海の前に

 そして、彼女は30分後に自転車に乗って、僕の家の前に来た。


「家の鍵はかけた?」


 と僕が聞くと、彼女は笑って、もう必要ないかもしれないけどねと言った。僕は確かにそうだと思ったが、口にはしなかった。

 彼女は先ほどまで着ていた服とは違って、少し余所よそ行きの胸元が大きく開いたカットソーに淡い黄色のカーディガン、それに膝丈ほどの黄土色のバルーンスカートをはいていた。


「そっちこそ、もう準備は済んだ?」

「まあ、一応ね」


 父が昔使っていたと自慢していた自転車用のリアバッグとサイドバッグ、一度も見たことはなかったが、納戸を探すと本当に見つかったので、ほこりはたいてそれに色々と必要だと思うものを詰め込んだ。


「あとね、海に行く前に寄りたい場所がある」

「いいよ。どこ?」

「私たちが通ってた中学校」

「中学校? それはまたどうして?」

「あの頃の私を、解放してあげたいと思って」

「…解放?」


 彼女はふふふといたずらに笑った。


「ゆうたに伝えたくて仕方なかったこと、今なら言えるから」


 そして、僕らは卒業したあの学び舎へと、一言も言葉を交わさずに自転車を漕いだ。

 あの頃の自分を解放する。なんだかおもしろい響きだと思った。

 もう過去へは戻れないのに、人は何で昔の自分が囚われている場所を鮮明に覚えているのだろう。

 その校舎は、たった数年見なかっただけなのに酷く小さくボロくなったように見えた。


「この中学校、こんなに小さかったっけ?」 

「それにこんなに老朽化してなかったような気はするけど」

「ま、気のせい気のせい。さ、入ろう」


 彼女は自転車を適当に置いて、ずんずんと学校へ入っていく。

 校門は締まってはおらず、車も何台か止まっている。

 なるほど、職員室を覗いてみればちらほらと砂の山が見える。校門も開いているわけだ。


「これじゃあ、どれがどの先生かわかんないね」

「そうだね」


 職員室の鍵ケースを開いて、目当ての鍵を見つけた彼女は、そのまま屋上へと歩いていく。

 学校の中はヒンヤリとして、およそ生気を感じられない。

 こんな事態になって、そして一応は日曜日に。

 学校に来る人間なんて変わり者の僕ら位だろう。


「んっ、固いな~! ちょっと、ゆうた回して」

「んっ! ……!」


 確かに固い、が、なんとか回った。

 ガチャリ、と大きな音を立てて、屋上へと続く扉は開いた。

 ぎしぎしと嫌な音を発するドアノブを回して屋上へと出る。


「っはー! 初めて上がったね、この学校の屋上!」

「まあ、いつも閉まってるしね」

「学生が屋上を求めるのはなんでなのかなー!」

「さあ?」

「なんだよー、つまんないの! なんかこう適当に理由でっち上げてくれてもいいじゃん」

「そんなことを言われても…」

「まあいいや!」


 ああ、またあのいたずらな笑顔だ。

 ゆるゆると溶けるように動き出すこれは一体なんだろうか? 知っていたものなんだと思う。忘れていただけなんだろう。

 だってもう君にはずっと逢えないと思っていたから。

 この感情も、あの感情も…、全てが邪魔なもので、必要のないもので…。

 僕は、無力で…。だから…。


 彼女は、屋上に張り巡らされた金網にガシャリと大きな音を立てながら手をついた。

 そして大きく息を吸い込んで、


「ゆうたー!! 好きだよー!!」


と叫んだ。


「ああ、やっと言えた! やっと…!!」

「……やえ…」


 くるりとやえが振り返ると、その目にはなぜか涙が浮かんでいた。


「ああ、返事とかはいらないからね! ここから先に進みたいとも思ってないし」


 彼女は一呼吸置いて、僕に少しだけ近づく。

 そしてその美しい瞳が、僕を真っ直ぐに捉えた。


「ゆうた、ずっとずっとゆうたのことが好きだった。ゆうたが私の事好きじゃなくてもいい。最期の旅に、わずらわしい大人のいないこの世界で、あなたと二人でいられるだけで私はもう他はどうでもいいや」

「やえ、僕は……」

「待った待った! やめて! 私が悪いんだけど、やめて! ストップ!! 本当にいらないから!」


 耳をふさいで、彼女は悲しそうに首を振る。


「欲しいとも、思ってない。人はずっとわがままで他人を振り回して、不幸を振り撒いて、そうやって生きてる。私は、わがままでゆうたを振り回して、私だけが幸せになることを選んだから。だからゆうたの返事は聞かない」

「……じゃあ死ぬ直前になら、聞いてくれる?」

「え……? やだよ、聞きたくない…」

「最期の時でいいんだ。聞いてよ」

「……わかった…」


 しぶしぶと言った体で、どうやらやえは了承してくれた。


「でも、それまではその返事はないものとして旅するからね! わかった?」

「いいよ」


 彼女はほっとしたように笑った。

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