其之十 青龍回帰

 建安十(二〇五)年、春。再び龐統ほうとうが旅立った。確かな決意を秘めて飛び立ったおおとりはもう帰って来ないかもしれない。しかし、それと入れ替わるようにやってきた人物が荊州学府で話題になっていた。文通亭に集まった仲間に孟建もうけんが言った。

「名が同じだし、あの変わり様。何となく士元しげんを思い出すな」

 その人物は仲長統ちゅうちょうとうあざな公理こうりという珍しい名前を持った若者だった。

 姓が〝仲長〟で、名が〝統〟である。出身は兗州えんしゅうの山陽郡高平こうへい県であるから、荊州の主・劉表りゅうひょうと同郷だ。兗・青・冀州の間を遊学し、幷州牧へいしゅうぼく(長官)の高幹こうかんに招かれた。高幹は時勢について仲長統に尋ねた。

 仲長統は高幹が心に野心を抱いていることを察知し、

「――――貴殿は雄大な志は持っていても、雄大な才能は持ち合わせておらず、士を好んでいますが、人を選ぶ事ができません。このことを深くいましめることです」

 と、自制を求めたが、それが受け入れられることはなく、仲長統は高幹の下を去って、荊州へやってきた。仲長統は不意に話し始めたり、突然黙ったりする性分しょうぶんに加え、独自の視点で物事を考え、立場を考慮せず直言をいとわなかったため、

「――――何でも、〝狂生きょうせい〟とかいうあだ名があるらしいぞ」

「――――そんなやばい奴なのか。幷州から追い出されてきたと聞いたが」

「――――いや、一風変わっているが、実は結構切れるらしい。幷州から追い出されたというより、劉荊州に招かれたというのが本当のところかもしれない」

「――――そうだろうか。その割には劉荊州を早々に怒らせたというじゃないか」

「――――やっぱり要注意人物じゃないか。あの禰正平でいせいへいを想わせるな」

 そんな噂が荊州学府の学生たちの間でささやかれていた。

「聞いたところから判断すると、禰正平と士元を混ぜ合わせたような人物かもしれない」

 石韜せきとうもいなくなった龐統を懐かしむように言い、

巨達きょたつ殿の話では、劉荊州を立腹させたのは本当らしい」

 そんな向朗しょうろうからの情報を伝えた。仲長統は荊州に着いて早々、劉表に招かれ、高幹の人となりを尋ねられた。仲長統は、

「――――雄大なこころざしは持っていても、それに比する才覚は持ち合わせておらず、士を好んでいますが、人を選ぶ事ができません。この点で袁公や荊州殿に近いと言えます」

 高幹に言ったのとほぼ同じ台詞せりふで直言し、劉表の不興を買ってしまった。

「思ったことをそのまま口にしてしまう人間なのか、へつらうことを知らない人間なのか。とにかく、劉荊州からは遠ざけられてしまったようだ」

「劉荊州は最初からその者がどんな人物か興味がなかったのでしょう。興味があったのは、その者が持っている幷州の情報……」

 孔明が鋭い洞察を働かせて言った。

「まさか劉荊州は幷州と結んで何かやろうとたくらんでいるのか?」

 孟建が言って、眉をひそめた。かつて幷州の西河太守だった崔州平は、

「幷州の地勢を考えたら、あり得るな……」

 そう呟いた。幷州は西と南は河水(黄河)によって、東は千里(約四百キロメートル)に渡って伸びる太行たいこう山脈によって隔てられた高原地帯である。

 これら天然の防壁は外からの侵入をはばみ、街道も限られているので、防衛するにも有利であった。

「しかし、今さらですか?」

 高幹は袁紹えんしょうの甥にあたる人物だが、曹操に降伏して幷州牧に据え置かれ、そのまま統治を許されていた。すでに袁譚えんたんは滅ぼされ、袁尚えんしょうは幽州の奥地へ逃げ込んだ。

 袁氏勢力が衰退を極めようとしているこの時を迎えて、ようやく動こうとするその判断は習禎しゅうていにも理解し難い。孔明が高幹の心の内を見透かすように、

「揺れやすい人物なのだろう。劉荊州と似ていると指摘されたのは間違っていないように思うね。本当の自分は誤魔化ごかませない。今頃になって、胸に抱えていた野心の種が芽吹き始めたのだろう。でも、曹操は幽州深くまで進軍していて、千里の彼方かなたにいる。攻めるなら、今を置いて他にない」

 荊州にとっても、最大のチャンスが到来しているのは間違いない。

 歴史の勝利者とは、それを機敏に感じ取って好機を逃さない。孔明は劉表と劉備、漢室の末裔たちの動きに期待した。劉備も許都を攻撃して皇帝を救い出すことを強く求め、劉表も今度こそは乗り気になって、幷州の高幹とも結び、二州の兵力を合わせて曹操の背後を突く計画を練った。

 そして、建安十(二〇五)年、八月。高幹が叛旗はんきの兵を挙げた。ぎょうを奇襲するとともに、幷州と冀州を繋ぐ主要ルートである壺関こかんを閉鎖し、独立の態勢を取った。

 また、幷州の山岳地帯に潜んでいた黒山賊こくざんぞく張白騎ちょうはくきが高幹に加担し、河東かとう郡の衛固えいこ弘農こうのう郡の張琰ちょうえんらが反乱に加わり、反乱は幷州を越える広がりを見せた。

 本来なら、これに劉表もタイミングを合わせて蜂起する手筈てはずだったのだが、蒯越かいえつらの説得でまたもや日和見ひよりみの姿勢に終始した。 

 劉備はこの最大のチャンスに何とか劉表を動かそうと訴えてはいたが、

「――――玄徳殿が言うことは分かるのだが、勝てる見込みは少ないだろう。曹操はそれを考えて備えを整えているはずだから……」

 蒯越に大分吹き込まれているようで、劉表は先の決意はどこへやら、覇気に欠ける態度で応じるだけで、劉備を大いに失望させた。そして、荊州に無為無策の時をもたらしたまま、建安十年が過ぎ去って行った。

 

 劉表は老境を迎え、心身共に衰えていた。そんな老人に漢室を復興する絶好の機会を感じ取る能力はなかった。あっても、それに応じる気概をすでに失っていた。

 劉表の老憊ろうはいに巻き込まれるように無為に時を過ごすしかできなかった劉備の嘆息は深く、劉表から新年の祝宴に招かれても、何の享楽きょうらくも感じられなかった。

 荊州府のかわや。厠から出て来た劉備の深い嘆息をつく場面を目撃した劉表が、

「玄徳殿、どうなされた? 新年早々、そんなに暗い顔をして、縁起えんぎが良くありませんな」

 まるで無頓着に聞いた。劉備は苦笑いを浮かべて、

「今、用を足している時にたっぷりと脾肉ひにくが付いているのに気が付きました。馬に乗って戦場を駆けていた頃にはなかったのですが。年を取っていく自分と何の功績も残せていない自分を思うと、出て来るのは嘆息ばかりです」

 脾肉の嘆。脾肉とは太腿ふとももの肉のことだ。荊州に来てから戦場は遠く、馬で駆けることも少なくなった。馬を下り、剣をさやに収めてほぼ四年。使わない剣がびつくのと同じで、平穏を得た引き換えに闘争心がおとろえてしまっている。

「年を取るのは仕方ないこと。私など物忘れも酷くなってきたし、小便の切れも悪い」

 劉表は呑気にそんなことを明かして、はにかんだ。悪い人物ではない。しかし、乱世という時代にそぐわない。忘れてもらっては困ることがある。

「玄徳殿は功績もしっかりと残してきたではないか。貴殿は漢の予州牧・左将軍だ」

 劉備は自身の闘志を鼓舞するように心と顔を引き締め、劉表に対した。

「その左将軍が申し上げます。今一度許都の攻撃をお考えください。曹操は主力を率い、自ら幽州まで遠征しています。まだ袁尚は健在で、烏桓うかんと手を組んで抵抗の意を示しているとのこと。どんな手段を使っても、遠く離れた幽州から曹操がすぐに戻って来ることはできません。さらに、曹操軍の多くの将兵は幷州討伐に忙殺されており、兵力は分散しています。幸い景升けいしょう公がいままで動かずにいましたから、曹操はすっかり油断して許都の防衛は一将に任せたきりです。荊州の大軍をもってすれば恐れるに足りません。これは天が景升公に与えたもうた千載一遇せんざいいちぐうの機会。無駄にしてはなりません」

 ここで会ったのを幸いに劉備は場所も選ばず劉表を説いた。弁舌は得意でないながらも、道理と情理をあわせて熱く口説くどいた。書簡でもほぼ同じ台詞で訴えた。

「漢の再興は景升公の手に委ねられています。景升公は皇族ではございませんか。陛下を曹操の手から救い出す義務がございます。私も全力で助勢致しますので、この機会に是非ともご出陣をお考えください」

 それに対し、老弱と化した劉表は少々迷惑気味な顔でうんうんと頷きながら、

「玄徳殿の言われるのはもっともなこと。……考えてみよう」

 いつもと同じ台詞で思わせぶりに言って、そそくさと厠へ姿を消した。


 会見を終えて、劉表の州府を出てきた劉備を供の趙雲ちょううんが迎えた。

「首尾はどうでしたか?」

「言ってはみたが、景升公の性格だからな……」

 渋い表情で答える。劉備は手ごたえを感じていなかった。荊州がずっと平穏だったこともあり、劉表はすっかり平和ボケしている感じである。荊州は大軍をようしているが、劉表自身が戦場に出、武功を重ねてきた人物ではないため、あえて戦を仕掛けるという手段に打って出ることに消極的だ。皇族に連なりながら、身の危険を侵してまで皇帝を救出しようという気概もない。残り短い余生を安穏あんのんと過ごせればそれでいいといった印象だ。

 劉備はそれが歯痒はがゆくてならなかった。曹操と袁紹の一大決戦、官渡かんとの戦いの時も袁紹と協力関係を結んでおきながら、劉表は曹操の背後を突くのを躊躇ためらった。

 曹操が幽州遠征で許都を留守にしていた時も、劉備にわずかな手勢を与えて、牽制けんせいさせるだけだった。曹操の方はそんな優柔不断の劉表の性格をよく理解していて、幽州遠征の際にも、

「――――あれはよろいの付け方もしらぬ老いぼれ儒者、自守じしゅの賊よ。放っておいて構わん」

 自守の賊――――自分の領地を守るしかできない奸賊だと劉表を酷評した。

 劉備がしきりに出兵をうながしているという噂があったが、

「――――劉表は表向きは温厚君子ですが、内心は猜疑さいぎ心で溢れています。我等を攻めるにはどうしても劉備の力を使わざるを得ませんが、兵を与え過ぎては逆に自分が襲われるのではないかと常に不安に駆られています。劉備の意見を聞くだけ聞いて、結局は動かないでしょう。所詮しょせん、劉備を使いこなせるような器ではございません」

 謀士の郭嘉かくかがそう言って、遠征の断行を後押しした。

 曹操は荊州の様子を探るため、荊州各地に密偵を送り込んでいたし、劉表配下の諸官たちに対する調略も行っていた。すでに何人からか内通、または協力の承諾を取り付けている。その中でも、最重要人物と言えるのが蔡瑁さいぼうである。

 蔡瑁と曹操は旧知の関係であったし、蔡家は襄陽の有力豪族で、蔡瑁の姉が劉表の後妻となっていた。蔡瑁は劉表の義理の弟に当たる。つまり、劉表の身内に曹操側と交通している者がいたわけである。

 蔡瑁は蒯越と共にしきりに劉備の口車に乗らないように劉表をいさめ、劉備の危険性を訴えた。同時に、蔡瑁の口からそれら荊州の情報が漏れていた。

 そして、蔡瑁は郭嘉からのある依頼を受けていた。成功すれば、多大なる恩賞が約束された依頼を――――。


 のどかな田園風景はいつしか静寂が包む深山幽谷しんざんゆうこくの景色へと変わり、谷間の小さな田園をつらぬ畦道あぜみちは渓流を眼下にのぞむ山道へと変わる。冬の日は昇っているが、ところどころ道端には残雪が白く固まったままになっており、木々の枝の上にもそれが残っている。徐庶じょしょと合流した孔明は南漳なんしょうの司馬徽邸へ向かう道中にあった。

 建安十一(二〇六)年、新年の挨拶のためである。徐庶が白い息を吐いて言った。

「左将軍が荊州の軍を動かすようになるには、君の信頼を得るのが一番だと思う」

「そうかもしれないけど、後継問題は複雑なようだね」

「ああ。袁氏がそれで破滅したというのに、まるで頭にないのかね、あの連中は」

 徐庶が毒付いて言った。その批判の対象は蔡瑁とその取り巻きたちである。

 荊州では静かなお家騒動が勃発ぼっぱつしていた。蔡夫人の口出しで、その子の劉琮りゅうそうを後継ぎにしようという動きが活発化していたのである。もちろん、そこには蔡瑁の後押しがあった。長子の劉琦りゅうきを後継ぎと決めていた劉表であったが、そのせいでだんだんと優柔不断の虫が騒ぎ始め、考えが揺れ始めた。今では劉琮を後継ぎにしようかと本気で悩んでいる。

 新年の祝賀会に呼ばれた劉備はその後継問題について、劉表から意見を求められた。劉備は袁紹のことを持ち出して、長幼の順が乱れることの危険性を語り、劉琦指示の姿勢を打ち出した。儒教では長子後継が基本だ。袁紹は三男の袁尚を溺愛できあいして長幼の秩序を乱し、家臣団の派閥争いと内部分裂を招いた。

「この際、どちらでもなく左将軍に荊州を譲ってもらいたいもんだ」

「確かにそれが理想だね。荊州が乱れれば、曹操を利するだけ。曹操に取られるよりは左将軍に譲ってしまった方がいい」

「孔明もそう思うか?」

「まぁね」

「だったら、孔明も左将軍の下に来いよ。左将軍は皇族と言うが、ほとんど庶民の出だ。敷居が低いから、俺たちのような者でも相手にしてくれる」

 徐庶が劉備に身を投じて数年が経つ。しかし、劉備は劉表に身を寄せる一客将に過ぎず、仕えたところで、俸禄ほうろくなど実質的な見返りは少ない。なので、依然として仮仕えという形にはなっているが、

「劉荊州と違って行動力があるから、働きがいはあるぞ」

 そう劉備の魅力を孔明に語った。実際、劉備は漢王朝を再興させるという忠義心のみで戦っているような人物であり、漢朝を重視する人々の間には熱烈な支持者がいる。庶民同然の出自であることが更なる支持を呼び、ちまたでは劉表よりも劉備の方に期待を寄せる声が出始めている。加えて、劉備ら君臣は厚い義侠心で結ばれたような間柄で、そのようなものにあこがれる者たちにとっては、理想の君主像であった。

 徐庶もかつては義侠の生き方をしていた人物である。劉備を見ていると、徐庶は己の中に眠る義侠心を否応いやおうなく駆り立てられるのだ。

「まぁ、孔明も一度会ってみると分かる。お助けしたくなるような御仁ごじんだ」

 劉備の人となりを熱心に語った徐庶は孔明を同じ道へ誘ったつもりだったが、

「ふ~ん……」

 義侠というものの魅力は何となく理解している孔明の返答は空虚なものだった。

 劉備に対しては、義侠の将軍という清々しい印象が残っている。仕官するというのなら、自分の目でしっかりと見定めた相手でなければならない。龐統も自らの目で確かめるために旅立ったのだ。未だ孔明は自身の進路に決定的なものを見い出せていない。はっきりした答えを出すにはもう少し熟慮の時間と何らかのきっかけが必要だった。

「あっ!」

 いきなり徐庶が声を上げたので、孔明も驚いた。

「どうしたんだい?」

「あれは左将軍だ。どうしてお一人でこんなところに……」

 徐庶が眼下の峡谷を指差す。その道を疾駆しっくする馬上の人。しきりに後ろを振り返っている。孔明がそれを目で追うと、距離はあるが、後方に十数騎の武装集団があった。

「どうやら追われているようだね」

「何、誰に?」

「さぁ……。でも、劉荊州の下には左将軍の存在をこころよく思わない者たちがいる。荊州侵攻を狙う曹操なら、事前にその者たちに声をかけて動かすことぐらいはやりそうだ」

「これはまずい」

 それを聞いた徐庶は居ても立ってもいられずに、走り出した。

「どうするんだい?」

 二回目の孔明の問いはもう徐庶には聞こえなかった。


 襄陽の西方の山間やまあい。両側に山の木々が張り出す隘路あいろに差し掛かったところで、趙雲は追手から逃げるのを止めた。主君を先に逃がし、自らは狼藉者ろうぜきもの相手に一戦する構えだ。普段は物静かでりんとしたたたずまいの趙雲がくつわを返すと、形相ぎょうそうを変えて一喝した。

「これ以上しつこく付きまとうなら、容赦せんぞ!」

「うるさい、死ね!」

 不穏な言葉を発した男が槍を突き出してきた。明らかな殺意に反応した趙雲がその槍を弾き飛ばして、自らの槍を相手の胸に突き刺した。その男は目を見開くと、硬直したように動きを止め、落馬して果てる。

 が、追手の兵士はおよそ三十騎。対する趙雲は単騎。

「たった一騎だ。恐れることはない、れ!」

 背後で兵士をまとめる蔡瑁が趙雲の殺害を命じた。劉備は一客将のくせに劉琦を後継にすように口出ししてきた。それは自分たちの既得権益をおびやかす由々ゆゆしき事態である。もう放っておけない。この際に山賊の仕業しわざと見せかけて劉備の暗殺をはかる――――。

 新年の祝賀に現れた劉備は趙雲一人をともなってきただけだった。事を為す絶好の機会。蔡瑁は帰路の先に兵を配置し、劉備が襄陽を発った後、手勢を率いて自ら後を追った。劉備が城門を出る前に伊籍が蔡瑁の動きが怪しいと注意を促した。

 さすがに劉備は危機には敏感で、伊籍の言葉に暗殺の臭いをぎつけると、進路を変えて逃亡を計った。

 誤算は劉備から離れず護衛を果たす忠烈無比の勇将・趙雲だ。劉備暗殺にはこの男が邪魔だ。だが、一向にその一騎を突破できない。趙雲の周りにはすでに五、六体のむくろが転がっている。聞きしに勝るその強さに蔡瑁は舌打ちして、素早く代替案を打ち出した。

「……半分の兵を残す。お前はここで奴を引き付けておけ。俺は迂回うかいして劉備を追う」

 蔡瑁は不敵に腹心に言い残した。この先は檀渓だんけいだ。急流に阻まれて逃げ道はない。地元・襄陽出身の蔡瑁は周辺の地理には詳しかった。そして、蔡瑁は十数騎を率いて、その場を後にした。


 脾肉を嘆じて馬を駆った劉備は逃げ場にきゅうした。眼前は急流、その向こうは切り立った断崖だんがい。背後からは追手が迫って来る。対岸の崖下にわずかな浅瀬が続いているのが見える。むなく、劉備は乗馬を急流に進み入れた。

「どう、どう!」

 劉備は嫌がる乗馬を制御しながら、何とか川を進む。劉備の脾肉の辺りまで水に没し、馬は首を出しているだけだ。脾肉を切り付けるような真冬の水の冷たさも今は関係ない。河岸に追いついた蔡瑁が劉備に叫ぶ。

「予州殿、何故逃げられるのだ。それ以上進むとおぼれてしまいますぞ、戻られよ!」

 劉備はそんな虚言を無視して、さらに馬を前に進めた。しかし、檀渓の急流は思った以上に速く、馬ごと劉備の体を押し流した。

「あっ!」

 激流に劉備はバランスを崩して前のめりになり、首もとまで水にかった。

「ははは。これは手を出すまでもなくなった。奴が溺れ死ぬのは時間の問題。事故で死んだとなれば、我等としても都合がよいわ」

 蔡瑁は劉備の無謀さを笑って言った。暗殺というわけではないが、これで劉琮擁立ようりつを邪魔する男をほうむり去れる。曹操陣営からの依頼も成し遂げられる。

 蔡瑁の視線の先で、とうとう劉備の頭が水中に没した。

 が、次の瞬間、ゴオオウゥ……!

 鉄砲水が押し寄せて来るような轟音ごうおんとどろいて、水がうず巻くと、突如龍が現れた。

 渓流を勢いよく流れ下っていた流水がにわかに龍を形作って頭をもたげると、天に昇ったのだ。見上げれば、龍の頭の上に劉備がいた。水中に没した劉備は馬ごとその龍に押し上げられて、対岸の崖の上に着地した。それを見た蔡瑁は当然の如く、

「な……」

 言葉を失って立ち尽くした。それは蔡瑁だけでなく、劉備本人も何が起こったのか分からなかった。ただ、崖下を振り返って蔡瑁の魔手ましゅから逃れられたのを知った劉備は、

「天のご加護だ……」

 安堵あんどの吐息と共にそう呟いて、天に拱手を捧げた。そして、ずぶ濡れになりながらも、九死に一生を得た劉備はそのまま林の中に姿を消した。

「何が起こったというんだ……」

 少し離れたところから、諸葛孔明がその一部始終を目撃していた。


 蒼穹そうきゅう。雲海。輝く太陽……。

 美しいと思った。天にいると思った。そして、自分が青と白の隙間、一面の雲海の上にふわふわと浮かんでいることに気付いた。途端に浮力を失った。焦った。落ちる。雲海に突入し、視界が途切れ、それを突き抜けた。雲の下は別世界だった。

 雷鳴轟く嵐の空。天井を闇のベールで覆われた暗く陰鬱な世界。その中を落ちた。いや、光がないし、風も空気の流れも感じないため、落ちているという感覚がない。雲海だったはずの白雲のかたまりは黒雲の天蓋てんがいとなって陽光をさえぎっていた。自分がつらぬいた雲海の、僅かに光が漏れるその穴が段々と小さく遠ざかっていくのを見て、やはり、落ちているのだと分かった。懸命に手足をばたつかせてみたが、事態は何も変わらない。落ちるのを止めるすべがない。稲妻が走った。天蓋の黒雲の中に何かうごめいた。再び稲妻がきらめいた。黒雲から巨大な体がのぞく。緑青ろくしょうのような色をしたうろこに覆われた天翔あまかけるその姿は、龍。

 三度目の稲妻は雷撃となって体を撃った。痛みはなかった。が、それで落ちるスピードが急加速した。空の終わりが見えた。叩きつけられる……!

 夢想の世界から戻った劉備が目を開けた。またこの夢か。一瞬そう意識しただけで、目を動かした。天井は薄暗かったが、はり茅葺かやぶきの屋根が目に入った。

 どこだ、ここは?

 体を起こした。視界に入ったのはすぐ側にある温かな暖炉。その向こうに人影があった。青衣せいいまとい、身なりを整えた学者とおぼしき中年の男だ。その男は、

「気が付かれましたか。よいかな、よいかな」

 そう言って柔和な笑顔で声をかけた。そして、劉備に経緯いきさつを語った。

「何があったか存じませんが、この冬の最中、ずぶ濡れで倒れておりましたぞ」

「そうでしたか。情けないことにいぬに追われて川に落ちてしまいました」

「それは難儀なことでございましたな」

 劉備は自分の衣服が変わっていることに気が付いた。きっとこの御仁が行き倒れていた自分をここまで運んで更衣までしてくれたのだろう。そして、ふと思い出すことがあり、ふところを探った。ない。どこにもない。

「お探しのものはこれですかな?」

 その仕草に気付いた学者の男が劉備が求めるものを差し出した。

 神器・青龍爵せいりゅうしゃく。劉備は思わずえりを正して受け取ると、

「ありがとうございます。私は劉備玄徳と申します。先生の名をお伺いしたい」

「私は名を司馬徽しばきあざな徳操とくそうと申します。〝水鏡すいきょう〟と号しておりますので、そちらの名の方が通っているかもしれません」

「あなたが水鏡先生でしたか。ご尊名を伺ったことがあります」

 劉表が平穏を保つ荊州に各地から賢人が集まっていることを自慢するように劉備に語って聞かせた時、その名が挙がった。

「私も予州様のことは聞いておりますよ。白眉はくびよ、茶を」

 司馬徽は冷えた劉備の体を気遣って、新たな門生に指示した。

 若く賢そうな門生だが、眉に白い毛が混じっている。その門生が熱い茶を茶碗に注ぎ入れ、「どうぞ」とそれを差し出した。

「私をご存じでしたか」

「弟子の一人が予州様にお世話になっております。徐元直と申します。その元直が予州様のことをよく聞かせてくれますから。まさかその予州様がこんなお姿で見えられるとは思っていませんでしたが」

「お恥ずかしい」

 それを受け取った劉備は早速茶を一口すすって、茶碗を床に置いた。

「先程狗に追われたと申しておりましたが、景升公が飼われている狗ですかな?」

 柔和な笑顔だが、司馬徽のその指摘はさすがに鋭かった。

「はい。私が景升公に漢再興のための義挙ぎきょをお勧めした直後に襲われました。私の進言が気に食わなかったのでしょう」

「景升公は賢人をうやまい、民を愛すお方には違いありませんが、俗物も一緒に愛してしまわれる。近付かない方がよろしい」

 司馬徽が劉表を避ける理由がおのずと語られた。司馬徽は劉表の誘いを何度か断っている。

「しかし、景升公の力なくして陛下を曹操の手からお救いできません」

「そうでしょうか?」

 以外にも司馬徽は劉備の思いを否定するように言って、自らも茶をすすった。

「そもそも景升公は軍事の人ではありません。軍才だけを比べたら、袁公以下でしょう。荊州の兵は多くとも、それを十分に扱う能力はありません。仮に景升公が兵を挙げても、曹公に勝てる見込みはございませんよ。実は景升公の狗たちもそれをよく分かっていて、ですから、曹公との戦を避けようと必死なのですよ」

「では、どうすれば陛下をお救いし、漢を再興できましょうか。先生、どうかご教示ください」

 劉備はその場に叩頭こうとうして司馬徽にうた。

「予州様、お止めください。私の知識は暇な時に子供に語って聞かせる程度のものです。世俗に交わるのが億劫おっくうなただの隠者でございますよ。子供に学問を教えることはできても、国家の大計は計れません。水鏡と号していますが、世捨て人ですし、天下のことは写りません。予州様のご期待に添えるような才知は到底備えておりません」

 司馬徽は手を振って己の才覚を一笑に付した。

「……そうですか」

 劉備は嘆息してこうべを垂れた。その明らかな落胆を見て取った司馬徽は劉備の真摯しんしな心に打たれて、言葉を続けた。

「……ですが、この地には〝臥龍がりゅう〟〝鳳雛ほうすう〟という英才がおりましてな。この二人ならば、予州様の高問に答えることができるでしょう」

「そのお二人は今どちらに?」

 劉備は希望に顔を上げ、身を乗り出して聞いた。

「鳳雛の方はすでに飛んで行ってしまいましたが、臥龍は近くの隆中りゅうちゅうというところで今もなお寝そべっております」

「これは良いことを聞いた。今からすぐに伺います」

「いえ、今はおよしなさい。まだ狗が辺りを嗅ぎ回っていることでしょうし、予州様が戻らなければ、新野が動揺してしまいますぞ」

 司馬徽はあせる劉備をさとして言った。確かに自分が襲われたことを知ったら、義弟の関羽と張飛が黙っていないだろう。

「そうでした。では、一旦新野に戻ります」

「それがよろしい。元直に知らせを出しましたから、もうすぐしたら迎えにくるでしょう」

「ご親切にありがとうございます」

 劉備が拱手して、此度の好意に感謝した。劉備の視線が横に置いていた神器に定まった。青龍爵を取って、唐突に言う。

「こうして出会えたのも何かのご縁。水鏡先生に一つお願いがあるのですが」

「何でしょうか?」

「これは伝国の神器の一つで青龍爵といいます。国家の秘宝と言われているものですが、訳あって、今は私が保管しております。これを先生に預かっていただきたい」

「伝説の中に聞いたことがあります。この世には仙界の力を引き出す霊宝が存在すると。しかし、そんなものを何故私に?」

 司馬徽がいぶかしむのも当然だ。劉備が答える。

「もともとこれは乱れた世をうれいた清流派の方々が濁流派の手に渡らぬよう、隠者に託して秘匿ひとくしてきたそうです。一時的に私が預かることになりましたが、私には知識がなく、私が持っていても何の益にもなりません。景升公の狗がこれを狙ったとは思えませんが、その可能性は否定できません。これが奸賊に渡れば、天下は大変なことになってしまいます。私は曹操と対峙たいじする身でもありますし、この身がどうなるかも知れません。ですから、隠者の先生にお持ちいただきたいのです」

「しかし、そのような重責を……」

「こうして巡り会ったのも天のお導きでしょう。先生の雅号がごうを聞いて、確信いたしました。これを託せるのは水鏡先生をおいて他にはございません」

 躊躇ためらう司馬徽を今度は劉備が説得した。龍に水は付き物だ。偶然とはいえ、奇跡的に命拾いをした劉備にはこれが天の導きのように思えた。

「そこまでおっしゃるのなら、一時いっときの間だけお預かりいたしましょう」

 劉備の真剣な言葉に押されて、司馬徽はそれを承諾した。


 劉備が去ってしばらくして、孔明が南漳なんしょうの司馬徽邸に現れた。

「水鏡先生、新年のご挨拶に参りました」

「おお、孔明か。何とも残念であったな」

 師がそうつぶやいたのを聞いた弟子が問い返す。

「どういう意味ですか?」

「いや、劉予州殿のことだ。入れ違いだった。もう行ってしまわれたが、実はたった今まで予州殿が来られていてな。しばらく話をしたのだが、良きお人のようだ。漢朝のために尽くそうとする熱意に感じ入って、そなたを紹介した」

「え、私をですか?」

「うむ。近々予州殿が訪れるだろうから、会って話してみるのもよいのではないか?」

「はぁ……」

 孔明は曖昧あいまいな返事を返しながらも、ようやく劉備という人物に強い興味がくのを自覚した。徐庶のみならず、水鏡先生までが劉備を推している。

「予州殿には悪いが、これはやはり私のような者が持つべきものではないな」

 そう言って、司馬徽は劉備から託されたばかりの青龍爵を孔明に出して見せた。

「あ、それは?」

 孔明が思わず声を上げ、目を見開いた。驚くのも無理はない。実は、孔明はこの霊宝を知っている。かつて青龍爵をその手に取ったことがある。そして、この霊宝こそが自分の人生を大きく変えたと言っても過言ではないのだ。

 孔明が青龍爵を手に取った頃はまだ十四の少年だった。その時の孔明は青龍爵が重要なものであるという認識はあったものの、大学者・蔡邕さいようの遺した『神仙概論』を目にするまでは神器や仙珠に秘められた伝承のことなど何も知るよしもなかった。

 司馬徽は自分の手の中の青龍爵を見つめた。これが類稀たぐいまれな価値を有す珍宝であることは一目瞭然であった。精巧な龍の彫刻の両眼にはめ込まれた青い宝石がくすんでいる。

「伝承は私も聞いたことがある。その伝承が真実だとするなら、これは力を失っておるようだ。だが、再び霊力を宿すことができれば、荊州を守る力として活用できるであろう。どうやって霊力を取り戻すか。それを最後の課題としてそなたに託す」

 司馬徽は本当にほんの一時だけ青龍爵を預かっただけで、それを孔明に差し出した。

「……」

 言葉が出て来なかった。十数年の時を超え、再び自分に託された命運。

「私のような世捨て人はまだしも、天を駆け巡るべき龍がいつまでも寝そべっていていいという時期ではない。先程元直が来た。あんなに生き生きとした元直を見るのも久しぶりだ。睡虎すいこも目覚めたようだし、鳳雛も飛び立った。次はそなただ。風雲急を告げておる。て、孔明」

 熱い言葉で師が弟子の背中を押す。孔明はその言葉と共に静かに青龍爵を受け取った。

 徐庶はもう戻らないだろう。友人の龐統も起った。これは自分が飛び立つ時機も到来したということなのだろうか――――。

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