其之六 幽雲飛来

 袁紹えんしょう陣営に名を連ねていた劉備りゅうびであったが、その身分は客将に過ぎなかった。

 あくまでもオブザーバー的な立場であり、作戦の立案・実行は袁紹子飼いの武官文官によって行われた。通常劉備は作戦会議には出席せず、要請をされた時だけ顔を出し、意見を求められた時だけ口を開き、できるだけ積極的な関与はしてこなかった。

 ところが、この敗戦で袁紹は何人かの有能な将軍たちを失い、数名の謀臣を更迭こうてつしていて、人材不足が顕著となっていた。敗戦後の作戦会議に呼ばれた劉備は持久戦を主張すると共に劉表りゅうひょうとの連携を強くした。それも自分自身を使者とするよう、積極的に訴えた。袁紹はしぶった。

 持久戦にも劉表との連携にも異論はない。劉備を使者とすることを渋ったのだ。

 有能な将軍を何名か失ってしまった今、劉備は一軍の統率ができる貴重な戦力であった。使者の役目は文官に任せていればよいと考えていた袁紹であったが、これまでに送った使者たちに対し、劉表は曖昧あいまいな態度に終始して、結果的に連携は進まなかった。

 形勢が優勢であった時はそれほど気にしていなかったが、官渡かんとの戦いで一敗地にまみれ、劉表との共同戦線の構築はより一層重要性を増した。

 伊籍いせきからの書簡を受けていた劉備はそのことも含めて袁紹を説いた。

「――――私と劉荊州は同じ皇族の端くれ。袁公と協力して漢朝を再興することの大義を説けば、劉荊州も腰を上げるに違いありません。必ず私が荊州を動かしてご覧に入れます。万が一不守備に終わった場合でも、再度私が黄巾軍を動かし、挟撃態勢を整えます」

 劉備は自信満々に言った。これならば、使者と将軍の両方をになうことができる。

 建安五(二〇〇)年の暮れになって、ようやく劉備は袁紹からの承諾を得、劉表への使者として派遣される運びとなった。劉備は孟津もうしんという渡し場から河水(黄河)を渡り、僅かな供を連れて廃都・洛陽らくように入った。

「洛陽再建の道のりはまだまだ遠いな……」

 その様子を見た劉備が嘆息気味に呟いた。十年前の戦火で全てが焼き尽くされ、灰燼かいじんと帰したかつての都の再建は四年前に劉表の援助を得て本格的に始まった。

 しかし、皇帝は曹操そうそうの支配地であるきょ県をかりそめの都と定め、近年の南陽の戦乱と襄陽の発達で、今や劉表も洛陽再建に消極的になっている。開発ペースはいちじるしくスローダウンし、建設途中の宮殿が柱をき出しにしたまま放置されていて、城壁修復用の煉瓦れんがが山積みになって野ざらしになっていた。そんな中でも、熱心に再建の様子を見守る老人がいた。

 趙岐ちょうきあざな邠卿ひんけいという。年はすでに九十を越えている。清流派の最長老であり、清濁政争の苦難の歴史を知る生き字引じびき的存在で、群雄たちの尊敬を一身に集めた。

 昔、袁紹と曹操が公孫瓉こうそんさん冀州きしゅう争奪戦を繰り広げていた時、趙岐が停戦調停のため、遠路遥々長安からやってきた。袁紹と曹操はそれを聞くと、自ら百里先まで出向いてこれを奉迎した。皇帝が洛陽に帰還した時、趙岐が荊州に赴いて洛陽再建のために援助を要請すると、劉表は即座に兵と兵糧ひょうろう、資材を洛陽まで送り届けた。

 皇帝が許に移った後、曹操は趙岐を尊重して、太常たいじょうという儀礼と祭祀をつかさどる官職を送ったが、これは名誉職のようなもので、趙岐は老齢のために許都には赴任せず、残りわずかな人生を漢室復興と洛陽再建のために捧げていた。

 劉備はその特別な存在感を放つ老人に声をかけた。

「邠卿先生ですね」

「いかにも」

 椅子に浅く腰かけ、杖を手にした趙岐は人夫たちが荷車に乗せた木材を運ぶのから目を離さずに答えた。しわの中にくぼんだその双眸そうぼうは未だ健在である。

「私は盧子幹ろしかん鄭康成ていこうせいから教えを受けた劉玄徳と申します」

 盧植ろしょく鄭玄ていげんは共に清流派の儒学者で、劉備の師である。全国区であるこの二人の名前を出せば、その薫陶くんとうを受けた自分がどのような人物なのかを言わずとも表現できる。

「これは荊州からの支援物資でしょうか?」

「いや、司隷しれい鐘元常しょうげんじょうからのものじゃ。荊州からの支援はもうない」

 劉表からの支援は途絶えて久しい。が、その間は司隷校尉(首都圏警備長官)として長安に滞在する鐘繇しょうようから物資が届けられた。そのお陰で細々ながらも、再建プロジェクトは継続されている。

 鐘繇はあざなを元常、潁川えいせん長杜ちょうとの人で、清流派の家柄である。鐘繇は皇帝をようする曹操に協力しており、洛陽は司隷校尉の管轄下に入る。

 劉備がそんな洛陽に無事入れたのは、特殊な事情による。

 廃墟からの再興途中である今の洛陽は人もまばらで、都市基盤は未だ脆弱ぜいじゃく、故に群雄たちの抗争の舞台から外されていた。ここは戦火の中に生まれた空白地であり、趙岐の存在とその清きこころざしがもたらした中立地帯なのだ。誰も洛陽再建という崇高な目的を邪魔立てすることはできない。何人なんぴとも趙岐が守るこの聖域を犯すことは許されない。曹操は趙岐の志をおもんぱかって、鐘繇を通して洛陽の再建を援助している。わずか数百だが、洛陽を警備する兵たちも鐘繇から送られていて、それらは趙岐の指揮下にあった。

「栄華を誇ったあの洛陽に早く戻ってほしいものです」

 少年時代、劉備は師に連れられて往年の洛陽を見たことがある。そこには田舎いなか少年を圧倒する豪華絢爛ごうかけんらんさとにぎわいがあった。そこで劉備は曹操と出会ったのだ。

「再建された洛陽が再び漢の都となるかどうかは分からぬがな……」

 過去を回想する劉備の呟きに、趙岐はやはり人夫たちの働きぶりから目を離さず応じた。

「私は一応皇族の端くれ。漢朝再興のために働いております。劉荊州にもそれに協力していただかねばなりません」

 劉備が趙岐と同じものを見ながら言った。


 劉備が襄陽に入って劉表と会見したのは、建安六(二〇一)年になってからである。荊州府で新年のうたげもよおされていた中、劉備が来たと知らされた劉表は席を中座して、劉備と会見した。こっそりとそれを知らせたのは伊籍で、お陰で蔡瑁さいぼうら曹操派の諸官に気付かれないまま、両者の会見が成った。

 劉表が手にした書簡をかすかに震わせるのを見て、

「私は曹操という男をよく知っております。彼の者の心にあるのは、新たな時代を築き、その時代の下で世を安定させることです。曹操が見据えている天下の形は漢ではありません。それなのに、陛下の威光を利用している。これは腹黒い奸臣の行いです……」

 劉備は落ち着いた声で舌を舞わせ始めた。ただ真理を語る。

「私はそれを知って、曹操とたもとを分かちました。私が目指すのは、あくまでも漢朝による世の安定。それは景升けいしょう公も同じではございませんか?」

 劉備は劉表のあざなを口にして、そう問いかけた。

 劉備の姿勢は漢を復興させて、再び求心力を取り戻して世を安定させること。

 復古ふっこ

 曹操の姿勢は新しい王朝を樹立して、その王朝のもとで世を安定させること。

 刷新さっしん。 

「我等皇族に連なる者は、生まれながら漢を輔弼ほひつする大きな天命を負っています。天から与えられたこの責務を放棄してはなりません。漢の復興を期待している人々は、上は邠卿先生のような名士から下は百姓に至るまで、星布せいふの如く溢れております。景升公が漢臣としてお立ちになり、大将軍の袁公と手をたずさえれば、必ずや漢の復興も洛陽の再興も叶います。その時は私も荊州に留まって景升公の力となり、忠勇を尽くす所存です。しかし、もし、景升公にそのおこころざしがないのであれば、清流は枯れ果て、失望が天下を覆い尽くすことでしょう。そうなった時は私も二度とこの荊州に足を踏み入れることはありません。景升公は清流派の最後の希望。天地が我等を見ております。万民が我等を見ております。どうか天下にその希望をお示しください」

 水のように沁み入る劉備の言葉と清流派・趙岐の清く真っ直ぐな書簡。

 山が動いた。

「感動致した、玄徳殿。……玄徳殿が力になってくれるというのなら、心強い。この劉表、大漢のために戦いますぞ」

 群雄たちが争い、天下が騒乱する中、劉表の姿勢は世を乱す者に天誅が下るのを待つことだった。そのような姿勢を取らざるを得なかったのは、劉表自身が軍務経験にとぼしく、配下にも大軍を統率する能力と実践経験豊富な将軍を欠いていたからだ。だが……。

 劉備の力。趙岐の願い。これが劉表に大きな勇気を与えた。彼の中の清流は随

分と流れをゆるやかにしていたが、まだ途絶えてはいない。

 伊籍が顔を紅潮させて、「ご明断でございます」と、劉表を称えた。


 劉備の妻は麋竺びじくの妹の麋氏びし甘氏かんしの二人がいた。彼女たちは劉表の計らいで樊城はんじょうに住まいを与えられ、麋竺とその弟の麋芳びほうがその世話に当たっていた。

 他にも孫乾そんけん簡雍かんよう劉琰りゅうえんらの文官たちが荊州に留まっており、彼らは劉備や伊籍との連絡役をこなした。

酔虎すいこの放言かと思いきや、予言したとおりになったぞ」

「いえ、自らそれを実現させたのですよ。ねぇ?」

 漢水の岸辺に立って樊城を遠望しながら、崔州平さいしゅうへいと孔明が徐庶と話していた。

 かつて麋竺が劉備を徐州に留まらせようと計ったように、今は伊籍と徐庶が彼を荊州に呼び、留まらせようと計っている。孔明の言葉どおり、二人が計って劉備に書簡を出し、彼を動かしたのは事実だ。劉表が清流派の出身であることに今でも誇りを持っていて、趙岐という清流派長老をはなはうやまっていることも併せて伝えた。

「西河殿の言葉が半分、孔明の言葉が半分。いや、これは最初から予州殿の計画のうちにあったのかもしれない」

「どういうことです?」

「公孫瓉、陶謙とうけん呂布りょふ、袁紹、そして、劉荊州……。予州殿はずっと群雄の間を渡り歩いてきた。それはきっと自らと共に曹操に対抗してくれる、それに足る人物を探しているのさ。俺たちが何もしなくても、予州殿は荊州に来ていた」

「さすが。予州殿のことに関しては、私たちの理解は元直殿の足下にも及びませんね」

 孔明はすっかり感心するように言った。

「思い入れが深いから、そのような心理も分析できる。それで、酔虎は予州殿の下へ行くのか?」

 襄陽の岸辺では、対岸へ渡るための渡し船が何艘なんそうも客を待っていた。

「予州牧が将軍ですから、自然な流れというやつですよ」

 左将軍も劉備の官職だ。予州出身の徐庶はそんな冗談で返したものの、進路はほぼ決まりつつあった。

「機伯殿が紹介状を書いてくれるそうですから、今度いらっしゃった時には一度ご挨拶にうかがおうとは思っています。しかし、予州殿の知謀を知ったら、私など何の役にも立たない気がしてきました。予州殿が再びいらっしゃるまでにもっと学問に励んでおかなければ、行ったところで受け入れてもらえないかもしれません」

「ははは。いつになく謙虚ではないか?」

『元直殿は劉予州か……』

 孔明は意中の人物を見つけ、仕えようと決断した徐庶を内心うらやましく思った。

 自分の未来はまだ見えて来ない。期待を込めて黒水珠を託した劉荊州だが、依然として、孔明の目にあまり魅力的な仕官先として映らない。劉備の目にはどう映るだろうか。

「それよりも、まずは劉荊州が予州殿のお目にかなうかどうかだね……」

 肝心の劉備はもう荊州にいない。樊城で一日を過ごしてから、すぐに汝南方面へ出立しゅったつした。袁紹の陣営を出た時、劉備が率いてきたのは百人余りの子飼いの兵だけだった。

 劉備はすでに部下たちを何人か汝南に残し、黄巾兵たちを集めさせていた。

 彼らと合流して、袁紹との約束を果たすつもりなのだ。それと連動して劉表も動く手筈てはずになっている。

 劉表も今度ばかりは乗り気だ。劉表の目的は南陽郡を取り返すことだ。

 荊州最北の南陽郡はこの数年の争いの末、劉表の支配から切り離された。

 荊州牧の劉表が南陽を支配するのは当然のことで、大義名分がある。他国侵略でもなければ、漢朝への反乱でもない。それに、南陽は洛陽や冀州へ通じる道である。南陽を取り戻さなければ、趙岐の支援にも支障をきたすし、袁紹との直接的な連動もできない。南陽を奪還することは劉表の荊州牧としての威厳を示すことになるし、袁紹へ対してのアピールにもなる――――。

 これらの根拠も劉表を動かす大きな理由となった。もちろん、劉備が説得したのだ。


 年明け早々、寝耳に水の知らせに蔡瑁ら保守勢力はあわてた。突如南陽へ兵を挙げることになったのだ。曹操との融和政策を進めていた最中、突然の翻意ほんいである。

「どうしてこのような大事を我等にはからずお決めになったのだ」

 荊州府の廊下で、眉間みけんに皺を寄せた蔡瑁が外甥がいせい(親族)の張允ちょういんと話し込んでいた。

「袁紹の下から劉備が来ていたそうです。殿をうまく口車に乗せたのでしょう」

「そんな報告は聞いていない。いつだ?」

「宴があった晩のことのようです」

「ちっ、油断していた。すぐに出兵を中止させるのだ。これ以上曹公との関係がこじれたら、我等も気まずい」

 ちょうどそこに厳しい表情をたたえた蒯越がやってきた。

「止めておけ。今、そんな口出しをすると、徳高とくこうと同じ目にうぞ」

「俺は殿の義理の弟だ。そんなことにはならん」

「それでも止めておけ。王子文おうしぶん和陽士かようしの両名が殿をいさめられたが、聞く耳をお持ちでない。すっかり劉予州の言に惑わされた様子だ。今は何を言っても無駄だ」

 子文というのは王儁おうしゅんの、陽士というのは和洽かこうあざなである。共に汝南の人で、王儁は清流派の面々とも交流があり、劉表からも礼遇されていた。和洽は荊州学府にも出入りしている知者である。地元出身の袁紹が人材を招いた時、皆がそれになびく中、唯一人それには従わなかった。袁紹が失敗すると見越していたからだ。

 そんな二人が曹操に敵対すべきではないと諌めても、劉表はその言葉を受け入れなかった。二人は蒯越に会うとこうべを振り、肩を落とし、荊南に乱を避けると言い残して、襄陽を去って行った。

「劉備め、何を言ったのだ?」

「荊州牧として、南陽を奪還するように勧めたらしい。殿は大いにその気だ。南陽のこととなれば、荊州第一をとなえる我等も制止できまい。そなたが都督ととくだぞ。その任務を放棄してまで諌止かんしすれば、そなたの立場と言えど、更迭こうてつくらいはあり得る」

「むっ……」

 蔡瑁は蒯越の言葉に声を詰まらせた。

「とにかく殿の気をなだめるためにも、南陽の件は従った方が良い。ただ南陽を確保するのは良いとしても、それ以上軍を進めることは避けよ。私はその後の対処法を考えておく」

 蒯越は蔡瑁にそう忠告すると、すたすたと足早に歩き去っていった。


 国都・洛陽に近く、中原ちゅうげんに隣接する南陽郡は人口が多く、往時には〝一郡だけで一州に匹敵する〟とさえ言われた。それだけに、戦時には争奪の場ともなる。近年の戦乱で南陽を離れる者も多く出たが、それでも、戦略上の要地であることには変わりない。

 官渡の決戦が行われる前から、荊州南陽郡と予州の郡県にはそれぞれ劉表と袁紹の調略の手が伸びていた。予州汝南では多くの県城が袁紹側の劉備に呼応する中、全くなびく様子を見せなかったのが、予州と荊州の州界に新設されたばかりの陽安郡だった。

 陽安の郡治は朗陵ろうりょう県で、趙儼ちょうげんが県長を務めていた。趙儼は動揺する郡内を落ち着かせ、同調者を出さないことで劉備への対策とした。これは確かな効果を見せ、汝南郡の反乱が荊州に波及するのを防いだ。そして、それが前年の劉備の汝南での敗退に繋がった。

 一方、南陽では杜襲としゅうが県長を務める西鄂せいがく県がかたくなに劉表への恭順を拒否していた。この趙儼と杜襲の両名は崔州平らと襄陽で勉学に励んだ人物だったが、共に劉表には仕えず、曹操に帰順してそれぞれの地位を得ていた。劉表はそれを根に持っていた。

 蔡瑁・文聘ぶんぺい呂常りょじょうらが率いた荊州の歩騎一万は西鄂県を激しく攻撃して落城させ、南陽の郡都であるえん県も奪還した。そこで蔡瑁は進軍を止め、南陽奪還を劉表に報告した。劉表はそれに大いに満足し、蔡瑁らをねぎらうと共に、洛陽へ再支援の約定やくじょうしるした書簡を送った。趙岐はその書簡を読んでからすぐ、安堵するかのように息を引き取ったという。

 それから間もなく。四月。曹操は倉亭そうていに駐屯していた袁紹軍を攻め、これを打ち破った。二度の敗戦に袁紹はすっかり意気消沈して、本拠地の冀州へ逃げ戻るしかなかった。その結果、孤立してしまったのは汝南の劉備である。

 敗れるのは時間の問題と言えた。

『これで殿も袁紹が頼りにならないと思い知ったはず。南陽を得て、我等にも利があった。ここが収め時だ』

 蒯越は袁紹敗北の情報を伝え聞くと、すぐに上殿して曹操との関係修復を説いた。

 これには劉表も納得し、戦勝祝いと称して劉先りゅうせんを使者として派遣することを決めた。

劉始宗りゅうしそうが曹操の下に向かったそうだ」

 その情報を仕入れて文通亭に現れたのは、孟建もうけん石韜せきとうの二人だった。同門の韓嵩かんすう黄承彦こうしょうげんの書簡もむなしく今も投獄中だが、もう一人の学友、向朗しょうろうからそれを聞きつけた。

 向朗、あざな巨達きょたつ。襄陽郡(襄陽周辺を分割して設置した)宜城ぎじょうの人で、彼も司馬徽しばきに学んだことがある年長の学友である。向朗は荊州官僚が親曹操か親袁紹か紛糾する中で、中立の立場を取っていた。

「もう振り子が戻りましたか」

 袁紹敗北の知らせに、劉表の心に住まう優柔不断の虫がまた騒いだのだろうと孔明は察した。荊州人士の事情をよく知る崔州平が状況を推察して言った。

「始宗を送ったのなら、曹操側に振れたというよりは、真ん中に戻ったという感じだろう。人選が絶妙だった。徳高のようにならないように配慮したのだろうが……」

 劉先は字を始宗という。荊南零陵れいりょう出身の硬骨漢こうこつかんである。彼も思想的には荊州第一で、蒯越らと親密にしているが、立場的には中立に近い。

 親曹操が過ぎると、韓嵩のように劉表の反感を買う。それを反省し、蒯越が劉先を強くすすめたのだった。荊州第一の考えは荊州に暮らす者たちにとって分からない話ではない。石韜が続けた。

「荊州保全の姿勢を貫くなら、それで良いのではないですか。ところで、酔虎お気に入りの劉予州はどうなった?」

「まだ汝南で孤軍奮戦しておられるようだが、袁公が敗れた以上、単独で戦っても勝ち目はない。奥方もこちらにおられるし、間もなく荊州に戻って来られるだろう」

子緒ししょくだらず、寡兵かへいでよく戦ったらしいし、予州は伯然はくぜんによって防がれたようなものだな。皮肉なことだが、曹操の人選も素晴らしかったというわけか」

 孟建が曹操を評して言った。子緒は杜襲、伯然は趙儼のあざなである。

「どうやら袁公は荊州にも予州にも見限られることになりそうだな」

「仕方ないさ。袁公は機会を逸した。天下を収める大きな機会を……」

「やはり、曹操の時代となるのか……」

 石韜の予想には答えた孔明だったが、その孟建の予想には答えなかった。

 それには遅れてきた学友が答えた。

「まだ分かりませんよ」

「やぁ、士元しげん。最近顔を見なかったけど、どうしていたんだい?」

 久しぶりに聞く龐統ほうとうののっぺりとした声に孔明が振り返った。確かに荊州学府の文通亭に最後に龐統が顔を出したのは、文通亭を囲む竹林にたけのこが頭を出し始めた頃だった。

従父おじ上が引っ越し先を探していて、その手伝いをしていた」

 龐統が孔明の方に歩み寄りながら答えた。その報告には皆が一様に驚きの声を上げた。

「えっ? 龐公先生、引っ越すのか?」

「どこに?」

「本当か? 全く知らなかった」

「私も何も知らなかった」

 孔明も初耳だった。月英げつえいの薬草のことがあるので、定期的に龐徳公ほうとくこうの屋敷を訪れることは続けているが、最近は龐徳公が留守にしていることも多かった。

「すぐにというわけではないし、従父上も余り語りたがる方ではないから。でも、将来的に今のうちは従兄あにに譲って、もっと良い薬草が採れるところを探して移るつもりのようだ。何事もいつまでもずっと同じというわけにはいかない」

「そうだな。いつかは私たちもここを離れて、ばらばらになってしまうのだろうな」

 崔州平が感慨深く言って、微かな溜め息をついた。

「元直殿は劉予州。西河殿と公威こうい広元こうげんのお三方は曹操を評している。孔明は反曹操の立場のようだし、同じ師に学んでも、私たちの考え方は同じではありません。それに全く同じでは面白くもないでしょう……」

「そういう士元の考えはどうなんだ?」

「そうだ。劉備でも曹操でもない。まさか袁紹でもあるまい。士元はここが地元だし、やっぱり劉荊州ということか?」

「人とは違った視点で物を見るように従父上によく言われます。あえて皆とは違う視点で見てみるのも面白いではないですか」

 孟建と石韜の問いに龐統はそう答えをはぐらかせた。

「いつもこれだ。士元の考えはつかみにくいったらない。わざと皆と違う見方を探しているのではないか?」

「全く。ずれているというか、ひねくれているというか……」

 龐統は別にそんな気はないのだが、その答えは図らずも二人の不評を買ってしまったようだ。孔明はそんな龐統を彼らしいと思って、学友の心の中を想像してみた。しかし、おおとりの自由な心は龍でも容易に摑めるものではない。


 劉備が再び敗れて、荊州に逃げてきたのは秋のことだ。劉表はそんな劉備をこころよく受け入れたが、それを良しとしない人物がいた。蒯越である。

 襄陽では重臣が招集され、評定ひょうじょうが開かれた。蒯越が口火を切った。

「曹公との和議が成ったこれを機に、袁公ときっぱり手を切るべきでございます」

 蒯越が言ったように、劉先は使者としての役目をしっかりと果たして戻ってきた。劉先は曹操におもねるような発言はせず、南陽攻略の正統性も主張した。しかしながら、和議の締結に成功したのである。

 予想された展開。評定に同席していた劉備が反駁はんばくした。

「一度結んだ盟約を一度の敗戦をもってのひらを返すように破棄するのは君子の所業ではございません。敗れたとはいえ、袁公は未だ健在。冀州にはまだ十万の軍勢がございます。挽回ばんかいは十分に可能でございます」

「一度ではござらん。二度も敗れた。袁公の才は曹公に及ばぬ。袁公では曹公に勝てぬ」

「そうかもしれません。ですから、袁公と景升公の共同戦線の構築が重要となるのです。関係を断ってはなりません」

 評定はさながら蒯越と劉備の一騎打ちの様相だ。居並ぶ重臣たちは蒯越の進言に賛同する者が圧倒的に多い。劉備の言葉に賛同を示す者は伊籍だけだ。

 他の数名は言葉を発せず、中立の姿勢を保っている。蒯越が劉備に向き直って、更なる論戦を仕掛ける。

「そもそも何故なにゆえ天子てんしを擁する曹公と戦わなければならないのか? 戦えば、逆臣とののしられるだけですぞ」

 劉備はそれをかわすように劉表を見据えて説く。

「恐縮ながら、私は陛下に謁見えっけんする機会に恵まれました。陛下は恐れ多くも、私を『叔父おじ』とお呼びになり、景升公を『伯父おじ』とお呼びです。それは何故でしょうか。景升公ならば、お分かりになるはず。陛下は助けを求めておいでなのです。漢室に連なる我等が陛下の御心みこころを分からずして、忠と言えましょうか。曹操のおりから陛下をお救いせずして、義と言えましょうか」

 これには普段から宗室であることを意識する劉表も大きく頷いた。

「袁公との関係を維持してさえいれば、逆転の機会は巡って来ます。陛下をお救いできる機会は必ずやってきます」

「予州殿のお言葉、私には全く想像がつきませぬ。予州殿、是非我等にご教示いただきたい。どのようにすれば、逆転の機会とやらは巡って来るのでしょうか?」

「古来から、戦の勝敗は時の運と申します。敗戦の最大の原因は袁公の作戦の失敗にあることは確かでしょう。しかし、天運が味方しなかったことも、また一因。袁公と景升公は互いに協力をし合い、天運を味方に付ける準備を行うのです」

「何を言いたいのか、さっぱり分かりませぬ。具体的にはどうなさるのか?」

 蒯越は劉備の言葉に空虚さを感じて、口をふさぐべく圧力をかけた。

 しかし、それは決して空論ではなく、しっかりとした根拠があった。

 蒯越の言論封鎖をくぐり抜け、

「所有者に天運をもたらす仙珠という霊宝の存在。もうご存じだとは思いますが……」

 劉備のその前置きに、蒯越も劉表も引き付けられずにはいられなかった。

「袁公は赤の仙珠・赤火珠せっかじゅを所持しています。景升公は黒の仙珠をお持ちと聞きました。赤は南、黒は北に対応しますから、互いの仙珠を交換するのです。そうすれば、袁公にも景升公にも更なる天運が味方することになるでしょう。漢の正色は赤でございますゆえ、景升公が赤火珠を手にすれば、漢朝再興も叶うのではないでしょうか」

 劉備が衝撃的な提案を打ち出した。それを聞いた蒯越が思わず言葉を詰まらせる。

『な……なぜ、黒水珠こくすいじゅのことを知っているのか……』

 蒯越の反論がないので、彼の賛同者たちも声を発するタイミングを失って、場が静まり返ってしまった。そして、それが劉表に劉備の提案を吟味ぎんみさせる時間を与えた。

「良い考えだと思うが、玄徳殿。果たして袁公が承知するだろうか?」

「袁公は今の態勢を立て直せるなら、それもいとわないはずです。実際のところ、袁公の心は曹操打倒が成せればよく、漢再興のこころざしが強いというわけではありません。私が書簡を送って袁公を説得し、環境を整えましょう」

 劉備があおって勢いを強めた劉表の清流はまだ止まってはいない。

 劉備が煽ってたぎらせた劉表に流れる宗室の血は彼を奮起させた。

「よし。ここは玄徳殿の案に従おう」

 血気にかられた劉表が態度を決め、この論戦一騎打ちは劉備の勝利に終わった。 その結果に伊籍もうんうんと満足そうに頷くのだった。


 樊城に戻った劉備は屋敷に伊籍と徐庶を迎えていた。

「先日はあの蒯異度いどを相手に一歩も引かない論戦ぶり、お見事でございました」

「いや、元直の情報が役に立った」

「お役に立てて光栄でございます」

 伊籍の紹介を受け、劉備は徐庶を荊州事情のアドバイザーとして陣営に加えていた。黒水珠の件は徐庶の口から聞いたことだ。伊籍が劉備に評定でのことを尋ねた。

「それにしても、仙珠の交換とは……よくあのような大それた案を考え付かれましたな。さすがの蒯異度も意表を突かれたようでした」

「昔、袁術が袁紹を頼ろうとしたのを思い出した」

 仙珠を交換するという突飛なアイデアがひらめいたのも、清濁抗争に身を投じて数多あまたの出来事を経験し、幾人いくにんもの群雄たちの間を渡り歩いてきた劉備ならではである。

 劉備がまだ徐州牧だった当時、勢力を衰えさせた袁術えんじゅつは北上して兄の袁紹を頼ろうとした。袁紹は袁術が持つ黒水珠の譲渡を条件に犬猿の仲であった弟の受け入れを認めた。

 劉備はそれを防ぐために徐州を移動中の袁術を討ち、これを敗走させた。

 失意の袁術は逃亡中に生き絶え、生にしがみついたその亡霊が荊州に辿り着いたのだった。

「黒水珠が景升公の手に渡っていたとは驚いたが、むしろその方が良かった。曹操も行方を追っていたから。この交換がうまく行けば、曹操の勢いを止められる」

 その後、書簡の往来があり、劉備は袁紹からの了承を取り付けた。期日を定め、現在中立地帯となっているかつての都・洛陽でその交換儀式が行われることも決まった。それを受け、劉表の使者が襄陽を出発したのは昨日のことである。

 徐庶は劉備の話を聞きながら、胸の高まりを抑えるのに必死だった。

 今、自分は天下の機密に関わっている。それを為す人物の隣にいる。劉氏が赤火珠を所有し、漢を再興するという壮大な計画に参与していくのだ。自分はまばゆ荘厳そうごんな世界に足を踏み入れた。

 その徐庶の愉悦ゆえつの時間は突然の凶報によって吹き消された。

「申し上げます! 琦君きくんが曹操軍に捕らわれたという情報が入りました!」

 血相けっそうを変えた麋竺が慌てた様子で走ってきて、劉備に告げた。

「何だと」

 劉備が色を失って立ち上がった。劉琦りゅうきは劉表の長子であり、今回の仙珠交換の使者として、仙珠をたずさえ、冀州の袁紹のもとへ向かったばかりだった。

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