其之二 光陰の華
彼の邸宅は襄陽城西郊にあり、隆中への帰路の途中、南へ細い街道を曲がった先にある。結構な敷地に邸宅と
一年前から、孔明は龐徳公から受け取った薬草を定期的に黄承彦邸に届ける役目を果たしている。ボロの
孔明は背負った野菜入りの
池の中央が小島になっていて、二階建ての小さな
その際、屋敷に勤める年配の女使用人とすれ違ったが、彼女も孔明を
「今、
と、知らせてくれた。
「仲景先生、孔明です」
孔明は部屋の入口で立ち止まり、声をかけた。その小ぢんまりとした望楼の一階部分は
「ああ。悪いが、診察中だ。少し待っていてくれ」
「はい」
孔明は誰が診察を受けているのか知っている。黄承彦の一人娘・
黄承彦の話によれば、一年前に伝染病を
彼女の場合、顔面にそれが顕著で、醜い顔を
彼女にはそれが沈痛だったようだ。無理もない。十五のうら若き乙女が容姿を馬鹿にされ、
「先生、ありがとうございました」
一時の間を置いて、少女の
「薬をお持ちしました」
「ああ、ご苦労……」
張仲景の表情は
しかし、だからといって、治療を
まだ嫁入り前の少女がその容姿のせいで、
『まだまだ陰盛だな。
張仲景が今も黄承彦邸を定期的に出入りしているのは人情だけでなく、荊州一の医者としてのプライドがあるからだ。瘀血とは血行障害のことである。
『当帰を軸にしながらも、肝に効能する新薬を創り出して、さらに血気を高めてからの方がよいか……』
張仲景は孔明から当帰の入った袋を受け取りながら自問した。
当帰は生理不順など女性特有の病気に効果を発揮する薬草である。当帰の名は、その昔、婦人病を患って夫に去られた女性がある薬草を服用したところ、すっかり回復した上に以前より美しくなり、噂を聞いた夫がその女性のもとへ帰ってきたという故事に
孔明は張仲景が表情を曇らせて思慮している様子から、彼女の経過が優れないのだろうと察した。孔明が彼女の経過について自分から尋ねることはない。自分の病気や容体を知られたくないという患者の心理を理解しているからだ。孔明の叔父がそうだった。病気やけがの状況が深刻であればあるほど、それを隠そうとする。
家族や友人を心配させないためでもあるが、自分でそれを認めたくないという気持ちがそこにある。
ふと、微風に乗って甘い香りが漂ってきた。小さな池の周りには
「この花も生薬になるのでしょうか?」
孔明は何気なしに呟いた。張仲景は思い出すように言った。
「そう言えば、承彦殿が言っていた。娘が病にかかった頃からずっと庭の桂花が花を付けていると……。枯れ落ちても、またすぐに花を咲かせるそうだ」
通常なら、桂花は秋に咲く。花の寿命は
「昔、
古代中国には自然界のあらゆるものを〝陰〟と〝陽〟に分類する陰陽思想というものがあった。さらに、世界に存在するもの全てが、木・火・土・金・水の五元素でできていて、天地、宇宙、世の中のあらゆる原理がこの五元素の循環によって成り立っているという
病気とは、人体を流れる陰陽両気のバランスが崩れることで引き起こされる。
張仲景の病気治療は生薬を使って、その不均衡を是正することである。
五行説に当てはめると、皮膚の病気は〝金〟に当たる。
五元素の優劣関係を説明した五行
桂花は中国南部原産で、花は赤系のオレンジ。血流改善の効果を期待しても、
「なるほど。天地が桂花を薬に使うよう示しているということか。確かに良いかもしれん。物は試しだ。早速、新薬を作ってみよう」
張仲景が考えていた肝機能を改善して血流を増やすというアプローチとも合致する。肝臓を陰陽五行説に当てはめると、〝木〟であり、桂花には瘀血を散じさせる効果がある。張仲景は
孔明もそれを手伝った。
そうこうしているうちにすっかり日が傾いてしまい、
「今から隆中に帰るのは物騒だ。今夜は泊まってゆきなさい」
屋敷の
耕牛を兼用した牛車でのんびりと移動する。襄陽城や龐徳公邸、黄承彦邸など出かけ先はどれも片道数十里の道程だ。片田舎の隆中から出て用事を済ますには一日で足りないことがしばしばで、孔明は時々外泊をすることがあった。
弟の均はそんな事情を知っているし、年の割にはしっかりしているので、一日二日留守にしても心配はない。
黄承彦邸の客間で、孔明と張仲景は夕飯を
「
黄承彦が魚料理に満足気な孔明の様子を見て、そんな事情を話してくれた。
習家も襄陽の名家の一つである。後漢初期に
孔明もその話を耳にしたことがある。習家の少年、
『養魚経』は魚の養殖に関する世界最古の著書である。
後に『
「龐家は製薬、習家は養魚。やはり、家を保つためには何か
「貧し過ぎては学問をする余裕はない。世俗に交じって生きるなら、いくらか金を稼ぐ手段は必要であろうな。だが、本格的に商売を始めて、商人に身を落とすこともあるまい。のぅ、仲景殿?」
漢代では、商人は
「そうですな。
それを聞くと、また
「実は龐公先生にも重いお言葉をいただきまして……」
孔明は今日の出来事を話した。それを聞いた賢人二人は深く頷いて言うのだった。
「……ふむ。『国家の良薬たれ』か。龐公殿も随分そなたのことを気に入っているのだな」
「そういうことなら、わしも
黄承彦はそう言って、頭を
「買いかぶり過ぎではないでしょうか。許子将殿も龐公先生も……」
「そうは思わないな。医者の私が医者を見れば、それが名医なのか
「不安なのは分かるが、そこまで才能を期待されているのだ。素直にその道を進めばよいのではないか。
龐徳公だけでなく、張仲景も黄承彦も孔明の不安を一蹴し、龍の道を進めと
「あるいは、どこか豪家の娘を嫁にもらうかだな。叔父殿の喪は明けたのだろう。そなたも嫁をもらっても良い年頃だ」
その一言に黄承彦と孔明がハッとした様子で張仲景を見た。
「私はこのような田舎書生の身ですし、それは考えられません」
孔明はその提言を慌てて否定した。黄承彦がタイミングよく孔明に取引をもちかける。
「とにかく商売など考えずに援助を取り付けることだ。蒯家にも龐家にも遠慮してしまうなら、わしが援助してやろう。ただではないぞ。ちゃんと仕事をしてもらう。その見返りとしての援助だ」
「どんな仕事でしょうか?」
一人娘の父親として、黄承彦が誠実に孔明に対する。一呼吸置いて、
「……国家の良薬にはいずれなるとして、今は娘の良薬になってくれまいか?」
「え?」
「知っての通り、このところ娘は屋敷に籠ったままで、一歩たりと外に出ることがない。他人との交流は皆無だ。昔から好奇心旺盛で人の話を聞くのが好きであったのに、今ではすっかり心を閉ざしてしまっている。よく望楼に登って外の景色を眺めているのを見かけるが、見ていて辛い。わしには
「私が……ですか?」
これには孔明も戸惑った。年若き女性の話し相手など経験がない。唯一あるのは姉の玲だが、これを経験として数えることはできない。そんな自分がいったい何を話せば良いというのだろうか……。
停止してしまった思考回路を再起動させて、孔明が聞いた。
「彼女が望むでしょうか?」
人目を避けている彼女が本当にそれを望んでいるのか。先程もそうであったように、彼女は他人の気配を感じただけでも、それを嫌がって遠ざかる。
「誰でも良いというわけではないが、心の底では話し相手がほしいと望んでいるはずだ。それに全くの赤の他人よりも少しでも名前を知っている者の方が心を許せようし、年寄りよりも若者の方がよかろう。……娘は屋敷に籠るようになってからはひたすら本を読んでおってな、そなたと話が合うのではないかと思った」
黄承彦が
「良い話ではないか。受けたらどうだ? 良い考えがある。そなたは
別に悪い話ではない。それ以前に断れる雰囲気でもない。黄承彦と張仲景の視線が孔明を拘束して有無を言わせなかった。
「……分かりました。お引き受け致します」
賢人二人の圧力に押し切られるようにして、孔明はその仕事を引き受けることになった。
その夜が
それを考えるととてもじっとしていられず、寝室として与えられた客間から裏庭に出ると、頭の中にいくつか
『まず仲景先生が事情を話し、私を紹介する……。そこで自己紹介だ。しばらく仲景先生の代わりを務めます、諸葛孔明です……』
孔明は医療殿として使われている楼内に入って、
『今度、仲景先生が新薬を持って来られます。それまでこの
孔明は目を
『女性と話すことに関する知識。これは決定的に欠けているなぁ……』
孔明はまた一つ自分に欠けているものに気付いて、がっくりと
そうやって孔明が台詞に詰まっている時、向こう側の橋から誰かが近付いてくる気配がした。驚かせてはいけないと思い、孔明はわざと衝立を少し動かして物音を立てた。
「きゃ!」
それが逆に相手を驚かせた。少女の驚いたような声が上がり、孔明もそれが黄華だと気付いた。彼女は思わず
「……あ、お待ちください!」
「どちら様……ですか?」
聞き覚えのある声に黄華が立ち止まって、勇気を振り絞って聞いた。
「諸葛孔明と申します」
穏やかで明朗な声が背中に届いた。
「ああ、いつも薬を届けてくださっているという……。父からお名前は伺っています」
背を向けたまま、黄華は微かに頷いた。背後の若者も頭を下げたようだった。
「驚かせてしまって、申し訳ありません」
顔を見たことはない。だが、優しく柔らかな印象が黄華の胸に広がった。
黄華が高鳴る心臓の鼓動を抑えながら、言葉を
「何をしておられたのですか?」
「考え事をしていました」
「何を考えておられたのですか?」
「え……それは……月のことを……」
互いに顔を合わせない孔明と黄華の会話は予定外に偶然に、そして、唐突に始まった。
「あの……こちらには年中桂花が咲いていると伺いまして、その……、あの月の上にも、切っても切っても枝を伸ばす大きな桂花があるという話を思い出しました」
池の水面に浮かぶ月を見て、
「その種は植えるとどんどん成長して、美しい花を咲かせ続けたといいます」
月にあるという高さ五百丈の
孔明は何とか言葉を繋ごうとして、頭の中に収められた知識のページを大急ぎでめくる。
「あの……『日中に三足の
それは『論衡』の中にある一文なのだが、言いながら、孔明は顔をしかめた。
何という固く
「その言葉は存じませんが、月に兎と蟾蜍がいるというのは、
嫦娥とは月の女神の名前で、彼女が夫の
黄華が上空の月を仰ぎ、孔明は水面の月に視線を落とす。
「ああ、そうです。……最近読んだ本では、日中に烏がいるというのは間違いだそうです」
太陽の中に見える黒点は烏だと信じられていた時代である。
「ですが、私は実際に三本足の烏を見たことがあります。その烏は陰気から生まれた霊鳥で……その……」
それは事実なのだが、何も知らない少女に説明するのは困難だ。
孔明は自分が変人と思われることを恐れて、言葉を濁そうとした。だが、意外にも黄華の方が話に興味を持った。
「何ですか?」
「信じられないかもしれませんが、私はその不思議な烏を見ました。それで、今度は兎と蟾蜍を探してみようかと……」
事実と虚構をごっちゃにしながらも、しどろもどろ、孔明は何とか話を繋ぐ。
「彼女は月に帰った後、醜い蟾蜍になってしまったのでしたね……。孔明様がお探しの蟾蜍とは、私のことかもしれません。もう噂をお耳にしてご存知かもしれませんが、実は私も
蟾蜍はヒキガエルである。彼女の気持ちも知らず、蛙たちの鳴き声が夜陰に響いていた。自虐的な黄華の嘆息が聞こえるようだった。
孔明はそれを感じて
「私の故郷は徐州
「そのような薬が本当にあるでしょうか?」
「あるという伝説はあります。ないという伝説はありません」
月には一羽の兎がいて、
「月桂の花を浸した水はどんな病も治してしまうといいます」
また、ある伝説では、疫病に苦しむ故郷の人々を救うため、月にあるという万病に効く月桂の花を求めて呉剛が月へと登り、花を満開にさせた月桂樹の枝葉を揺すったところ、花が地上の川に中に落ちて、その川の水を飲んだ人々の病をたちどころに治してしまったというものがある。
何度か黄華とのやり取りを続けて、ようやく孔明の心と頭に平静さが戻ってきた。
「泰山山頂には人の寿命を記録した
孔明が少年時代の体験を語りながら、悲嘆に暮れる黄華の心を優しく鼓舞した。
あえなく行き詰まりそうだった話題が不思議と続いていく。孔明は力強く断言した。
「私が三本足の烏を見たのも事実です。ですから、霊薬もきっとどこかにあるのでしょう」
彼の言葉は自分を傷つけないように配慮に溢れている。それを感じて、
「こうして命があるだけでも感謝しなければなりませんよね」
黄華は気丈に言った。自分が
「そうですね。私は四年の歳月をかけて襄陽へ避難してきましたが、その間にたくさんの人の死を見てきました。それと同時にたくさんの人に生かされていると感じます」
「その
思わず漏れた告白だった。黄華はこの容貌ゆえに
が、話をしてみて分かった。孔明の心に排撃性は
黄華の胸の鼓動はすでに穏やかなリズムを刻んでいる。孔明の口からもすっかりぎこちなさは消え去り、舌も滑らかになっていた。
「私も恐ろしいものを見、怖い思いを体験してきましたから、その反動なのかもしれません。今もたくさんの人に助けていただいていますし、自分の人生に責任を持って生きなければならないと思います」
黄華がこくんと頷いた。孔明の言葉は彼女の心に染みついた影を取り払うようだった。
「世界のあらゆるものに陰と陽、光と影が存在します。全ての物事には一長一短があり、その両面を知らなければ、真実を知ることはできません。陰は変じて陽となる。あなたは病気を患って、その苦しみと悲しみを知った。それは変じて、他人への優しさとなって表れることでしょう」
「孔明様は私の真実をお知りになりたいですか?」
とても勇気のいる言葉だった。だが、もう恐れはなかった。
「ええ」
孔明の返事に黄華が振り返った。月明かりに照らされて、彼女の
「その昔、
「えっ?」
自分の容姿を見た孔明がどんな反応を示すのか、それが気がかりだった黄華だったが、孔明が水面を見つめたままそんな話を始めたものだから、当然その反応に戸惑った。
「
春秋時代、呉越の抗争中にその美貌を利用された傾国の美女・西施。越王
前漢代、強大な勢力を誇った異民族・匈奴を懐柔するために匈奴王に嫁がされた女性がいた。それが悲劇の美女・王昭君である。彼女は二度と漢の土を踏むことはなかった。
部屋に籠り、本を読んで日々過ごすことを日常にしていた黄華は孔明の口から出てきた女性たちの名前も、それに関する故事も知っていた。
しかし、なぜそんな昔話をするのか。その意図が
「悪名を極めた
董卓はつい六年前までこの世に存在した
彼女の離間の策は功を奏し、董卓に貂蝉を奪われて嫉妬した呂布はついに董卓を殺した。貂蝉は呂布に伴われ、今は孔明の故郷・徐州にいる。
「この屋敷には桂花がいつも咲き誇り、
「えっ?」
後年、四人の美人を表わす代名詞として、〝
「あなたはさながら〝羞華美人〟でしょうか?」
「えっ?」
「あなたの
孔明は言って、水面に
「これ……は?」
また戸惑いの声が漏れた。そこには醜い顔はない。たるんだ皮と黒ずんだ皮膚もない。みずみずしい白い肌をした
「どうして?」
黄華は思わずそれを疑って、自分の顔を触って確かめた。柔らかくたるんだ皮の感触も、固く
孔明はふと気付いた。真相が脳裏の奥底から静かに浮かび上がってくるような感覚だった。
「もしかすると、あなたの顔に残っていたのは陰気の
「陰気の固陋……?」
「私が読んだ本に月が海水を引き寄せているとありました。それで潮の満ち引きが起こるのだそうです。月は太陰。水も陰。恐らく月は陰気のものを吸い寄せるのでしょう。ですから、あなたの顔にしつこく残った陰気も月に吸い取られてなくなったのかもしれない」
その本はやはり『論衡』である。これは本を読んだ上での孔明独自の解釈に過ぎないが、ひとまずこの超常現象を説明していた。
「明朝、仲景先生から説明があると思いますが、しばらく先生の代わりに私が参ります」
「そうなのですか?」
「ご迷惑でなければ……」
「迷惑なはずがございません」
黄華が間髪入れず否定した。孔明は
「女性の性質は陰、樹木もまた陰。ここの桂花が満開なのも、本当に月桂の種から生まれたものだからかもしれないし、あなたが持っていた陰気の影響を受けてなのかもしれない。あなたの名はこの桂花が由来ですか?」
「はい。私が生まれてから、父は年に一度桂花を植えてくれます」
「素敵な習慣だ。ところで、私はあなたのことを何とお呼びすればよろしいですか?」
「阿羞で結構です」
「え?」
今度は孔明が驚く番だった。〝阿羞〟は〝ブサイクちゃん〟という意味のあだ名なのだ。
「孔明様とお話をしたら、何だかこの名が素敵に思えてきました。ですから、阿羞で結構です」
黄華のその発言は孔明の言葉が確かに彼女の心を
「しかし、それは……」
「それでは、『
通常、儀礼的に本名を呼ぶのは避けられるため、成人すると字を持つ。
それは女性でも同じで、『
「分かりました、月英殿。今夜はもう遅い。そろそろ失礼します」
「はい。おやすみなさい」
黄華は一礼すると、もう一度水面を覗き込んで本来の姿を確認した。
そして、口元を緩ませ、小走りに部屋へ戻っていった。一連の所作には喜びが
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