其之五 遠雷
建安五(二〇〇)年正月。
敗れた劉備は
そして、二月。ついに両軍は
孔明がこれらの情報を知ったのは道を閉ざしていた雪が溶けて、久しぶりに
白馬の勝敗は未だついておらず、攻防戦は続いている。結果的に
「これもあの
「袁紹は大兵力を擁す。荊州方面に大軍を振り分ける余裕がないだけだろう」
「というより、曹操は劉荊州が動かないという絶対の自信があるようだね」
「
今日の会合の場所は
気になるのは、北方の情勢。やはり、袁紹と曹操の動静である。
「そうだな。すぐに勝敗が決まることはないだろうし、どちらが勝つにしても、相当消耗するはずだ。その後で動くのが一番いい」
徐庶が龐統の意見に同意して言った。龐統がぽつりと呟いて、南の事変に話題を導く。
「荊州はこの間に
「
「そうだ。でも、劉荊州は動けないだろうね」
長沙太守の
「
習禎がその理由を明察し、孔明が頷いた。劉表が軍事面で一番信頼を置くのが
「じゃ、荊州はどうすべきだと思う?」
「袁紹が勝ったという偽情報で動揺させ、
「悪くない」
習禎の方策に龐統が呟いた。彼らは荊南の反乱に曹操の手引きがあることを共通認識として持っている。この二年余りで長沙に始まった劉表への叛旗は隣郡の
しかし、荊南諸郡は中原から地理的に遠いため、袁紹対曹操の戦況を
方策としては、孔明と一致している。
「一番の適任者はあの方なんだが……」
「
「
孔明が頷いて習禎を褒め、習禎は謙遜して言った。
「お三方の影響ですよ」
習禎は年の近い孔明や龐統と行動を共にすることが多かった。徐庶は孔明と気が合うので、結果的に四人でこうして話している。
「よし。そろそろ文祥にも
「いいですね。何がいいでしょうか?」
徐庶の提案に孔明が賛成して頭を
「俺たちのに準じたものがいい」
孔明は〝
寝そべった龍。
「……〝
池の
習家池は
「いいじゃないか。それにしよう」
徐庶が龐統の命名に手を打って言った。兄事する徐庶らに認められて、習禎も満足そうだった。
孔明、龐統、徐庶、習禎、崔州平、孟建、石韜。彼らは固い
北方では曹操と袁紹の対立がいよいよ明確になり、そのどちらに
その日、劉表の呼びかけに集まった荊州の人士たちが荊州府の議堂でそれぞれの意見を主張していた。
「荊州安泰を第一と考えるべきであります。他の州郡が戦で荒廃する中、荊州はずっと平穏を保ってきました。民心は殿に
まず口を開いたのは荊州豪族の最大の実力者、
蔡瑁は
劉表は蔡氏の多大な影響力をその統治に生かしていたので、互いに持ちつ持たれつの関係と言ってよい。蔡瑁は劉表政権の重臣として、軍師の地位にあった。
蔡瑁には荊州を出てまで戦をするという考えはない。荊州の安泰を保つことが自身の保身に繋がる。荊州出身の列席者の多くが蔡瑁の意見に賛成・同調する中で、おもむろに立ち上がる者がいた。崔州平らの学友、韓嵩である。
「蔡将軍のお考えはごもっとも。しかしながら、ただ荊州を保つと心がお決まりならば、これまでどおり。何も殿が我等に問う必要はございません。殿のお心はご自身が天下に覇を唱えられるかどうかをお聞きになりたいのです」
「
初老の劉表が韓嵩を
「はい。今や両雄が相争い、天下の情勢がどう動くかは殿のご決断次第。天下の行方は殿の手中にあると言って過言ではありません。もし、殿に天下を制す気持ちがあるのでしたら、両者の疲弊を待ってから攻めるべきです」
「一旦戦になれば、遠征と長期戦は避けられまい。たとえ勝利を得られても、数年の軍役の末、荊州の軍民が疲れ果てては意味がない。荊州の民衆がそれを望むとは思えん」
蔡瑁の反論に劉表も頷いた。戦が数年に及ぶとしたら、自分の寿命が残るうちに全てを決着させることができないかもしれない。
「これは天下を制すための一つの方針を示したまで。殿がその方針をお採りにならない時は、天子を擁す曹操に帰順なさり、荊州の安泰を確かなものとすればよろしいかと。これもまた漢の安泰に繋がりましょう」
「
重鎮の
それを聞いていた
「
伊籍は
「徳高、異度の意見はそれぞれもっともだと思うが、機伯の意見もまた道理に思う……。ここはもう少し様子を見よう」
結局、この時点で劉表ははっきりと態度を決断できず、韓嵩に曹操の下へ、伊籍に袁紹の下へ、視察を兼ね、使者として赴くよう命じただけだった。
両名はそれぞれ自身が付くべきだと判断した英雄のもとへ出立し、荊州を離れた。
穏やかな春の季節が過ぎ去ろうとしていた。
去る者あれば、来る者あり――――。二人の使者が旅立つのと同時に荊州学府に
「
「お知り合いですか?」
「ああ。一時の間だが、彼はこの襄陽にいて、劉荊州に仕えたことがある。ちょうど孔明が荊州に来た頃、彼は去って行った。今は曹操に仕えているようだ」
曹操の使者は
「
崔州平はそう告白して、孟建や石韜、そして、徐庶に目を配った。徐庶が一つ溜め息をついて、補足するように言った。
「彼らも外地組だ。荊州学府が開かれる前まで、この襄陽で学んでいた」
曹操は
「荊州の賢人たちに揺さぶりをかけにきたということですか」
「それだけじゃない。劉荊州に孫策を
繁欽は曹操の使者として劉表に会見を求めた。韓嵩との交流を生かし、崔州平がその内容まで聞き出して、孔明たちに伝えた。
「随分と強引な要請ですね」
習禎が言った。確かに張羨の反乱を
「曹操は先の先を見て動いている。これで劉荊州は益々動けなくなった」
孔明が言って嘆息した。荊州の敵は強大だ。朝廷は劉表を
南を
袁術がいなくなった代わりに孫策が揚州の大半を支配下に置いた。
曹操は孫策を懐柔しようとして、息子の嫁に
袁紹と対峙している最中に孫策に背後を突かれては
曹操の策略と分かっていて、なぜ従う必要があるのか。習禎は憮然として言った。
「無視できないのですか?」
「劉荊州が一番恐れるのは朝敵の汚名を着せられることだからね。積極的に動くことはしないにしても、朝廷の要請とあっては断れない」
「その通りだ。劉荊州は要請を了承したよ。白馬の戦いは曹操側の勝利と決したようだ。袁紹側の猛将も討ち取られたというし、劉荊州の判断にも影響したのだろう」
崔州平が言ったそれはまだ襄陽城内にも
繁欽はその事実を引っ
「孫策は父を黄祖将軍に殺されているし、張羨と組まれては一大事だ。どの道、孫策に対抗せざるを得ない」
龐統も事態を達観している。今の荊州にとっては南方情勢こそが重大事なのだ。
「では、劉荊州は曹操に従うことになるのでしょうか?」
「少なくとも、側近たちの意見はその方向で固まりつつあるようだ」
疑問を呈した習禎に目を向けて、また崔州平が答えた。
「ところで、皆様は
今度は孔明が外地組の面々に進退を問うた。崔州平の郷里は袁紹が支配する北方、徐庶や孟建、石韜の郷里は曹操が支配する予州だ。崔州平は名士だし、荊州事情に精通しているので、杜襲や趙儼以上のポストに就くことは可能だろう。
他の三人もそれぞれ賢人だし、同じく荊州事情も理解している。その上、地縁を頼れば、問題なく官職を得られるはずだ。
「まだ戦火が及ばないうちは荊州の恩恵に
「そうですね。今焦って動く必要はない」
崔州平の意見に孟建が賛同し、石韜も頷いた。三人は繁欽の誘いには揺れていない様子だったが、気持ちがはっきりと定まっているわけでもないようだ。
「俺はちょっと気になる人物がいる。俺の予想が当たれば、その人物はいずれ荊州にやってくる。このままここに留まって、その人物を待ちたいね」
いつにも増して徐庶が陽気に言った。その謎かけに習禎が答えを求める。
「それは誰ですか?」
「潜鯉という名を授かったんだ。自分で推測してみろ」
一回り年長の徐庶はそう言って、学弟の安直な問いをはぐらかした。
「そうか。そういう考えもあるね……」
徐庶が示した新しい考え方に孔明も思わず
ただし、孔明が想像した人物は曹操と対抗するには頼もしい力量を持っている。
もちろん、その人物が本当に荊州にやってくるとは限らない。今は袁紹の下にいると聞いている。
『その時は荊州の風向きが変わるかもしれない……』
孔明もいわば外地組なのだが、わざわざ疎開して荊州にやってきたのだし、姉たちも襄陽で家庭を持っていて、もうほとんどここが郷里のようになっていた。
龐統や習禎の地元組と同じく荊州に留まることは初めから決まっていた。
それから三カ月。季節は夏へと移り変わった。繰り返される命の
再び森に
孔明が予想した通り、荊州の
それが結果的に相変わらずの平穏を襄陽にもたらしていたのも確かな事実だ。
しかし、その間に天下の情勢は目まぐるしく動いた。まず、五月。孫策が死んだ。
翌月に伝わってきた情報では、死因は暗殺されたとも、呪い殺されたともいう。
実際、孫策は二十六歳の若さだったし、つい最近まで精力的に軍を動かしていたので、病死とは考えにくい。
孔明は
「
崔州平は言いながら、卓上に酒瓶を置いた。徐庶がすかさず手を伸ばす。
許貢は
孔明の兄・
「――――心配ないわよ。瑾兄さんも私たちと同じ様に今頃はあっちで落ち着いているわ。ただ知らせようがないだけよ。もしかしたら、お嫁さんをもらっているかもね」
姉の
「また暗い顔をしているな。曹操か?」
「あ、ええ……。背後で曹操が孫策暗殺に動いたというのは考えられないでしょうか?」
不意を突く徐庶の問いかけに、孔明はそう問い返した。
「あり得る。だとしたら、曹操は
「いや、もう一人いる」
「先日、
崔州平の問いに徐庶が頷いた。崔州平と徐庶の頭の中に劉表の名はないようだ。
「それは劉予州でしょう?」
孔明が指摘した。孔明の記憶には劉備軍の強さが
「そうだ。今は黄賊と兵を挙げ、汝南で活動しているようだ」
徐庶は自らが注視しているだけのことはあって、劉備の情報については詳しかった。
劉備は以前、曹操の下にいた時に予州牧に任じられた。そのため〝劉予州〟の呼び名は劉備のことを指す。劉備は曹操に叛旗を
「後方
「袁公から劉荊州に度々誘いの使者が送られてきたようだが、劉荊州がなかなか動かないので、予州殿にその役目をさせようというのだろうな」
「いくら劉予州が率いたとしても、兵が黄巾残党軍ではたいした戦力にはならないでしょう。すぐに打ち破られるように思いますが」
黄巾軍の正体は
「予州殿もそれを織り込み済みらしい。使者が襄陽に来ている。
「え、あの
「孔明、知っているのか?」
「徐州にいた時にお世話になりました」
麋竺は以前、徐州牧の
「麋竺殿は何と言ってきたのですか?」
孔明は劉備の使者が顔見知りということもあって、その内容が気になった。
「そこまでは知らない。西河殿はご存知ですか?」
徐庶に聞かれた崔州平が頷いて答える。
「予州殿の使者の話なら、聞いた。どうやら援軍の派遣を要請しにきたようだ。
それは
「それは?」
「元直の予測が当たったぞ。予州殿は奥方の受け入れを依頼した。これは予州殿が荊州に入る前兆だろう」
それを聞いた徐庶の顔が自慢げに上向いた。
実は劉備が徐州で苦杯を
関羽は白馬の戦いの勝利に貢献し、恩を返してから劉備の妻を連れて曹操の下を去った。そして、劉備は妻や関羽、離れ離れになっていた家臣たちと汝南での再会を果たしたのである。
しかし、汝南郡は実質曹操の支配地域であり、安心はできない。そこで、劉備は汝南から遠くない荊州に妻や文官たちの身柄を預けることに決めたのだ。
「それに対する劉荊州の返答は?」
「もちろん了承したよ。あのお方は来る者拒まず、だ」
孔明の問いに崔州平は手を広げて、困ったような顔をしてみせた。
秋十月。次々と群雄を打ち破って覇者への階段を駆け上がっていた曹操は、ついに最強の敵・袁紹も撃破した。曹操軍は袁紹軍の三分の一ほどの兵力だったにもかかわらず、これを打ち破ったのである。袁紹軍のすさまじい包囲攻撃を受けながら、それに耐え抜き、奇襲を成功させた。まさに敗北寸前からの大逆転勝利であった。
このビッグ・ニュースはたちまち襄陽にも伝えられ、激震となって荊州府を直撃した。
「本当に曹操が勝利するとは……」
「だが、曹操軍の疲弊も激しかろう。攻撃するなら、今ではないか?」
「いや、あの袁紹が勝てなかった相手に我等が勝てると思うか?」
「やはり、曹操には天が味方しているようにしか思えない」
「こうなると分かっていたら、徳高の言ったようにしていればよかったのだ」
「そうだな。徳高は気の毒だった」
重臣たちの動揺も激しかった。韓嵩はこの時、投獄されていた。曹操との会見を終えて帰国した韓嵩は曹操を褒めちぎった上に、
「――――黒水珠を献上してでも帰順すべきです」
と進言して、劉表の
「まだ遅くはない。軍を動かさなかったのが救いだ。早く殿に進言して、曹公と修交させるのだ。戦勝祝いと称して、贈物も用意しよう。もちろん、あの珠が一番いいのだが……」
どこか影のある表情を作りながら、蔡瑁が保身と陰謀の知恵を働かせて言った。
孔明は
「この薬はあまり
「いえ、効果はあります。この薬のお陰で私の心は
孔明は女心には鈍感である。彼女の言葉を真に受けて、
「そうですか。では、またこちらの
「お手伝いしましょう」
今年で桂花の数は十七本になった。出会ってから二年。二人は相変わらず黄色の
その微笑ましい光景を横目に見ながら、屋敷の
孔明が月英との面談を終え、黄承彦邸を出ようとしたところだった。不意に声をかけられ、振り返った。
「孔明」
その声に孔明が振り返る。門を出てきたのは崔州平だった。
「
「ああ。承彦先生に徳高の
「ああ、そうでしたね」
黄承彦の妻は蔡瑁の姉である。黄氏も荊州の名家なので、これは名家同士のよくある関係だった。自分がそんな名家の繋がりの中にあることなど孔明はすっかり忘れていたが。
「それより、聞いたか。曹操が袁公を破ったという話」
「ええ、もちろん。襄陽中がその噂で持ち切りですから」
「どう思った?」
「驚きはしましたが、なるようになったというか……。曹操の知謀が群を抜いているのは確かでしょうが、勝敗の要因は決断力の差でしょうか」
崔州平と孔明は荊州学府への道を歩きながら、会話を続けた。
「思い出したことがある。昔、
崔州平は西河太守時代、その諸将の一人として董卓討伐軍に参加し、それを見ている。
「人が良く、優柔不断なところは劉荊州と似ていますね……」
「徳高は先見の明があると評されてきた。その男が曹操に従うように強く言うのだから、これからは曹操の時代になるのかもしれないな」
「まだ袁公は健在なのでしょう?」
「ああ。袁公の下からまた使者がやってきたそうだし、袁公もまだ天下を諦めていないのだろう。
「しかし、劉荊州は動かない」
「揺れてはいるようだが……。この敗戦は劉荊州の身にも沁みたようだな。あれを動かすにはたいへんな力がいる」
「劉荊州ご自身を動かす必要はありません。その代わりに動く人物を迎え入れればいいのですよ。もっともこれは睡虎殿の考えですが」
「予州殿か? 確かに睡虎はそれに熱心なようだが」
崔州平はその件についてはあまり関心がない。むしろ孔明の方が新風を呼び込もうとする徐庶の考え方に引き付けられていた。
その徐庶はすで荊州学府の文通亭に来ていた。彼の前にいるのはいつもの学友ではなく伊籍で、二人は互いの共通項である劉備のことを話題にしているところだった。
「予州殿は袁公の下に戻られたそうですね。それほど袁公を慕っておいでなのですか?」
劉備は黄巾残党軍に協力して汝南郡でゲリラ活動を行ったが、曹操は一軍を振り向け、これを撃退した。徐庶はその後、劉備が劉表を頼って来るのではないかと踏んでいたのだが、予想に反して袁紹の下へ帰参したのだった。
「いや、慕っているというかは利用したいと思っているのだろう。大敗を
伊籍は袁紹の下に使者として
劉備は袁紹陣営にあって、劉表との同盟をしきりに説いていたので、思い描く形は共通している。以来、伊籍は劉備に好感を持っている。
「まだまだ戦力的には互角でしょう。劉荊州もそれを分かっているはず」
「しかし、この戦で重臣たちの意見は親曹操に大きく傾いた。袁公が敗れて、このところ私もすっかり肩身が狭くなってしまった。今や袁公と手を組むべきだと主張する者はほとんどいない」
袁紹との同盟を進言した伊籍はしばらく劉表からの呼び出しがないままだった。
「劉荊州が袁紹の使者を拒絶していないのなら、まだ
「なるほど。それは名案だ。早速……」
勢いよく伊籍が立ち上がったところに孔明と崔州平が現れた。
「珍しい組み合わせだな」
崔州平が
孔明は何となく両名のやりとりが見えたような気がした。そして、その考えがうまく運べばよいと思った。
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