其之三 冥闇明察
荊州学府には主流の古文学だけでなく、書道、医学、そして、
清談とは、後漢末以来、貴族社会に流行した『老子』『荘子』『易経』を中心とする
彼らは俗世間を離れた風流かつ高尚な話に花を咲かせたが、荊州学府の自称清談クラスはそれとは違い、俗世間の様々なことも話題にした。政治や群雄のことを話題にすることもあれば、一個人の家庭のことに議論を費やす場合もあり、世相を知るための情報交換の場という意味合いが強かった。
彼らは学舎ではなく、庭園の一角にある〝
少々風変わりだが、どんよりと曇った空と亭を囲む竹林が微かな陽光をも
その暗さの中、孔明が
「非常識なところが面白いよ。少々過激だけど、合理的だと思う部分もたくさんある」
「例えば、どんな?」
「簡単に言うと、今の一般的な考えにはたくさんの間違いがあるってことだね。例えば、今は
「ふ~ん。その理由は?」
学友の
「人は死んでも幽霊になったりしないから。人が死ぬのは火が消えるのと同じ。死んだら、何もなくなるだけと言っている。だから、礼儀程度の祭祀でいいんだって」
「おいおい。まさか、それを
「あれは叔父の
そう言って、孔明は同じ学友の
「とどのつまり、その本では死後の世界がないと言っているのか?」
「そうなるね。個人的にはやっぱりあると考えたいけど。また両親に会いたいと思うし、過去の著名な方々に会って話ができると想像しただけで面白いじゃないか」
「仮にその著名人に会えるとしたら、誰に会いたい?」
「まずは
孔明が挙げたその名は春秋時代の
「いや、その二人の時代は数百年も離れている。あの世がないという考えには賛同し
学友の中でも最年長の
「それは私も分かりません。この本では、仮にあの世があったら、現生を生きている人の数より過去に死んだ人の数が圧倒的に多いはずだから、それが霊魂となって存在したなら、一方的に増え続けて一面人だらけになっている。そういう矛盾を言っていますね」
「だから、あの世がないという考えになるわけか。確かにそんな世界は想像したくない。しかし、仮にあの世がないとしたら、世間は大騒ぎになるな」
「それはそうだろう。あの世があって、死後もこの世と同じ様に人生を過ごすというのが一般認識だ。それが否定されたら、天地がひっくり返る」
「そうなったら、〝
徐庶が言った冥婚とは、若くして未婚のまま死んでしまった者と同じように未婚のまま死んだ異性を結婚させ、死後の幸せを願う風習である。
遺族が死者の魂を
「ああ。南陽で冥婚用の死体を商品として売り
言いながら、崔州平が静かに
『歪んだ教育や間違った知識が秩序を乱す。乱れた秩序と腐敗した政治が重なると戦乱に発展して人々に大きな
崔州平が顔を曇らせ、
「孔明、どうかしたのか?」
「……ああ、どうして世の中がこんなに暗くなってしまったのか考えていたんです」
「何を今さら。それは政治のせいだ」
孟建の断言に石韜が頷いて、付け加えた。
「くだらない人間が政治に関わるからだ。特に昨今は悪徳な人間が多く政治に関与してきた。こうもなるはずだ」
「つまり、それは政治のどこかが間違っていたということになるし、教育の何かがおかしいということになる」
漢は儒教の
「この『論衡』は孔孟批判や政治批判もあるんだけど、今の常識や当然だと思っていることの中にはたくさんの嘘や間違いがあると伝えたかったみたいだね。要は正しい認識が重要だって言いたいんだと思う」
「孔孟を批判するなんて、それじゃ普及しないはずだ」
「屁理屈を並べ立てただけじゃないのか?」
孔孟批判と聞き、
二人がそう評したように、多くの
「それを聞いていると、連中は無駄なことをやっているような気がするな」
徐庶が古文学クラスの学舎に目をやって呟いた。孔明もその学舎に目をやり、
「全てが無駄なわけじゃないさ。でも、経典の中にも
その古文学クラスがざわついていた。何があったのか分からない。孔明たちが駆け付けてどうしたのか聞いてみると、学生の一人が証言した。
「先程仲景先生が
証言したのは、
そして、蔡睦が言及したのが、
王粲が蔡邕の弟子であること、同じ兗州の出身で年も近いこと、共に詩文の才能があることなど共通点が多く、二人は仲が良い。
王粲は非常に記憶力に優れた人物で、蔡邕の講義をそっくりそのまま再現できる能力を買われて、学生ながら臨時教授も兼ねる。この日も教授を務めていたらしく、一休憩して教室を出たところ、張仲景が呼び止めて言った。
「――――君は大きな病を持っている。放っておけば、四十歳で眉が抜け落ち、死んでしまう。今度私が薬を用意して持ってくるから、服用しなさい」
彼の望診の目が王粲の表情に
「――――はぁ。ありがとうございます」
そっけない返事を返して、教室に戻ってきて授業を再開しようとした。
「その後に変な奴が現れて、頭の管理はできても体の管理ができない病学生とか、頭でっかちでは倒れるのも当然だから、大成するはずもないとか、仲宣を
「あれは誰だっけ? 新しい教授かな?」
「まさか、あれが?」
他の学生たちが謎の人物について語るのを横目に、蔡睦が教授不在になってしまったクラスをちらりと振り返って言った。
「とにかく立て続けにそんなことを言われて、仲宣は怒って帰ってしまった」
もう当事者はいないらしい。孔明たちはそんな学生たちの証言を聞いただけで、
「誰なんだろうな、王仲宣を怒らせた奴って?」
それを推測しながら、文通亭に引き返した。ふと、文通亭の前に誰か立っているのが見えた。みすぼらしい身なりをした人物がこちらを見つめ、一直線に向かってくるなり、
「ここにいるのも
その男はいきなりそんな皮肉をぶつけてきた。蝌蚪というのはオタマジャクシのことだ。その不穏な
「どなたですかな?」
「相手に名を
「失礼した。私は
崔州平はムッとしながらも、その相手に応じた。自分をただの学生のように思っているのだろう。出自を明らかにすれば、すぐに無礼だったことを理解するはずだ。
崔州平の考えは正しかった。確かにその相手はそれを認識した。しかし、
「我は
それは崔州平の経歴を知った上での暴言だった。まるで恥部を
「無礼な!」
「ここは剣術も教えるのか? それにしてはそなた以外に兵卒志望は見当たらぬが」
一気に熱を帯び始めたそこに、孔明が一陣の風のように割って入った。
「諸葛孔明と申します。失礼ですが、こちらの学生でしょうか? それとも、新しくいらした教授でしょうか?」
「うん? どちらでもないわ。つまらん腐れ儒者から学ぶべきものはない。
崔州平と徐庶だけでなく、孟建・石韜らも豎子(小僧)と斬り捨てられて、切
「はい、その通りだと思います。それでも何とか足を生やし、立派な
孔明はその口撃をそのまま受け止めるのではなく、完全に耳を
「ほほぅ。どんな蛙になりたいというのだ?」
「目
男が振り返る。答えたのは、遅れてきた学友・
「……ふふん、なるほど。ここには多少、足の生えたのもおるようだな」
男はそれを聞いて
「ここに習家の
「私たちがそうですが」
「ならば、習家へ行ってみよ。
そして、身を
「だが、この世界でいくら鳴こうが、
背中越しにそんな台詞を言い残し、不穏な空気を遺してその場を立ち去った。
その場にいた皆が複雑な気持ちを抱え、男が木々の暗がりの向こうに消えていくのを目で追った。
特に弁才に優れた知者であったが、性格がねじ曲がっていた。口は
虚名があったため命拾いしたが、すぐに許を追い出され、荊州に出戻ってきた。
禰衡が数日前に
孔明は
「まぁ……。では、孔明様が見たのはその方の幽霊でしたの?」
月英は孔明の話を聞いて、興味津々に尋ねた。先日の件以来、孔明に対してはすっかり心を許してしまっている。孔明も月英と話すのに緊張はない。
「いや、それは何とも……」
孔明は返答に困った。黄承彦から聞いた情報が正しければ、そういうことになる。
しかし、あれが禰衡本人であったかどうかは定かでない。誰かの悪いいたずらで、本人の名を語った偽者かもしれない。孔明は幽霊というものを見たことがないし、そもそも幽霊と意思疎通できるものなのだろうか。服も着ていた。
「もしかしたら、これと同じ様なものなのでしょうか?」
月英は自分の顔を触って言った。彼女の顔には病の後遺症がなお残る。
あの晩、彼女の顔から消えたはずの陰気の
あれが一時の奇跡であれ、月夜の下の幻想であれ、確かな希望を見た。具体的にどうすればよいのか、それはまだ分からない。
それでも、治療法は存在する。そう信じることができた。それに目の前に座るこの青年は自分の良き理解者だ。たとえ回復しなくとも、自分の顔を見て
「どういうことですか?」
孔明が月英の顔を正面から見つめて聞いた。
「以前、孔明様が
月英が言った言葉を捕捉修正すると、人の霊魂もまた陰陽二気でできていて、陽気が〝
「なるほど。そうか」
孔明が頭の中に蓄積した情報と過去の体験をすり合わせて、納得したように頷いた。禰衡が服を着ていた理由も、陰気が形を為したものだったと考えれば、説明がつく。孔明が席を立った。
「もう行ってしまわれるのですか?」
「承彦先生から聞いたと思いますが、習家の娘さんの行方がわからなくなってしまったそうで、皆で捜しに行くのです」
「ああ、聞きました。人さらいとの噂のようですね。無事に見つかるとよいのですが」
「月英殿も人さらいにはご用心ください」
「私は屋敷を出ませんから、ご心配なく。幽霊の人さらいだったら、分かりませんけれど」
月英がそんな冗談とも本気ともつかない
北は
峴山の南方三里(約十二キロメートル)の地点に位置する習家の園林は広大かつ美麗で、漢代の名園として名高い。そこには後漢を興した光武帝と親しかった
孔明たちがサロン活動の場にしている文通亭は、習郁の
「いったいどうやったら、ここから人目に触れず、痕跡も残さず連れ去れる?」
園林の端まで歩いてきて、徐庶が首を
習家のような豪族は大抵自衛のために私兵を雇っている。裏門には門兵が詰めており、
つまり、外部から何者かが侵入した形跡がない。娘がさらわれて外部に連れ出されたという憶測を疑わざるをえない。
「家の者が池の底から
「私兵が嘘をついているという可能性は?」
園内の探索に同行した龐統も内部犯行の線を疑った。
「それはありません。皆、先代から仕えてくれている者たちばかりですし、信用できます。たとえ誰かが怪しい行動を起こしても、すぐに露見するでしょう」
答えているのは、
「じゃ、外部から何者かが侵入してその娘をさらったとして、金の要求はあったのか?」
「それらしいものが。あの木です」
徐庶、龐統、そして、孔明の三人が習禎が指差した柏の古木の下へ歩いた。
崔州平は孟建と石韜を連れて、近辺を聞き込みして回っている。
「
孔明が木の幹に刻まれた三字を指でなぞりながら、読み上げた。柏の樹皮が刃物のようなもので削られて、文字として刻まれている。
「峴山に十万銭を持ってこいということか?」
「恐らくそういうことだと思います」
「さらった家から金を取ろうというなら、単純な
龐統がそう呟いた。劫質とは人質誘拐のことだ。
「家の者が金策に走っていますが、いくら何でもそんな大金をすぐには用意できません」
習家は養殖した魚をすべて売り払おうと大わらわだった。
「さらったのが西河殿が言っていた白波賊の残党かどうかは分からないが、金を払わなければ、娘は殺されて冥婚用の死体にされてしまうかもしれない」
「そんな!」
いつもは
「まさか本当に幽霊の人さらいでは? 身代金は
冥銭とは、死者があの世の生活で困らないようにと遺族が
「孔明、こんな時に冗談はよせ」
「冗談というわけではありません。もう元直殿も禰正平のこと耳にしているでしょう?」
「何日も前に江夏で殺されてたって話か。じゃあ、あの荊州学府で俺たちに
「
「ちょっと待て。俺たちは幽霊と話したのか? お前の読んでいる『論衡』じゃ、幽霊は存在しないんだろう? どうせ誰かのいたずらだ。偽者に決まっているさ」
「あの本に書かれていることが全て正しいとは思っていません。自分の中で正しいものと間違っているものを判別して、得られた情報から虚を除き、実を
「……その根拠は?」
「以前
孔明は疎開の旅路の途中で、揚州の予章郡南昌に
孔明の父は病死する前、
笮融に敗れた孔明の叔父も戦傷が原因で危篤となった。張仲景の治療で命を取り留めたが、襄陽に着いて間もなく息を引き取った。意識が回復してから死ぬまでの日数は数えていないが、
父の場合も叔父の場合も、霊魂が幽霊となって彷徨うことなく肉体に留まり、四十九日の仮の命を得たのだろうと孔明は解釈している。
「仮にそうだとして、幽霊がどうして人をさらう必要がある?」
「やっぱり金が欲しいのだと思います。元は人ですから。死した後も人の欲望を抱えたまま彷徨っているのでしょう」
「それで冥銭か……」
孔明の
「おいおい、まさか士元も孔明の話を信じるのか?」
徐庶の呆れるような視線も気にすることなく、龐統は表情を変えずに答える。
「この世界でいくら鳴こうが井の中の蛙……。ずっと禰正平が言った言葉が気になっていました。つまり、あれはその他の世界があるのだと言いたかったのでは?」
「じゃあ、何ではっきりそう言わない?」
「それはきっとあの
孔明がそう付け加えた。
「皆で同じ道を捜しても、仕方がありません。皆が目も向けぬ道を捜してみるのもよいかと思います」
幽霊の人さらい――――もちろん、そんなものは信じてもらえるはずがない。
通常の捜索は習家の大人たちに任せ、孔明ほか三人、そして、報告のために帰ってきた崔州平ら三人、合計七名の仲間内だけでその対策を練った。
それは孔明が言ったように冥銭を用意することである。習家の屋敷の一室を占拠する形でそれは遂行された。
徐庶らは半信半疑でそれに協力しながら、孔明に聞いた。
「冥銭に何か形式があるのか?」
「いえ、特にないと思いますが、気持ちを込める意味で、できるだけ
五銖銭は前漢の武帝の時代に
幸い豪族である習家は良質な紙を保有していた。三人がそれを円形に切り、三人が中央に
「これで身代金が整いましたね。では、私が峴山へ持って行きます」
「今からか?」
「はい。峴山は霊山だということですし、夜は陰気で満たされますから、彼らも姿を現すのではないかと思います。皆さんは半信半疑でしょう。ですから、私が行きます。皆さんは他の対策を講じながら、こちらで私の帰りをお待ちください」
「おいおい、一人で大丈夫か?」
「ええ。実は昔、私自身が人さらいに遭ったことがあります。その時は自ら交渉して無事解放されました。やり方は心得ています。さすがに幽霊が人を殺すなど信じていませんし、大丈夫ですよ」
肝要なのは交渉力だ。道理を説き、時に相手を
「私も付いて行こう。案内がいるだろう」
いち早く孔明の意見に同意を示した龐統がぽつりと言って、静かに同行を進み出た。その流れに徐庶もようやく意を決し、剣の柄を握り締めて宣言した。
「しょうがない。乗りかかった船だ。俺も行く。またあの狂人が出てきたら、今度こそは返り討ちにしてやる」
徐庶は
それで幽霊に対抗できるかどうかは分からないが。とにもかくにも――――。
孔明、龐統、徐庶。若者三人が間もなく夜陰に包まれようとする峴山に向かった。
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