#7 待つわ

 結局あれだ、懸想するなら相手は二次元に限る。

 ターニャ姐さんもそう言っていたじゃないか、こんな男前は現実にはいないって。あれは世の真理だったんだな。



 目白リリイとしてこの世に生まれ直した数日後、私は図書室で思う様古い漫画に読みふけっていた。

 この当時の私に日本語が読みこなせる訳がない。けれどもたっぷり見てきた動漫や海賊版を読んでいたからストーリーの理解には困らない。むしろすっかり茶ばんで甘い匂いのする前世紀末刊行の単行本をめくり紙に刷られた絵を堪能するには読めない文字の方が都合がよかった。思う様、私の爱人にひたすら見惚れることができたから。



 私たちが暮らしていた数寄屋造りの日本家屋を囲む庭を抜け、躑躅や椿の植え込みを通り抜けた先に、あの年代物の日本家屋とは大違いの随分モダンな造りの病院があった。

 樹木に囲まれ表通りから目につきにくいこの病院こそ、児童に様々な手術を施していたあの伝説の本丸・目白小児専門病院である(メジロがらみの都市伝説が大好物の皆さま、お待たせしました)。

 この病院もお化け屋敷じみた怪病院のイメージで語られがちだが、実態は斬新かつコンパクトな現代建築に最新設備がそなわった医療施設だった。当時は地域にも開放されていて、外来の待合室にはかかりつけの小児科として利用する親子連れの姿がよく見られた。あの件が明るみになった時あの人たちの胸にどのような思いがよぎったのかはちょっと気にはなるけれど、流石にそれにまで思いを巡らせるのは脱線がすぎる。


 私が貴重な漫画の単行本に読みふけっていたのは、この病院の二階にあったサロンも兼ねた一室だ。

 この病院の二階には入院している子供達向けのちょっとした図書室があり、新旧様々な物語の本や漫画が並べられていたのだ。

 この部屋に私を連れてきたのはセンリだ。


「そうやって日がな一日ふて腐れていても暇だろう」


 目白の家に来て以降、食事と入浴と排泄の時以外部屋から出ようとせず、タイガを筆頭とした子供たちが庭や屋内ではしゃぎ騒ぐのを聞いても部屋に引きこもったままの私を見かねたのか、そういって自分の職場であるこの建物へ連れてきたのだ。

 ――それにしても、障子と襖なんて脆いパーティションで仕切られた日本家屋はプライバシーが保護には向いてなくて本当に困る。タイガが私の様子を見に来ると必ずあのクウガが無遠慮にすぱんすぱん障子や襖を開け放って無理やり連れて行ってしまうのだから。



 あの図書室の本棚にならんでいたのは目白一族の子供達が読み継いできた蔵書の一部だと聞いている。

 子供たちに手荒く扱われても惜しくはないという程度に傷んだ本がメインだったとはいえ、しかるべきコレクターに本屋や研究機関に売っぱらえばひと財産が作れる量はあった。動画屋と本屋でその辺の知識はそれなりにあった私は目を剥いて、入院中らしい子供達が手袋もつけずに素手で平気にそれらに触れ倒してる様子には危うく倒れるところだった。そのうち私も素手で本に触れて読みふけるようになったけれど。

 貴重な本を子供の手垢にまみれさせているのは「電子を介さない本物を子供に見せたい」「紙を介して物語を味わうという快楽を子供たちにも味あわせたい」という、財閥創業者一族の北ノ方から代々病院を経営し続けた目白へと嫁いだ問う経歴から察せられるとおり経済力とそれに裏打ちされた文化資産に一生不自由することが無かったワコさんの意向と趣味が大いに関わっているはずだ。あれだ、まさにノブリス・オブリージュってやつ。


 ともかく私はそこで私の爱人の出てくる漫画と出会った。

 そして頭の中を、はあ~素敵素敵素敵素敵素敵素敵素敵素敵素敵素敵……と、それ一色にしながら本のページに見入っていた。

 やっぱり素敵素敵素敵素敵素敵素敵素敵素敵素敵素敵……。

 見れば見るほど素敵素敵素敵素敵素敵素敵素敵素敵素敵素敵……。



 さてこの病院には様々な理由で入院している子供達がいた。皆さんご存知、私たちの暮らしている家とは別の家に暮らしている、男の「メジロの子供達」もだ。

 センリに初めてこの図書室に連れてこられた時にいたパジャマ姿の男子とは度々あった。そいつはパジャマ姿じゃなくなっても度々この図書室にやってきて、そのうち爱人に見惚れている私におずおずと話掛けてくるようになったが面倒で無視をした。逢瀬に集中したかったのである。それでもボソボソ話しかけるのでわずわらしくなったので微笑みを返す。


 目白のあの家では、モノトーンベースでシンプルだが品と仕立てのいい子供服を着ていた。

 どれも寄付という形で施設に渡ってきたお下がりの衣類と聞いていたが、元々の持ち主は目白や北ノ方のお嬢ちゃまやおぼっちゃまだ。古着とはいえ今思い返してもどこの馬の骨とも知らない孤児たちに着せるには上等すぎる服だった。

 あの時分はは冬だったから、私のいでたちは白いブラウスと黒いカーディガンにボックスプリーツのスカートというどこぞの学校の制服のようなコーデだったはず。当たり前だが毎日風呂に入って身体を洗えと指示されるので、どこもかしこも清潔である。

 その方が清潔な印象になるというワコさんの判断により、伸ばしっぱなしにしていた髪も肩をこすあたりで切りそろえられた。前髪を作らず、額とともに母ちゃんと父ちゃんのいいとこ取りな顔面を晒した私にはもう小戚だった面影がなかった。すっかり目白リリイという見慣れぬ女になっていた。


 お嬢さん学校の制服のような服を着て少年漫画を読みふける、まだ言葉が上手く喋れないヨソの国からきた新参者の女に微笑みかけられたそいつはさっと顔を読んでる本のページに埋める。

 ヨシ、と心の中で頷いた後、私は思う存分爱人の男っぷりに見惚れに見惚れた。そいつが時々ページから顔をあげてこっちの顔をちろちろ見ていることには気づいていたが、何をしてくるでもないので徹底して無視をいた。

 図書室で出くわすそいつ以外にも、私のとことをじいっとみてきたり、数人で団子になって騒々しくふざけてみせたり、愛想よくニコニコ話かけきたりする男子がいたけれど、そのころの私の気持ちは「何人たりとも爱人との逢瀬を邪魔する者は許さん」の一色だった。


 騒々しいヤツや愛想のいいヤツがこっちとコンタクトを取ろうとしてくるのがあまりに煩ければ、ニホンゴワカリマセンゴメンナサイな微笑みを浮かべて首を傾げてみせてからはあとくされなくきれいさっぱり無視をして、私は逢瀬に集中する。ああもう素敵素敵素敵素敵素敵素敵素敵素敵素敵素敵……とやっている私の頭はは結局、本章冒頭の言葉に戻る。


 ――やっぱり懸想する相手は二次元に限る。

 生身の人間など信用するものではない。やつはバカだし不誠実だしまるっきり信じるに値しない。



 そうすることで、クウガや他の子供達を率いてガキ大将然としてふるまっているタイガのことを頭からおいやっていた。私とすごした一週間ばかりのことなどすっかり忘れた様子で遊んだり年少者の世話を焼くタイガのことを。



 ――だのにそれがどうにも難しかった。

 理由の一つに、休憩と称して時々この図書室にやってくるセンリがこの部屋では棒付きの飴をコロコロ転がし舐めていたことがある。タバコが禁止されて久しいこのご時世、当たり前だが院内は全館禁煙だった。スモーカーだったセンリはこうして口寂しさをしのいでいたのだ。


「――それ、アイツと一緒の飴?」

「いや、タイガの舐めてるのは特別仕様でね。手術に耐えた子だけが食べられる飴なんだ」


 翻訳システムを設置していないのはこの病院内でも同じだった。だからセンリも私の母語で話しかけてくる。ワコさんの方針に従うなら日本語で話しかけるべきなのだが、センリは私の言語事情を優先してくれた。

 ここのスタッフや子供たちに聞かれたくない会話をするにはもってこいだからね、と嘯いていたのでそういうことにしておく。


「不味い飴がご褒美だなんて、随分変な話だね」


 故郷の街のあの公園で鬼ごっこをしている時から、タイガはしょっちゅうあの飴をポケットから取り出しては舐めていた。奇妙なことは最初の一口を口に入れる時は大抵眉間にぎゅっと皴をよせた何とも渋い表情になり、ううっと呻きながら身震いをすることである。甘くておいしいものを口に入れているのと正反対の顔つきだ。

 あんまり奇妙なのでらしくもない興味が湧き、一本もらってもいいかと尋ねてみたことがある。すると血相変えてタイガは首をぶんぶん左右に振って激しく拒否したのだ。その拒絶ぶりのはげしさは、この程度のことでついムッとしてしまうほどだった。


「――そんなに大層なお飴様をタダでくれなんて言って悪かったね。いくらさ?」

「どれだけ金を積まれてもお前に食べさすわけにやいかねえんだよ。こいつはオレ以外のやつにとってはとんでもない毒だから食わせちゃだめって先生さんにキツーく言われてっからさ。それにこれ、死ぬほどまじぃんだぜ? 食わない方がいいって」

「……なんで、そんな不味い飴食べなきゃなんないんだよ?」


 するとタイガは猫目を細め、ちょっと自慢気に笑い腰に手を当ててフフンと威張って見せたのだ。


「これ食うとワルキューレになれるからだよ」

「――、ふうん」


 ――完全にカモられてんなコイツ、可哀想に。


 どうやらこの飴に関しては深く追求せず流した方がいいなとその時の私は判断し、頷いて見せながら心の中ではそう呟いていた。

 ワルキューレになれる飴なんてそんなもん、あってたまるか。その時の私はそうとしか思えなかったのだ。

 社会の底辺生まれで底辺育ち、それも人豚の母ちゃんと顔を潰された芸人の父ちゃんという出自ばかりはどうにもならないけれど、知恵と知識さえありゃあ目の前にいるバカみたいに途方もないホラ話に騙されて骨の髄までしゃぶりつくされることだけは避けられる。やっぱ勉強ってのは大事だな――と、私はそんな風に心の中では呟いていた。

 そうやって鬼ごっこにはタイガに一度も勝てずへし折られたプライドを埋め合わせていた面もある。なにしろ小戚はとっても尖がった子供だったので。



 目白にきたばかりのころは小戚の気質がまだまだ色濃い。だから故郷の言葉でセンリに釘を刺すのに余念がなかった。


「おれはまずい飴なんか死んでも食いたかないからね。ワルキューレにだって興味ない。こっちの言葉に不自由しなくなったら悪いけど出て行かせてもらうよ?」


 目白リリイという新しい私にまだ慣れないのと、小戚だったかつての自分を過去に捨て去ることもそう簡単には出来ない。だからセンリと話すときはことさらそれまでの自分のような口を叩いていた。


「おれはあっちじゃこう見えて自分で稼いで生きてきたんだ。自慢じゃないけどさ、文無しから初めて働いてコツコツ金貯めて資産運用も覚えて、もうちょっとでボロくても家が一軒手に入るところまでに財産も増やせたんだ。その程度の才覚はあるんだよ?」

「だれもお前さんの技量や才覚を疑いやしてないだろう?」


 でなけりゃこんな風に息抜きの相手を頼むものか、と、飴を転がしながら答えた。

 普段のセンリは医者としてこの病院で職務を全うしていた。白衣を纏い髪をまとめ、部下の医者や看護師にきびきび指示を出し、入院中の子どもたちの経過を見守る様子からは、私の故郷でみたようなヨレて据えた雰囲気はまるでなかった。まさに委員長めいた天才ワルキューレがそのまま大人になったような、見るからに有能な医者だった。変われば変わるもんだなと感心したものであるが、私相手にはこのようなヨレてだらけた姿を平気でみせていた。本当に息抜きをしていたのだろう。

 飴についた棒の先をぴこぴこさせる子供めいたしぐさが誰かによく似ていてイライラしてしまい、私はむっとした口調のままぶっきらぼうに続ける。


「だったらおれがここの生活に向いてないのもわかるだろ? 手前の財産も手前で使えないってのはどういうことだよ? 児童保護施設っていうあんたらの事情もあるだろうから外出すんのすら許可がいるだの、朝起きるのも飯食うのも夜寝るのもみんな同じ時間だの、自由に使える小遣いが少なすぎるだの、やたら決まりごとが多いことは飲んでやるよ? けどさ、ここにくるまでに手前が稼いだ金の管理すら事務方に任せなきゃいけないだとか、このご時勢に情報端末すら自由に触らせてくれないってのは納得いかないね」

「お上に児童保護団体だって認めてもらって、給付金を頂くにはそれなりにクリアしなきゃなんない事情ってものがあるんだよ? お前の口座にだって将来独立するときに必要なお金が毎月ふりこまれてるんだぞ?」

「世界のキタノカタがバックについてる慈善団体様が、どうせ雀の涙しか寄越しやしないお上の顔色をヘコヘコ伺うようなしみったれたことをしないでほしいね」

「『私どもは旧日本政府様がお認めになってる優良団体でございます』って認定は金額じゃあないんだよ。特にウチみたいにすーぐ怪しい目でみられちまう所はね」


 なにしろ昭和の初めから怪しい噂がとぎれたことのないような所だからね、メジロウチは……と、センリは飴を舐めながら悪びれもせず答える。

 よく言うよ! という思いをありったけ込めて私はセンリを睨んでやったが全く堪えたそぶりを見せなかった。

 だから私も人倫を説くなんて野暮なマネはせず、この生活の不満をシンプルにぶつける。


「とにかくさ、おれはこんな幼稚園みたいなとこでお遊戯したりお勉強したりして生活するのなんてまっぴらなんだ。籠の鳥になりたかないからあそこから出てきたってのに、また別の籠に入れられたなんて笑い話にだってなんないよ」

 

 心の底からのイライラをセンリへぶつけたのに、髪をきっちりまとめ上げてぱりっと清潔そうな白衣を着たお医者さんモードのメガネのセンリは飴を舐めながらふんふんと受け流す。

 子供をあやすような大人の態度に腹が立つが、それを隠してつとめて大人ぶった態度を示してみせる。小なりとはいえ自営で切った張ったな業界を渡り歩いてしたんだから、こんなことで交渉の主導権を取られたりはしないのだ。


「もちろん、あんたらには借りがあるからさ、それについては利子つけて全額返させてもらうよ? ちょっと時間がかかっちまうかもしれないけどさ」

「――やれやれ、お前は本当にここから出て行けると思ってるのかい? お前の目には呑気な施設ではあるけれど、こう見えて子供の出入りには結構気を遣ってるんだよ? お前みたいに脱走を企てるガキが毎年出てくるけれど成功した例は一度もないんだ。不可能に賭けるだなんて無茶はお勧めはしないね」

「本気で人造のワルキューレを作ろうとしてる頓馬に『そんなのは無理だ、不可能だ』なんて言われたかないよ」


 そう言って返すと、センリは愉快そうにぷっと噴き出した。ツボにはまったのかクックと喉を鳴らして笑う。――巷の噂では冷酷無比な極悪人と語られがちだけど、センリにはこういう笑い上戸な一面があったのだ。


「これはこれは――全くその通りだ。やれやれ、一本取られたな」


 その口ぶりは明らかに、子供にハンデをくれてやってわざとゲームに負けてやった大人のそれだった。そういう態度を見せられると怒ってませんよという大人ぶった態度の維持ができなくなり、むしゃくしゃして読んでいた本を開いてしまうのだ。




 ――この文章にお付き合いくださってる方はもうすでにお気づきだろう。私はセンリが囁く甘い言葉に誘われて外国に連れてこられたという、メジロがらみの都市伝説で語られるような哀れな孤児ではない。タイガも同様だ。

 既に述べている通り、センリはこの点ではかなりフェアなやつだった。

 自分は後天性のワルキューレを生み出す研究をしている医者だし、その素質があるからお前に声をかけたのだ、と、あの輸送船の中できっちり説明を果たしていたのだから。



「昔の動漫風に言うなら『僕と契約してワルキューレになってよ』ってとこだよ」

「――」

「? このセリフの元ネタは知らないのかい? 教養豊かなお前さんなら知ってるとおもってたんだけど」

「知ってるよ。だから無視したんだ」


 外世界から侵略者が来る前、当然ワルキューレなんてものが影も形もない頃に作られた美少女戦士や魔法少女って女の子が活躍する類の動漫がある。動画屋でも人気のジャンルだったけれど私はあれらが嫌いだった。

 その辺にいる小娘をつかまえてお前は心が美しいからとか伝説と戦士だったとか前世がお姫様だったとかとにかく「お前は特別だよ」っていい気分にさせてから可愛い服と綺麗なアクセサリーを貸し与えて、タダで芸能活動をさせたり化け物退治だの魔法の国の危機だのを救わせるぬいぐるみみたいな連中のやり口がとにかく気に食わなかった。

 中でも騙された女の子が純粋さにつけ込まれて悲惨で可哀想な目にあうのを楽しむ趣向の動漫は、虫唾が走るほど大嫌いだった。

 嫌いな動漫の記憶と船酔いという肉体的なムカムカの波に襲われながら、私は湯に浸かりながら膝を抱えていた。ろくすっぽ知らない人間の目の前で素っ裸にさせられたのだからそういう姿勢を取らざるを得ない。。


 ――なぜこの時の私が素っ裸で湯船に浸かっているのかその状況について一応説明させていただく。

 センリが私に初めて直接「自分は普通の人間でもワルキューレとして働けるようにする研究をしてるお医者さんだし、お前にはその実験体になってほしい」と真正面から交渉してきたのが、太平洋校の輸送船内にある風呂場だったからである。

 太平洋校の理事は旧日本の人が多いらしく、学園のあちこちで日式文化を引きずっていた。輸送船の中にある、子供が遊ぶ小さいプールくらいあった風呂もその一つのはずだ。

 血みどろの私とタイガをみたプロワルキューレのマリが用意してくれたのが普通のシャワーでなく、古い動漫でしかみたことない大浴場だと知った時は私は大いに焦った。しかも同じ風呂にタイガとセンリも浸かると聞いた時は死ぬ気で抵抗したが、第一世代のワルキューレ二人に取り押さえられて脱衣所で素っ裸に剥かれることになる。憎むべきは船酔いだ。そのせいで私は全力が出せなかったのだから。


「ワルキューレはそういう素質を持ってるやつじゃないと絶対なれない筈だよ? 浮浪児コチェビだって知ってら」

「だから先生さんは、誰だってワルキューレになれるような研究してんだってば。さっき言っただろうが」


 その時センリに体を洗われていたタイガがこっちに顔を向けたので、すかさず「こっち見んな」と怖い顔を作って睨んでやる。タイガはそれを見てさっと視線をそらしたけれど、やっぱりそのこんがりした肌の後ろ姿がどことなしにデレデレしてたので私は余計に余計にむしゃくしゃした。

 裸に剥かれた上に、泡立てた石鹸で体を洗われながら、はあ~これはなかなか大したものだね、お医者さんになって長いが文字通り「傷一つない肌」ってのは初めて見たよ、手術の時はよっぽど慎重にしなきゃあねえ……等と余計な感想つきで遠慮なく検分される。そんな目に遭ったばかりだから、温かい湯につかる気持ちよさに浸っていららるわけが無かった。むしろ屈辱とムカつきの頂点にいた。

 この仕打ち、機会があったら元ワルキューレで現在は怪しすぎる医者をやってる大人による児童への性的虐待ってことにして全世界に向けてチクってやる……! って決意していたくらいだから(——というわけでぇ、今こういう形で公開させていただきましたぁ。メジロがらみの悲惨な証言をご期待の皆さま、ご満足いただけましたぁ~?)。


「だから、なんで、そんな変な研究してんだって話だよ? 誰でもワルキューレになれる世界ってそれ、いいことあるのか?」

「あるだろ? 外世界から来たおっかない連中の相手を年頃の女の子だけに任せないですむ。それだけでもメリットは相当なもんさ」


 犬でもあらうような手つきでタイガの体や頭を洗ってやりながら、センリは答えた。

 その言葉にうっかり感じ入ってしまったのは、私が唯一知ってるワルキューレのイメージがよぎったせいでもある。外世界の強敵と一騎打ちして勝ったはいいが、その代償に両肘両膝から先を失ったミツクリなんとかってワルキューレ。

 好きな男には女がいたとか、自分の気持ちを押し隠して男と女を祝福したのにそいつらは侵略者の起こした二次災害でバカみたいにおっ死んだとか、ダルマにされたこと以外でもそいつにまつわる話は何もかも悲惨すぎる分、耳にする機会が多かったのだ。全体、世の中ってのは女子供が悲惨な目に遭ってる話に食いつく奴が多すぎる(人豚娘をわざわざ見物に来るだとか)。


 まだ終わってないよ! お前いつもちゃんと耳の裏や首の後ろを洗ってないだろ! この際徹底的に洗ってやるんだから覚悟しな……! と、逃げようとするタイガを取り押さえながらセンリは石鹸の泡をタイガに擦り付ける。くすぐったいのかギャーギャー声をあげて暴れるタイガを押さえつけて洗い上げるセンリとタイガは年の離れた姉妹がじゃれあってるようにも見えた。

 

 その分、直後にセンリがこぼしたつぶやきに込められた感情が際立っていた。


「ああ年端もいかない可愛い女の子があんな悲惨な目に、できるなら代わってあげたい――ってお嘆きになる心の清き善男善女の皆様方に『それじゃあお望み通り代わっていただこう』ってお願いできるようにするための研究だよ? 社会的意義がありまくりじゃないか」


 暴れるタイガの頭から熱いシャワーを遠慮なくぶっかけ泡を洗いながすセンリは、フフフどうだ参ったか、これに懲りたら毎日風呂に入って体を清潔に保つんだね……とふざけて悪ぶった声を出している。

 ――だからこそ、単純にワルキューレをとりまくあれこれを皮肉っていたのではない、この世の仕組みの一切合切を呪うような感情が漏れ出たセンリの言葉の印象が私の胸に強く刺さったのだろう。



 この文章をわざわざ発掘してお読みいただいているような方ならよーくご存じの通り、目白千里、旧姓・鞍掛千里はワルキューレ第一世代のなかで最も過酷な運命をひっかぶったことでも有名な、私が当時知っていたワルキューレである箕作ミツクリ渚と同期である。仲間に襲いかかった悲惨な出来事を至近距離で目にするうちに、真面目で正義感にあふれた委員長じみたところのあった天才少女の中で何かしら芽生えた感情があったんんじゃないか。真面目で正義感に溢れていただけ余計に――と想像するのは実に容易いけれど、そんな想像を聞かされるとセンリは腹からけらけら笑うだろう。なにしろあいつはひどく笑い上戸なところのあるワルキューレだったから。



 ともあれ、湯船の中でひざを抱えていた当時の私にそんな事情がわかるはずもない。

 

 ――おっと、旧日本人が風呂場で大事な話をするというのは本当だったのか、透過光で大事なところを隠すお色気動漫だけの話じゃなかったのかと私に衝撃をもたらした風呂場の会話が意外と長びいてしまった、

 十のガキ二人と世間的には極悪人ってことになってる女による色気も全くない入浴シーンなんて面白くもないものを差し込んでしまって失礼。

 というわけでここから再び目白の家で暮らすようになってしばらく経った、あの頃のことに戻す。




 私が使えない言語でクウガや他の子どもたちと遊んでばかりのタイガ。

 他の子どもたちとは馴染めない、目白の新しい家での生活。

 タイガみたいにワルキューレになりたい気持ちなんてあるわけがなく、とにもかくにもいち早くここから脱出しなければと策を練る必要に迫られた日々。


 一通り爱人との逢瀬にも満足し、仲間外れにされながらも目白の家での生活にもなれ、昼間は粛々と他の子どもたちと一緒に勉強するという日常が続く。

 勉強は、目白小児専門病院の三階にあった院内学級で行われた。健康な子供と術後や病状の子どもたちとの教室は念入りに分けられていたが、別々の家で暮らしている女も男も授業は同じ教室で受ける。

 そのころ、タイガの隣には当たり前にクウガがいて片時も離れようとしなかった。タイガがときどき私の名前を呼んだり、手招きしたり、反対に私の方へ歩み寄ろうとするとすかさずクウガがわりこんでさっと連れ去ってしまう。


 ま、いいけど――という気持ちでいる私の机の傍には、図書室でみかけた大人しそうなヤツだとか、何かとふざけて気を引きたがるお調子者だとか、ニコニコ愛想がいいやつだとか、男子が集まって取り囲む。

 そいつらが話しかけてきても無視して頬杖をついていると、クウガや他の女の子たちがこっちを見てはひそひそ囁きあってる姿が目に入る。

 その目つきから、どうやら男を侍らせていい気になってるスベタ扱いされてるなってことは嫌でもわかるわけだけど、面倒だから言わせるままにしておいた。

 どうせ機をみて出てゆくような場所の連中だ。そいつらに売女呼ばわりされたってこっちの何が傷つくというのだ。

 それでもクウガにひそひそと悪口を囁かれたタイガが、心配そうに私の方を盗み見てくる時はどうしても気分がよくなってしまう。そういう時はとなりにいた男子に微笑みかけて、この本のここはなんとよみますか? とたどたどしい日本語で尋ねて見せていた。

 

 そんな日常を一月とすこしばかり過ごした後、私は脱出のチャンスを作ることに成功する。


 ちょっと調べたいことがあるから情報端末をかしてくれ、と、目白の若いスタッフに上目遣いとたどたどしい言葉遣いでお願いをしてみたのが上手く言ったのだ。好きな漫画について気になることがあるだけだから、と。

 大学をでたばかりのような若い兄さんスタッフは最初のうちは、規則だからダメの一点張りで全く取り合おうとはしない。けれど、すぐ返すからお願いしますと覚えたての言葉で繰り返すうちにいとも簡単にほだされて、私に端末を手渡してくれた。内緒だからね、と念を押して。

 きゃあ! ありがとうございます! と、その場でぴょんと飛び跳ねて大げさに喜んで見せてから端末に打ち込んだのはインさんの本屋のアドレスだ。パスワードを打ち込み本屋の空間に立ち入ると顧客を装ったメッセージを送信する。

 非合法の地下本屋にアクセスしたという結果は消し、私の爱人が登場する漫画の重要な舞台になってる土地について調べる。タイガの好きな包帯ぐるぐる巻きの悪者が燃やそうとしていたかつての都だった街は、何年か前に大型侵略者の攻撃にさらされて見る影もなく焼き尽くされたらしいなんてことを型通り調べた後、笑顔で兄さんスタッフに返却した。

 

 

 籠の鳥なメジロの子どもたちにも、敷地の外へ出てよいという許可が降りる時があった。地域への交流という名目で、教会のバザーや老人ホームの慰問に赴くというようなそういう時だ。当の子どもにしてみれば嘘くさくてしゃらくさい茶番めいた活動だったけれど、こうしてお行儀のよい優良団体であるとアピールする必要があったのだろう。

 

 そういう機会がある日、肌も目も髪の色も様々な品のいい服を着たメジロの子どもたちが列を作って歩く中、私はくまなく機会を伺っていた。

 あの鬱陶しいクウガは事情があるためこの慰問活動には一切参加しなかった。だから、クウガの妹分たちがタイガと私が接触しないように常に目を光らせていた。先頭を歩くタイガの隣には当時の目白の女組では一番ちいさいチエリがいたし、最後尾を歩く私の前にはエレファとリオンの二人組がいた。


 私たちと同い年で、クウガとも仲の良いエレファとリオンは時々私を振り返ってひそひそ悪口を囁きあう。メジロの施設の外である路上では翻訳システムがきっちりはりめぐらされているというのに、だ。この二人はバカだったのか、それともバカを装って遠回しに私へ悪口を聞かせるつもりだったのかはわからない。できれば後者であってほしいと思う。

 案の定、私が男子組に色目を使っているといった予想の範囲内な内容で盛り上がっていることがわかってくる。


 ――ねえねえ、この前こいつが、ジラフ君の前でにこって笑ってるのみた?

 ――見た見た! すっごいわざとらしいよね。見ててオエってなっちゃったし。

 ――あたし達と一緒にいる時のつんつんぶりを見せてやりたいよね。

 ――男子ってつくづくバカだよね。見た目に騙されるんだから。

 ――ほんとに、こーんな性格が悪いのに。 

 ──可愛いのなんて、ふりだけなのに。

 ――たーちゃんもバカだよね、こんな子いつまでも気にしちゃって。

 ――たーちゃんも中身は男子みたいな子だからしょうがないけどさ。

 ――でも、たーちゃんの一番はずっとくーちゃんなのにね。

 ――つか、くーちゃんじゃなきゃたーちゃんの隣にいちゃだめなのにね。

 ――たーちゃんにもそのことが分かってほしいよね。

 ――ほんとほんと、いくらくーちゃんはワルキューレにはなれないからって……。


 おしゃべりなエレファとリオンの悪口大会はメジロで生活するうえで不可欠な情報の宝庫でもあったから私は大いに助かっていた。

 タイガが私のことをちゃんと気にかけてくれていることに優越感を満たし、あのムカつくクウガがワルキューレになれないのは一体どういうことだろうと頭のメモ帳に記載している時、前方数メートル先にあるバス停に私たちを追い越したバスが停車した。

 そこから降り立つ人を見て、なつかしさからあげそうになった歓声を押え、そしらぬ顔をしながら舗道を歩く。


 黒くて上品なコートを着込んだ品のいい老婦人が、手にメモの切れ端をもって辺りを見回している。どこからどう見ても初めての土地にやってきてメモに記された目的地がどこなのかわからないおっとりした奥様だ。手に紙のメモをもっているのだって、あの見た目の世代なら全然不自然じゃない。

 

 ――さすがユミコ婆、この道数十年のプロだ。


 マドレーヌって絵本みたく、そろいのコートを着て二列で歩いている少女の列で最後尾を一人だけ歩いている、小戚時代と激しく変わりすぎた私に気づいた驚きも「ああ優しそうなお嬢さんたちにであったわ」と安心したようにほっとする奥様の安堵の表情にすり替える手際も見事だ。

 ユミコ婆は引率のスタッフに話しかける。もし、この住所はどちらかしら? という言葉を私の街の言葉で尋ねる。

 先に説明したけれど、小戚だった私がすごしていたあの街は色んな周辺諸国や出稼ぎ民の言葉がちゃんぽんに入り混じっていた言語だったから、訛りをうんときつくすると無料の翻訳システム程度では同時翻訳は不可能になる。直接会話しようにも正規の言語教育を受けた人間にはまず聞き取れないものだ。いい大学を出ているエリートのはずのメジロのスタッフもとっさにたじろぐ。


 わざとらしくない間を置いてから、最後尾から最前列へ移動し私は母語でユミコ婆に話しかけた。


「お困りですか、奥様?」

「ああ、こちらの住所はどういったらいいのかしら? 何分初めて訪ねる道ですから迷ってしまって――」


 ユミコ婆は私にメモを手渡す。それが二枚重なっているのを確認し、日付と場所が記された一枚目のそれを指を動かしてコートの袖口に仕舞いこむ。そして、ここら辺では名の知れた観光名所でもある寺の名前と住所を記した紙を、スタッフへ手渡した。

 このおくさま、こちらのお寺にいきたい、でもみちがわからない、こまってるそうです……とぎこちない日本語で説明すると、スタッフはほっと安心する。

 携帯端末から道案内アプリを立ち上げ、路上に設置された地図をポップアップさせてユミコ婆に説明する。一通り案内されてから、ユミコ婆は上品な奥様としてゆったりと礼をのべて、そちらへと歩き去っていった。その際に私の方を振り返って二度見、三度見するようなことはまるでしなかった。

 私もゆきずりのおばあちゃまがたまたま私の故郷の言葉でお話になっていただけですが、何か? という表情で列の最後尾に戻る。

 コートの袖口に忍ばせた紙切れはそのまま手のひらに滑り落とすと、そのままメジロの家へ戻った。


 とはいえ、メジロという組織のスタッフはバカぞろいではなかったみたいで家にあがる際に軽い身体検査を命じられた。

 手のひらの中に何かを隠し持っていないか、コートや制服のポケットには何かを隠してないか儀礼的に探られる。

 何も出てこないことがわかると、引率係でもわったお姉さんスタッフは苦笑しながら説明した。


「疑うような真似をしてごめんなさい。……その、あなたが暮らしていた地域一帯にについてはしらべていたんだけれど、あの奥様がそういう所の住人には見えなくて……」


 へえ、ここの施設のスタッフは確かに有能なんだ。バカ正直に白状したあたりはまだまだ甘ちゃんだけど――と感心した様子は一切見せず、とても傷つきましたという表情を作って哀れっぽっくたどたどしい日本語で訴えかけた。


「わたしの街にも、おくさま、いたです。しんしや、だんなさまもいたです。やくざばかりいた、ちがう。ごかい、へんけん、とてもかなしい」


 そういって目じりをぬぐうふりをすると、お姉さんスタッフは慌ててごめんなさいを連発し、私が不審な老婦人からなにかを受け取っていないかどうかの検査を忘れてしまう。御用聞きが持つ鉛筆のように、道中で小さく折りたたんでいたメモを耳に挟むようにして隠していたのだがお陰様でバレはしなかった。

 小戚になる前、父ちゃんと芸人をしていたころは稀にちょっとした手品も披露していたのである。いやはや全く、芸は身を助けるとはこのことだ。



 ユミコ婆が指定していた日付は五日後、このあたりの観光資源でもあるレトロな鉄道に乗った先にある昔からの栄えた寺社仏閣のある駅でおりろとある。年季の入った観光名所で、世界各地から旅行者が訪れるような所だ。迷子になったガキがそのまま姿をくらませても誰からも気づかれることがなさそうなくらいには人の出入りは激しい。

 合流してからはこの島の地理に詳しいユミコ婆に一任するとしても、問題は目白の家からどうやって外に出るか、だ。

 外出の機会である慰問活動の時に隙をついて逃げ出すか、それとも敷地内の隙間からそっとでてゆくか、だ。


 慰問活動中に逃げ出すのが現実的な手段に思えたけれど、目白の敷地は年季を感じさせる板塀や生垣に囲まれていた。おまけに庭を越えたさきにはプライベートビーチまである。一見すると子供がこっそり外に出入りできるような隙間なんていくらでもありそうにゆるゆるだ。

 探してみる価値はあるかもしれない。

 図書室生活も堪能したので、その日から私は目白の家の敷地内を散歩と称してあちこち歩くようになった。植え込みの間を歩く、錦鯉の泳ぐ池を覗く、板塀の内側にそってぐるりと歩く。寒いけれど猫の額ほどのビーチに出てみる。

 ――そこで分かったのは、目白の家から直接抜け出すのは難しいってことだ。ちょっと庭をふらふら歩いただけで、家政をうけもつおばちゃん、白衣を着た病院のスタッフ、庭の手入れをしている作業着姿の造園業者がにこやかに声をかけてくる。こんなに人目があるなら、やっぱり慰問活動中に逃げるべきだと決めながら、ここの生活にはなれたかい? と尋ねるやさしげな大人たちに微笑みかけた。

 

 庭の広場では、相変わらずタイガはクウガたちと一緒に遊んでいる。

 当時私たちの家で暮らしていた子供たちの中でブームになっていたドラマのごっこ遊びをしていた。

 前世紀末の東京・渋谷育ちのギャルが天下統一を目指すという、あの『セシルの覇道』の第二シーズンが配信が始まった時期なのだ。ちょうどこのころはみんな、ファンの間での評価が今尚高い「歌舞伎町炎上編」の更新をまだかまだかと待ち望んでいた時期だった。

 ヒロインのセシルと、後にセシルの強い味方になるアゲ嬢のシーナのバトルをみんなは再現している。厚底ブーツの踵落としが必殺技なヒロインのショップ店員セシル役をクウガに、なんでも切り裂くつけ爪が武器のアゲ嬢・シーナの役をエレファに配し、タイガはセシルの親友で義理人情に厚い武闘派少女のタバサ役でロールプレイを盛り上げていた。


 私がそばを通ると私に気づき、こっちに向かって手をふって見せる。ごっこ遊びにまざらないかというのだ。

 私は無視してそばを通り抜けた。せっかく盛り上がっていた空気に水を差された他の子たちがひそひそと悪口を囁きあう気配を背中で感じた。


 

 さて、しばらくいい子に暮らしているとユミコ婆が指定した日がやってくる。

 おあつらえ向きに空はどんよりした曇りだ。降水確率も高めだ。傘をもちだしてもそこまで奇妙に思われない空模様。これは神様ってやつが味方してくれてるなと心の中でほくほくしながら、傘立てから蝙蝠傘をそっとひっぱりだす。

 

「早く帰って来てよね、たーちゃん。また昨日の続きするんだから」

「わかってるって。でもクウガ、そろそろセシル役リオンに代われよ。お前だけ独占すんのはよくねえぜ?」


 いつも一人だけ留守番のクウガは、子供たちが慰問に出かける時は玄関まで見送りに出る。ぷっくりした唇を尖らせて、寂しさを全面に押し出すのだ。クウガの隣にいるワコさんは、子供たちの日本語が乱れてゆく原因があのギャルドラマにあると睨んでいるから二人の会話のやりとりを見聞きして苦い顔をしていたし、外では決してそんんな言葉遣いをしないこと! とタイガに言い含めている。

 タイガはそれらにいつも笑顔で応じるのだけど、私は全く気にしないふりをした。数時間まてば帰ってくるのに大げさな、と甘ったれたクウガを心の中でバカにするだけだ。

 

 行ってきます~、と元気にお行儀よく挨拶して私たちは数寄屋造りの家の外に出た。

 その際、からからとガラスの引き戸を引く音にまぎれて私のそばにいたタイガがそっと囁いた。


「駅の手前で腹抱えてしゃがめ」


 たったそれだけ。

 それでもしばらくぶりに、私ひとりに向けられたタイガの言葉だった。


 私たち生垣の外の歩道をいつものように列をつくり、てくてくと歩いていた。慰問先のホスピスから逃げ出す計画を実行するつもりでいた私だが、列の先頭でいつものようにチビのチエリと一緒に歩いているタイガの頭を見つめる。

 

 私の手には傘がある。その取っ手の感触を強く感じながら、自分のいる地点と駅までの距離をはかる。海岸沿いの駅の傍までは下り坂だ。ここかな、という場所で言われた通りにお腹を押さえてその場にしゃがみ込んだ。怪しまれないように、くうっと押さえたうめき声も出す。

 最後尾にいる嫌われ者の私が具合悪そうにしても皆に気づかれるのに数テンポかかる。その中で、たまたま振り向いたタイガが私の不調に気づいた風に足を停めた。


「リリイ? おーい、どうしたぁ?」


 ――本当に、普段あれだけバカなくせに、こういう時の対応力だけは呆れるほど図抜けた子だった。

 私ですら、タイガは私の名演技に騙されてるんじゃないかって疑いたくなるようなナチュラルさで私の元に駆け寄る。私の直前を歩くエレファとリオンはいつものようにこっちを見ようとしていなかったせいで出遅れた。しまった! という顔をしていたのを確認してから、私はぎゅっと眉間に皴を寄せる。

 そばにやってきたタイガは私のかをのぞき込む。どうした、大丈夫か? と問いかけながら私に早口で囁きかける。


「下痢か生理かどっちがいい?」

「――っ、まだ来てないっ」

「じゃしょうがねえ。悪く思うな」


 タイガはそういうなり、くるっとふりむいて引率のスタッフへ声をかけた。


「先生、リリイのやつ腹が痛ぇって~。駅でトイレ借りてくからさぁ、先行っといてよ。オレらあとから追いつくし」

 

 というわけで私は路上で腹痛と地獄のような便意に襲われた美しい少女に仕立て上げられてしまった。これみよがしにエレファとリオンは私をみて、ヤダぁ~……とクスクス笑うが私は腹痛の演技に精をだした。額に脂汗をにじませて涙目になる。そばにいるタイガのコートに縋りついてやった。――だってお腹が痛いんだもの。お腹が痛い時って傍にいる人にすがりつきたくなるものだもの。


 私がただならぬ様子をしているので、エレファもリオンもタイガから離れろとは言えず、引率のスタッフも目的地まで我慢しろとは言えなかったらしい。普段の人懐っこさと子供たち相手の面倒見の良さ故か、大人からの覚えはよかったタイガが必ずあとから追いつくと真面目な顔つきでいうので信用したようだ。

 じゃあ先に行きますからね――と、まだまだキャリアの浅そうな彼女は子供たちを引き連れて先へ行った。

 

 タイガは私に肩を貸して立たせると、駅構内のトイレの方へ歩き出す。そしてみんな――とくに抜け目なくこっちをうかがうエレファとリオンが――建物の影に隠れて見えなくなったタイミングで向きを変えた。私も背中をのばしてから、タイガを睨んだ。


「なんだよ、さっきの二択っ!」

「しゃあねえじゃん。腹痛ハライタの理由って大体その二つだろ? 盲腸とか言い出したら面倒なことになるしさ」

「そうだけど……っ、そうだけど……っ、もういいっ!」


 翻訳システムの張り巡らされ街中で、やっと心置きなく普通に言葉が交わせるようになったのに。久しぶりの会話が下痢や生理というのはあまりにもあんまりじゃないか――って気持ちで私はいっぱいになってしまったのだけれど、それが説明できないのだ。

 大体、ここから逃げようとしている私に気づいたならもうちょっと思い出にとっておきたくなるようなセリフでも口にしてくれたてっていいじゃないかって、そんな甘えた感情を他人に持つ機会に全く恵まれていなかったのだ。私は。

 

 だから、私が玄関で傘を持ちだしたことでこっちの意図を見抜いたタイガのアシストに礼も言えず、ガキみたいに唇を尖らせてしまう。渾身の「下痢に苦しむ美少女」の演技で目はまだ涙目だったし額には脂汗が滲んだままだ。そんな私を見てタイガがほっと安堵の息を吐きながら、手をひいて駅構内へ足を踏み入れる。


「……よかった。オレ本当にリリイが腹こわしたのかってちょっと焦った」

「そんなわけあるか。お前が腹押さえてしゃがめって言ったからそうしたんだ」

「いやでもマジすげえよ、リリイ。演技力やべえよ! お前やっぱ芸能人とかむいてるって! なった方がいいって! なんなきゃダメだって」


 ニヒィ、とタイガは猫目を細めてわらった。こっちに来るまでは一週間は毎日見せていたのに、こっちにきてから私にはまったく見せてくれなかった笑顔だ。

 近くの踏切の音が鳴りだした。遠くから古びた電車が近づく音も聞こえる。小さな駅の構内にも、電車の到着を知らせるアナウンスが吸う覚悟で告げられる。


「――合流予定地はどこ?」

 

 傘を持っていない左手を、タイガはやや強く握った。私はユミコ婆に指示された場所を口にする。


「そっか、じゃあ今きた電車に乗ればすぐだな」


 タイガは猫目を輝かせてちょっと悪ぶった笑みを浮かべた。そしてポケットからいつもの飴をとりだすとなれた仕草で口に放り込み、ううっと呻いて身震いをした。

 それから私の手を引いて、改札に向かう。駆け足で。


「ちょ、待っ――、なんで――っ」

「いいじゃん。偶にはオレも電車に乗りたくなった」


 そういって、メジロの子どもたち一人一人に支給されているIDカードを改札機にかざした。私もあわててそれに倣う。この子たちもお金の使い方を考えねばなりませんからというワコさんの考えを反映して、ちょっとしたお菓子や小物なんかを買うためのお小遣いがカードを介して毎月振り込まれていた。それはまったく「お小遣い」の名称に相応しい微々たる額でしかなかったけれど、目的地までの運賃くらいは問題なく支払える。開いたゲートを通り抜けるのと同時に、海沿いを走るレトロな電車がホームに滑り込んできた。

 まばらな乗客が降りてから、タイガに手をひかれるまま私も電車に乗り込んだ。

 

 暖房と擦り切れた座席に染みついた臭いと機械油の入り混じったような匂いは、輸送船のあの部屋の匂いに共通項がある気がしたけれど、それよりも車窓から見える海岸と海に目を奪われた。果てしない水平線と冬の海。

 それをバックにタイガは笑って、すとんと、空いた席に座った。私もそれに続く。

 発車を知らせるアナウンスのあとに、ゆっくり電車は動きだす。そして徐々に加速し、海岸を並行して走りだす。次第に駅は遠ざかる。


「――、つか、よく考えたらオレ、ここにきてこの電車初めて乗ったわ」


 客が少ないのをいいことに、タイガは足をそろえてうんと前に突き出した。口にはあの不味い飴の棒をはみ出させている筈だけど、視線を車窓に添えている私はタイガの膝小僧から先しか見えない。


「知ってる? この電車すげー有名なんだぜ? もうちょっと行ったらさ、なんとかって有名な漫画の舞台になった学校のそばを通ったりするんだ。そっちの方はいまでも観光客でギュウッギュウなんだって」

「――聞いたことある」


 腐っても動画屋で育ったのだから、タイガの言う漫画も動漫にも心当たりはあった。男前が山ほど出てくる球技を扱ったjump系動漫で、漢韓圏のお客さんには絶大な人気を誇ったやつだ(私は寝てばかりいる男前がちょっとだけお気に入りだった)。

 なるほど、周辺の雰囲気はあの動漫の世界にちょっと通じるものがある。へぇ~って、思わず物思いにふけりかけたけど、それどころじゃないので気を取り直す。

 ご機嫌そうに不味い飴をなめているタイガの楽し気な顔を軽く睨んだ。


「――お前、何やってんの?」

「何って、リリイと電車に乗ってる」

「そういうことじゃなくて……! 今頃バレてるぞ? お前がみんなをだましておれを逃がしたってことがさ」


 メジロの子どもを管理するためのIDカード経由で改札をくぐったのだから、間違いなくその情報は本部に届いている筈だ。私が別に腹を壊してないことも、タイガが一芝居をうったことも既にバレている筈だ。

 だのにタイガは、脚を上下に動かせてはしゃぐのだ。まるでピクニックに出かけるみたいに。


「だな。ま、バレてるな。帰ったらすっげえ叱られるの確定だな……。ま、でもワコさんゲンコツでしばく以上の体罰はやんねえからどうってことねえや。便所掃除かおやつぬきか小遣い減額か……、そんくらいならギリ我慢できねえこともねえし」

「『セシル』の続きを視ちゃいけませんって言われるんじゃない?」

「! ありうる! やべえ、どうしようっ! うっわ、めっちゃ続きが気になってたのに~、ああああ~……」


 電車に乗れた興奮から、お気に入りのドラマが見れなくなるかもしれない可能性にショックを受けるタイガの混乱ぶりはそれこそ動漫みたいだ。楽し気にしてみせたかと思えばガーンと驚愕に顔をゆがめ、シートの上に手をついて落ち込む。

 まったく落ち着きが無い。アホっぽい。

 空から何が降ってきているわけでもないのに私が傘を持ちだしただけで、ああこいつは逃げ出そうとしているなと見抜けるくらいなのに、私を逃がすためのアドリブもかませるくらいなのに。本当に訳の分からないやつだ。


 気がついたら、電車のなかだというのに笑っていた。

 くすくす、けらけら、乗客が少ないのをいいことに。

 笑う私を一瞬驚いたように大きな猫目で見つめた後、タイガもニィィ~っと笑った。それを見ると私もなんだか楽しくなった。というよりも、ああ楽しいてこういう気持ちか、と唐突に理解できた。

 

 知らない町を走る電車に乗って、窓からは広い海が見えて、隣にはタイガがいる。そんな事実に浸っているだけのことが、どうしてこっちの胸を温かくするのか。気持ちを明るくさせるのか、今すぐ死んでも惜しくないなって思わせるのか分からないけれど、とにかくこの時間を無駄遣いしてはならない。それだけは分かっていた。


 二人で電車に乗っている、この状況を俯瞰で眺めた私の胸には意識しないわけにはいかない情景がある。故郷の街の大きなターミナル駅。この電車とは比べ物にならないほど大きくて長い、大陸を横断する寝台特急。それに乗る美男美女。父ちゃんと居た時、駅のそばで電車や乗客をなんとなく眺めた日の夜に思い浮かべていたイメージだ。


「――うちの父ちゃんと母ちゃんさ、電車に乗ってあの街に来たんだ」


 なんで急に昔話をするんだろう、と、タイガは不思議そうな顔でこちらを見つめる。猫目を瞬きさせる様子がなんだかたまらなくて、どういうわけかきゅうっと胸が痛んだ。

 人間の体って不思議なシステムが張り巡らされているものだ。胸が痛むと連動して目じりが濡れてくる。生まれて初めて、心から楽しいって思える瞬間にいたというのに。

 涙がこぼれちゃ楽しさが台無しになる。私はとっさに顔面いっぱいに笑顔をを作った。むりやりにでも笑顔をつくると感情も騙されて気分を上向かせることがある、そうして涙を引っ込ませたのだ。


「あの街に来てから、二人とも、ここじゃあ言えないくらい酷い目に遭ったんだけどさ、多分、電車にのってた時だけは掛け値なしに幸せだったんだろなって。今気が付いた」

「そ、そっか。確かに電車にのるって楽しいな。オレも今日初めて知ったし」


 突然両親の昔話なんてものを始める私にタイガも戸惑ったのか、タイガも視線をそらしてから脚をバタバタさせた。行儀が悪くて、ワコさんがみたらまっさきに𠮟りつけそうな、だからこそ笑わずにいられないふるまいだ。


 ああ、このままずっと電車に乗っていたいな。


 タイガの膝を見ていて突然、私の胸にバカみたいな考えが突然、稲光みたいに閃く。

 今から私はユミコ婆の待つ合流地点に向かっているにも関わらず、この電車が目的地がたどり着かなきゃいいなんて、本末転倒なことを願っている。

 雷は稲光がさっと暗い空をかけぬけた後にどおんと鳴り響くものだ。それと同じように、目的地につかなきゃいいと願ってしまった自分への驚きが胸を震わせた。

 ――え、なんだこれ、どういうこと? と戸惑っている間にも電車は進む。駅をいくつか通りすぎている。目的地へ近づく。


 私たちの乗った駅とユミコ婆が指定した駅まではいくらも離れていいなかった。

 だからアナウンスが降りるべき駅の名前を呼んだ瞬間、夢から覚めたような感覚に襲われた。

 熱が引くように、体や胸が冷えてゆく。さあっと冷静になってゆく。呼応するように電車もゆっくり速度を落とす。


「お、次で降りなきゃな」

 

 タイガもぱたんと両脚を大人しくおろした。そして咥えてた飴を口の中で転がす。


「――ま、よかったよ。リリイとやっと喋ることが出来たし。最後にリリイのいい顔も見れた」


 電車はホームに滑り込んだ。有名な観光地の駅だからか、ホームにはさっきまでの停車駅とは比較にならない多さの乗客たちが並んでいる。私の前にたったタイガはニッと笑ったまま私の前に手を指し伸ばした。

 私は黙ってその手を取った。手を差し伸べてもらうのが習い性になってるお姫様でもなければ介添えなくたってちゃんと立てるくらい足腰はしゃんとしてるというのに。


「こっちに来てからお前となかなか喋れなかったろ? だからオレ、リリイと喋る時間が欲しかったんだな」


 電車はゆっくり、ガタンと停まる。私たちの目の前で扉が開き、タイガにエスコートされるようない形で私はやや大きな駅のホームに降りた。

 私たちと入れ違いにたくさんの人々が乗り込む。この先にあるまた別の観光地に向かう皆さんだ。きっとあの動漫の聖地巡礼する人たちだっていたはずだ。


「――なんの話をしてんの?」

 

 改札を通る間、私は訊ねた。黒いコートのユミコ婆が私に気づいて品よく微笑んでみせたのに気がついた。


「なんの話って、リリイさっき『何やってんの?』って訊いたじゃん? 確かにオレ何やってんだろなーって、さっきまでちょっと考えてたの。で、さっき気が付いたんだって。オレ、お前ともっかい喋っときたかったんだなって。――だって、このまま別れるのやだなって。リリイがワルキューレになるのは嫌なのはどうしようもないけど、でも、やっぱさ。そんならさ……」


 前も言ったけれど、タイガはとにかく語彙が貧弱な子だ。だから自分の気持ちを的確に言葉で言い表せない子だ。

 私へ送る言葉を逡巡している間に、ユミコ婆が私たちの前に立つ。そして、おや、というように私たちの顔を見比べる。


「リーリヤ、このお嬢さんは――」

「え、ええとタイガって言うんだ。前に一回説明したろ? あの街でおれを助けてくれたワルキューレと一緒にいたやつだよ」

「あら、あなたが……。あらあらまあまあ、その節はどうもうちのリーリヤがお世話になって……。おまけにこの子をここまで連れてきてくださって……」


 ユミコ婆もタイガ相手にも上品な奥様然とした態度を崩さない。何度も頭を下げて、つまらないものですが……と言い添えながら菓子の入った紙袋を差し出している。

 この人はユミコ婆でおれがガキのときから世話になってた人の一人だよと紹介すると、タイガも人懐っこい笑みを浮かべて派手に大きく頭をさげて応じる。元気がよすぎ大人ならつい微笑まずにいられない動作だ。

 そのあとタイガは、つないでいた私の手をユミコ婆にさしだした。レースの手袋をはめたユミコ婆が私の手をとると、タイガは安心したようにそっと放した。

 そして何を思ったのか、また猫目を細めてニィ~っと笑うのだ。


「ねえ、おばちゃん知ってた? リリイのやつすげえ演技うめえんだぜ? さっきハライタになった演技したんだけど、一瞬本当に腹壊したんじゃないかってくらいヤバくてさ。だからさ、お前芸能人やれよって言い聞かせといてよ」

「?」


 どうして私がリーリヤでも小戚ではなくリリイと呼ばれているのか、何故私が腹痛になった演技をする羽目になったのか、語彙力の貧しいタイガの説明でユミコ婆がすべてを把握するのは当然不可能だった筈。でも、私に演技力があり、芸能人に向いているという意見には一定の理があると判断したのか、にっこりと微笑んだ。


「そうねえ、リーリヤの力は私たちのお仕事に向いているし、なんなら私の後継者したっていいわねぇ」

「! おばちゃん女優なのっ?」

「ええ、似たようなものかしら」

「なんだあ、似たようなもんじゃダメだよ。映画とかさドラマ配信チャンネルの看板女優とかさ、そういうので活躍するレベルの芸能人になってくんなきゃやだよ。そうなってくれたらオレもいつだってリリイの顔見られるもん。大体、リリイならそんくらい余裕でなれっしさ」


 おばちゃんもそう思うだろ? と全く無邪気極まりない顔でタイガは言うものだから、ユミコ婆は微笑ましそうにくすくすと微笑んだ。

 駅のアナウンスが新しく電車が入ってくると告げた。私たちがきたのと反対側のホームにだ。タイガが乗って帰らなきゃいけないやつだ。

 それを聞いて、タイガは振り返る。また猫目を細めて笑って、口から飴の棒をはみ出させてにかっと笑う。


「じゃあな、リリイ。元気でな」


 そしてくるっとターンとして改札をくぐろうとする。

 そのコートの裾を、私は掴んでいた。ネイビーの、あの街でいつも着ていたのとは別だけど、型は同じあのピーコート。メジロの子どもとして今の私も来ているのと同じコートの裾を。

 

 私の行動のせいでタイガは盛大に前につんのめっていたけれど、その様子は全く見えなかった。私の両目から涙がぼたぼた流れ落ちていていたせいだ。

 涙だけでなく、鼻水もだらだら出ていた。

 異変に気が付いたユミコ婆が、私の肩を抱いたけれど、その優しい感触が呼び水になってしまいには口からありったけの気持ちがあふれていた。


 赤ん坊か! という勢いでわたしはわあわあ泣きじゃくった。

 タイガのコートの裾を掴んで、その場にしゃがんで、お前なんていっちまえ、ととっととあの家に帰れ、とかそれはそれはもう恥も外聞もなく、弁の壊れた蛇口のように吐きに吐いて漏らしに漏らした。


 ――観光客でひしめき合う駅で、火がついたみたいに号泣する女児の図。それはもう当人にしてみれば黒歴史の地獄絵図だ。ああもう、やだやだ、思い出したくない。

 とりあえず、おれと一緒なら大丈夫っていったくせにおれをずっとひとりにしやがって、とか、おれのしらない言葉でしゃべってばっかりいやがって、クウガなんてやつばっかり相手にしやがって、おまえなんか大嫌いだ、顔もみたくない、とっとと行っちまえ、——なんて言葉をどさくさに紛れて口にしていた覚えがある。目白リリイになってからずっと心の内に秘めていたものが一気にあふれだしたのだ。


 コートの裾をつかんでいるくせに「行っちまえ」だなんて、矛盾も大概にしろって台詞をわんわん泣きながら吐き出す私のそばにしゃがんだタイガは、肩をだいてよしよしとあやしながら背中をとんとん叩いてくれてはいた。完全に赤ん坊にするような仕草だったけれど。


 あの船のなかのように、大丈夫大丈夫……と囁かれているうちに私の気持ちも少しずつ落ち着く。号泣が嗚咽になり、ひく、えぐ、と横隔膜に妙な癖をつけながらもなんとか周囲と自分を客観的にみられるようになった時、ふと妙なことに気づく。


 私たちを取り囲むのが白衣の大人たちだったってことが一つ。そして、ユミコ婆が白衣のお医者さん姿のセンリと、あらあらその節はリーリヤがお世話になりまして……とあいさつをしていたことだ。センリもセンリで、ぺこぺこと頭を下げている。そのやり取りをみていると、身内の手術を担当することになった医者にあいさつする奥様とその担当医本人って感じだった。


 なんでセンリがここにいる? と泣きはらした目を疑った時、センリもセンリでこっちに気づいて苦笑した。


「やれやれまったく、やらかしてくれたねえ、タイガーリリー。お陰で本日の外来診療を休診にせざるをえなくなったよ」


 私たちが電車にのって逃げ出したという情報は、私の予想よりずっと早く目白のスタッフに共有されていたのだった。そしてタイガには手術の際にGPSも仕込まれていた。逃げられるわけがないのである。

 ――こうして私たちはメジロのスタッフが運転するバンに乗せられ、連れもどされることとなった。事柄だけのべると哀れなメジロの子供達が脱走に失敗したってことにほかならない。


 詳しい話をお訊きしたいので同行を求められたユミコ婆も、車内では呑気にセンリと言葉を交わした。


「いえねえ、あの街でリーリヤが公園でそちらのお嬢さんと駆け回って遊んでる所を同僚とみておりましたけれど……ああ、あの子もああやって子供らしく素直に自分をさらけだせる友達ができたのねって安心していたんです……。本当に、ここまで素直になれる相手ができていたなんて……」

「いやはや、私も多少驚きました。リリイ――失礼、リーリヤさんは年齢の割に随分大人びたお嬢さんだという子だという印象がありましたのでそれがすっかり覆りました、勿論いい意味で」


 センリは私をみてにやにやと笑って見せた。私はそれから視線をそらして、わざと大きな音をたてて鼻をかんだ。

 

 この件でユミコ婆は目白リリイとは二度と接触しないようにという念書を書かされたらしい。去り際に、じゃあね、あのお嬢ちゃんとケンカしないで仲良くするのよ、と抱きしめて、私と接触した時に降りた停留所からバスにのって去っていった。それが最後になる。

 誰に許可を得なくても電脳の端末に触れられる身分になってから、インさんの地下本屋には実は時々こっそり接触していた。時々休業している時があったけれど、今でも営業は続いているみたいだ。安堵をはするけれど、私はいまでもあの本屋の商品を購入したことはない。



 脱走を企てた私とそれを補助したタイガの処分は、予想の通り、一週間の便所掃除とおやつぬきと三か月の小遣い減額、そして一か月に及ぶ『セシルの覇道』視聴禁止令だった。それを宣告された時のタイガの表情ったらなかった。ムンクのあの絵のようだった。


 私にとってそれより衝撃が大きかったのは、帰ってきた私が一人になった時を狙いすまして殴ってきたクウガだ。


「言っとくけどね! たーちゃんがあんたの脱走のアシストしたのはセンリ先生に指示されたからなんだからね! あんたがここから逃げ出そうとしてるから、たーちゃんに命令したの! あんたを引き留めろって。あんたは貴重な実験体なんだから逃がすな、どんな手つかってもいいからこの家の外には出すなって!」


 クウガの拳は髪と同じく金と茶色の毛でおおわれていた。拳だけでなく、顔面も。そして頭の両脇から三角の猫みたいな耳が立ち上がっていた。

 猫の怪物みたいになったクウガは、憎しみで目を光らせながら、口から牙を覗かせて私を罵る


「たーちゃんが追いかけてくれて、あんた一瞬喜んだんでしょ⁉ 全然そんなんじゃないんだから、たーちゃんにとってはあんたなんて所詮モルモット仲間! あんたなんてそれだけの価値しかないんだから」


 気が済むまで罵倒したクウガが、ふうっとため息をつくと髪以外の毛は全部引っ込んで肌になじみ、牙も消えて、目の輝きも幾分かはマシになる。そしてクウガはさっさと歩き去った。

 

 この世界では、物語に出てくるような獣人は人間ではなく、勿論ワルキューレでもなく、外世界からきた侵略者として数えられる。例えば、無害であると判定された侵略者と人間が何の運命のいたずらか穏便に愛し合った末に生まれた子供であっても身分は「外世界からやってきた侵略者」だ。

 いずれ人間世界に仇をなすかもしれない要警戒対象で、人間であるとは認められていない存在だ。


 つまりクウガもそういう存在であるとその時私は知らされたのだが、同時に、翻訳システムの設置されていないメジロの家でクウガの言葉を余さず理解できる自分にも驚いていた。


 どうやらこの約一月の間に日本語力は急上昇していたらしい。

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