其之十二 三顧の礼
建安十二(二〇七)年。襄陽の新年祝賀会に出席した
「とんだ無駄足だったぜ」
張飛が酒臭い白い息を吐き出して
「付いて来なくてもよいと言ったであろう」
「そうはいかねぇよ。またいつ襲われるかもしれねぇし……。そうなったら、今度は俺が全員
それを想像して、張飛が荒い息と共に丸太のような太い腕を振り回した。
劉備が
「お前は単に酒と肉に
酒が入らずとも、赤く紅潮した顔の関羽が短絡極まりない愚弟の図星を突いて言った。
「へっへへ、まぁな……。それよりも、臥龍のことだ。全然寝そべってねぇじゃねぇか。いったいどこをうろついてやがるんだ?」
「
「
「元直は
「……」
劉備は関羽の推測をすぐには否定できず、沈黙した。
関羽が名を挙げた
劉備は裴潜に書簡を送って、もし長沙で孔明と会うことがあれば、自分の意向を伝えてほしいと頼んでいたが、裴潜からそれを伝えた
「まさか長沙まで迎えに行かねぇよな、兄貴?」
張飛のその問いには答えず、劉備は二人の弟たちを説得した。
「……まぁ、もう少し待ってみよう。どうせ私たちにできることはないのだから」
兄の言葉に今度は弟たちが黙する番だった。
この数年何も状況は変わっていない。曹操が勢力を拡大し、漢朝の寿命がどんどんと削られていっているのに対し、劉備を取り巻く状況は何ら変化がない。
劉表が劉備を取り込んだまま、旧態依然を保っているからだ。何とか劉表を動かそうと試みてきたが、逆に命を狙われる始末だ。今や劉備も劉表を説得する無駄を痛感して、この祝賀会では何の進言もしなかった。
『臥龍先生をお迎えできれば、この状況を打破できるのではないか』
劉備は
劉備の願いが叶って、約半年間の旅路の末に孔明が隆中に帰ったのは梅の花が咲きほころぶ頃、その年の春の訪れとほぼ同じ時であった。それを聞いた徐庶が早速、孔明の
孔明は長沙で
「何か話すことがあるんだろ?」
孔明がその理由を尋ねると、やっと徐庶が重い口を開いた。
「俺は……曹操の下へ行くことになる」
「えっ?」
あまりにも唐突な、予期せぬ返事に孔明も声を上げて驚かざるを得なかった。
「故郷に残している母が曹操の世話になっているそうだ」
「そうか」
今度は
徐庶はかつて
徐庶は予州
それを証明するかのように、
「俺は左将軍を
孔明を前にして、強く抑え込んでいた徐庶の感情が爆発するようだった。
「知っているよ」
徐庶が劉備を語る時、そこにはいつも情熱があった。生涯を
「できれば、孔明と共に成し遂げたかった。その夢を捨てるのは、辛い……」
「うん。それも知っている」
その徐庶の情熱は知らず知らず孔明を動かしていた。たとえ青龍爵を手にしなくとも、恐らく自分はいずれこの友の誘いに乗ったはずだ。孔明にはそんな自覚がある。何とか嗚咽を抑えて、気丈さを取り戻した徐庶が孔明に大事を告げた。
「だから、孔明、俺の夢をお前に託す」
ずしんとした重みが孔明の胸を打った。初めて青龍爵を託された時に感じた重みに近い。その時はそれを了承した。危険を
今度もその思いに
「分かった」
孔明は決意を新たにして答えた。迷いはない。
「それを聞いて安心した。左将軍が留守中に二度訪ねてきたことは聞いているだろう?」
「うん。弟に聞いた」
「俺はこの足で左将軍に孔明が帰ったことを報告する。それが俺にできる最後の奉仕だ。いいな?」
「ああ、いいよ」
孔明の確認を取ると、涙を
「みんなには孔明から伝えておいてくれ。いつかまた共に歩めることを信じている」
「うん、また会おう」
孔明と徐庶は再会を約して、ひと時の間、運命を別った。
新野に駐在する劉備の下に徐庶が現れたのは、それからすぐのことだった。
徐庶がやってきたと聞いて、劉備はすぐに彼を自らの政務室に迎え入れた。
徐庶は定期的に襄陽の情報を届けてくれていたので、関羽と張飛もやってきて耳を澄ませた。ところが、今日の徐庶は新しい情報を伝えるわけでもなく、新野の近況はどうとか、軍の調練は順調にいっているかとか、当たり
「どうした、元直。らしくないな」
「そうだ、病気か? それなら、酒を飲んで治せ」
「いえ、その……」
関羽、張飛の相次ぐ問いに口
「良くない話らしいな。だが、こうして来たからには話してもらうぞ」
どうしても心の思いは顔や言葉に現れ出るようで、三人にそれを指摘された徐庶は包み隠さずに訳を話した。敵である曹操の下に向かうというのだから、処罰を受けても文句は言えない。しかし、劉備はそんなことをする男ではない。徐庶が君子と見込んだ男だ。
ところが、劉備はただの君子以上、徐庶の想像以上のことを言ってのけた。
「話は分かった。曹操は敵ではあるが、才能ある者は誰であれ
「そこまで……」
徐庶は感動で言葉に詰まった。一介の書生を信任・厚遇してくれただけでなく、敵陣に去ろうとする男のために一筆書いてくれるというのだから、劉備の度量も大きい。涙を浮かべた徐庶につられ、張飛が感傷的になって、
「よぅし、別れの酒だ。今夜は飲み明かそうぜ!」
涙目でそう提案した。口元を緩めながら、関羽がつっこむ。
「お前にかかれば、すべてが酒を飲む口実になるな」
「兄者、俺と元直は腹を割って語り合った仲なんだ。文句は言わせねぇぜ」
「言うものか」
もちろん、この時ばかりは愚弟の提案に関羽も賛成だった。
こんな風だから、その夜の
翌日、劉備らは別れを惜しんで徐庶を新野郊外十里まで見送った。さすがに遠慮して、徐庶が「もうこの辺で」と言うので、ようやく歩みを止めた。
別れ際、関羽が武人らしく徐庶に忠告した。
「間違えても我等の前には出てくるなよ。出てきたら、容赦はできん」
「ご心配なく。曹操の下に参りますが、曹操のために
その忠告に徐庶が答える。そして、一時かつ生涯の主君に向き直ると、一番肝要なことを念押しするように言った。
「ご主君と共に戦えたことは私の誇りです。私の去った後は、是非とも臥龍孔明を迎え、何事も彼にお
「分かった」
劉備が徐庶の言葉をしっかりと心に受け止め、深く頷いた。
「それでは、これでお
安心した徐庶は拱手の礼で関羽と張飛、そして、劉備に別れを告げた。騎乗した徐庶が馬の腹を蹴り、馬がゆっくりと駆け出す。遠ざかっていく徐庶の背中に、
「また飲もうな!」
張飛の涙声が響いて、馬上の徐庶はまた涙した。その涙が風に流れていく……。
丘の向こうに徐庶の姿が見えなくなったところで、劉備は、
「
一時期を共に過ごし、共に語り、共に戦い、去っていった者たちの
「漢の名のもとに天下を統一すれば、また会えましょうな」
気休めながら、関羽が兄を慰めて言った。だが、それは暗く沈む劉備の心に光を当てた。
「そうだな。その通りだ、
劉備が即決した。臥龍庵とは、孔明の草廬の呼び名だ。張飛が問い返す。
「今からですか?」
「思い立ったが吉日という。辛い別れを忘れる一番の方法は、新たな出会いを得ることだ。つべこべ言うな。行くぞ」
言うや否や劉備が騎乗して駆け出したので、関羽も張飛も慌ててそれを追った。
厳しい寒さが和らいできた春三月初旬。それでもまだ残雪が隆中の野山を白く
「臥龍先生はご在宅でしょうか?」
門から出て来た
「これは、予州様。兄はつい先日、旅から戻って参りました。どうぞお入りください」
「お前たちは外で待っていてくれ」
劉備は関羽と張飛を門外に残し、一人、諸葛均に伴われて
質素な
「すぐに起こして参ります」
「長旅でお疲れなのでしょう。そのままで」
三度目にしてようやく会えた。もはや時間は問題ではない。諸葛均が言うのを制して、劉備は庭先に立って龍が目覚めるのを待った。
果てしなく広がる天空を
闇の中、視線の先に白い稲妻が光った。同時に雨粒が体を打つ。
『落ちたらどうなる?』
どこからかそんな声が聞こえた。暗雲を抜けた。体を大きくくねらせて眼下を見やると、輝く雨粒が落ちていくのが見えた。それを追いかけて急降下する。真下は荒れた大地のような茶褐色に濁った大河だ。輝きを放つ雨粒を
肌寒さを感じて、孔明の意識が夢境から舞い戻る。
「……う~ん」
軽い寝返りをうった孔明が
「新野の劉備玄徳でございます」
その君子が名乗って、小さく拱手の礼を取った。それを聞いた孔明が慌てて体を起こす。
「これはとんだ無礼を致しました。どうぞお入りください」
孔明が
「それでは改めまして。諸葛亮孔明にございます。旅で留守にしている間、予州様が二度いらっしゃったことは弟から聞いております。このような
孔明はピンと背筋をはり、胸の前で拱手を捧げた。劉備もそれに応え、自分の思いを飾ることなく口にした。
「臥龍先生のご高名をお
「そうでしたか。私のような
劉備が頷くと、大きく息を吸い込んで吐き出した。自分が進むべき運命を問うのだから、どんな答えだろうと、それを受け止める覚悟をしなければならない。
心を落ち着け、そして、問う。
「率直にお聞きします。曹操に勝つにはどうすればよいでしょうか?」
漢室復興のためには、
劉備は
「いくつか条件がございます」
「その条件とは?」
劉備は内心「ない」と一刀両断されるのではないかと不安だったが、孔明が
孔明は奏案(文書机)の上に折り畳んであった
「曹操は天子を
天運。それは天子を擁立したことだけを言っているのではない。所有者に大いなる恩恵をもたらすという五仙珠。曹操は
「
それを聞いた劉備の口から思わず
しかしながら、孔明は手にした白い
「ご心配には及びません。
「素地?」
「はい。曹操を破るにはまだ足りません。更なる一手が必要となります」
「それは?」
劉備は思わず前のめりになって聞いた。さらなる人和。そして、地勢。
孔明の指先が荊州から東へと動く。
「江東に使者を送り、
合従とは、盟約を結んで共闘体制を整えることである。
「持久戦ですか」
孔明は頷き、必勝の方策を続ける。
「曹操軍は北方に遠征したばかり。軍糧は余裕なく、将兵には疲れが残っているはずです。たとえ大軍であろうと、戦意を失った敵を破ることは
孔明の口から言葉が、思いが、水が
天下
ついに日の目を見ることが叶った自信策。熱気が静寂へと変わり、その余韻が草廬を支配した。劉備はそれらを心に噛みしめるように、二、三度深く頷いた。
「……先生のお言葉にこの劉備、目が覚めた心地でございます」
そして、劉備は
孔明が提示した方策は今後為すべきこと全てを
「しかし、これはあくまでもくたびれた
ただし、孔明は自らの方策が決して万全でないことを強調するように言って、劉備の言葉を待った。
劉備は確信した。自分の理想を実現するためにはこの人物が必要だと。
「臥龍先生、どうぞ私と共に天下をお救いください」
劉備は座したまま一歩引き下がると、その場に
頓首とは
「予州様、お止めください。私のような田舎書生を三度お訪ね下さり、あまつさえ愚見に耳を傾けていただけるとは、この孔明、心から感激いたしました。実は雪が解けた頃にこちらから伺おうと思っておりましたが、今すぐお供致しましょう」
「それは有り難い」
劉備が孔明の手を取って言った。開け放たれた草廬。部屋の空気は春の陽気の恩恵を受けてはいるが、まだ冷たさが残る。しかし、孔明は自分でも不思議なくらい体が
改めて、徐庶が劉備に入れ込んでいたその情熱の意味が分かった気がした。
劉備がそれを保障するように言った。
「かつて私はある方に水の
「なるほど、それは良いですね」
その言葉を聞いた孔明が口元を緩めてそう答えた。が、すぐに顔を引き締める。
礼儀として、どうしても事前に言っておかなければならないことがあった。
「実は、今お話ししたのとは別に曹操軍を破るための秘策を用意してあるのですが……。しかしながら、この胸はまだ開陳できません……大変失礼ではありますが……」
劉備はこの青龍爵を運んできた英雄だ。そして、劉備が水鏡先生に預けた青龍爵を今、自分が保持している。その青龍爵の両眼に当たる青い
曹操は仙珠や神器という人知を超えた力を持つ霊宝の所在について、全国に
心苦しさが孔明の表情を曇らせ、言葉を濁らせる。
「機密が漏れるのを防ぐためですな。私に気を使うことはない。先生が話す時機が来たと思った時に話してくださればよい」
しかし、言った孔明が
劉備は先の説明で十分に曹操に勝てるという気持ちになっていて、その孔明の申し出を全く気にしなかった。すでに劉備は孔明に全幅の信頼を置いている。
孔明はその劉備の柔らかな言葉に救われた気がした。
「さぁ、先生。天下を望みに参りましょう」
劉備が意気揚々と言った。劉備は龍を運ぶ大きな雲だ。その劉備にふわりと手を取られ、
「では……」
荊州に来てからちょうど十年。知識を溜め込み、決意を秘めた龍がついに飛び起つ。
「やっと終わったかい」
張飛が諸葛均に出された茶を飲み干して、腰を上げた。そして、
「じゃ、兄貴。祝いの酒を買って、今夜は祝宴と行こう」
「いつも思うが、戦と酒にしか能がない奴だ」
関羽が嘆息を漏らして呆れるように呟いた。劉備がこの二人の義弟を紹介した。
「臥龍先生、こちらは私の弟で関雲長、張翼徳です」
「はい。元直に聞いて、よく存じ上げております」
拱手の礼を取る二人に孔明も拱手で応じた。
父や叔父が待望した平穏な時代。心に描いた自分の理想。託された友の夢。
それをこの方々と成し遂げるのだ。劉備主従が馬に
孔明が少し緊張した
白い息を吐き出し、天を仰いだ。摑むべき雲はどこまでも高く、駆けるべき空は限りなく広い。過去の二度の旅よりずっと長くなるだろうことは分かる。が、この旅の終焉までいったいどのくらいの歳月を要すのか、それは孔明にも分からない。
一度目は少年時代、苦難を味わった疎開の旅。二度目は妻を伴い、青龍爵に霊力を取り戻す課題の旅。三度目の旅は主君と共に天下を駆け巡る
「では、行ってくるよ」
戦に病んだ国を
時に漢の建安十二(二〇七)年。諸葛孔明、二十七歳。肌寒さの残る早春昼下がりのことである――――。
完
三国夢幻演義 龍の青年 光月ユリシ @ulysse
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