其之六 幽雲飛来
あくまでもオブザーバー的な立場であり、作戦の立案・実行は袁紹子飼いの武官文官によって行われた。通常劉備は作戦会議には出席せず、要請をされた時だけ顔を出し、意見を求められた時だけ口を開き、できるだけ積極的な関与はしてこなかった。
ところが、この敗戦で袁紹は何人かの有能な将軍たちを失い、数名の謀臣を
持久戦にも劉表との連携にも異論はない。劉備を使者とすることを渋ったのだ。
有能な将軍を何名か失ってしまった今、劉備は一軍の統率ができる貴重な戦力であった。使者の役目は文官に任せていればよいと考えていた袁紹であったが、これまでに送った使者たちに対し、劉表は
形勢が優勢であった時はそれほど気にしていなかったが、
「――――私と劉荊州は同じ皇族の端くれ。袁公と協力して漢朝を再興することの大義を説けば、劉荊州も腰を上げるに違いありません。必ず私が荊州を動かしてご覧に入れます。万が一不守備に終わった場合でも、再度私が黄巾軍を動かし、挟撃態勢を整えます」
劉備は自信満々に言った。これならば、使者と将軍の両方を
建安五(二〇〇)年の暮れになって、ようやく劉備は袁紹からの承諾を得、劉表への使者として派遣される運びとなった。劉備は
「洛陽再建の道のりはまだまだ遠いな……」
その様子を見た劉備が嘆息気味に呟いた。十年前の戦火で全てが焼き尽くされ、
しかし、皇帝は
昔、袁紹と曹操が
皇帝が許に移った後、曹操は趙岐を尊重して、
劉備はその特別な存在感を放つ老人に声をかけた。
「邠卿先生ですね」
「いかにも」
椅子に浅く腰かけ、杖を手にした趙岐は人夫たちが荷車に乗せた木材を運ぶのから目を離さずに答えた。
「私は
「これは荊州からの支援物資でしょうか?」
「いや、
劉表からの支援は途絶えて久しい。が、その間は司隷校尉(首都圏警備長官)として長安に滞在する
鐘繇は
劉備がそんな洛陽に無事入れたのは、特殊な事情による。
廃墟からの再興途中である今の洛陽は人もまばらで、都市基盤は未だ
「栄華を誇ったあの洛陽に早く戻ってほしいものです」
少年時代、劉備は師に連れられて往年の洛陽を見たことがある。そこには
「再建された洛陽が再び漢の都となるかどうかは分からぬがな……」
過去を回想する劉備の呟きに、趙岐はやはり人夫たちの働きぶりから目を離さず応じた。
「私は一応皇族の端くれ。漢朝再興のために働いております。劉荊州にもそれに協力していただかねばなりません」
劉備が趙岐と同じものを見ながら言った。
劉備が襄陽に入って劉表と会見したのは、建安六(二〇一)年になってからである。荊州府で新年の
劉表が手にした書簡を
「私は曹操という男をよく知っております。彼の者の心にあるのは、新たな時代を築き、その時代の下で世を安定させることです。曹操が見据えている天下の形は漢ではありません。それなのに、陛下の威光を利用している。これは腹黒い奸臣の行いです……」
劉備は落ち着いた声で舌を舞わせ始めた。ただ真理を語る。
「私はそれを知って、曹操と
劉備は劉表の
劉備の姿勢は漢を復興させて、再び求心力を取り戻して世を安定させること。
曹操の姿勢は新しい王朝を樹立して、その王朝のもとで世を安定させること。
「我等皇族に連なる者は、生まれながら漢を
水のように沁み入る劉備の言葉と清流派・趙岐の清く真っ直ぐな書簡。
山が動いた。
「感動致した、玄徳殿。……玄徳殿が力になってくれるというのなら、心強い。この劉表、大漢のために戦いますぞ」
群雄たちが争い、天下が騒乱する中、劉表の姿勢は世を乱す者に天誅が下るのを待つことだった。そのような姿勢を取らざるを得なかったのは、劉表自身が軍務経験に
劉備の力。趙岐の願い。これが劉表に大きな勇気を与えた。彼の中の清流は随
分と流れをゆるやかにしていたが、まだ途絶えてはいない。
伊籍が顔を紅潮させて、「ご明断でございます」と、劉表を称えた。
劉備の妻は
他にも
「
「いえ、自らそれを実現させたのですよ。ねぇ?」
漢水の岸辺に立って樊城を遠望しながら、
かつて麋竺が劉備を徐州に留まらせようと計ったように、今は伊籍と徐庶が彼を荊州に呼び、留まらせようと計っている。孔明の言葉どおり、二人が計って劉備に書簡を出し、彼を動かしたのは事実だ。劉表が清流派の出身であることに今でも誇りを持っていて、趙岐という清流派長老を
「西河殿の言葉が半分、孔明の言葉が半分。いや、これは最初から予州殿の計画のうちにあったのかもしれない」
「どういうことです?」
「公孫瓉、
「さすが。予州殿のことに関しては、私たちの理解は元直殿の足下にも及びませんね」
孔明はすっかり感心するように言った。
「思い入れが深いから、そのような心理も分析できる。それで、酔虎は予州殿の下へ行くのか?」
襄陽の岸辺では、対岸へ渡るための渡し船が
「予州牧が
左将軍も劉備の官職だ。予州出身の徐庶はそんな冗談で返したものの、進路はほぼ決まりつつあった。
「機伯殿が紹介状を書いてくれるそうですから、今度いらっしゃった時には一度ご挨拶に
「ははは。いつになく謙虚ではないか?」
『元直殿は劉予州か……』
孔明は意中の人物を見つけ、仕えようと決断した徐庶を内心
自分の未来はまだ見えて来ない。期待を込めて黒水珠を託した劉荊州だが、依然として、孔明の目にあまり魅力的な仕官先として映らない。劉備の目にはどう映るだろうか。
「それよりも、まずは劉荊州が予州殿のお目にかなうかどうかだね……」
肝心の劉備はもう荊州にいない。樊城で一日を過ごしてから、すぐに汝南方面へ
劉備はすでに部下たちを何人か汝南に残し、黄巾兵たちを集めさせていた。
彼らと合流して、袁紹との約束を果たすつもりなのだ。それと連動して劉表も動く
劉表も今度ばかりは乗り気だ。劉表の目的は南陽郡を取り返すことだ。
荊州最北の南陽郡はこの数年の争いの末、劉表の支配から切り離された。
荊州牧の劉表が南陽を支配するのは当然のことで、大義名分がある。他国侵略でもなければ、漢朝への反乱でもない。それに、南陽は洛陽や冀州へ通じる道である。南陽を取り戻さなければ、趙岐の支援にも支障をきたすし、袁紹との直接的な連動もできない。南陽を奪還することは劉表の荊州牧としての威厳を示すことになるし、袁紹へ対してのアピールにもなる――――。
これらの根拠も劉表を動かす大きな理由となった。もちろん、劉備が説得したのだ。
年明け早々、寝耳に水の知らせに蔡瑁ら保守勢力は
「どうしてこのような大事を我等に
荊州府の廊下で、
「袁紹の下から劉備が来ていたそうです。殿をうまく口車に乗せたのでしょう」
「そんな報告は聞いていない。いつだ?」
「宴があった晩のことのようです」
「ちっ、油断していた。すぐに出兵を中止させるのだ。これ以上曹公との関係がこじれたら、我等も気まずい」
ちょうどそこに厳しい表情を
「止めておけ。今、そんな口出しをすると、
「俺は殿の義理の弟だ。そんなことにはならん」
「それでも止めておけ。
子文というのは
そんな二人が曹操に敵対すべきではないと諌めても、劉表はその言葉を受け入れなかった。二人は蒯越に会うと
「劉備め、何を言ったのだ?」
「荊州牧として、南陽を奪還するように勧めたらしい。殿は大いにその気だ。南陽のこととなれば、荊州第一を
「むっ……」
蔡瑁は蒯越の言葉に声を詰まらせた。
「とにかく殿の気をなだめるためにも、南陽の件は従った方が良い。ただ南陽を確保するのは良いとしても、それ以上軍を進めることは避けよ。私はその後の対処法を考えておく」
蒯越は蔡瑁にそう忠告すると、すたすたと足早に歩き去っていった。
国都・洛陽に近く、
官渡の決戦が行われる前から、荊州南陽郡と予州の郡県にはそれぞれ劉表と袁紹の調略の手が伸びていた。予州汝南では多くの県城が袁紹側の劉備に呼応する中、全く
陽安の郡治は
一方、南陽では
蔡瑁・
それから間もなく。四月。曹操は
敗れるのは時間の問題と言えた。
『これで殿も袁紹が頼りにならないと思い知ったはず。南陽を得て、我等にも利があった。ここが収め時だ』
蒯越は袁紹敗北の情報を伝え聞くと、すぐに上殿して曹操との関係修復を説いた。
これには劉表も納得し、戦勝祝いと称して
「
その情報を仕入れて文通亭に現れたのは、
向朗、
「もう振り子が戻りましたか」
袁紹敗北の知らせに、劉表の心に住まう優柔不断の虫がまた騒いだのだろうと孔明は察した。荊州人士の事情をよく知る崔州平が状況を推察して言った。
「始宗を送ったのなら、曹操側に振れたというよりは、真ん中に戻ったという感じだろう。人選が絶妙だった。徳高のようにならないように配慮したのだろうが……」
劉先は字を始宗という。荊南
親曹操が過ぎると、韓嵩のように劉表の反感を買う。それを反省し、蒯越が劉先を強く
「荊州保全の姿勢を貫くなら、それで良いのではないですか。ところで、酔虎お気に入りの劉予州はどうなった?」
「まだ汝南で孤軍奮戦しておられるようだが、袁公が敗れた以上、単独で戦っても勝ち目はない。奥方もこちらにおられるし、間もなく荊州に戻って来られるだろう」
「
孟建が曹操を評して言った。子緒は杜襲、伯然は趙儼の
「どうやら袁公は荊州にも予州にも見限られることになりそうだな」
「仕方ないさ。袁公は機会を逸した。天下を収める大きな機会を……」
「やはり、曹操の時代となるのか……」
石韜の予想には答えた孔明だったが、その孟建の予想には答えなかった。
それには遅れてきた学友が答えた。
「まだ分かりませんよ」
「やぁ、
久しぶりに聞く
「
龐統が孔明の方に歩み寄りながら答えた。その報告には皆が一様に驚きの声を上げた。
「えっ? 龐公先生、引っ越すのか?」
「どこに?」
「本当か? 全く知らなかった」
「私も何も知らなかった」
孔明も初耳だった。
「すぐにというわけではないし、従父上も余り語りたがる方ではないから。でも、将来的に今のうちは
「そうだな。いつかは私たちもここを離れて、ばらばらになってしまうのだろうな」
崔州平が感慨深く言って、微かな溜め息をついた。
「元直殿は劉予州。西河殿と
「そういう士元の考えはどうなんだ?」
「そうだ。劉備でも曹操でもない。まさか袁紹でもあるまい。士元はここが地元だし、やっぱり劉荊州ということか?」
「人とは違った視点で物を見るように従父上によく言われます。あえて皆とは違う視点で見てみるのも面白いではないですか」
孟建と石韜の問いに龐統はそう答えをはぐらかせた。
「いつもこれだ。士元の考えは
「全く。ずれているというか、ひねくれているというか……」
龐統は別にそんな気はないのだが、その答えは図らずも二人の不評を買ってしまったようだ。孔明はそんな龐統を彼らしいと思って、学友の心の中を想像してみた。しかし、
劉備が再び敗れて、荊州に逃げてきたのは秋のことだ。劉表はそんな劉備を
襄陽では重臣が招集され、
「曹公との和議が成ったこれを機に、袁公ときっぱり手を切るべきでございます」
蒯越が言ったように、劉先は使者としての役目をしっかりと果たして戻ってきた。劉先は曹操に
予想された展開。評定に同席していた劉備が
「一度結んだ盟約を一度の敗戦を
「一度ではござらん。二度も敗れた。袁公の才は曹公に及ばぬ。袁公では曹公に勝てぬ」
「そうかもしれません。ですから、袁公と景升公の共同戦線の構築が重要となるのです。関係を断ってはなりません」
評定はさながら蒯越と劉備の一騎打ちの様相だ。居並ぶ重臣たちは蒯越の進言に賛同する者が圧倒的に多い。劉備の言葉に賛同を示す者は伊籍だけだ。
他の数名は言葉を発せず、中立の姿勢を保っている。蒯越が劉備に向き直って、更なる論戦を仕掛ける。
「そもそも
劉備はそれをかわすように劉表を見据えて説く。
「恐縮ながら、私は陛下に
これには普段から宗室であることを意識する劉表も大きく頷いた。
「袁公との関係を維持してさえいれば、逆転の機会は巡って来ます。陛下をお救いできる機会は必ずやってきます」
「予州殿のお言葉、私には全く想像がつきませぬ。予州殿、是非我等にご教示いただきたい。どのようにすれば、逆転の機会とやらは巡って来るのでしょうか?」
「古来から、戦の勝敗は時の運と申します。敗戦の最大の原因は袁公の作戦の失敗にあることは確かでしょう。しかし、天運が味方しなかったことも、また一因。袁公と景升公は互いに協力をし合い、天運を味方に付ける準備を行うのです」
「何を言いたいのか、さっぱり分かりませぬ。具体的にはどうなさるのか?」
蒯越は劉備の言葉に空虚さを感じて、口を
しかし、それは決して空論ではなく、しっかりとした根拠があった。
蒯越の言論封鎖を
「所有者に天運をもたらす仙珠という霊宝の存在。もうご存じだとは思いますが……」
劉備のその前置きに、蒯越も劉表も引き付けられずにはいられなかった。
「袁公は赤の仙珠・
劉備が衝撃的な提案を打ち出した。それを聞いた蒯越が思わず言葉を詰まらせる。
『な……なぜ、
蒯越の反論がないので、彼の賛同者たちも声を発するタイミングを失って、場が静まり返ってしまった。そして、それが劉表に劉備の提案を
「良い考えだと思うが、玄徳殿。果たして袁公が承知するだろうか?」
「袁公は今の態勢を立て直せるなら、それも
劉備が
劉備が煽って
「よし。ここは玄徳殿の案に従おう」
血気にかられた劉表が態度を決め、この論戦一騎打ちは劉備の勝利に終わった。 その結果に伊籍もうんうんと満足そうに頷くのだった。
樊城に戻った劉備は屋敷に伊籍と徐庶を迎えていた。
「先日はあの蒯
「いや、元直の情報が役に立った」
「お役に立てて光栄でございます」
伊籍の紹介を受け、劉備は徐庶を荊州事情のアドバイザーとして陣営に加えていた。黒水珠の件は徐庶の口から聞いたことだ。伊籍が劉備に評定でのことを尋ねた。
「それにしても、仙珠の交換とは……よくあのような大それた案を考え付かれましたな。さすがの蒯異度も意表を突かれたようでした」
「昔、袁術が袁紹を頼ろうとしたのを思い出した」
仙珠を交換するという突飛なアイデアが
劉備がまだ徐州牧だった当時、勢力を衰えさせた
劉備はそれを防ぐために徐州を移動中の袁術を討ち、これを敗走させた。
失意の袁術は逃亡中に生き絶え、生にしがみついたその亡霊が荊州に辿り着いたのだった。
「黒水珠が景升公の手に渡っていたとは驚いたが、むしろその方が良かった。曹操も行方を追っていたから。この交換がうまく行けば、曹操の勢いを止められる」
その後、書簡の往来があり、劉備は袁紹からの了承を取り付けた。期日を定め、現在中立地帯となっているかつての都・洛陽でその交換儀式が行われることも決まった。それを受け、劉表の使者が襄陽を出発したのは昨日のことである。
徐庶は劉備の話を聞きながら、胸の高まりを抑えるのに必死だった。
今、自分は天下の機密に関わっている。それを為す人物の隣にいる。劉氏が赤火珠を所有し、漢を再興するという壮大な計画に参与していくのだ。自分は
その徐庶の
「申し上げます!
「何だと」
劉備が色を失って立ち上がった。
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