其之八 風なき荊州
荊南が鎮まった建安七(二〇二)年、秋――――。
かつて洛陽に存在した
とりわけ
彼らは後年の仕官先は分かれるものの、それぞれ歴史に名を刻む人物たちだ。
『黄帝内経』は中国最古の医学書で、張仲景も学んだ。
その医療クラスの学舎の
「まだ
徐庶から長沙の様子を聞いた張仲景が医者の立場で答えた。
漢升とは、
黄忠は孔明らと別れてからずっと予章郡との郡境に近い
「
張仲景が気にかけたのは
「はっきりしたことは分かりませんが、
「そうか。安心した。有能な男だ。こんなことで死んでほしくない」
徐庶の言葉に張仲景も胸を
孔明も叔父が張仲景の治療を受けた五年前のことを思い出しながら話を聞いていたが、ふと我に返るように思考を今現在に引き戻して口を開いた。
大切なのは今だ。治療を要すのは過去の叔父ではなく、今現在の
「仲景先生、
「うむ。彼女の様子は承彦殿から聞いている。あまり薬効は出ていないようだな。だが、彼女の心が晴れやかであるなら、それに越したことはない。ああ、そうだ。一つ良い薬を作った。血行促進に効果がある。作り方を教えるから、今度彼女に飲ませてみてくれ」
「はい、分かりました」
それから孔明はその薬の作り方を
医療クラスの学舎を離れた孔明と徐庶は文通亭へ向かった。池の中央に渡された廊下を歩きながら、孔明は徐庶の話を聞いていた。劉備の長沙鎮定の
徐庶は劉備の長沙
「……それで、俺たちは行き詰ったんだ。見えない熱波の壁に
「何だか
「神器の加護ってやつか? 張羨が神器を持っていて、あの熱波の壁はその霊力が形として表れたものということか。なるほど」
歩きながら徐庶が
「それで、どうやってその壁を突破したんだい?」
「ああ、それなんだが、俺にもよく分からない。
「武器を捨てたら?」
「ああ。とにかく左将軍の命令で、俺たちはみんな武器をその場に置いて、川を渡った。渡れたんだよ、これが。熱波の壁をすり抜ける感じで。正直、まだ熱さは感じたんだが、耐えられないほどじゃなくなった」
「ふ~ん……。戦意に反応するんだろうか?」
孔明は歩みを止め、廬江での出来事を思い出して記憶を探ってみたが、直接それに結び付く答えは見出せなかった。徐庶が話を続けた。
「川を渡っている途中で、不思議なことがあった。左将軍が何かに驚いてな、声を上げたんだ。その直後、熱さを感じなくなって……。何だろうな、熱波の壁が突然消滅したような感じだった」
それを聞いた孔明は首を
「どういうことだろう? 廬江の大雪が収まったのは、陸太守が亡くなられた時だった。張懌が神器を譲り受けたとして、城から逃げ出したのが、その時だったんだろうか?」
「分からないことだらけだな。
二人がそこまで話した時、ちょうど池に架けられた水上廊を渡り終えた。
文通亭がある竹林に入ると、学友たちの聞きなれた声が耳に入ってきた。
文通亭に一番乗りをしていた
「書の展示会をやっていましたが、もうご覧になりましたか?」
「ああ、見てきた。どれも見事だったが、一番光っていたのは
ちょうど書道クラスの学生たちの作品がコンテスト形式で学府内に大大的に展示されていて、孔明たちも文通亭に来る途中でそれを展覧・品評して見て回ってきたばかりだった。
「まだ無駄な力が籠っている感じがするが、筆跡に勢いがあった。迷いがない証拠だ。さすがは〝
崔州平は書法に関しては少々うるさかった。名書家だった
〝草聖〟とは、
韋誕は師を失ったのをきっかけに荊州へ遊学に来ていた。
「確かに
それを見てきたのか、習禎が言った。韋誕は
書道クラスは邯鄲淳のほかに
梁鵠、
晋代の名書家、
ちょうど後漢後期から末期にかけての時期は書法界において発展が著しい時代であり、多くの能書家が誕生した最も華やいだ時代でもあった。
同じ漢字といっても、時代によってその書体は同じではない。数百年も経てば、何事も変わっていくのは当たり前で、時代が変遷するのとともに漢字の書体も変わってきた。
漢代における文書の公式書体は
また、この時期に隆盛を極めたのが〝
そして、後漢期に隷書体を簡素化して生まれたのが
他にも八分書や楷書をさらに
〝漢の字〟と表すように日本に漢字が伝来したのは漢代の頃だとされる。それに合わせて書体も伝わった。そして、後年、草書体をさらに崩して
「聞いた話だが、あの曹操が
「和議の条件が一人の書家ですか?」
「ああ。孟黄先生の方が断ったというが。まぁ、どこまで本当か分からない。あくまでもそんな噂があるというだけだ」
「いや、十分考えられるね」
「言葉に人を引き付けて従わせる力、人を動かす力があるように文字にも力がある」
孔明の言葉に習禎はピンと来ていない様子だ。孔明が捕捉して言った。
「例えば、同じ指示をするにしても、下手くそな読みづらい文字で書かれた文書より、美しく方正な文字で書かれた文書の方が従いやすいだろう。だから、文字はある意味で権力の象徴ともなる。曹操はそれを分かっているんじゃないかな」
「なるほど。考えたこともありませんでした。では、劉荊州はそういうことも考えて荊州学府を作ったのでしょうか?」
「昔、先帝は書を愛し、
習禎の問いに崔州平が答えて説明した。鴻都門学というのは、かつて洛陽の宮城の鴻都門外に設立されていた芸術学校である。全国から選抜された学生がそこで書や絵画などを学んでいた。もちろん、洛陽が灰となった今、存在しない。
「どうした? 一言もしゃべらないじゃないか。今日は居眠り
崔州平が珍しく沈黙を貫く徐庶に話しかけた。
「いえ……孔明の話を聞いたら、何だか急に恥ずかしくなってきました。私の字は上手とはいえないので……」
「確かに剣ばかり振ってきたその手では、筆を取るには不都合かもしれないな」
自らは書に長じる崔州平が言って笑った。
建安八(二〇三)年を迎えた。いつものように薬草を届けに黄承彦邸を訪問した孔明が冬の寒さに身を丸めていると、月英が温かな料理を持って現れた。
「寒いのにいつもご苦労様です。これを飲んで温まって行ってください」
出された碗の中にあったのは孔明が張仲景に作り方を教わった〝
張仲景はある時、冬の厳しさで耳に凍傷を負って苦しんでいる農夫たちを見て、彼らのために薬を作ることを決意、その開発に着手した。そして、弟子たちと思考錯誤の末、ついに出来上がったのが袪寒嬌耳湯である。
羊肉と唐辛子、血行促進に効果のある薬草を入れて煮込み、取り出したそれらを細かく切って面皮に包んで耳状にし、それを「嬌耳」と呼んで、一碗の薬湯に嬌耳二つを入れたものである。これを彼らに飲ませてみたところ、すぐに耳が温まり、飲み続けることで凍傷の症状が回復する者も現れた。
孔明が張仲景に教わったそのレシピを月英に伝えたところ、彼女は袪寒嬌耳湯を自身で作るようになった。それも独自にアレンジを加え、今日の袪寒嬌耳湯は桂花のスープに孔明が
「こんなにおいしい料理は初めてです。月英殿の料理の才能は荊州一かもしれませんね」
「まぁ、孔明様はお口が上手ですね」
手料理を褒められてうれしくない女性はいない。月英の笑顔は本物だった。
月英がアレンジしたように体を温める薬でもあり、おいしい料理にもなる袪寒嬌耳湯はすぐに人々の間に
以来、餃子は中国の代表的な料理として長く親しまれることになるのである。
「孔明様とお会いして以来、私は随分と心安らかになった気がします」
「月英殿も口がお上手だ」
「本当のことですよ」
「そうですか。では、有り難いことです」
孔明は微笑んでまた桂花のスープをすすった。
「荊州に来て、私もようやく心安らぐ生活ができるようになりました」
徐州の惨劇の光景は未だ孔明の脳裏に刻みつけられていた。孔明はそれを忘れ去るため、心の平静を保つ修行を兼ねて、
「でも、孔明様もいつか荊州を離れてしまうのでしょう?」
「えっ?」
「
月英が
「父が言っていました。荊州は龍の
「そうですか。承彦先生も買い
のどかな隆中に居を構え、時々襄陽に出ては友と交流する。龐徳公・
それを想像した時、避けられない敵がいる。天下を
曹操は新たな時代を創造しようとする英雄であることは違いない。
しかし、孔明にとって、曹操は故郷に地獄を創出した許されざる男である。今は冀州を戦火に包んでいる。いつかは荊州にその破壊の火をもたらすだろう。
せっかく手に入れた平穏な日々を、新しい故郷を、大切な人たちが暮らすこの土地を、また破壊され、
「この先どうなるかなど誰にも分かりませんよ」
孔明はまた桂花のスープをすすり、その味わいを堪能して微笑んだ。
「そうですね」
月英も微笑んで返した。戸惑いが入り混じった微笑。月英には予感していることがある。この人は父が言うとおり、いつかは飛び立ってしまうと……。
月英も残り少なくなったスープをすすって心と体を温めると、一時の幸せの味を噛みしめた。
建安八(二〇三)年、春。曹操は北伐を開始した。袁氏が支配する
袁兄弟は曹操の思惑どおり、骨肉の争いを激化させ、自滅の道を歩んでいく。
崔州平ら学友たちが北の動静に耳目を傾けている中、相変わらず南を向いている者がいた。
「父の
この春、江東の
「江夏太守が他の誰であっても、攻めてくるんじゃないかな。
袁術の死後、江水(長江)を隔てて、揚州北部は曹操の支配下に入った。
現揚州刺史は曹操に派遣された
劉馥は彼らを受け入れると、学校を設立して民衆を教化した。このような劉馥の良政のお陰で、荒れ果てて空城となっていた合肥は今や数万の人口を持つ揚州一の拠点都市へと急速に変貌中である。
孔明は疎開の旅の途中で、巣湖周辺の豊かさを目にしていた。もちろん、今の状況は知る
「何か引っかかることでもあるのかい?」
「確かに江夏は荊揚を繋ぐ
「それもそうだ」
孔明は叔父や姉たちと予章から長沙に向かった山越えの逃避行を思い出して呟いた。揚州西部の予章郡と荊州長沙郡は陸路で繋がっている。予章からの侵攻に備えて、州境に近い長沙
劉表の甥の
それからというもの、劉磐の予章侵攻は
太史慈の故郷である青州を支配下においたばかりの曹操が太史慈の噂を聞きつけ、〝
〝
が、太史慈はそれをきっぱり拒絶したという。
予章太守は
「今は左将軍がいる」
孔明も徐庶のように劉備を「左将軍」と呼んだ。孫権軍は江夏に黄祖を打ち破ったが、援軍として駆け付けた劉備軍を見て引き上げた。
「
龐統がまたぽつりと言った。それは孔明たちを
「実は私もどうして禰正平が亡霊として見えたのか疑問に思っていた」
「江夏に下ってみようと思う」
「唐突だね。禰正平の足跡を追うのかい?」
「私なりの遊学と言っておこう。襄陽に生まれ、襄陽しか知らないのでは、私こそ井の中の
隠者の龐徳公は漢水の東、
「――――もうそなたたちに何も教えることはないかな」
と、言い残して、襄陽の南百里(約四十キロメートル)の
陰陽五行説では、水の気は生殖器に良い影響を与えるという。そんな張仲景のアドバイスに従ったのだ。龐徳公は一時期の間だが、黒水珠を魚梁洲の屋敷に保管していたことがあるし、孔明は黒水珠の霊力がまだ屋敷に残存していて、それが子宝という形で姉の体に天命を宿してくれたら――――と願った。
と、孔明のそんな思いまでは知らない玲がいつものように畑でとれた野菜を見つくろって
「今年はいい出来だわ。阿参は今食べざかりなんだから、ちゃんと食べさせなさいよ。それから、あんたは
「分かっていますよ、姉上。薬を受け取ったら、すぐに行きます」
「全然分かってないじゃない。学問はできても、これなんだから……」
玲は賢弟の愚鈍さに
「それと、
そう言って、龐統に差し出したのは薬草を練って作った傷薬(
きょとんとする龐統に、
「長旅に
「これは有り難く」
それを丁寧に受け取る龐統を見て、孔明は苦笑した。
龐統は旅に出ることを
玲のお
孔明から龐統遊学の話を聞いた孟建と石韜は驚き半分、不快さ半分、
「士元の奴、我等には何の挨拶もなしか?」
「全くだ。一言くらいあっていいものを」
少々立腹気味に言った。龐統は孔明と話してから間もなく旅立ってしまった。
「まぁまぁ、
孔明が代わりにそう釈明してやった。正式に荊州学府のクラスに参加しているわけではない彼らがこうして文通亭に集うのは、月初めの
今日も最年長の崔州平と最年少の習禎が来ていない。司馬徽の私塾が全員が定期的に顔を合わせる唯一の場所だったのだが、それがなくなってしまって、足並みは多少乱れてきている。
「水鏡先生も何でまた南漳なんかに移ってしまわれたんだろう。もっと近いところなら、通うことができるのに」
「私たちから距離を置こうとしているのではないでしょうか?」
「どういう意味だ、孔明?」
「私たちは図らずも、仙珠や神器といったずっと秘密にされてきた歴史の真実に関わってしまいました。それは同時にそれらの争奪戦や群雄たちの権力闘争に関わってしまったということです。劉荊州にも仕えなかった両先生からずれば、それは避けるべきことで、私たちはもう純粋な学生とは呼べないのかもしれません。新しく学生を教えるにしても、私たちの存在は
「我等が邪魔者になってしまったのか。何だか切ないなぁ……」
それを聞いた石韜が嘆息して天を仰いだ。孟建が隣で黙している徐庶に聞いた。
「どうした
「いや、孔明の言うとおりだと思ってな……。あの仙珠を手に入れて以来、俺たちは変わった。今なら禰正平の言っていた井の中の
彼らはまさにこの荊州学府の文通亭で禰正平にその
「世界は広い。真実は深い。荊州にいるだけでは、本当の景色は見えてこない。……俺は左将軍に付いていくことを決めた。左将軍が荊州を離れる時は俺も離れるつもりだ」
徐庶は熱い気持ちで学友たちに自らの決意を表明した。
「士元も言っていたな。何事もいつまでも同じではないと……」
「ああ、確かに。いつのことだったか……」
孟建も石韜も龐統の話題から、また昔日を回顧した。
「先生方も士元も元直殿も、まだ皆荊州にいるのですから、また会える機会はありますよ」
出会いと別れを誰よりも知る孔明はそう言って、迫り来る別れに沈みそうになる雰囲気を打ち消すとともに、自らをも慰めた。
故郷の徐州
自分はまだ飛び立てない。風のない荊州に
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