの自転車が置いてあるって、家にいるんだって、忍び込むようなまねをしなかったら…」
そうすれば、やえも僕もお互いに気持ちを伝え合わず、ずっと友人でいただろうか。
頭を
「やえ、泣かないで…。お願いだよ…。君が泣くと僕は苦しい。こんな感情は、あの時に捨てたと思っていたのに」
きっと、やえもあの約束の日から感情を捨てていたはずだ。
いつも笑っているやえ。
君の顔は、人の真似をして感情を貼り付けた無表情だった。
それなのに、君と逢ってこんなに苦しいのに、君の感情が見えると、どうしてか僕は楽しいんだ。
君の感情の発露に高揚する自分がいて、戸惑う。
これ以上僕の感情を解放しないでほしいと思うのに、もっと君に僕を求めてほしいと思う。
君を抱きしめたいと思う。抱きたいと思ってしまう。抱けない自分をもどかしいと思う。
頭の中がぐちゃぐちゃだ。こんなものを僕はどこにどうやって隠していたんだろうか。
苦しい、楽しい、もどかしい…ああ!
――心臓がこんなふうに耳の奥まで痺れるほど高鳴るのを、僕は初めて知った。
「ゆうた、ゆうた…! ごめんなさい。ううっ、う…ぅ…。汚い! 私は汚い!! 離して、離してゆうた。私なんかが、ゆうたと一緒に最期の旅をする資格なんか、なかった…」
じたばたと逃れようとするやえ。
愛しい。
僕の為に大粒の涙を
この世界の終わりに、僕を想って僕の腕の中で暴れる君が。
どうして君はそんなに美しいんだ。
周りが
そんな君が、僕を好きだと言う。
「やえ、きれいだ。僕は、君が好きで好きで仕方ない。君に逢うまで、忘れていたのに、君は僕にそれを思い出させた。そしたらもう、我慢できなくなったんだ」
「ごめん、なさい……」
暴れていたやえの動きが止まった。
「僕も、死ぬまで君といられるというのなら、大好きな君といたい。君は、違うの?」
やえは途端に静かになって僕の胸に顔を埋めて、ふるふると首を振った。胸元が、彼女の柔らかい髪でくすぐったい。
「顔を上げてよ、やえ」
その声に、ゆっくりと顔を上げたやえのあごを持って、僕は逃れられないようにきつくやえの唇を奪った。
その柔らかな唇を、僕はもっと貪りたくてやえをぐっと抱き寄せる。
役に立たない時計が、今何時を指しているのだろうか。
どれほどの時間その唇を塞いでいたか、分からない。
とにかく僕にとっては、とてもとても長い時間だった。
「ふ…っ」
唇を外すと、やえはうるんだ吐息を漏らした。もう一度その唇を塞ぎたくなったが、我慢した。
「僕も、わがままで君を振り回して、自分だけが幸せでいることにするよ」
「私たちは、幸せになっていいのかな」
「もう大人はいないし、僕らだってあと一ヶ月で死ぬんだから。誰に怯える必要もない」
「死ぬ前だから、私たちは神様に許されたのかなあ…」
「もしかしたら、そうかもしれないね…」
波の音が聞こえる。
両親に殴られていた時に聞こえた、ノイズのような音なのに、なぜこの波の音はこんなにも暖かいんだろうか。
深海生物が時々打ち上げられるけれど、もしかして彼らはこの波の音を求めて上へと上がってくるのかもしれない。
海の底は静かで、何も見えなくて、見えなくていいと思いながら過ごしているのに。
外敵から襲われないようにそこにいるのだけど、僕らはやっぱり暖かい場所を知っていて、それを求めてしまって…。
「僕のこれは、君に触れてこんなに興奮してるのにやっぱりさっぱり役立たずだ。けれど僕は自分がこうだから、まだ子どもなんだと思えると、嬉しいんだ」
「私とできないのが嬉しいの?」
「そう、大人はやえを傷つけるから。大人になったら、やえのそばにいられないから。子どもだからやえのそばにいられる」
あんなに近くにいたのにずっと話もできなかったやえと、こうして一緒にいられる。
自分への
いきなり感情が溢れ出たごちゃまぜの僕の結論は、やはり子どもでいる事だったということらしい。
気持ちと体が矛盾している。
大人になったやえは、きっと僕を求めているのに僕はそれに応じられない。
子どもの僕だから、やえの傍にいられるはずなのに、僕はやえを抱きたくて仕方ない。
ああ、僕らはなんて醜いんだろうか。
やっと出てきた海の上は、不完全な僕らを
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