其之十一 大いなる解放
建安十一(二〇六)年正月、遠征先の幽州から
また、この年、
「ここを先に制したことで、我等に加護が働いたということであろうか?」
「それは何とも……
「お父上の
「それはどうも……」
断崖の
「ここが
前を歩く魯粛がそう教えて、先導して桟道を進んだ。龐統が以前来た時は桟道がなかった。孫権軍の兵士たちが
「孫家は破虜将軍の時から神器の守護者に選ばれた。朱雀の坤禅は先君が長沙太守であった頃に行われたそうだ」
坤禅というのは〝地宝〟とも呼ばれる神器を
朱雀鏡は長年所在不明だったが、孫堅が
そして、坤禅以来、江水下流域に神器の加護が行き渡り、孫家はここに確固たる地盤を築くことができたのだ――――少なくとも、孫権はそう信じている。
短い桟道はすぐに終点を迎えた。この先に
そして、そこは
「ここがそうだ」
しかし、魯粛は言うと、崖にぽっかりと開いた小さな窟に入った。
そこは天然の風穴を利用して作られた
魯粛に続いて龐統は『神仙概論』にあった通称〝朱雀の
『この熱さが霊気によるものなら、坤禅時よりも力は減衰しているということなのか?』
洞穴の中には小さな祭壇が設けられているのが見えた。外光ではない光源がぼんやりと窟内を明るくさせていた。窟の横には岩壁を一直線に貫く溝が走っている。
だが、これはそこから漏れた光ではない。岩壁の奥から滲み出ているかのような感じである。ちょうど夕暮れ時のような明るさだ。その不思議な照明に照らされて、亡き孫堅が愛用した
「ここに巡礼を望むのは、やはり、〝
「それもありますが、孫家にお世話になる以上、見ておかなければと思いまして」
龐統が祀廟に足を進めて祭壇の前に
「こ、これは朱雀?
「私は何も……」
火の鳥は宙で輪を描いた後、窟を飛び出し、江水の彼方へ飛び去っていった。
「まさか坤禅が解かれたのでは?」
嫌な予感を覚えた魯粛は急速に熱気が失われていく窟内で、背筋に
思わぬ形で再び神器・青龍爵を手にすることになった孔明はどうするべきか判断を持て余した。青龍爵の名の由来となっている龍の彫刻。その両眼の青の
孔明は
「兄上、そこ雨漏りしていますよ」
弟の
「この草廬も随分年季が入っているからなぁ」
孔明は呟きながら、手元にあった青龍爵を雨漏りする地点に置いて、それを受け止めた。
「今度雨が上がったら、修繕しておきますよ」
書斎の向こうで均が言った。荊州に着いた頃はまだ「
「ところで、荊州学府に顔を出さないかという話。考えてみたか?」
「みましたけど、学問は兄上に教えていただいたことだけで十分です。
「烏有先生か。今頃どうしておられるだろうか……?」
孔明は卓上の
幅広い学問の知識を持つ孔明であるが、彼にとっての老荘学の師は葛玄であった。
ふと青龍爵に目をやると、全く雨水が溜まっていないことに気付いた。ちゃんと雨漏りする場所に置いたつもりだったのに、ずれていたのだろうか。上を見上げると、ちょうど滴が落ちてきた。それを目で追う。滴はしっかりと爵の中へと収まった。しかし、
「これは……」
その
そもそも地宝である神器はもともと陰気が結晶化したものだ。霊力の源が陰気で、霊力の放出が陰気を失うことであるなら、逆にそれを吸収すればいいのではないだろうか。
「昔、荊州に来た頃の劉荊州が神器を求めていた」
「そうなのですか?」
「劉荊州も若かりし頃は清流派に連なる名士であったからな。それがそなたの手に渡った。伝説の霊宝とこうも縁があるというのは、やはり、そなたが龍の才能を持つが故かのぅ?」
「私は自分の才覚については何も分かりません。ですが、この荊州を戦乱から守りたいという気持ちはあります。この神器の力をそのために使いたいと思います」
「うむ。まぁ、どんな方法を取るにせよ、劉荊州に預けるのはやめておいたほうがいい」
黄承彦の妻は蔡氏で、劉備を襲った
「今、この神器は力を失っていますから、預けたところで役に立ちません」
数年前、清流派出身の劉表を信じて黒水珠を預けた。しかし、劉表はそれを
「まずは神器に力を
「そうか。神器を得て、そなたの身にも風雲が近付いてきたことには間違いあるまい」
孔明が唐突に旅立ちを告げても、黄承彦は理解を示すように
あの日、孔明は青龍爵を一晩中雨の野外に
『――――普通の雨水では効果が薄過ぎるんだ。これでは
そう感じた時、手にした羽扇を見て思い返すことがあった。
葛玄はかつて
荊州の大湖といえば、
「心配なのは、
「はい……」
それを言われると、孔明も困る。沈黙した孔明に黄承彦が顔を近付けてにやけた。
「どうかな、阿羞も一緒に連れて行っては?」
「え?」
「わしも仙珠・神器のことはいくらか知っておったんだが、
耄碌しているなど
「それらについては全て阿羞に伝えてある。この際、阿羞を嫁にもらってくれまいか?」
突然の申し出に孔明もうろたえた。孔明がうろたえたのは、未だ草廬暮らしの
「一人であれこれ考えるより、身近に話し相手がいた方がよい。才色兼備というわけにはいかんが、才知はそなたとよく釣り合うと思う。良妻賢母の素質は十分だぞ」
黄承彦は真顔になって
「有り難くお受け致します」
頭でそう思うと、口がそう答えていた。
善は急げの黄承彦の計らいにより、質素ながらも、つつがなく孔明と月英の
隆中に到着した新婦を迎えた孔明は赤く染め上げられた
新居と言っても、荊州に来て以来今まで孔明が暮らしてきた草廬である。
この晴れの日を前に
「迎えるのも恥ずかしいようなところだが……」
「いえ、しばらく外の世界を見ないで過ごした私にとっては、全てが新鮮でございます。それに、あなた様がおられるところなら、私はどんなところでも結構です」
答える月英は顔を伏せていたものの、静かに
新郎が家に新婦を迎え入れ、晴れて夫婦生活が始まる。孔明が妻の顔を隠すベールを上げた。月英は恥ずかしそうにはにかんで、視線を落とした。しつこい陰気の
「そなたと出会えてよかった」
結婚という人生が
「あなた様は全てのことに陰陽ありと
優しく温かい孔明の
「頼りない夫かもしれないが、これからよろしく頼む」
「はい。よろしくお願い致します」
「うむ。それから、言っておかなければならないことがある。事情があって、私は間もなく旅に出る。のんびりと新婚生活を送ることはできない」
「はい。父に聞いて存じ上げております」
「そうか。その間実家に帰っていてもよいが、一緒に行ってみないか。長旅になるが、叶うことなら、江東の兄にも紹介したい」
新婦は新郎の家で三日過ごした後、一時的に実家に帰ることが許されている。
ハネムーンなどなかった時代であるが、孔明は
「はい、喜んでご一緒します」
この夫となら、どこまでも――――幸福と解放感に包まれた月英は
大事を託され、守るべきものができた孔明の人生は公私において大きく動き始めた。孔明と月英が夫婦となってから三日が
旅
「水鏡先生から与えられた宿題の答えを探す旅だ。しばらくは戻らない。家のことは頼んだぞ」
頭には笠、背中には
均は兄夫婦のために三日の間、姉の龐家に行っていて、今度は家を空ける二人のために戻ってきていた。均は門前で兄夫婦を見送った。
「はい。ご心配なく。兄上、姉上、お気を付けて」
建安十一(二〇六)年、山が紅く色付き始めた秋の頃。孔明夫妻は隆中を後にした。そんなことを知らない劉備が隆中を訪問したのは、それから幾日も経たない頃であった。
洞庭湖の北岸に湖に突き出るような小さな山がある。名を
漁民や
「士元じゃないか」
「ん、孔明か」
龐統の方は孔明の姿に驚きもせず、相変わらず淡々としていた。
「どうしてここに? 江東へ行ったんじゃなかったのかい?」
「まぁ、いろいろあってな……討虜将軍には用いられなかった」
龐統はそんな告白もさらりと言って、ぼりぼりと頭を
魯粛の紹介があり、龐統は
ところが、孫権の待遇は
「――――そちが子敬が推薦する龐士元か。書簡から受ける印象とは随分違うな。朱雀の封印を解いたというのは本当か?」
非難するような口調で孫権が聞いた。事前に送られていた魯粛の書簡は龐統の才能を褒め称えていたが、その事件のせいで、孫権は
「――――それはわかりません」
「――――ふん、わからぬと申すか」
「――――はい。何を
「――――子敬の報告では、そちが朱雀崖に入った後、火の鳥が現れて
「――――それもわかりません。私がわかっているのは曹操への対抗手段でございます」
「――――そんなものはそちに聞かずとも、公瑾に聞けば済むことだ。そちが私に仕えたいのなら、朱雀を再び
孫権は吐き捨てるように言って席を立つと、さっさと会見の場を後にした。
坤禅は大地を祭祀して、神器の霊力を地に宿すことをいうのだが、孫権は龐統にそれを命じたのだ。孫権にはすでに周瑜という絶対的右腕がいたし、何より父が坤禅した朱雀の封印を解いたかもしれないような男を孫権が信用できるはずもなかった。
別に龐統はあっという間の会見終了に腹を立てたわけではなかったが、孫権に言われたとおり、飛び立った朱雀の行方を探して、巴丘にまでやって来たのだった。
「ところで、その女性は?」
龐統が孔明の
「ああ、私の妻だよ。承彦先生の娘の月英だ。つい先日妻帯した」
「黄月英でございます」
失礼にあたらないよう、月英は笠を取ってあいさつした。龐統は自分の顔のことも気に留めない男なので、当然ながら月英の
「そうか。それはめでたい」
表情も変えずに祝福の言葉を述べるだけだった。喜怒哀楽の表情に乏しい龐統の顔からはあまり喜んでくれている様子には見えないのだが、孔明は彼の性分をよく知っているので、それが本心からの言葉であると分かった。
孔明が冗談半分に聞く。
「ありがとう。それで、孫討虜のところを離れて、士元も今は妻探しの旅かい?」
「無官の上にこの顔だからな。それは神器を得るより難しいだろう」
自虐にも淡々としている。龐統はふと気付いて、
「孔明がここにいる理由を聞いていなかったな」
その問いに、孔明は神器・青龍爵が再び自分の手元に戻ってきたその経緯を話した。加えて、師の葛玄がかつて言っていた言葉や
湘君とは古代中国で五帝の一人に数えられる
「私の中で湘君の伝説が神器と結びついた。伝説には何か根拠があると思うんだ」
「なるほど。私も同じようなものだ。『
鵷鶵とは鳳凰の一種で、
「
南華老仙は荘子のことを指す。荘子は武陵郡の奥地、
「わからないが、この目で確かめてみるつもりでいる」
「そうか。じゃ、途中までは共に行こう」
孔明の提案で、龐統は孔明夫妻と同船することになった。
船がゆっくりと冬の湖面を進む。小さいながらも、
「
孔明が龐統に尋ねた。〝周郎〟とは、周瑜のことである。
「そのとおり。
「それは坤禅が解かれてしまったということになるのだろうか?」
「わからないが、どうやら、そういうことらしい」
仮に坤禅が解かれたとするなら、それは自分が原因ではなく、劉備が長沙攻めをしようとしたその時だと龐統は考えている。
「じゃ、朱雀の神器を再び巣に坤禅することができれば、曹操との決戦に勝利できる一つの大きな要素になるだろうね。朱雀の神器は……何と言ったかな?」
孔明は隣に座る妻にそれを尋ねた。月英は一瞬の間もなく、夫の問いに答える。
「
紅玉はルビーのこと、鳥文とは、鳳凰をデザインした紋様をいう。
「以前、
「驚いた。奥方は我等より物知りなのではないか?」
それを聞いた龐統はまた表情を変えずに言い、孔明もそれを肯定する。
「うん。自慢の妻だよ」
龐統と孔明にそう言われ、月英は思わず顔を伏せた。もちろん、それは容姿を恥じたものではなく、知識を褒められた恥ずかしさからである。
湘山は山というよりは、水上に浮かぶ丘といった感じである。湘君は水神でもあるので、湖で漁をする漁民たちに大層
孔明らは祠廟に足を踏み入れると、湘君が描かれたレリーフの前で礼拝を捧げた。そして、孔明は洞庭湖の水で祭壇の前に
「神器は陰気を凝縮、結晶化したものだという。霊力を取り戻すには、陰気を集めらければならない。私はその方法を知った」
孔明はおもむろに
自然に溶け込んだ孔明の口から、霊力をもたらす呪文が
「
それは、古代の詩人・
『
「
ただし、それはただの詩ではない。詩の形をした
「
孔明の方術が進むにつれて神器は湖上の陰気を集め、祠廟内に流れ込む。それはまるで龍の細長い体を形作るかのように薄い霧となって孔明の周りを巡り、孔明の姿をゆっくりと包み隠していく。そして、孔明の黒の羽扇の動きにふわりと辺りに広がって、月英と龐統をもすっぽりと覆った。孔明の祝詞だけが祠廟に木霊する中で、霧はどんどんと濃度を高め、黒く滲んでいく。辺りは夕闇に包まれたように薄暗くなっていった。
「
それが、孔明の呪文が終わるとともに一瞬の内に明転する。濃霧はどこかへ消えた。全てが変わっていた。
「あ……」
龐統が珍しく表情を歪めて驚いた。いつの間にか孔明の隣に別人の女性がいる。
自身の変化に気付かず、きょとんとする月英。だが、それは
陰とは、水。陰とは、夜、陰とは、女性。そして、月英の顔に残るのは陰気の
他にも、祭壇の傍に
「孔明が言うとおり、伝説にも伝承にも真実が潜んでいるようだ。『史記』に曰く、男は己を知る者のために死に、女は己を愛する者のために形作る。まさに」
劇的な変化をもたらした超常現象を目の当たりにしても、またいつもの龐統が戻ってきて、孔明と月英の奇跡を淡々と褒め称えた。
祠廟の外は明るかった。空の暗雲は消え、夕陽が差し込んでいる。三人は気付いていないが、斑竹の斑模様も消えてなくなっている。
「屈原の魂もここに流れ着いたか」
夕陽が照らす赤い湖面を眺めながら、龐統がぽつりと呟く。そして、本気か冗談か、
「私の顔もましにならないものかな?」
孫権に採用されなかったのは、その容姿が一因にあることは自覚していた。
「士元のは生来のものだから、何とも……。それに、その才能も
孔明は龐統の後ろ姿にそう声をかけた。容姿が邪魔をして彼の才能が光って見えないのは残念なことだが、彼の真の姿は
「それに、何も私と違う道を歩もうとして江東に行くことはないよ。我等は姻戚なんだし、今この時のように同じ道を行ったっていいじゃないか。士元さえ良ければ、いつか私から予州殿に紹介しよう」
「孔明は劉予州の下に行くと決めたのか?」
「ああ。再びこの青龍爵を手にして、それが天命なのだと思った」
力を回復した神器。美しさを取り戻した妻。長年孔明の心を覆っていた
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