其之五 遠雷

 建安五(二〇〇)年正月。曹操そうそう小沛しょうはいで兵を挙げた劉備りゅうびを攻め破った。

 敗れた劉備は袁紹えんしょう陣営に身を投じ、いよいよ袁紹と曹操の対決機運が高まった。

 そして、二月。ついに両軍はとう郡の白馬という場所で激突した。

 孔明がこれらの情報を知ったのは道を閉ざしていた雪が溶けて、久しぶりに徐庶じょしょの邸宅をおとなった時のことだった。

 白馬の勝敗は未だついておらず、攻防戦は続いている。結果的に襄陽じょうようの人々はこれまで同様に安穏とした生活を謳歌おうかできていた。

「これもあの仙珠せんじゅの天運のお陰なのでしょうか?」

「袁紹は大兵力を擁す。荊州方面に大軍を振り分ける余裕がないだけだろう」

「というより、曹操は劉荊州が動かないという絶対の自信があるようだね」

二虎競食にこきょうしょくの今、荊州が動く必要はない」

 今日の会合の場所は習家池しゅうけち釣魚台ちょうぎょだいである。ある晴天の昼下がり。ぽかぽかと温かな陽気を受け、習禎しゅうてい、徐庶、孔明、龐統ほうとうの四人が世相を論じていた。

 気になるのは、北方の情勢。やはり、袁紹と曹操の動静である。

「そうだな。すぐに勝敗が決まることはないだろうし、どちらが勝つにしても、相当消耗するはずだ。その後で動くのが一番いい」

 徐庶が龐統の意見に同意して言った。龐統がぽつりと呟いて、南の事変に話題を導く。

「荊州はこの間に後顧こうこの憂いを断たなければならない」

長沙ちょうさですね」

「そうだ。でも、劉荊州は動けないだろうね」

 長沙太守の張羨ちょうせん劉表りゅうひょう叛旗はんきひるがえしてから二年が過ぎていたが、劉表は北の南陽郡での戦いに釘付けにされてこれを討伐できず、不服従という荊南の静かな反乱は依然続いている。孔明はこの反乱の裏に曹操の影があるのを早くから見抜いていた。

黄祖こうそ将軍の兵は打撃を受け、劉荊州は曹操軍に備えて襄陽を空けられない」

 習禎がその理由を明察し、孔明が頷いた。劉表が軍事面で一番信頼を置くのが江夏こうか太守の黄祖である。だが、劉表が荊南の討伐に当たらせようとした黄祖の兵団は江東を掌握しょうあくした孫策そんさくの来襲で大打撃を受け、再編をいられている。当分の間、出兵はできないだろう。

「じゃ、荊州はどうすべきだと思う?」

「袁紹が勝ったという偽情報で動揺させ、懐柔かいじゅうさせるというのはどうでしょう?」

「悪くない」

 習禎の方策に龐統が呟いた。彼らは荊南の反乱に曹操の手引きがあることを共通認識として持っている。この二年余りで長沙に始まった劉表への叛旗は隣郡の武陵ぶりょう桂陽けいようにも拡大して、武力で鎮圧するのは容易でない状況に陥っている。

 しかし、荊南諸郡は中原から地理的に遠いため、袁紹対曹操の戦況をつぶさに把握できない。誘引で始まった反乱は、誘引で終わらせることもできる。

 方策としては、孔明と一致している。

「一番の適任者はあの方なんだが……」

仲景ちゅうけい先生ですね」

文祥ぶんしょうも知恵が回るようになってきたじゃないか」

 孔明が頷いて習禎を褒め、習禎は謙遜して言った。

「お三方の影響ですよ」

 習禎は年の近い孔明や龐統と行動を共にすることが多かった。徐庶は孔明と気が合うので、結果的に四人でこうして話している。崔州平さいしゅうへい孟建もうけん石韜せきとうの三人は北方の情勢が気になって仕方ないらしい。近頃は韓嵩かんすうと接触して、劉表政権の動きをつかもうとしていた。

「よし。そろそろ文祥にも雅号がごうを考えてやろうじゃないか」

「いいですね。何がいいでしょうか?」

 徐庶の提案に孔明が賛成して頭をひねり始めた。

「俺たちのに準じたものがいい」

 孔明は〝臥龍がりゅう〟。龐統は〝鳳雛ほうすう〟。どちらも二人の才能をよみして、師である龐徳公ほうとくこうが名付けたものだ。徐庶の〝睡虎すいこ〟または〝酔虎すいこ〟は先の事件がきっかけで学友が付けた。

 寝そべった龍。鳳凰ほうおうひな。眠った虎――――これらはいずれも大才を持ちながらも処士であることを意味したものである。

「……〝潜鯉せんり〟はどうか?」

 池の水面みなもを見つめていた龐統がおもむろに呟いた。

 習家池は鯿魚へんぎょや鯉を養殖するために作られたものだ。そして、龍門という急流を登った鯉は龍になるという『三秦記さんしんき』の伝説がある。男児の立身出世を願う日本の鯉のぼりの風習のルーツはここにある。

「いいじゃないか。それにしよう」

 徐庶が龐統の命名に手を打って言った。兄事する徐庶らに認められて、習禎も満足そうだった。

 孔明、龐統、徐庶、習禎、崔州平、孟建、石韜。彼らは固いきずなで結ばれていたが、ちょうどこの頃から心の方向性に微かなズレが生じてくる。


 北方では曹操と袁紹の対立がいよいよ明確になり、そのどちらにくみすのか、どちらにも与さないのか、荊州の群臣内でも意見が割れていた。

 その日、劉表の呼びかけに集まった荊州の人士たちが荊州府の議堂でそれぞれの意見を主張していた。

「荊州安泰を第一と考えるべきであります。他の州郡が戦で荒廃する中、荊州はずっと平穏を保ってきました。民心は殿にし、殿の威光と荊州の安寧を求めてやってくる民衆も後を絶ちません。今や荊州こそが万民のり所、天下の中心となりつつあるのです。いたずらに州外の争いには加わらず、ひたすら荊州を保持する姿勢を貫くべきかと存じます」

 まず口を開いたのは荊州豪族の最大の実力者、蔡瑁さいぼうであった。

 蔡瑁はあざな徳珪とくけいという。地元襄陽の人で、彼の姉が劉表の妻であるので、劉表にとっては身内である。

 劉表は蔡氏の多大な影響力をその統治に生かしていたので、互いに持ちつ持たれつの関係と言ってよい。蔡瑁は劉表政権の重臣として、軍師の地位にあった。

 蔡瑁には荊州を出てまで戦をするという考えはない。荊州の安泰を保つことが自身の保身に繋がる。荊州出身の列席者の多くが蔡瑁の意見に賛成・同調する中で、おもむろに立ち上がる者がいた。崔州平らの学友、韓嵩である。

「蔡将軍のお考えはごもっとも。しかしながら、ただ荊州を保つと心がお決まりならば、これまでどおり。何も殿が我等に問う必要はございません。殿のお心はご自身が天下に覇を唱えられるかどうかをお聞きになりたいのです」

徳高とくこうよ。意見を聞こう」

 初老の劉表が韓嵩をあざなで呼んで、次の弁を促した。

「はい。今や両雄が相争い、天下の情勢がどう動くかは殿のご決断次第。天下の行方は殿の手中にあると言って過言ではありません。もし、殿に天下を制す気持ちがあるのでしたら、両者の疲弊を待ってから攻めるべきです」

「一旦戦になれば、遠征と長期戦は避けられまい。たとえ勝利を得られても、数年の軍役の末、荊州の軍民が疲れ果てては意味がない。荊州の民衆がそれを望むとは思えん」

 蔡瑁の反論に劉表も頷いた。戦が数年に及ぶとしたら、自分の寿命が残るうちに全てを決着させることができないかもしれない。

「これは天下を制すための一つの方針を示したまで。殿がその方針をお採りにならない時は、天子を擁す曹操に帰順なさり、荊州の安泰を確かなものとすればよろしいかと。これもまた漢の安泰に繋がりましょう」

左様さよう。殿は漢室の血を引く御方。その漢に弓引くは殿の本意ではございますまい。ここは曹操と手を組み、朝廷への忠誠を示す時かと存じます。その上で、すみやかに荊南の鎮圧に向かうのが上策」

 重鎮の蒯越かいえつも同様の進言をした。蒯越はあざな異度いど。同じく荊州の名家で、劉表の謀臣を務めている。

 それを聞いていた伊籍いせきが立ち上がって反駁はんばくする。

いな。曹操が天子をないがしろにし、いいように利用しているのは天下に明白であり、これを討ってこそ真の忠義を示すことになりましょう。聞くところによれば、袁紹は赤火珠を所持しているとのこと。漢は火徳。赤火珠と大軍勢を擁す袁紹と共に曹操を討ち、漢室を復興させることが殿の取る道ではないでしょうか。袁紹と盟を結ぶべきであります」

 伊籍はあざな機伯きはくという。劉表と同郷の山陽郡高平の人である。彼も劉表を頼って荊州へやってきた外地組の一人だ。普段穏やかな伊籍が発奮して言ったものだから、劉表も思わずその勢いに押されてしまった。

「徳高、異度の意見はそれぞれもっともだと思うが、機伯の意見もまた道理に思う……。ここはもう少し様子を見よう」

 結局、この時点で劉表ははっきりと態度を決断できず、韓嵩に曹操の下へ、伊籍に袁紹の下へ、視察を兼ね、使者として赴くよう命じただけだった。

 両名はそれぞれ自身が付くべきだと判断した英雄のもとへ出立し、荊州を離れた。

 穏やかな春の季節が過ぎ去ろうとしていた。


 去る者あれば、来る者あり――――。二人の使者が旅立つのと同時に荊州学府ににわかに一陣の北風が吹き付け、学徒たちの心に予期せぬさざ波が湧き立った。原因はある人物の来訪である。事情に通じた崔州平が孔明らにそれを伝えた。

繁休伯はんきゅうはくが来た」

「お知り合いですか?」

「ああ。一時の間だが、彼はこの襄陽にいて、劉荊州に仕えたことがある。ちょうど孔明が荊州に来た頃、彼は去って行った。今は曹操に仕えているようだ」

 曹操の使者は繁欽はんきんあざなを休伯といった。予州潁川郡の人だが、乱を避けて荊州に滞在していた時、崔州平らと交流した。詩文の才能があり、それを曹操に気に入られた。その人物が荊州学府を来訪し、共に学んだ学友たちと再会を果たした。

杜子緒とししょ趙伯然ちょうはくぜんも曹操に帰順して官職を得たと、我等にも帰順を勧めてきた」

 崔州平はそう告白して、孟建や石韜、そして、徐庶に目を配った。徐庶が一つ溜め息をついて、補足するように言った。

「彼らも外地組だ。荊州学府が開かれる前まで、この襄陽で学んでいた」

 杜襲としゅう、字を子緒。趙儼ちょうげん、字を伯然。どちらも予州潁川郡の人である。繁欽もそうだが、彼らは曹操が皇帝を擁立したのを機にそれぞれ帰郷して、曹操に仕えることを決めた。彼らは皆、劉表ではなく曹操にこの国の行く末を託したのである。

 曹操は張繍ちょうしゅうがいなくなった荊州最北の南陽郡各地に配下の者を送り込んで統治させるとともに、荊州と予州境界にも兵を配置して劉表への備えとした。そこに荊州事情に精通した人材を抜擢したのである。杜襲は南陽の西鄂せいがく県長、趙儼は予州と荊州の州境に近い陽安郡(汝南郡の一部を独立させた郡)の朗陵ろうりょう県長として、それぞれ治績を挙げ、存分に才覚を発揮していた。

「荊州の賢人たちに揺さぶりをかけにきたということですか」

「それだけじゃない。劉荊州に孫策を牽制けんせいするよう要請してきた」

 繁欽は曹操の使者として劉表に会見を求めた。韓嵩との交流を生かし、崔州平がその内容まで聞き出して、孔明たちに伝えた。

「随分と強引な要請ですね」

 習禎が言った。確かに張羨の反乱を陰助いんじょして劉表を困らせているのが曹操であるのに、その曹操に協力するように言ってきたのだから、当然の意見である。

「曹操は先の先を見て動いている。これで劉荊州は益々動けなくなった」

 孔明が言って嘆息した。荊州の敵は強大だ。朝廷は劉表を鎮南ちんなん将軍に任命した際、荊州のほかに揚州・交州・益州の三州をとくすことを併せて認めている。

 南をしずめる将軍のわけだから、それは張羨の討伐を意味している。その他の三州を監督するというのは異例だが、それは曹操の手が行き届かないところを朝廷に従順な姿勢を見せる劉表に対応させようという政略にほかならない。

 袁術がいなくなった代わりに孫策が揚州の大半を支配下に置いた。

 曹操は孫策を懐柔しようとして、息子の嫁に孫賁そんふんの娘をもらうなど、曹氏と孫氏の縁組を画策したのだが、それで警戒を解いたわけではなかった。

 袁紹と対峙している最中に孫策に背後を突かれてはたまらない。劉表と袁紹が示し合わせて動かれるのはもっとも困る。そうならないよう劉表を南方鎮撫に従事させ、忙殺ぼうさつしようというたくらみだ。

 曹操の策略と分かっていて、なぜ従う必要があるのか。習禎は憮然として言った。

「無視できないのですか?」

「劉荊州が一番恐れるのは朝敵の汚名を着せられることだからね。積極的に動くことはしないにしても、朝廷の要請とあっては断れない」

「その通りだ。劉荊州は要請を了承したよ。白馬の戦いは曹操側の勝利と決したようだ。袁紹側の猛将も討ち取られたというし、劉荊州の判断にも影響したのだろう」

 崔州平が言ったそれはまだ襄陽城内にも流布るふされていない最新のニュースだった。

 繁欽はその事実を引っげて荊州の劉表の下を訪れたのである。そして、それは劉表に今は曹操側に付いておく方が有利だという政治判断をさせた。

「孫策は父を黄祖将軍に殺されているし、張羨と組まれては一大事だ。どの道、孫策に対抗せざるを得ない」

 龐統も事態を達観している。今の荊州にとっては南方情勢こそが重大事なのだ。

「では、劉荊州は曹操に従うことになるのでしょうか?」

「少なくとも、側近たちの意見はその方向で固まりつつあるようだ」

 疑問を呈した習禎に目を向けて、また崔州平が答えた。

「ところで、皆様はの者の誘いに従うのですか?」

 今度は孔明が外地組の面々に進退を問うた。崔州平の郷里は袁紹が支配する北方、徐庶や孟建、石韜の郷里は曹操が支配する予州だ。崔州平は名士だし、荊州事情に精通しているので、杜襲や趙儼以上のポストに就くことは可能だろう。

 他の三人もそれぞれ賢人だし、同じく荊州事情も理解している。その上、地縁を頼れば、問題なく官職を得られるはずだ。

「まだ戦火が及ばないうちは荊州の恩恵にあずかろうと思う。ここは学問に専念するには最適な場所だからな。今後誰が荊州を治めることになるのか、両雄の決着がつくその時には何となく見えてくるだろう。それが見えてから決めても遅くはない」

「そうですね。今焦って動く必要はない」

 崔州平の意見に孟建が賛同し、石韜も頷いた。三人は繁欽の誘いには揺れていない様子だったが、気持ちがはっきりと定まっているわけでもないようだ。

「俺はちょっと気になる人物がいる。俺の予想が当たれば、その人物はいずれ荊州にやってくる。このままここに留まって、その人物を待ちたいね」

 いつにも増して徐庶が陽気に言った。その謎かけに習禎が答えを求める。

「それは誰ですか?」

「潜鯉という名を授かったんだ。自分で推測してみろ」

 一回り年長の徐庶はそう言って、学弟の安直な問いをはぐらかした。

「そうか。そういう考えもあるね……」

 徐庶が示した新しい考え方に孔明も思わずうなった。徐庶の頭にある人物と孔明の頭にぽんと浮かんだ人物が一致しているかどうかは分からない。

 ただし、孔明が想像した人物は曹操と対抗するには頼もしい力量を持っている。

 もちろん、その人物が本当に荊州にやってくるとは限らない。今は袁紹の下にいると聞いている。

『その時は荊州の風向きが変わるかもしれない……』

 孔明もいわば外地組なのだが、わざわざ疎開して荊州にやってきたのだし、姉たちも襄陽で家庭を持っていて、もうほとんどここが郷里のようになっていた。

 龐統や習禎の地元組と同じく荊州に留まることは初めから決まっていた。


 それから三カ月。季節は夏へと移り変わった。繰り返される命のいとなみ。

 再び森に蝉噪せんそうが溢れ、ちょう蜻蛉とんぼが一時の命を謳歌しようと飛び回る。

 孔明が予想した通り、荊州のあるじは北にも南にも動かなかった。

 それが結果的に相変わらずの平穏を襄陽にもたらしていたのも確かな事実だ。

 しかし、その間に天下の情勢は目まぐるしく動いた。まず、五月。孫策が死んだ。

 翌月に伝わってきた情報では、死因は暗殺されたとも、呪い殺されたともいう。

 実際、孫策は二十六歳の若さだったし、つい最近まで精力的に軍を動かしていたので、病死とは考えにくい。急遽きゅうきょ彼の後を継ぐことになったのは、弟の孫権そんけんあざな仲謀ちゅうぼうである。弱冠十九歳の若造であったため、孫策が生前に任命した廬江ろこう太守の李術りじゅつは孫権をあなどって従わず、勝手に動いて曹操が据えた揚州刺史・厳象げんしょうを攻め殺す事態が勃発した。江東の軍勢は曹操と事を構えてしまったわけだから、何はともあれ、これで荊州は東からの圧迫から解放されたわけだ。

 孔明は黄承彦こうしょうげん邸に顔を出した後で、休息がてら徐庶の邸宅に立ち寄ったところ、お隣さんの崔州平がそんなニュースと酒瓶をたずさえてやってきた。

于吉うきつという仙人を殺してしまって、その呪いだという噂があるが、さすがにそれは信用性に欠ける。孫策は江東を平定する時に呉郡太守の許貢きょこうを殺したらしいからな。その部下が復讐したという話の方が信憑性しんぴょうせいが高い」

 崔州平は言いながら、卓上に酒瓶を置いた。徐庶がすかさず手を伸ばす。

 許貢は人相見にんそうみ許劭きょしょうの一族で、対孫策で揚州ぼく劉繇りゅうようと提携していた人物である。彼らはことごとく孫策に敗れ、すでにこの世にいない。が、その孫策もあっさりとこの世からいなくなった。孔明の頭にまた安否不明の兄と母のことがよぎった。

 孔明の兄・諸葛瑾しょかつきん継母ははを連れて目指したのが呉郡だった。しかし、疎開の旅の途中で別れて以来、その行方も安否も分からないままだ。人をやって探させてみてはいるが、まだ吉報はもたらされていない。

「――――心配ないわよ。瑾兄さんも私たちと同じ様に今頃はあっちで落ち着いているわ。ただ知らせようがないだけよ。もしかしたら、お嫁さんをもらっているかもね」

 姉のれいは孔明が兄の話題を持ち出す度にそう言って、暗く沈みそうになる雰囲気をなごませた。徐庶が孔明のさかずきにも酒を満たしながら、

「また暗い顔をしているな。曹操か?」

「あ、ええ……。背後で曹操が孫策暗殺に動いたというのは考えられないでしょうか?」

 不意を突く徐庶の問いかけに、孔明はそう問い返した。

「あり得る。だとしたら、曹操は呂布りょふ張繍ちょうしゅう、袁術に続いて孫策まで片付けたことになる。戦争でも謀略でも、恐ろしく強い。残すは袁公のみ」

「いや、もう一人いる」

「先日、元直げんちょくが言っていた人物か?」

 崔州平の問いに徐庶が頷いた。崔州平と徐庶の頭の中に劉表の名はないようだ。

「それは劉予州でしょう?」

 孔明が指摘した。孔明の記憶には劉備軍の強さが清々すがすがしさと共に焼きついている。

「そうだ。今は黄賊と兵を挙げ、汝南で活動しているようだ」

 徐庶は自らが注視しているだけのことはあって、劉備の情報については詳しかった。

 劉備は以前、曹操の下にいた時に予州牧に任じられた。そのため〝劉予州〟の呼び名は劉備のことを指す。劉備は曹操に叛旗をひるがえして敗れ、袁紹の下に逃げたが、その袁紹から予州汝南郡に潜伏している黄巾賊の残党と兵を挙げ、曹操軍の背後を脅かす役目を命じられていた。この七月のことである。

「後方撹乱かくらんですね」

「袁公から劉荊州に度々誘いの使者が送られてきたようだが、劉荊州がなかなか動かないので、予州殿にその役目をさせようというのだろうな」

「いくら劉予州が率いたとしても、兵が黄巾残党軍ではたいした戦力にはならないでしょう。すぐに打ち破られるように思いますが」

 黄巾軍の正体はくわすきを剣や槍に持ち替えただけの農民兵であることを孔明は知っている。組織・訓練された正規軍と戦えば、負けるのは目に見えている。

「予州殿もそれを織り込み済みらしい。使者が襄陽に来ている。麋竺びじくといったかな?」

「え、あの太麋堂たいびどうの御主人ですか?」

「孔明、知っているのか?」

「徐州にいた時にお世話になりました」

 麋竺は以前、徐州牧の陶謙とうけんに仕え、内政や外交に従事していた。どうやら陶謙の後任となった劉備にそのまま付き従っているようだ。彼もまた故郷を離れたことになる。

「麋竺殿は何と言ってきたのですか?」

 孔明は劉備の使者が顔見知りということもあって、その内容が気になった。

「そこまでは知らない。西河殿はご存知ですか?」

 徐庶に聞かれた崔州平が頷いて答える。

「予州殿の使者の話なら、聞いた。どうやら援軍の派遣を要請しにきたようだ。

それはていよく断られた様子だが、実はもう一つ要請したらしい」

「それは?」

「元直の予測が当たったぞ。予州殿は奥方の受け入れを依頼した。これは予州殿が荊州に入る前兆だろう」

 それを聞いた徐庶の顔が自慢げに上向いた。

 実は劉備が徐州で苦杯をめた折、劉備の妻は義弟の関羽かんうと共に一度曹操に捕らわれている。曹操はどういうわけか敵対している劉備の妻と義弟を厚遇した。

 関羽は白馬の戦いの勝利に貢献し、恩を返してから劉備の妻を連れて曹操の下を去った。そして、劉備は妻や関羽、離れ離れになっていた家臣たちと汝南での再会を果たしたのである。

 しかし、汝南郡は実質曹操の支配地域であり、安心はできない。そこで、劉備は汝南から遠くない荊州に妻や文官たちの身柄を預けることに決めたのだ。

「それに対する劉荊州の返答は?」

「もちろん了承したよ。あのお方は来る者拒まず、だ」

 孔明の問いに崔州平は手を広げて、困ったような顔をしてみせた。


 秋十月。次々と群雄を打ち破って覇者への階段を駆け上がっていた曹操は、ついに最強の敵・袁紹も撃破した。曹操軍は袁紹軍の三分の一ほどの兵力だったにもかかわらず、これを打ち破ったのである。袁紹軍のすさまじい包囲攻撃を受けながら、それに耐え抜き、奇襲を成功させた。まさに敗北寸前からの大逆転勝利であった。

 官渡かんとという場所で激突した両雄の決戦はこの時代のハイライトの一つであり、曹操の躍進を決定的なものにした戦として、後の歴史に刻まれる。

 このビッグ・ニュースはたちまち襄陽にも伝えられ、激震となって荊州府を直撃した。

「本当に曹操が勝利するとは……」

「だが、曹操軍の疲弊も激しかろう。攻撃するなら、今ではないか?」

「いや、あの袁紹が勝てなかった相手に我等が勝てると思うか?」

「やはり、曹操には天が味方しているようにしか思えない」

「こうなると分かっていたら、徳高の言ったようにしていればよかったのだ」

「そうだな。徳高は気の毒だった」

 重臣たちの動揺も激しかった。韓嵩はこの時、投獄されていた。曹操との会見を終えて帰国した韓嵩は曹操を褒めちぎった上に、

「――――黒水珠を献上してでも帰順すべきです」

 と進言して、劉表の逆鱗げきりんに触れた。実は韓嵩は曹操から官職を授けられ、零陵れいりょう太守に任じられて帰ってきた。そのことにも劉表は怒り心頭に発したのに、さらに霊宝を差し出すように言われたものだから、韓嵩は完全に曹操に寝返ったと思い込んだのだ。その反動か、これを契機に劉表は親袁紹路線へかじをきった。袁紹優勢の状況であったし、劉表は曹操の支配地域に対して調略を働きかけた。ところが、その矢先にこの敗戦の報である。

「まだ遅くはない。軍を動かさなかったのが救いだ。早く殿に進言して、曹公と修交させるのだ。戦勝祝いと称して、贈物も用意しよう。もちろん、あの珠が一番いいのだが……」

 どこか影のある表情を作りながら、蔡瑁が保身と陰謀の知恵を働かせて言った。


 孔明は月英げつえいの顔の回復具合を確かめていたが、かすかに嘆息を漏らして顔を曇らせた。

「この薬はあまり薬効やっこうが見られませんね。仲景先生と相談して新しい薬を考えてみます。しばらくこちらには来られないかもしれませんが……」

「いえ、効果はあります。この薬のお陰で私の心はいやされているような気がしますし、目には映らないかもしれませんが、ほんの少しずつ病状も回復しているように思うのです」

 孔明は女心には鈍感である。彼女の言葉を真に受けて、

「そうですか。では、またこちらの桂花けいかをいただいて参ります」

「お手伝いしましょう」

 今年で桂花の数は十七本になった。出会ってから二年。二人は相変わらず黄色の可憐かれんな花を付け、かぐわしい香りを放ち続ける庭園の桂花をみ始めた。

 その微笑ましい光景を横目に見ながら、屋敷のあるじ・黄承彦は応接間へと向かった。

 孔明が月英との面談を終え、黄承彦邸を出ようとしたところだった。不意に声をかけられ、振り返った。

「孔明」

 その声に孔明が振り返る。門を出てきたのは崔州平だった。

西河せいが殿。来ていたのですか」

「ああ。承彦先生に徳高の赦免しゃめんを取り成してもらおうと思ってな……承彦先生は劉荊州の義理の兄だろう」

「ああ、そうでしたね」

 黄承彦の妻は蔡瑁の姉である。黄氏も荊州の名家なので、これは名家同士のよくある関係だった。自分がそんな名家の繋がりの中にあることなど孔明はすっかり忘れていたが。

「それより、聞いたか。曹操が袁公を破ったという話」

「ええ、もちろん。襄陽中がその噂で持ち切りですから」

「どう思った?」

「驚きはしましたが、なるようになったというか……。曹操の知謀が群を抜いているのは確かでしょうが、勝敗の要因は決断力の差でしょうか」

 崔州平と孔明は荊州学府への道を歩きながら、会話を続けた。

「思い出したことがある。昔、董卓とうたく討伐のために諸将が結集して袁公が盟主になったことがあった。あの時も袁公は諸将の統制がうまくできず、結局は目的を果たせなかった。此度の勝利、曹操はそんな袁公の性格を熟知した上でのことだろう」

 崔州平は西河太守時代、その諸将の一人として董卓討伐軍に参加し、それを見ている。

「人が良く、優柔不断なところは劉荊州と似ていますね……」

「徳高は先見の明があると評されてきた。その男が曹操に従うように強く言うのだから、これからは曹操の時代になるのかもしれないな」

「まだ袁公は健在なのでしょう?」

「ああ。袁公の下からまた使者がやってきたそうだし、袁公もまだ天下を諦めていないのだろう。此度こたびの敗戦で曹操打倒には劉荊州との共闘が必要不可欠というのが身にみたはずだ。以前に増して使者の往来が盛んなようだ」

「しかし、劉荊州は動かない」

「揺れてはいるようだが……。この敗戦は劉荊州の身にも沁みたようだな。あれを動かすにはたいへんな力がいる」

「劉荊州ご自身を動かす必要はありません。その代わりに動く人物を迎え入れればいいのですよ。もっともこれは睡虎殿の考えですが」

「予州殿か? 確かに睡虎はそれに熱心なようだが」

 崔州平はその件についてはあまり関心がない。むしろ孔明の方が新風を呼び込もうとする徐庶の考え方に引き付けられていた。


 その徐庶はすで荊州学府の文通亭に来ていた。彼の前にいるのはいつもの学友ではなく伊籍で、二人は互いの共通項である劉備のことを話題にしているところだった。

「予州殿は袁公の下に戻られたそうですね。それほど袁公を慕っておいでなのですか?」

 劉備は黄巾残党軍に協力して汝南郡でゲリラ活動を行ったが、曹操は一軍を振り向け、これを撃退した。徐庶はその後、劉備が劉表を頼って来るのではないかと踏んでいたのだが、予想に反して袁紹の下へ帰参したのだった。

「いや、慕っているというかは利用したいと思っているのだろう。大敗をきっしたとはいえ、まだまだ袁公には余力がある。予州殿もそれを分かっているのだよ」

 伊籍は袁紹の下に使者としておもむいた時、劉備とも面識を持った。

 劉備は袁紹陣営にあって、劉表との同盟をしきりに説いていたので、思い描く形は共通している。以来、伊籍は劉備に好感を持っている。

「まだまだ戦力的には互角でしょう。劉荊州もそれを分かっているはず」

「しかし、この戦で重臣たちの意見は親曹操に大きく傾いた。袁公が敗れて、このところ私もすっかり肩身が狭くなってしまった。今や袁公と手を組むべきだと主張する者はほとんどいない」

 袁紹との同盟を進言した伊籍はしばらく劉表からの呼び出しがないままだった。

「劉荊州が袁紹の使者を拒絶していないのなら、まだ挽回ばんかいの機会はあります。どうでしょう、お二人を近付けてみては。予州殿に書簡を送り、ご自身で劉荊州を説得するようにうながしてみるというのはいかがですか?」

「なるほど。それは名案だ。早速……」

 勢いよく伊籍が立ち上がったところに孔明と崔州平が現れた。

「珍しい組み合わせだな」

 崔州平があずまやの二人の姿を見て言った。徐庶と伊籍。

 孔明は何となく両名のやりとりが見えたような気がした。そして、その考えがうまく運べばよいと思った。


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