三国夢幻演義 龍の青年
光月ユリシ
其之一 臥龍の日々
新緑に覆われた山間にのどかな田園風景が広がっている。稲はまだ低く、
その一部始終を目で追った後、青年は顔を上げた。
視界に広がる全てが平穏を映し出している。各地で続く戦乱とは隔絶された小さな世界――――
背が高く、
「歩みて
この『
春秋戦国時代。斉の
「
一通り詠い終わり、青年は晏嬰の知謀をさも自分が為したかのように余韻に浸った。そして、青年は一つ深呼吸し、自然の気を含んだ新鮮な空気を肺いっぱいに取り込むと、
「いい季節になってきた……」
そんな独り言を呟いた。
竹簡はまだ紙が一般的に流通していない時代、竹の
孔明が広げたその本のタイトルは『
『論衡』は後漢初期の人物、
それまでの定説の不合理を指摘し、当時盛んだった
襄陽は隆中から東方約三十里(約十二キロメートル)にある荊州の中心都市、荊州学府はその襄陽に設立された学術機関である。
孔明が目を通しているのは、荊州学府で自ら複写した『
『人は物なり。物も
この時代、人の魂は死後、霊(鬼)となって存在すると信じられた。しかし、王充は死後世界や幽霊を否定している。
『……人死して精神天に
万物は天地の気を受けて存在する。天の気が〝陽〟、地の気が〝陰〟である。
人もまたそうで、陰気が鬼、陽気が神。それぞれ陽気が作った魂は天に昇り、陰気が形作った肉体は土に帰る。つまり、何も残らない。
孔明は十年前に母を、六年前に父を、そして、昨年に叔父を亡くした。
『もし、本当に死後の世界がないなら、両親や叔父との再会もないということになる……』
王充は霊魂が存在しないのだから、葬儀は儒教の教え通り厚葬にする必要はなく、薄葬でよいという。父も叔父も死後は薄葬にするよう遺言を遺した。
では、人々が言う幽霊の正体は何かというと、病気で衰弱した者が見る幻覚であるという。また、鬼の正体は年を経た動物の精、もののけであると言っている。
『
少年時代の不思議な経験を振り返って、孔明は独り
孔明は本を読むにしても、人の話を聞くにしても、全てをそのまま受け取ったりはしない。概要を把握し、肝要を理解する一方で
全ての答えは本の中にあるわけではない――――叔父の言葉を思い返す。
本と見聞と実体験を合わせた中に自分なりの答えを見い出せばよい。
ふと、一匹の
『飛ぶのも楽じゃないだろうに』
指を立てる。
しばらく孔明がその蜻蛉の様子を観察していると、日差しが
孔明が体に意識を戻すと、蜻蛉は飛び去って行った。
王充は合理的思考と科学的観察眼を持った人物だった。山に霧が立ち昇っていく様を観察して、水が蒸発して霧や雲を作り、雨となって落ちてくる降雨のメカニズムに言及している。孔明も過去の修行の中で、その真理を知った。
『雨になるか』
孔明は本を閉じると、腰を上げた。そして、
『前に雨が降ったのは、十日前だっけ……?』
『論衡』の中の一文だ。気候が順調で、穏やかなことを意味する。転じて、世の中の平穏無事をいう。
『これはそのとおり、信じよう』
耕作を諦め、孔明が住まいとする隆中の
孔明が弟の
「兄上、お帰りなさい」
均が兄の帰宅に気付いて出迎えた。故郷を離れた頃はあどけなさが残る五歳だった少年も今では十歳になって、肉体的にも精神的にも確かな成長の跡が
しかし、孔明にとってはまだ幼い弟であるのは変わりなく、そのために「
「山へ行っていたのか、阿参?」
「ええ。見てください。今日の収穫は上々ですよ」
均が籠の中のそれを示した。少年が背負う籠なので大きくはないが、近くの山で手に入れた山菜やきのこ、
諸葛兄弟は以前、山に
「それは結構だが、自習はどうした?」
「兄上。今の私たちの問題は日々の
均がそう正統性を訴えた。それほど学問に執心でない均にとって、
食糧問題は孔明にとっても頭痛の種だ。以前とは状況が違う。叔父が亡くなり、姉が嫁いで、弟と二人だけの生活だ。均が採ってくる山の幸は市で売れば、
「それだけあれば、しばらくはじっくり学問にも打ち込めるだろう。
学問の手ほどきは兄・孔明の役目である。が、そんな兄に対し、均が妙案をぶつけた。
「いえ、今日の分を取ったら、後は全部売りますよ」
学問には人一倍熱心な孔明であったが、生活面に関してはまるで無頓着だった。 それ
「売るのか?」
「我が家には金の
すでに均の狙いは雨後の筍にある。孔明も均が烏有先生の影響を強く受けていることは分かっていた。学問は何も本だけに限らないということも。
「分かった。でも、日々の
「わかりました。それも食事の後でいいですか? お腹がすいてしまって。腹が減っては、学問に打ち込めません」
均はなかなか利発だ。そうして時間を稼げば、それだけ勉強の時間も削られる。
「それもそうだな」
それには孔明も同意した。孔明も朝から何も口にしていなかったのだ。
兄との交渉に勝利した均が山菜を切って調理に取り掛かったその間に、孔明は今日聞き知ったことを整理しようと思い立ち、書斎に移動した。その書斎は狭かったが、手作りの本棚が備え付けられていた。孔明は『論衡』の竹簡をそこに置くと、
先日も朝から襄陽まで足を運んで、書籍の複写をし、情報交換という名の座談会をしてきたところである。
孔明は折り
こうして地図を眺めながら情報を整理した方がより的確に動きを把握できるし、想像力も
地図の中心に描かれているのが、荊州襄陽である。
孔明が叔父の喪に服していたこの一年間で、最も激しい戦乱の風が吹きつけたのは、実はこの
南陽郡は荊州の最北にあたる一方、旧都・
劉表は曹操軍が荊州に
曹操と聞くと、過去の惨劇の記憶が頭をもたげようとして
しかし、孔明はいつものように思考を研ぎ澄ませて、それをどこかに押しやろうとした。孔明は地図上の襄陽に置いた指を下になぞって、
『それにつけ込むかのような荊南の反乱劇。これも曹操の戦略だろう……』
建安三(一九八)年になって、突如、長沙太守の
曹操が優れた戦略家であることは疑いようがないが、これには劉表の失策も絡んでいる。
『
長沙郡は荊州南部四郡の一つで、一年前の長沙太守は張仲景という人物だった。
ちょうど荊南諸郡は疫病の猛威に
『あれだけ疫病で疲弊していたのだから、短期間のうちに大規模な反乱に育つことはないだろうけど……』
孔明は長沙に滞在していた頃、その実情を
その時に出会った初老の武官の顔を思い出し、そう考えてみたが、想像が及ばなかった。
長沙を指す指を今度は右にずらして、揚州に向ける。昨年、皇帝を称した
一方、袁術の下を離れた孫策は
もちろん、それも袁術の勢力を弱体化させるための曹操の戦略の一端である。
『落日の袁術。
長沙に隣接する予章郡にも朝廷から派遣された
孔明の指が再び動いて、
『兄上はどうしていらっしゃるだろうか。孫策をどう見ているだろう……』
孔明の兄は
『叔父上が亡くなったこと、姉上が嫁いだことを知らせたいが……』
孔明は微かな嘆息を漏らし、今度は上へ指をずらして、故郷・徐州を指した。
故郷の徐州
諸葛家の親類は皆、瑯琊に残ったままだ。脳裏に親戚の顔と故郷の風景を思い出そうとしてみたが、どれもこれもかなりおぼろげに浮かぶだけで、今にも消えてしまいそうだ。
『まだ帰れるのは先の話か……』
暗い未来に孔明は思わず目を閉じた。耳が激しくなってきた雨音を拾う。
『
稀代の人物鑑定家が最期に遺した言葉が
孔明は立ち上がって、開け放たれた窓から外を覗いた。雨に打たれる森の木々に
漢代は
それは人為に対して天が反応するという考えで、雷については、落雷は悪いものを食べたことによる天の怒り、天罰だと信じられていた。
王充は『論衡』にて疑義を呈す。雷に意志があるというのか。では、どうして天罰は夏にしか発せられないのか。食中毒の者にどうして雷は落ちない。落雷にあった羊を見た。良くないものを食べた食べないに関わらず、落ちる時は落ちる。
太陽から発する陰陽二気の激突が雷の正体だ。だから、夏には雷が盛んになり、冬には静まるのである。落雷は単なる自然現象であって、そこに天意などありはしない――――。
「兄上、出来上がりましたよ。食べましょう」
壁を隔てて弟の声が聞こえ、孔明はストッパー代わりの小枝を外して、窓を閉めた。居間の食卓には山菜ときのこを炒めただけ料理が一品置かれていた。米はない。
孔明は
「これは大丈夫なのか?」
孔明が眉をひそめて、箸でつまんだきのこの安全性を尋ねた。以前、きのこ料理で痛い目にあっている。本物の雷に打たれることこそなかったが、その時は腹の中に雷鳴が
「大丈夫です。尋さんも高さんも安全だと言っていましたし、信じてください」
均はご近所さんにも確認を取ったようだ。孔明は無言で小さく頷くと、それを口の中へ放り込んだ。
「それは兄上のようなきのこですよ」
均の
「目立たず、毒もない。それでいて、非常に味わい深い。めったに見つからないそうですし、市で売れば、高値が付くそうです」
「そうだろうか?」
まだまだ修行途中にあると自覚する孔明は自分の価値を計るつもりはない。
だが、目立たないで無害でいるというのは納得だ。ようやく手に入れた平穏な日々。ただ世俗に溶け込んで、家族と苦楽を共にしたいというのが今の孔明の切なる願いである。かつての師、烏有先生も老子の言葉を理想とした。
其の
才能をひけらかさず、周囲と調和する〝
悟りを開いた老子はそう言っている。
孔明の今の師もまた、和光同塵を実践している一人である。名を
龐徳公は襄陽の賢人で、孔明の姉の
孔明が龐徳公との知遇を得たのは荊州に来て間もなくのことだった。ひょんなことから
今も先日の話を新たに開墾した畑を
「阿参もなかなか面白いことを言う。わしは
笠を
「それはどうしてですか?」
「瓜も
孔明はすぐにピンときた。葛は諸葛家のことだ。姉が龐家に嫁いで姻戚関係になったことを言っているのだ。〝
「なかなか
「はい」
孔明ははにかんだ。龐徳公が畑仕事を一段落させ、孔明が立つ畑の端へ歩いてきた。そして、自ら育てた瓜を自慢しながら、
「これもきっと
それを
「はい。ありがとうございます」
「ろくなものを食べていないのではないかと、そなたの姉が心配していたぞ」
「お恥ずかしいことです」
孔明が思わず笠のつばを下げて、顔を隠すようにして言った。その傍らで龐徳公は笠を取り、手ぬぐいで噴き出した汗を
「親戚になったことだし、わしの
不意に投げかけられた問いに孔明は
孔明は疎開の旅路で見てきたこと、体験してきたことから、物事の枢要を見極め、様々な知識をバランスよく習得することが大切だと肌で学んだ。
己に安寧をもたらすのは莫大な金でもなく、
「今、私が重んじるべきは様々な知識を学ぶことだと思います」
必要なのは知識だ。学科や学派に
「うむ……。だが、ただ知識を溜め込むだけではいけないな。吐き出さねば価値も薄れる。
そして、許劭はその人生の最期に少年の孔明と会い、その才能を「光明の龍」と評した。
「大志ですか……」
そうは言っても、今の孔明には具体的な大志とやらを想像することができない。
龐徳公が
「瓜はせいぜい人の腹を満たし、
龐徳公はこの戦乱の時代に必要とされるべきは、自分のような人に教授するだけの才能ではなく、人の痛みと苦しみを取り除く才能の持ち主なのだと言っている。
孔明はその才を持っている。だからこそ、龐徳公は孔明を気に入ったのだ。
そんな人物が自分と同じ様に民草と時代の中に埋もれ、いつまでも光を和らげていて良いはずがないのだ。
〝孔明〟という
自らその字を選んだのは、心の奥に世に出たいという気持ちが潜んでいるからだ。
龐徳公が道を示した。
「国家の良薬になってみてはどうか?」
「国家の良薬……」
孔明はそう呟くと、それ以上は言葉にならずに絶句した。龐徳公が告げた。
「焦らずともよい。今のそなたは龍は龍でも、飛び立つ前の
そこに孔明の姉・
「元気がないわね。ちゃんと食べているの?」
そして、抱えてきた
「
と、聞いた。籠の中には畑で採れた数種類の野菜が詰め込まれている。
「もちろんだ。遠慮なく持って行きなさい。この瓜も忘れずにな」
龐徳公はそれを了承すると、手に取った瓜を玲が持つ籠へ入れた。
倒木と流木をそのまま門の形に組んだ龐徳公邸の門前で、孔明は姉から漢水で捕れた魚の干物と野菜入りの籠を背負わされ、恐縮して言った。
「いつもすみません。何だか物乞いみたいだな」
「親戚だし、肉親なんだから、遠慮なんて無用よ。お
孔明が龐徳公邸を訪問する度に玲はお節介を焼いた。だいたい食糧の融通ではあるが、それは末弟の均を案じてのことだ。
「はい、わかりました」
「ちょっと重いけど、背負える?」
「ええ、大丈夫です」
「それと、これ。黄さんのところの、いつもの薬」
「ありがとうございます」
孔明は姉に心から感謝した。姉を通じて得た龐家との
姉もすっかり龐家の生活に慣れたようで、幸せそうに見えたし、家長としてこの縁談を決定した孔明自身もそれが喜ばしかった。
「それじゃ、気を付けて帰るのよ」
手を振る優しい姉の見送りを受け、孔明は龐徳公邸を後にした。
その背に、その胸に、重く大きな贈り物を受け取って……。
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