其之九 鳳雛一匝
その郡土は
黄祖はその合流点に港を整備して兵を常駐させる一方、夏口にも軍船を係留して軍事拠点としていった。これが今の
四年前の建安四(一九九)年に
「ここは水路によって四方へ通じる。揚州から見れば、ここは荊州への入口。裏を返せば、ここさえ死守しておけば、荊州への侵攻を防げるということになる」
黄祖の子の
江夏から漢水の水路を
江南地方は湿地帯が多く、陸路の整備は遅れている。多雨などで川や湿地の水が
このような自然条件もあり、江南地域では、水路を取る方がはるかに便利だったのである。当然、それには船が利用される。それは戦においても同じで、必然的に水戦が多くなった。孫権は多数軍船を保有しており、それに対抗するためにも、軍船と港の整備は不可欠だったのだ。
「荊州への入口であることと、亡父の仇討ち。孫氏が
「……何のことですかな?」
鋭い質問に黄射はふと目を逸らし、揺れる船上で
「禰正平殿の怨念が亡霊となって襄陽に現れたという話はもうお聞きのことと思います。再び正平殿の亡霊が現れて、お父上に厄災が降りかかるようなことがあったなら、あなたにとっても、荊州にとっても凶事ではございませんか。
呪いというものを安直に信じるわけではないが、禰衡が父に殺されてから、孫氏の江夏攻めが立て続けにあった。黄祖は二度の戦に敗れ、命からがら逃げ延びた。
禰衡の亡霊とそれを結び付けられると、さすがに不吉なものを感じざるを得ない。
「……分かりました。正平殿の死のきっかけとなった場所へ案内しましょう」
龐氏は襄陽の名士だし、禰衡の友になら、話してやってもいい。黄射も胸に
龐統はそんな黄射に自分を禰衡の友と偽って近付いたのだ。
色鮮やかに
「ここは〝
石碑には
「碑文は
その黄射の言葉が龐統の胸に響いた。孔明が荊州学府で調べた仙珠神器の情報は龐統にも共有されている。主に大学者・
『神仙概論』の中で、蔡邕は言っている。
神器・
坤禅とは、地宝である神器を
「正平殿は一目見ただけで、その碑文の内容を暗記されました。長沙太守・
黄射が言った。禰衡と親しくなった黄射は彼の要望で、五年前に禰衡をこの場所へ案内した。黄射自身は朱雀崖の存在さえ知らなかったが、禰衡が言う場所と合致する場所の情報を村人などからかき集めて、何とか辿り着いた。
地元民が「
「朱雀崖の情報は帰った後で父にも伝えられました。碑文がうろ覚えだったせいで説明に困りましたが、正平殿がそれを一字一句全て記憶していて、すらすらと
「口封じですか」
「そうなります。仮に曹操や孫策の下に行かれて、その情報を漏らされでもしたら、荊州の大きな脅威になると父は言っていました」
口は
「――――朱雀の加護があるから、太守が無能でも江夏を守り通せるだろう」
と、余計な一言を言った。禰衡はその好奇心旺盛さと自らの
「当時はこの岸壁沿いに短い
黄射は懐かしむようにその日の出来事を話した。桟道とは、崖や山腹などを行くために木材を組んで作った足場のような通路である。龐統が目を向けた先にそれはない。恐らく江水の増水時に流されてしまったのだろう。
「桟道の先に細い割れ目があって、奥が小さな
その黄射の思い出話と
『孫堅によって坤禅が為された
得られた情報を整理していくと、龐統の脳裏にそのような結論が導き出された。
県城から随分離れているが、この地は江夏郡沙羨県の管轄に入る。四年前、孫策軍は黄祖の軍船製造基地の沙羨県にまで進出して攻撃している。それは分かるが、
巴丘は洞庭湖の東岸、長沙郡の最北部に当たる。朱雀坤禅の地を確保し、江夏や長沙にも進出が可能な要地だ。孫策は周瑜を江夏太守に任命し、周瑜は巴丘に軍を留めて、そこを拠点としようとした。
たまたま孫策の急死があって、周瑜は呉に帰還せざるを得なくなったが、今年度初めの孫権の侵攻も含め、孫氏の野望が見え隠れする出来事だった。
最南の交州事情が
張津は
交州支配の名分を持つ劉表は後任に零陵出身の
一方、曹操は張津の仇である区景を討った交州の実力者、
「交州のことを頼むと言っておきながら、裏で足を引っ張るまねをする。先の張羨のこともある。やはり、曹操は信用ならん。玄徳殿の申すとおりだ」
この処置を知った劉表が苦虫を噛み潰すかのように顔をしかめた。劉備からの書簡が来て、交州事情が伝えられたのだ。呉巨は無事に蒼梧に入ることができたようだが、頼恭の方は赴任が間に合わなかった。すでに交州の州都の
遠く越南(ベトナム)にまで通じる交州は
劉備は書簡で冀州制圧に従事している曹操の背後を襲うよう、劉表に訴えていた。
「玄徳殿を呼び戻せ。曹操に一泡吹かせて、仙珠を取り戻す」
「呼び戻すのは結構です。ですが、交州の事情もありますから、兵は荊南に残して呼び戻されるのがよろしいかと」
その
劉備を二年近く荊南に留めおくことには成功した。劉備は荊南諸郡を鎮圧し、孫権の動きを封じ込めることにも役立った。確かに劉備は荊州にとって有用だが、何とか曹操と衝突する事態だけは防がなければならない。
建安九(二〇四)年。龐統は
ここは江夏郡に属しながら、すでに孫権の勢力圏である。樊口から江水を一日下ると、
「友の諸葛孔明から貴殿の名は聞きました」
「おお、あの諸葛少年のご友人か。いや、もう少年ではないな。あれは、もう七、八年も前のことになる」
龐統を接待しているのは
「孔明の兄が江東にいるはずですが、ご存知ありませんか?」
龐統が樊山でしばらく過ごしていると、結構な賢人がいるとすぐに噂になった。
それを聞きつけたのが魯粛だった。孫権は江夏攻略のため、魯粛に命じて樊口を軍船の係留地かつ最前線基地として整備させていたのだ。後年、樊口はさらに発展して、江東の副都・
龐統が樊口に下りてきていると聞くと、魯粛は早々に仕事を切り上げて、龐統を屋敷へと誘った。魯粛との接触は龐統も望むところだったが、自ら近付いては荊州のスパイと警戒される。樊山に居を構えたのも、魯粛の方から接触してくるように仕向けるためだった。
「良く知っている。実は兄の諸葛
魯粛は周瑜の推薦で孫氏政権に参画し、その信任を受けていた。そして、その魯粛の推薦で孫権(討虜将軍)に仕え始めたばかりなのが、孔明の兄・
「そうでしたか。孔明は生き別れた兄の安否をいつも気にしていました。帰ったら、伝えてやります」
「それが良い。それで、子瑜殿の
「襄陽で学問に励んでおります。
「それは素晴らしい。いずれ劉荊州に仕えるのですかな?」
「どうでしょう? 私にも分かりません」
「そうですか。子瑜殿がこちらにいることだし、是非、江東に来てもらいたいものですな。……ところで、貴殿はどうしてこちらに? 仕官をお望みなら、私が口を
「いえ、ただの遊学です。ずっと襄陽にいましたから、外の世界を見たくなっただけです」
「なるほど、遊学ですか。何について学んでおられるのですかな? こちらには高名な先生はいらっしゃらないはずだが」
魯粛は龐統を樊口の様子を偵察に来た荊州のスパイかもしれないと疑っていた。
孫権が実効支配を始めたこの地に数十日も滞在している。仕官にも興味を示さない。
「目に映ること全てが勉強になります。目に映らないことも、また
言って、龐統は何杯目かの
「目に映らないこととは?」
「天の声、地の声といいますか……」
「ほぅ、天地の声ですか。どうか教えていただけまいか。それは具体的には、どんなものなのですかな?」
「父の残した力は子の
暗に神器の坤禅のことを
魯粛は直感した。そして、
「
居住まいを正して、龐統に告げた。龐統は
「私は荊州の人間です。郷土を攻撃する相手に会って、話などできかねます」
「もう話している」
曹操が北征で忙しいうちに荊州を制し、朱雀の加護を取り戻す。その上で、江水を防壁として割拠してから、自ら帝王を名乗るべし――――。
そう孫権に指標を示したのは誰あろう、魯粛だった。
「私が荊州攻略をお勧めした。曹操に対抗するには、それしかないと思ったからだ」
「
領土が広くても、兵が少なければ、対抗できない。団結が弱ければ、抵抗もかなわない。
「体が小さくても、両脚が健全なら、虎がのしかかってきても、何とか倒れずにいられるかもしれません。両手が健在なら、虎の口を
言いながら、龐統は両手で杯を持つと、何かに
「ずっと注視してきたが、劉荊州は曹操と戦う意志がないように見える。黙って曹操に荊州をくれてやるよりは、取った方がよい」
「もう一人の劉がいます。一番曹操と戦いたがっている人が」
「劉予州か。予州殿が荊州を動かすというのなら、話は変わってくる」
「私も荊州人ですから、荊州を戦火から守りたいという気持ちはあります。どうするのが一番効果的なのかを荊州の外から考えてみようと、こちらに参ったわけです」
龐統は魯粛を信頼できる人物と見て、自分の思いを開陳した。
「こちらで過ごすうちにある確信を得ました。一番良いのは、荊州と江東が手を携えて、曹操と対抗すること。どちらが傷付いてもいけない。どちらも健全でいなければならない。私の友人の一人が劉予州に仕えました。孔明がどうするのか分かりませんが、もし、孔明が劉予州に仕えて荊州を保つ決意をしたなら、その時は私も討虜将軍の下で、
「その言葉、約束してくれるか?」
魯粛が真顔で迫った。鳳凰の言葉はふわりと宙を舞って、
「全ては臥龍と討虜将軍のお心次第」
杯の中に落ちた。龐統はその杯をぐいっとあおって、酒と自らの言葉を呑み干した。
八月。曹操は袁氏の本拠地・
曹操はこれを認め、前年に青州を治める袁譚の降伏を受け入れていたので、袁氏の支配する四州のうち、早くも二州を手に入れたことになる。まだ袁紹の死から二年余りしか経っていない。
劉表は劉備を呼び戻し、南陽郡の
「これで良い」
劉表にそれとなく劉備の危険性を
「このまま動かずにいてくれたら良いが」
曹操との対立関係が緩和され、この頃、
「いや、また一揺れするだろう。仙珠を失った後悔が思いのほか大きい」
「それもこれも全て劉備のせいだ。いっそのこと除いてしまうか?」
「待て。棄てるのはいつでもできる。今は使えなくなるまで使うまでだ。北の動静に決着がつくまでは判断を
「あの策謀以来、
「分かっている。荊州が戦で荒廃するのは望むところではない。だが、後継争いが
蒯越は危険な策謀を巡らす蔡瑁をたしなめて言った。
後漢末期に一大勢力を築き上げた袁氏の
曹操の意図どおり、袁氏は弱体化した。曹操は鄴を陥落させた後、一転して袁譚を攻め、これを打ち破った。袁氏の勢力は完全に分断され、こうして袁氏一族は身内同士で争った果てに滅亡の淵へと追い詰められていく。
龐統が襄陽へ戻ってきたのは再び木々が葉の色を変え、散らせ始めた頃だった。
肌寒さが増してきたある日の午後、何の前触れもなく、荊州学府にふらりと現れた学友に、「おお、士元だ」と、孔明も仲間たちも総立ちになって再会を喜んだ。
「久しぶりだな。生きて帰ったか。まさか幽霊じゃないだろうな?」
「もうその変顔を拝めないかと思っていたぞ、この薄情者め」
「よし。今日の主役は龐士元だ。遊学でどう変わったかを聞かせてもらおう」
孟建と石韜の口厳しい歓待を受け、崔州平に促されて、龐統は文通亭の輪の中に迎えられた。龐統が腰を下ろす間もなく、徐庶が聞いた。
「いつ帰ったんだ?」
「今到着した船で」
「着いたその足でここを訪れたわけか。大いに礼儀を学んできたと見えるな」
孟建が皮肉を言って口元を緩めた。
「孔明から江夏に行ったと聞いたが、ずっと江夏にいたのか?」
「しばらく鄂県にいました」
龐統は石韜の問いに答えた後、孔明に向き直って、諸葛瑾の情報を教えてやった。
「孔明、君の兄上のことが聞けた。孫権に仕えて、平穏に暮らしているそうだ」
「そうか。兄上は無事なのだな……。それが知れただけでも嬉しい……」
それを聞いた孔明は安堵と感動で言葉に詰まった。龐統に聞きたかったことがあったのに、それは瞬時に頭から抜け落ちてしまった。およそ十年ぶりの消息なのだ。無理もない。
「鄂県は今や江東の孫権の勢力圏だ。そこで何を学んできたのだ、士元?」
しんみりと感慨に
「私自身の道です」
以前のようなはぐらかす答えではなく、龐統はきっぱりと答えた。
荊州学府での再会と会合を終え、孔明は龐統と二人で渡し船に乗った。
孔明は早速兄の消息を伝えるため、
二人だけになって、龐統が孔明に聞いた。
「兄上が江東にいるのは、孔明が江東へ行く理由になるか?」
「いや、一度会いたいとは思うけど、もう別々の家だ。阿参もいるし、もう荊州が第二の故郷のようになっているから、私はこのまま荊州にいるよ」
「そう言うだろうと思っていた。それで、私の気持ちも決まった」
「どういうことだい?」
「私は江東に仕官してみようかと思う。向こうで良い知遇を得た」
このことは孔明に聞いてから決めるつもりだったので、先の会合では何も話していない。
「……そうか」
孔明は一言そう呟いて、友人の進路に納得した。明確な理由があったわけではないが、孔明も龐統が仲間たちとは違う道を進むのだろうことを何となく予期していた。
「
「なるほど。でも、私は仕官のことは、何も決めていないよ」
「荊州に留まるなら、選択肢は一つではないか」
龐徳公や司馬徽に才能を認められた孔明が、その大才を隠して隠者のような生活を選ぶとは考えられない。だが、誰かに仕えるにしても、曹操という選択肢はない。そして、蒯家や黄家の
「従父上が引っ越した理由を知っているか?」
「珍しい薬草を探すために
「それも一つの理由だが、もう一つ理由がある」
「いや、検討がつかない」
「孔明がこれ以上自分のような生活に憧れないようにと、実は孔明から遠ざかった」
「えっ?」
「せっかく国の病を癒せる良薬を見つけたのに、自分の生き方を
仙珠や神器に関わってしまったことが師を遠ざける結果を招いたと思っていた孔明は、自分の
孔明は時々荊州学府に顔を出し、黄承彦邸に
確かに
龐徳公も司馬徽も黄承彦も、龍の飛翔に必要な風雲が近付いていることを察知している。その邪魔にならぬよう、その助走を助けようとしているのだ。
「私も従父上から同じ様な生き方はするなと言われていたし、我等はのんびり暮らすわけにはいかないようだぞ」
船底が
「従父上の意もそうだが、我が意も無駄にしてくれるなよ、孔明」
離れていく声に気付いた孔明が振り返った。てっきり龐統は
「まぁ、随分浮かない顔ね。何か良くないことでもあったの?」
と、姉に問い返される始末だった。
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