其之十二 三顧の礼

 建安十二(二〇七)年。襄陽の新年祝賀会に出席した劉備りゅうびは雪が降り積もる中、その足で隆中りゅうちゅうを再訪したのだが、またもや孔明は留守だった。劉備は弟の関羽かんう張飛ちょうひを連れて、拠点とする新野へ引き返す途中だった。

「とんだ無駄足だったぜ」

 張飛が酒臭い白い息を吐き出して愚痴ぐちる。宴席でたっぷり酒を頂戴ちょうだいできたまではよかったが、この寒空の中の往復で、温まった体とほろ酔い気分がすっかり冷めてしまった。

「付いて来なくてもよいと言ったであろう」

「そうはいかねぇよ。またいつ襲われるかもしれねぇし……。そうなったら、今度は俺が全員ひねり潰してやるけどな」

 それを想像して、張飛が荒い息と共に丸太のような太い腕を振り回した。

 劉備が蔡瑁さいぼうに襲撃されたのはちょうど一年前の新年祝賀会の帰り際でのことである。

「お前は単に酒と肉にあずかりたかっただけだろう」

 酒が入らずとも、赤く紅潮した顔の関羽が短絡極まりない愚弟の図星を突いて言った。

「へっへへ、まぁな……。それよりも、臥龍のことだ。全然寝そべってねぇじゃねぇか。いったいどこをうろついてやがるんだ?」

元直げんちょくが言うには、行き先は長沙らしい」

 徐庶じょしょは劉備に仮仕えしてから久しいが、劉備はすでに徐庶を厚く信用するようになっていた。その徐庶から孔明の行き先が長沙だと聞いている。目的までは聞いていない。

曹操そうそうが攻めてくる前にまた疎開したんじゃねぇのか?」

「元直は臥龍がりゅうが旅立つ直前に婚儀を挙げたと言っていました。妻も一緒に連れ立ったというのでしたら、翼徳よくとくが言うのもまんざら外れていないように思いますが。裴文行はいぶんこうのように劉荊州を避けて、荊南に下る者も多いそうではないですか」

「……」

 劉備は関羽の推測をすぐには否定できず、沈黙した。

 関羽が名を挙げた裴潜はいせんは劉備の荊南鎮圧軍に従って長沙入りした人物である。

 孫権そんけん黄祖こうそを攻めた際、劉備は予章郡の山越さんえつ族を扇動させて黄祖を後援したが、その献策をしたのが裴潜だった。長沙から帰還するよう劉表りゅうひょうの命が伝えられた時、裴潜は劉備には同行せずに長沙に残った。理由は虚名の劉表が招く災厄さいやくを避けるためである。

 劉備は裴潜に書簡を送って、もし長沙で孔明と会うことがあれば、自分の意向を伝えてほしいと頼んでいたが、裴潜からそれを伝えたむねの返信はないままだった。

「まさか長沙まで迎えに行かねぇよな、兄貴?」

 張飛のその問いには答えず、劉備は二人の弟たちを説得した。

「……まぁ、もう少し待ってみよう。どうせ私たちにできることはないのだから」

 兄の言葉に今度は弟たちが黙する番だった。

 この数年何も状況は変わっていない。曹操が勢力を拡大し、漢朝の寿命がどんどんと削られていっているのに対し、劉備を取り巻く状況は何ら変化がない。

 劉表が劉備を取り込んだまま、旧態依然を保っているからだ。何とか劉表を動かそうと試みてきたが、逆に命を狙われる始末だ。今や劉備も劉表を説得する無駄を痛感して、この祝賀会では何の進言もしなかった。

『臥龍先生をお迎えできれば、この状況を打破できるのではないか』

 劉備は諸葛孔明しょかつこうめい――――その秘めたる龍才に希望を見出そうとしている。


 劉備の願いが叶って、約半年間の旅路の末に孔明が隆中に帰ったのは梅の花が咲きほころぶ頃、その年の春の訪れとほぼ同じ時であった。それを聞いた徐庶が早速、孔明の草廬そうろを訪ねた。しかし、久しぶりの再会だというのに、徐庶の顔は暗く沈んでいた。

 孔明は長沙で龐統ほうとうに会ったこと、神器に力を取り戻したこと、妻の病が快癒かいゆしたこと、江東の兄の下へ向かうのを止めて隆中に戻ってきたことなど、旅先の出来事を一通り徐庶に語って聞かせた。徐庶は相槌あいづちを打って一応聞いてはいたようだが、やはり、心ここにあらずといった表情で、自分から語ることを戸惑っている様子だった。

「何か話すことがあるんだろ?」

 孔明がその理由を尋ねると、やっと徐庶が重い口を開いた。

「俺は……曹操の下へ行くことになる」

「えっ?」

 あまりにも唐突な、予期せぬ返事に孔明も声を上げて驚かざるを得なかった。

「故郷に残している母が曹操の世話になっているそうだ」

「そうか」

 今度はつぶやくように一言だけ答えて、孔明は己を納得させた。

 徐庶はかつて博望坡はうぼうはの戦いで曹操軍を破り、劉備軍を勝利に導いた。母親が曹操の人質に取られては、もうそのような活躍はできない。劉表に仕える蔡瑁や蒯越かいえつらは曹操とも通じている。彼らの口から徐庶の情報が漏れたのだろう。

 徐庶は予州潁川えいせん郡の出身で、その地は曹操が支配している。神器のことを徐庶に話してしまったが、彼が曹操にそれを伝え、劉備を不利に導くことはあり得ない。

 それを証明するかのように、

「俺は左将軍をいただいて、漢朝復興のために尽くしたいと本気で思っていた」

 孔明を前にして、強く抑え込んでいた徐庶の感情が爆発するようだった。

「知っているよ」

 徐庶が劉備を語る時、そこにはいつも情熱があった。生涯をけられるものを見つけて、生き生きと語る学友のその熱量に孔明は戸惑いながらも、うらやましく思って聞いたものだ。

「できれば、孔明と共に成し遂げたかった。その夢を捨てるのは、辛い……」

 こらえていた嗚咽おえつこぼれて、その台詞せりふを聞く孔明の胸にも痛みが走った。

 うっすらと孔明の目にも涙が光る。孔明が頷いて答えた。

「うん。それも知っている」

 その徐庶の情熱は知らず知らず孔明を動かしていた。たとえ青龍爵を手にしなくとも、恐らく自分はいずれこの友の誘いに乗ったはずだ。孔明にはそんな自覚がある。何とか嗚咽を抑えて、気丈さを取り戻した徐庶が孔明に大事を告げた。

「だから、孔明、俺の夢をお前に託す」

 ずしんとした重みが孔明の胸を打った。初めて青龍爵を託された時に感じた重みに近い。その時はそれを了承した。危険をかえりみず、予定を変更して廬江ろこうへ向かった。人生を賭けたといってよい。その人生の選択が自分をここ荊州にもたらし、この友と出会うことをさせた。運命。友の言葉。再び手にした青龍爵。

 今度もその思いにこたえなければ。

「分かった」

 孔明は決意を新たにして答えた。迷いはない。

「それを聞いて安心した。左将軍が留守中に二度訪ねてきたことは聞いているだろう?」

「うん。弟に聞いた」

「俺はこの足で左将軍に孔明が帰ったことを報告する。それが俺にできる最後の奉仕だ。いいな?」

「ああ、いいよ」

 孔明の確認を取ると、涙をいた徐庶が立ち上がった。唐突に訪れた友との別れ。

「みんなには孔明から伝えておいてくれ。いつかまた共に歩めることを信じている」

「うん、また会おう」

 孔明と徐庶は再会を約して、ひと時の間、運命を別った。


 新野に駐在する劉備の下に徐庶が現れたのは、それからすぐのことだった。

 徐庶がやってきたと聞いて、劉備はすぐに彼を自らの政務室に迎え入れた。

 徐庶は定期的に襄陽の情報を届けてくれていたので、関羽と張飛もやってきて耳を澄ませた。ところが、今日の徐庶は新しい情報を伝えるわけでもなく、新野の近況はどうとか、軍の調練は順調にいっているかとか、当たりさわりのない質問をするだけで、その様子は三人の目に奇異に映った。

「どうした、元直。らしくないな」

「そうだ、病気か? それなら、酒を飲んで治せ」

「いえ、その……」

 関羽、張飛の相次ぐ問いに口ごもる徐庶。劉備が察して、徐庶に迫った。

「良くない話らしいな。だが、こうして来たからには話してもらうぞ」

 どうしても心の思いは顔や言葉に現れ出るようで、三人にそれを指摘された徐庶は包み隠さずに訳を話した。敵である曹操の下に向かうというのだから、処罰を受けても文句は言えない。しかし、劉備はそんなことをする男ではない。徐庶が君子と見込んだ男だ。

 ところが、劉備はただの君子以上、徐庶の想像以上のことを言ってのけた。

「話は分かった。曹操は敵ではあるが、才能ある者は誰であれ重用ちょうようする器の広さを持っている。行っても、厚遇されるだろう。念のため、私からも推薦書を書いておこう」

「そこまで……」

 徐庶は感動で言葉に詰まった。一介の書生を信任・厚遇してくれただけでなく、敵陣に去ろうとする男のために一筆書いてくれるというのだから、劉備の度量も大きい。涙を浮かべた徐庶につられ、張飛が感傷的になって、

「よぅし、別れの酒だ。今夜は飲み明かそうぜ!」

 涙目でそう提案した。口元を緩めながら、関羽がつっこむ。

「お前にかかれば、すべてが酒を飲む口実になるな」

「兄者、俺と元直は腹を割って語り合った仲なんだ。文句は言わせねぇぜ」

「言うものか」

 もちろん、この時ばかりは愚弟の提案に関羽も賛成だった。

 こんな風だから、その夜の惜別せきべつうたげはなぜか悲哀に満ちたものではなかった。


 翌日、劉備らは別れを惜しんで徐庶を新野郊外十里まで見送った。さすがに遠慮して、徐庶が「もうこの辺で」と言うので、ようやく歩みを止めた。

 別れ際、関羽が武人らしく徐庶に忠告した。

「間違えても我等の前には出てくるなよ。出てきたら、容赦はできん」

「ご心配なく。曹操の下に参りますが、曹操のためにはかることはありません」

 その忠告に徐庶が答える。そして、一時かつ生涯の主君に向き直ると、一番肝要なことを念押しするように言った。

「ご主君と共に戦えたことは私の誇りです。私の去った後は、是非とも臥龍孔明を迎え、何事も彼におはかりください。さすれば、万事安泰でございます」

「分かった」

 劉備が徐庶の言葉をしっかりと心に受け止め、深く頷いた。

「それでは、これでおいとまいたします。またいずれの日にかお目にかかりましょう」

 安心した徐庶は拱手の礼で関羽と張飛、そして、劉備に別れを告げた。騎乗した徐庶が馬の腹を蹴り、馬がゆっくりと駆け出す。遠ざかっていく徐庶の背中に、

「また飲もうな!」

 張飛の涙声が響いて、馬上の徐庶はまた涙した。その涙が風に流れていく……。

 丘の向こうに徐庶の姿が見えなくなったところで、劉備は、

国譲こくじょう元龍げんりゅう長文ちょうぶんも、私の下を去っていった。元直もか……」

 一時期を共に過ごし、共に語り、共に戦い、去っていった者たちのあざなを挙げ、そして、落胆した。国譲は田豫でんよ、元龍は陳登ちんとう、長文は陳羣ちんぐん。いずれも今は曹操の下で働いている。

「漢の名のもとに天下を統一すれば、また会えましょうな」

 気休めながら、関羽が兄を慰めて言った。だが、それは暗く沈む劉備の心に光を当てた。

「そうだな。その通りだ、雲長うんちょう。そのために臥龍先生の大才が必要なのだ。よし、今から臥龍庵がりゅうあんへ向かう」

 劉備が即決した。臥龍庵とは、孔明の草廬の呼び名だ。張飛が問い返す。

「今からですか?」

「思い立ったが吉日という。辛い別れを忘れる一番の方法は、新たな出会いを得ることだ。つべこべ言うな。行くぞ」

 言うや否や劉備が騎乗して駆け出したので、関羽も張飛も慌ててそれを追った。


 厳しい寒さが和らいできた春三月初旬。それでもまだ残雪が隆中の野山を白くいろどる中、劉備が関羽・張飛の二人を引き連れて、孔明の草廬を再々訪した。

「臥龍先生はご在宅でしょうか?」

 門から出て来た諸葛均しょかつきんを認めて、劉備が尋ねた。

「これは、予州様。兄はつい先日、旅から戻って参りました。どうぞお入りください」

「お前たちは外で待っていてくれ」

 劉備は関羽と張飛を門外に残し、一人、諸葛均に伴われていおりに入った。

 質素な草庵そうあんこうの香りが漂っている。その芳香の出処でどころを追う劉備の視線の先に小さな庭の先に戸が開け放たれた部屋があった。そして、その中に新鮮な空気と春の陽気に身を任せ、横になって眠っている青衣せいいの若者が見えた。

「すぐに起こして参ります」

「長旅でお疲れなのでしょう。そのままで」

 三度目にしてようやく会えた。もはや時間は問題ではない。諸葛均が言うのを制して、劉備は庭先に立って龍が目覚めるのを待った。

 臥龍春眠がりゅうしゅんみん白昼夢境はくちゅうむきょう。――――孔明は夢幻の世界にいた。

 果てしなく広がる天空をけ巡る。山水を思わせるモノクロの山河の上を。風を切り裂き、縦横無尽、疾風迅雷しっぷうじんらいの如く。正面に巨大な暗雲のかたまりが迫った。躊躇ちょうちょなく飛び込み、分厚い雲をき分ける。雲は霧となって左右に流れ、龍の体を包み込む。

 闇の中、視線の先に白い稲妻が光った。同時に雨粒が体を打つ。

『落ちたらどうなる?』

 どこからかそんな声が聞こえた。暗雲を抜けた。体を大きくくねらせて眼下を見やると、輝く雨粒が落ちていくのが見えた。それを追いかけて急降下する。真下は荒れた大地のような茶褐色に濁った大河だ。輝きを放つ雨粒を獰猛どうもうな爪を持ったその手につかむ。そのまま濁流の深淵へと飛び込んで、果てしなく深く、潜る……。

 肌寒さを感じて、孔明の意識が夢境から舞い戻る。

「……う~ん」

 軽い寝返りをうった孔明がうっすら目を開けると、庭にたたずむ人の姿が視界に入ってきた。

「新野の劉備玄徳でございます」

 その君子が名乗って、小さく拱手の礼を取った。それを聞いた孔明が慌てて体を起こす。

「これはとんだ無礼を致しました。どうぞお入りください」

 孔明がびて、劉備を部屋へと迎え入れた。孔明は妻に熱い茶を運ばせ、冷えた体の劉備をねぎらった。対坐した二人は互いに茶をすすってのどうるおすと、まず孔明が口を開いた。

「それでは改めまして。諸葛亮孔明にございます。旅で留守にしている間、予州様が二度いらっしゃったことは弟から聞いております。このような若輩者じゃくはいもののため、むさ苦しいところに三度みたび足を運んでいただき、誠に恐縮にございます」

 孔明はピンと背筋をはり、胸の前で拱手を捧げた。劉備もそれに応え、自分の思いを飾ることなく口にした。

「臥龍先生のご高名をおうかがいして以来、先生が胸に秘める天下安寧の方策を拝聴はいちょうしたく、居ても立ってもおられませんでした」

「そうでしたか。私のような青書生あおじょせい愚見ぐけんがお役に立つかどうかは分かりませんが……。せっかくご足労いただいたのですから、お尋ねになられたことにはお答え致しましょう」

 劉備が頷くと、大きく息を吸い込んで吐き出した。自分が進むべき運命を問うのだから、どんな答えだろうと、それを受け止める覚悟をしなければならない。

 心を落ち着け、そして、問う。

「率直にお聞きします。曹操に勝つにはどうすればよいでしょうか?」

 漢室復興のためには、とらわれの皇帝を曹操の手から救い出さなければならない。

 劉備ははやる気持ちを抑えて言ったつもりだったが、それはその問いににじみ出ていた。それを察した孔明は当面の対処法とその先の方策をあわせて答えた。

「いくつか条件がございます」

「その条件とは?」

 劉備は内心「ない」と一刀両断されるのではないかと不安だったが、孔明が躊躇ためらうことなくそう口にしたので、飛び付くように聞いた。条件付きでも、何でも構わない。

 孔明は奏案(文書机)の上に折り畳んであった帛画はくが(絹布)の地図を手に取って広げると、中心に描かれた荊州を指して、率直に答えた。

「曹操は天子をようし、その手に天運を掴みました。この曹操を相手にするには、地勢と人和を以てせねばなりません。今、予州様がお持ちの兵力だけでは到底かないません。まずは、ここ荊州の兵と合わせて対抗する手筈てはずを整えることです」

 天運。それは天子を擁立したことだけを言っているのではない。所有者に大いなる恩恵をもたらすという五仙珠。曹操は赤火珠せっかじゅをはじめ、そのいくつかを保持している。

おっしゃることは分かります。しかし、景升けいしょう公は戦の人ではありません。実は何度も曹操を攻めるように進言したのですが、結局聞き入れてもらえませんでした……」

 それを聞いた劉備の口から思わず弱音よわねがついて出た。劉備が訴えたいのは、口で言うのは簡単だが、実際やるのは困難であるということだ。肝心の劉表に曹操と戦う気持ちがない。それでは、人和、つまり荊州軍との共闘体制を整えられない。いくら孔明の言葉でも画餅がべい、絵に描いたもちである。

 しかしながら、孔明は手にした白い羽扇うせんを優雅に揺らして、そんな劉備の憂慮を一笑に付して言った。

「ご心配には及びません。此度こたびは敵が攻め入って来るのです。否応なく戦わざるを得ません。荊州は十万の兵力をようしています。長年治めてきた土地を何もせずに取られるのはさすがに劉荊州もがえんじないでしょうから、きっと応戦することになるでしょう。ですが、この時に予州様が軍の全権を握れるように計らなくてはなりません。予州様が荊州十万の兵を率いることによって曹操軍と互角に戦える素地そじを整えるのです」

「素地?」

「はい。曹操を破るにはまだ足りません。更なる一手が必要となります」

「それは?」

 劉備は思わず前のめりになって聞いた。さらなる人和。そして、地勢。

 孔明の指先が荊州から東へと動く。

「江東に使者を送り、孫権そんけん合従がっしょうするのです。江東も数万の兵力を擁していますし、水軍だけを比べたら、曹操軍をはるかにしのぎます。江東の軍権を握る周瑜しゅうゆ魯粛ろしゅくは主戦論派ですから、彼らと気脈を通じ、この戦力を加えます。そして、漢水・江水の険を生かし、じっくりと時をかけて戦うのです」

 合従とは、盟約を結んで共闘体制を整えることである。

「持久戦ですか」

 孔明は頷き、必勝の方策を続ける。

「曹操軍は北方に遠征したばかり。軍糧は余裕なく、将兵には疲れが残っているはずです。たとえ大軍であろうと、戦意を失った敵を破ることは容易たやすい。ですから、まずは劉荊州と共に城にこもり、守りを固めて敵の消耗を待ちます。そのうち敵は攻め疲れ、かては乏しくなり、鋭気もえてくるでしょう。天運にもかげりが生じます。徐元直は曹操の下に行ってしまいましたが、その翳りに乗じて動き、必ずや予州様のために謀ってくれます。彼なら、西涼せいりょう韓遂かんすい馬騰ばとうらを動かし、曹操の後背を脅かすことを考えるはずです。それと時を同じくして孫権に揚州を攻撃させます。そうすれば、曹操軍も荊州にかかりきりとはいかなくなり、撤退は必定。その時を見計らって予州様が撃って出れば、勝利は確実。曹操軍の南下を防いだその後は、北方の曹操、江東の孫権、そして、この荊州で天下を分けることになるでしょう。しかし、曹操と伍するにはまだ足りません。予州様はさらに巴蜀はしょくを収めて力を蓄えます。その間にも西涼と江東との関係の維持に努め、挟撃きょうげきの体制を整えつつ、内乱を待つのです。漢を慕う者はまだ多く、その機会は必ず訪れます。涼州、荊州、揚州の三方、内と外から一斉に攻撃をかければ、必ずや曹操を打ち破ることができます。そうして、赤火珠を取り戻した時、漢室再興の悲願も叶うでしょう」

 孔明の口から言葉が、思いが、水がせきを切ったように溢れ出た。

 天下三分さんぶんの計――――。孔明が長年をかけ脳裏に描いた勝利の方策と未来図。

 ついに日の目を見ることが叶った自信策。熱気が静寂へと変わり、その余韻が草廬を支配した。劉備はそれらを心に噛みしめるように、二、三度深く頷いた。

「……先生のお言葉にこの劉備、目が覚めた心地でございます」

 そして、劉備はいつわらざる心境をそう吐露した。

 孔明が提示した方策は今後為すべきこと全てを包括ほうかつしていた。それは八方塞はっぽうふさがりの劉備を窮地の底から救い出し、その暗澹あんたんたる未来をひらくような答えであった。

「しかし、これはあくまでもくたびれた庵中あんちゅうの理論に過ぎません。万事うまく進むとは限りませんし、事態は常に流動致します。その都度つど、的確な判断が必要となるでしょう」

 ただし、孔明は自らの方策が決して万全でないことを強調するように言って、劉備の言葉を待った。

 劉備は確信した。自分の理想を実現するためにはこの人物が必要だと。

「臥龍先生、どうぞ私と共に天下をお救いください」

 劉備は座したまま一歩引き下がると、その場に頓首とんしゅして孔明に出廬しゅつろを要請した。

 頓首とはひたいを床に打ち付ける礼のことである。普段は身分が上の者に嘆願する際に行われるもので、漢の左将軍の地位にある者が無官の年少者に対して行うのはあり得ない。劉備はそうすることで、自身の切なる思い、最大級の誠意を示したのだ。その行為に仰天した孔明が劉備の体を慌てて抱え起こす。

「予州様、お止めください。私のような田舎書生を三度お訪ね下さり、あまつさえ愚見に耳を傾けていただけるとは、この孔明、心から感激いたしました。実は雪が解けた頃にこちらから伺おうと思っておりましたが、今すぐお供致しましょう」

「それは有り難い」

 劉備が孔明の手を取って言った。開け放たれた草廬。部屋の空気は春の陽気の恩恵を受けてはいるが、まだ冷たさが残る。しかし、孔明は自分でも不思議なくらい体が火照ほてっているのを意識していた。ごく自然に言葉が熱を帯びていた。情熱的でもなく、簡単に義や情にほだされる自分ではないと自覚していたはずなのに、劉備と対面して分かったことは、実は自分の方がこのような君子を必要としていたのだということだ。自分の才能を理解し、それを存分に発揮させてくれる、そういう人物を何より欲していたのかもしれない。

 改めて、徐庶が劉備に入れ込んでいたその情熱の意味が分かった気がした。

 劉備がそれを保障するように言った。

「かつて私はある方に水のだと評されました。先生は龍、相性は良いはずです」

「なるほど、それは良いですね」

 その言葉を聞いた孔明が口元を緩めてそう答えた。が、すぐに顔を引き締める。

 礼儀として、どうしても事前に言っておかなければならないことがあった。

「実は、今お話ししたのとは別に曹操軍を破るための秘策を用意してあるのですが……。しかしながら、この胸はまだ開陳できません……大変失礼ではありますが……」

 劉備はこの青龍爵を運んできた英雄だ。そして、劉備が水鏡先生に預けた青龍爵を今、自分が保持している。その青龍爵の両眼に当たる青い宝石ラピスラズリは以前とは見違えるように輝きを放っている。この力を曹操軍を破る切り札にしようと考えているのに、これを主君と仰ぐ劉備にも黙っていなければならない。

 曹操は仙珠や神器という人知を超えた力を持つ霊宝の所在について、全国に諜報ちょうほうの網を張っている。以前、劉表が得た黒水珠はすぐにその情報が曹操側へと漏れて奪われた。どこから秘密が漏れるか分からない。

 心苦しさが孔明の表情を曇らせ、言葉を濁らせる。

「機密が漏れるのを防ぐためですな。私に気を使うことはない。先生が話す時機が来たと思った時に話してくださればよい」

 しかし、言った孔明が拍子ひょうし抜けするほど、劉備はそれをあっさりと了承した。

 劉備は先の説明で十分に曹操に勝てるという気持ちになっていて、その孔明の申し出を全く気にしなかった。すでに劉備は孔明に全幅の信頼を置いている。

 孔明はその劉備の柔らかな言葉に救われた気がした。

「さぁ、先生。天下を望みに参りましょう」

 劉備が意気揚々と言った。劉備は龍を運ぶ大きな雲だ。その劉備にふわりと手を取られ、

「では……」

 荊州に来てからちょうど十年。知識を溜め込み、決意を秘めた龍がついに飛び起つ。更衣こういを終え、かんむりをかぶり、羽扇を手にした孔明を伴って草廬を出てきた劉備を見て、

「やっと終わったかい」

 張飛が諸葛均に出された茶を飲み干して、腰を上げた。そして、

「じゃ、兄貴。祝いの酒を買って、今夜は祝宴と行こう」

「いつも思うが、戦と酒にしか能がない奴だ」

 関羽が嘆息を漏らして呆れるように呟いた。劉備がこの二人の義弟を紹介した。

「臥龍先生、こちらは私の弟で関雲長、張翼徳です」

「はい。元直に聞いて、よく存じ上げております」

 拱手の礼を取る二人に孔明も拱手で応じた。万感ばんかんの思いが胸に込み上げる。

 父や叔父が待望した平穏な時代。心に描いた自分の理想。託された友の夢。

 それをこの方々と成し遂げるのだ。劉備主従が馬にまたがり、孔明の出立しゅったつを待つ。

 孔明が少し緊張した面持おももちで、この日のために新調した栗毛くりげの馬を引いてきた。

 白い息を吐き出し、天を仰いだ。摑むべき雲はどこまでも高く、駆けるべき空は限りなく広い。過去の二度の旅よりずっと長くなるだろうことは分かる。が、この旅の終焉までいったいどのくらいの歳月を要すのか、それは孔明にも分からない。

 一度目は少年時代、苦難を味わった疎開の旅。二度目は妻を伴い、青龍爵に霊力を取り戻す課題の旅。三度目の旅は主君と共に天下を駆け巡る救国済民きゅうこくさいみんの旅だ。

「では、行ってくるよ」

 戦に病んだ国をいやす良薬として。暗澹たる天下を照らす光明こうみょうとして。静かに見送る弟と妻・月英に天下への旅立ちを告げると、孔明は馬に跨り、手綱たづなを取った。

 時に漢の建安十二(二〇七)年。諸葛孔明、二十七歳。肌寒さの残る早春昼下がりのことである――――。


                                                                        完

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三国夢幻演義 龍の青年 光月ユリシ @ulysse

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