#8 渚の『・・・・・』
メジロの家の庭の木立を抜けると、切り立った崖の上に出る。
とはいえそんなに高いものではない。バカな子供たちが度胸試しに飛び降りて、そのうちのどんくさいやつ何人かが怪我をして泣く羽目になる、その程度の高さの崖だ。
岸壁を削ってセメントで固めて造られた階段を降りた場所にある小さな入り江の猫の額ほどの砂浜だ。本当に狭かったが、その分子供が一人か二人で遊んだりぼんやりして過ごすにはもってこいの場所だった。
施設の日報的には目白リリイが脱走に失敗した日だが、私の中ではタイガと一緒に電車に乗った日ということになっているあの日から、自由時間はこの砂浜に出て時間を過ごすことが増えていた。
別に何をしていたわけでもない、朽ちた流木に腰かけてただぼんやり打ち寄せる波やきらめく水面や沖をゆく船を眺めたり、波打ち際のシーグラスを拾ってみたり、無意味に砂浜を端から端まで歩いたりするだけだ。
あれだけのことをやらかした私をクウガ以下子供たちが受け入れてくれるわけがなく、当然こっちだって仲良くする気持ちがあるわけでもない。病院の図書室に行くと言語の理解が追い付いてきた私になんやかんや話しかけてくる男子が待ち構えていることもあって鬱陶しくなり、次第に足が遠のく。そんな私を受け入れる場所がここしかなかったというだけの話だ。
こっちの街にも忌々しい冬将軍が到達してどっかり腰をおろしていたころだ。
故郷の街程ではないにしても寒いことは寒い。にも拘らず太陽がちょっとずつ水平線に近づいてゆく様子を眺めたり、拾った棒きれで砂に線を引くようなまるで意味のないことをしながらぷらぷらと過ごすような無為な時間を体が求めていたのだろう。なにしろこの短期間で私の身にはいろいろ起こりすぎだった。
この時はまだ、目白リリイではなく
だから、あの時人前でビービー泣いてわざわざこんな怪しい施設に舞い戻ってきてしまった自分が信じられなくて歯がゆくて不甲斐なかったのである。
他人に、それも自分より修羅場慣れしてちょっと強いだけのガキに優しくされたからってだけの理由でせっかく脱出できる機会をみすみす逃しちまうなんて、おれらしくもない――と、戸惑う気持ちと向き合うにはこの狭い砂浜はもってこいだった。崖の上から誰かが常にこっちを視ていることには気づいていたけれど。
その日は太陽がオレンジ色になる頃合いで、セメントで固められた階段を降りてくる足音が聞こえてきた。相変わらずたったかたったかと軽快な足音だ。
そのこと気づいているけれど私は無視して水平線を眺めた。
崖の上から、おーい、とあっけらかんと無造作に呼びかけてくることが多かったタイガだけど、そばまで近づいてから、寒くないか? 等と声をかけてくる時も稀にあった。
その日は、後者の日だった。清潔な印象になるように肩をこすあたりで整えられた髪のせいで、肩や首、耳のあたりが冷えていた。そこに手のひらを添えていると、タイガが無造作に自分が巻いていたマフラーを外して私の肩にかける。
「寒ぃんなら巻いてろよ」
「……これないと、たーちゃんが冷える。私は寒いの大丈夫。慣れてる」
「構わねえし。上で遊んでたから今あっちぃくらいだし。つかリリイもこんなとこで凍えてねえで混ざればいいじゃん」
「イヤ。どうせくーちゃんに意地悪される。それくらいなら私、ここにいます」
「そこは安心しろって。クウガにちゃんと言っといたから、みんなで仲良くしろってさ」
「――そういうことするから余計にくーちゃんは私に意地悪をします」
手編み風にざっくり編まれた純毛のマフラーの温かさが台無しになるようなことをタイガが言うから、私の口調も刺々しくなる。
なんとか日常会話程度のことはこなせるようになった程度の日本語では「お前がそうやって誰彼相手にいい顔して妙な誤解与えるからこういうことになってんだろ、気づけバカ。自分で原因つくっといて『なんでこいつらこんな仲悪いんだろ?』みたいな不思議そうな顔してるんだよこの野郎、ふざけんな」というニュアンスが伝えられないのがもどかしい。
とはいえ、不機嫌になったのは私の雰囲気から察したらしく、はーっとため息をつきながらタイガは私が腰を下ろしている流木の隣に座る。口元にはいつもの飴の棒をはみ出させていたので、不味いというわりに美味しそうな人工香料の匂いが漂った。
「でもさぁ、リリイもそうやってツンケンばっかしてんのも良くねえぜ? そりゃクウガだって気ィ悪くすらぁ」
「くーちゃんがこっちにらんだり殴ったり意地悪しなければ、私もイイコします」
クウガの肩を持たれて私は機嫌をいよいよ損ねる。母語で喋る時のようなニュアンスが出せない分、声音に陰険さが滲みでてしまうが致し方ない。
「大体たーちゃんはどっちの味方っ? もし私とくーちゃんが崖からぶら下がってたらどっち助けるっ? くーちゃん? 私?」
「? え、まず訊くけどなんでそんなことになることになってんの、お前ら。崖の上で殴り合いでもしたの? バッカだなあ」
「もしもの話です! そこ気にするとこ違う! 質問にだけ答えるっ! 私とくーちゃん崖にぶら下がってる、どっち助ける⁉︎」
「?? そりゃ二人とも助けるに決まってるだろ」
「──っ」
「普通そうだろ? え、なんで一人しか助けちゃダメなの? 変じゃね? おかしくね? つかお前ら十分強えし普通考えたらそういうマヌケな状況になんねえだろ? 崖くらい自力で這い上がれんだろ、違うか?」
「──……っ、もういいっ!」
猫目をきょとんとさせたタイガの回答は私には世にも卑怯なそれにしか思えなかったが、まっさらなタイガの本心であることはその表情から明らかだ。私は焦れて拗ねて立ち上がった。
「だいたい私、分かってますっ。たーちゃんはどうせ私がまた逃げないように様子見に来ただけですっ。監視ご苦労ですっ」
そのまま砂利混じりの砂を踏んでセメントで固められた階段へ向かう。
「私はしょせんワルキューレにされるためにここに来ただけの子供ですっ。それなのにまだワルキューレになるって言わない私に価値無いですっ。釣られた魚はエサ欲しいってごねてはいけない程度のことくらい弁えてますですっ」
「??? リリイ~、またお前はそうやってわけわかんねーこと言う~。なんだよもぉぉ~。ぶっちゃけお前、こっちきてからちょっと変だぞ〜? めんどくせえぞ~?」
呆れた口調になりながら、タイガは私の後をついてきた。
それがどうにもこうにも聞き分けの無い幼児に接する年長者のそれ――ニンジンが嫌いだから食べたくないとかオバケがこわいから夜トイレに行きたくないとか泣いてむずかる時のチビのチエリを相手にするのとほぼ同じ――だったから、余計にむしゃくしゃする。
ああ、言葉がが通じれば、いや言葉なんてなくたって、故郷の街を最後にしたあの夜みたいにピンと通じるものがあれば、私がどうしてこんな風になってるのか伝わるのに。めんどくさいなんて言わせないのに。
もどかしくてじれったくて、イライラしながら階段を上った先には大抵むっすり膨れたクウガが待ち構えている。
二人してにらみ合ったあと、大抵クウガの方が口火を切るのが常だった。
「何そのカタコト? そういうので気を引こうって魂胆、ほんっと気持ち悪い」
「喋り方上手じゃないの、まだ勉強中だから。仕方ない。いちいち怒ることじゃない。なのに何故怒る? くーちゃんのそういう所、こっちは迷惑。気分悪い。最悪。消えてほしい」
――言い訳するつもりじゃないけれど、この時は日本語を勉強中で適度な言い回しができなかった。売られたケンカを買うつもりが全く無かったとは言わないけれど、倍にして返してやろうなんてことは決して思ってはいない。本当に適度な言い回しができなかっただけである。嘘じゃない。
だが私に消えてほしいとまで言われたクウガは当然激昂するし、私はそれに応戦する。
あとから来たくせにでかい顔すんな! とクウガが吠えついたら、私の顔はくーちゃんより小さいですぅ鏡をちゃんと見てください! と言い返すことから始まるが、お互い荒事稼業が身についてるから当然罵詈雑言の応酬で喧嘩が収まるわけがなく当たり前のように手足が出る。
ついにはスタッフに呼び出されたワコさんにゲンコツで振り下ろされお小言をくらい、お互いむすったれた顔で色が基本的に茶色で魚介の風味が強すぎて子供たちの間では好き嫌いが激しく分かれる和食メインの夕食を食らい、風呂に入って寝る。そういった騒々しくもほのぼのした日々を繰り返すうちに、徐々に私はメジロの家に馴染んでいったのだった。
「子供たちをどこに出しても恥ずかしくない紳士淑女に育てるのがこんなにも難事業だったなんて、思ってもみなかったわ。病院経営の方がよっぽど楽よ」
毎日毎日大小さまざまなケンカが絶えず暴れてばかりいる女の子に手を焼いていたワコさんが、時々やってくる北ノ方や目白姓の来客相手に茶を飲みながらそう零していたのが思い出される。
お客様の殆どはワコさんの支援者ってことになってる人たちで、子供達の視察という名目で世間話をしにお見えになることがよくあった。目白児童保護育成会の事業を医学博士としての一線を退いたワコさんの道楽だと見なしていている方が殆どだったけれど、ごく一部にはそれよりももっと深い事情に通じた方もいるにはいた。
「――それにしてもなんなの?
ワコさんのことを親しく気安く〝おばさま″と呼んでいたからには北ノ方一族の一員だった方だろうその人が、子供たちの名簿を繰りながらそうやって皮肉を吐いていた場に居合わせたことがある。
世界の薄暗がりで殆どだれにも顧みられず育った哀れな孤児たちはここのお家で暮らすうち進んでお客様にお茶をお出しするようないい子に育ったんですよ――ということをアピールする意味も兼ねて、子供たちに簡単な接客を命じられることがあった。元々は当番制だったらしいが、この頃は私が進んでその役を買って出ていた。
どうして人造ワルキューレや強化人間やらを拵えてるだなんて妙な噂が絶えないのか、なんのためにクウガのような侵略者と人間の間に生まれたような曰くある子どもたちを保護してるのか。居心地は悪いわけではないが、どうにもこうにも妙な点の多すぎるこの施設で生活する以上、情報がやはり欲しかったのである。
だから行儀作法がほどよく身に着いた女の子の皮を被って茶を運びながら私は大人たちの話に耳をよく澄ませていた。日本語と作法の練習をしたいです、といえばワコさんも丸い顔に満面の笑みを浮かべてその姿勢を誉めてくれる。
――けれども、流石お育ちのいい紳士や淑女たちだ。子供の耳には入れたくない話にさしかかると、ワコさんは「さ、もう遊びにいってらっしゃい」と優しい声で下がらせる。そうなると行儀や生活習慣が改善されつつある良い子としては素直に「ハイ」と返事して下がらざるを得ない。それでも聞ける範囲で大人たちの話を盗み聞きはしていたけれど。
「――センちゃんの医者としての能力は勿論疑いはしないけれど、ネーミングセンスだけはねぇ……」
「だから本家の娘の侍女選びの際に、おばさまたちは
「いやだわ~! そんな名前、一号二号三号みたいなものじゃない。さすがゼロから理想のワルキューレをデザインしようという方たちらしいグロテスクな発想ね。大体真子ちゃんの生誕に合わせて前もって計画するだとか、臆面もなく本家に媚びを売る必死さのさもしいこと!」
「グロテスクねえ……。なんにせよ、おばさまの子どもたちは本家の娘の侍女には相応しくないってはねられたのは否定しようのない事実じゃない。ワルキューレづくりだってどう考えても葦切さんたちのやり方の方が低コスト低リスクで理にかなってるし。あの方法なら、子供をさらって改造人間つくってるぞー……だなんてくだらない怪談のネタにされなくってすむのに」
ほんと、わざわざリスク高い方法に拘るなんて元天才少女の考えてることって凡人の理解を超えてるわー、と北ノ方姓を持っていた客人はそう皮肉り、ワコさんはそれにフォローを入れていた。
「あの人たちと同じことなんて、私達だってやろうと思えばやれますよ! ただ、私もセンちゃんもやりたくないってだけです! あんな簡単なことで事を成し遂げたつもりでいるほど私たちは図々しくありませんし、あのやり方は私たちの理念の逆をいくものです! ――大体、真子ちゃんの侍女の件だって、年齢が一歳合わなかったのが第一の理由ですからね。センちゃんの理論が否定されたわけじゃありませんから」
「だといいけど。とりあえずあのタイガって子に本家の娘の侍女が務まるような子じゃないことは確かね、それだけは言えるわ」
――以上の会話は、その当時の私が盗み聞きしたものの一つだ。
正確にはこの通りでは無かった筈だけれど、以上のような内容の会話があったことは記憶に焼き付いている。
あのタイガが「世界のキタノカタ」って文句で有名な北ノ方財閥総帥のお嬢様の侍女⁉ なんだそりゃ⁉ という衝撃と、メイドみたいな恰好で着飾ったお嬢様に傅くタイガを想像してしまって、噴き出すのをこらえるのに必死になっていたからだ。引きちぎれそうな腹をかかえて廊下を歩き、台所に戻ってからお盆を置いてからそこで腹を抱えてゲラゲラ笑い続けて家政担当のスタッフさんを大いにびびらせた――なんてことはなかなか忘れがたい。
私のおしゃべりに付き合ってくださってる暇人(やだ、また、ついうっかり。ごめんなさぁい)もとい、好奇心旺盛な方々の大半は、私の個人的な思い出話なんかどうでもいいから目白児童保護育成会に纏わる新情報を寄越せとさぞかしイライラなさっていることだろう。
そんな皆様がたへ、個人的な思い出話にお付き合いくださっている日ごろのお礼も込めてこうして華麗なる一族につらなる人々の内緒話を特別に披露した次第だ。二人の会話の意味は各々お考えください。
目白リリイほどではないが、
――さてここで中断はおしまい。猫の額ほどの砂浜で思い悩んでいる十のころまで時間を戻す。
徐々にメジロの家の生活になじんでゆく自分。
かといってどうしても、ワルキューレになってほしいというセンリの誘いに応じる気にもなれない自分。
猫の額ほどの砂浜から水平線を望み、一体自分はどうしたいのか、どうするべきなのかを自問自答する日々がしばらく続いた。
そうしているとあの憎たらしいクウガが言い放った台詞が頭の中でわんわん響くこともある。
――言っとくけどね! たーちゃんがあんたの脱走のアシストしたのはセンリ先生に指示されたからなんだからね! あんたがここから逃げ出そうとしてるから、たーちゃんに命令したの! あんたを引き留めろって。あんたは貴重な実験体なんだから逃がすな、どんな手つかってもいいからこの家の外には出すなって!
――たーちゃんが追いかけてくれて、あんた一瞬喜んだんでしょ⁉ 全然そんなんじゃないんだから、たーちゃんにとってはあんたなんて所詮モルモット仲間! あんたなんてそれだけの価値しかないんだから。
くそう、あのヤマネコ女。自分が絶対ワルキューレにはなれないからってこっちに八つ当たりしやがって……と忌々しく思うけれど、反面クウガの言葉が理にかなってることを認めないわけにはいかなかった。
センリにとっては私は貴重な実験体。それは間違いない。実際、誰でも後天的にワルキューレに作り変えることが出来る技術の実用化を目指していても、その手術に耐えられる子供の確保はかなり難しかったと聞いている。センリの所持品から世界各地の児童保護施設や人身売買組織のカタログをセンリが手にしていたのはそういうことだろう。
タイガが自分と同じような人造ワルキューレ仲間を欲しがっているのもきっと間違いない。はぐれているやつをみるとなにくれと構いたがったり、集団で遊ぶのが好きそうな様子を見るにつけて、大勢で和気藹々とやるのが性に合ってるんだろうな、仲間ってやつが本当に好きなんだろうなと考えないわけにはいかなかったから。
私がここから逃げ出す機会を伺っているのを、図書室の会話や日ごろの様子でセンリは既に察している。だからタイガに囁きかけたのだ、おとぎ話の魔女の婆さんみたいに。
リリイになにか甘ったるい言葉でも囁きかけて、ここに留まるように説得しな。でないとお前は、この世でたった一人の人造のワルキューレになっちまうよ?
いいかい、この世でたった一人だよ?
手術しなくてもいい、薬なんて
その寂しさにお前は耐えられるのかい?
――そう唆されたタイガは、あの日ああやって私を逃がすふりをして、一緒に電車に乗って有頂天にさせてからあっさりと別れを告げて突き放すことにより、まんまと私をメジロへ連れ戻すことに成功した。
――考えれば考えるほど筋がぴっしり通っている。
なにしろセンリは元天才少女だ。この程度の策を練ることくらいお茶の子さいさいの筈だ。考えれば考えるほど辻褄が合いすぎている──。
誑かしたい相手を持ち上げて持ち上げていい気分にさせてから突き放す、それって手練手管の基本のキだ。
そんなもんにうっかり引っかかった私は、せっかく自力で作り出した脱出のチャンスを自ら台無しにしてしまった。籠からでていったのに自ら籠に戻ってきてしまった上に風切り羽根を切らせてしまった。哀れで阿呆な
それを否定しきれなくなったある時ついに耐えかねて、「わああああ!」と叫びながら浜の小石を手当たりしだいに拾っては波にむかってぶん投げた。ボチャンボチャンと音を立てて小石は沈む。それを何度も何度も繰り返すことで、怒りを散々爆発させた。
やれやれ畜生、なんてざまだ。
あの軍港の街で、自分と同じような
その誇り高い小戚様が、うっかり寂しくなってグズグズべそをかいたときに傍にいて慰めてくれたり、一人にしては嫌だとビービー泣いた時体を抱いて抱きしめてくれたような相手に構われたせいでマヌケにもあれほど囚われるまいと恐れていた籠に入ってしまったのである。
甘ったるくて優しくて
石というにはちょっと大きい、子供の頭くらいの岩もそこにはゴロゴロしていたから、それを拾っていくつか両手でぶん投げたてドボンドボン放り込むところまで感情が達してしばらくすると、あまりのバカらしさにそのうちいやでも冷静になってくる。
はあはあと、息を整えながら記憶のなかにある光景を見つめ直す余裕もでてくるってものだった。
――ネコ科の獣混じり姿になった時のクウガの目は、悔しそうな涙目だった。
人間と侵略者の間に生まれた子供は「侵略者」に数えられる。人間ではない。何にも悪さはせず、この世にいるってだけで場合によっては駆除対象になる。
今現在になってようやく、ハイブリッドって呼ばれているこの子供たちの人権を認める風に世論は動きはじめているけれど、私の子ども時代にはそんなものは無かった。地域によっては、そんな子供は都市伝説上の存在だと思われていた。
社会的には存在しないことになっている子供たちなんて、大人には保護する義務もない。その子自身にはありのままで生きていいという権利すらない。生きてゆくためには土着化した侵略者のコミュニティに身を寄せるか、人間社会に属したいなら大人の言いなりにきつくて汚くて危険な仕事に従事するしかない。私の子ども時代までクウガのような子供たちをとりまく環境が大変悲惨だったのは、昨今のドキュメンタリー作品に詳しいのでそちらを参照に。
身寄りのない子供に改造手術を施すことを是とするなど一般社会のそれからは大きくかけ離れた倫理観をもっていたことは確かなワコさんではあるが、ハイブリッドの子どもたちを状況に胸を痛め、早い段階から問題意識を抱えていた人物の一人であることは事実である。
メジロの家を巣立ったクウガが今現在ハイブリッドたちのの人権活動家として積極的に発言しまくっていること一つとっても、あの施設が「児童保護育成会」の看板に恥じない活動もしていたことの何よりの証だと思うのだけれど、残念ながらあの当時はなかなか理解されなかったのは皆さんがご記憶の通り。
時には「霊長類に手話を仕込むような真似をする」だなんて、心無いことを言う人もいたくらい世間はこの問題に無理解だった。
侵略者を退治する唯一の存在であるワルキューレは、特殊な素質を持つ人間の女の子にしか成れないものだ。
人間の女の子、である。つまり侵略者であるクウガはワルキューレにはなれない。本人がどれだけなりたいと願っていたとしても、だ。
気が高ぶると半獣化するの女の子に、不思議な武器を持って侵略者を退治する素質のある女の子、どっちの存在も動漫じみた嘘くさいものであることに違いは無いのに。
――だからあいつ、こっちにやたらつっかかってくるのかな?
と、クウガがあの時殴ってきた理由に思い立ったけれど、だからってどうなるわけでもなかった。
クウガは侵略者である以上ワルキューレにはなれない、それは世の真理。少なくとも私が十歳のときの一般常識ではそうだった。それが覆ることがあるだなんて、想像もつかなかった。
そしてそんなクウガの心境をこっちが慮ってやる必要を一切感じなかった。
生育環境の悲惨さなら負けてない自信はあったからだ。なにしろこっちは人豚にされた絶世の美女の娘で、ヤクザの親分連中専用の籠の鳥になるのを必死で回避したと思えば今度はワルキューレになる実験に身を捧げよという新たな籠に閉じ込められた元
「──何やってんだよ?」
波打ち際でさんざん八つ当たりし、冷静さを取り戻したそのタイミングで声をかけられた。驚いてふりむくと勿論タイガがいた。
最高にみっともない所を見られた衝撃と恥ずかしさからしどろもどろになってる私へむけてタイガはニィ〜っと目を細める。
「お前のそういう面白いとこ、みんなの前で見せていけよ。きっとさ、クウガ達がつっかかったりハブにすんのもお前がツンケンするからとっつきにくいせいもあるんだって」
「見せない! 私は面白いやつ違うですし、みんなと仲良くもしなくていいです! 一人は平気です!」
「――、一人は平気?」
そう言ったあと、タイガが猫目をぱちくりさせる。嫌味ったらしく。お前この前あれだけ一人にするなってビービー泣いた癖に? という目で見てくる。そういう態度に出られると、こちらも言葉を取り消さざるを得ない。
「……嘘つきました。たーちゃんだけはいてもいいです」
悔しさからぶすっとした口ぶりでそう言うと、これ見よがしにタイガはニィ〜っとこの上なく幸せそうに笑いながらぴょんぴょんと近寄る。そして、出し抜けにこっちに抱きつくのだ。ぎゅむうっと。
「リリイ……っ、さっきの顔……っ! 超可愛いし。やべえし、つれえしっ、心臓痛えし」
抱きつかれた直後はそりゃびっくりする。心臓はどくっと跳ね上がるし、顔はかあっと熱くなるし、息ができなくて苦しくなる。自分の手をどうしたらいいのかわからなくなる。
──けれど残念ながら、頭は徐々に冷えてしまう。何故ならこの数日前にタイガがクウガにこうやって抱きついてるのを見てしまったばかりだったからだ。
「そう? でもこの前くーちゃんが髪の毛切るのにに失敗した時もこうやってギューッてしながらおんなじこと言いました」
自分で前髪切るのに失敗してひどいぱっつんになったクウガが恥ずかしがってる所が可愛い、ぱっつんも変じゃないしモード系モデルの誰それみたいですごくいいとやたらめったら褒めちぎりながら同じようにギューッと抱きしめていたのを二日ほど前に見たばかりだった。
だのにその当の本人が、きょとんとした声音で言うのだ。
「確かに言ったけど……。え、何それ、それでムカついてんの? オレ可愛いつっただけだのに」
「ムカつくです。普通そうです。そこが分からない、たーちゃんの悪いとこです」
そのほかにもタイガは、普段ズボンはいてるのやつがスカートを履いてるだとか、ぬいぐるみと戯れてる姿が可愛いとか、可哀想な番組に涙したとか、子供達のそういう姿を見るにつけて、可愛い可愛いと褒めちぎりながらギューッと抱きつくのをあちらこちらで繰り広げていた。大体三日に一回はそれをやらかしていた。
その無節操ぶりに、最初は驚いたりムカついたりしていたもののこの頃にはこっちもかなり慣れていた。というよりも繰り返される光景に慣れざるをえなくて、冷ややかな心持ちになってしまうのだ。
「……たーちゃんは誰かれ構わずそういうこと言う。浮気者、不誠実、死んだら絶対地獄行く」
「え? なんでそこまで言う? 可愛いから可愛いつっただけじゃん? なんで怒んだよ、もおおお~」
恐ろしいことにタイガは本気でこう言っている。可愛い可愛いと誰彼なしに褒めちぎるのを一つも悪いことだと思っていない。その行為のタチの悪さがどうも理解できないらしい。
怒った私に軽く肘鉄を食らわされても、唇を尖らせてむーっと拗ねてブツブツと弁解じみたものを口にした。
「──兄さんがオレらに言ってたんだよ。可愛いって思った子には〝お前可愛いな″ってそん時すぐに言っとけって。今度会った時に言おうとしたって次があるって保証はねえぞ。この世の中はそんな悠長なもんじゃねえんだって」
「それがどうしたの? 大体その兄さんって誰ですか?」
「オレを拾って色々面倒見てくれてた人だよ。渋くて半端ねえ男前でクッソ格良くて男からも女からも惚れられるスゲェ人だったの! オレの目標なの! ──だからオレは、ああくっそこいつマジでやべえな可愛いな~ってなった相手にはソッコー可愛いって言うようにしてんだ。可愛いはイチゴがどうたらってやつなんだよ。その瞬間しかないからその瞬間に言うしかねえ。次は無いんだ。――分かんねえかなあ、リリイ?」
おそらくタイガは一期一会と言いたかったんだなと今になって分かるが、当時の私に分かるわけがなかった。タイガは語彙が激貧だし、私はまだ日本語に通じていない。なにより可愛いや綺麗は呪いの文句だって時期を長く過ごしていたこともある。
手持無沙汰な沈黙が訪れて、波が狭い砂浜に押し寄せる音が響く。
太陽はもう水平線の傍に来て、あたりはすっかり赤く染まっていた。
可愛いものや綺麗なものに感応しやすいタイガは、それみてやっぱり猫目を嬉しそうに細めてから、いつのも不味い飴のフィルムをはがして口に入れた。ぶるっと不味さに身震いをした後すぐににんまりした笑顔に戻る。
「いいなあ。こっから見える夕焼けはいっつも綺麗だ。晴れた日は毎日これが見れるってだけで先生さんについて来た甲斐がある」
「――夕焼けなんてどこも同じです。私がいたとこだって海に太陽がしずむとこくらい見えました」
「そうかもしんねえけど、どこでも同じってのは嘘だし。オレのいたとこはボロッボロのビルとか廃墟ばっかだったから、海とかみたことねえし。夕焼けって空の西の方がバァーって赤くなってるやつしか見たこと無かった。あれも悪くなかったけどな」
棒付きの全く美味しくない飴を口に放り込んで上機嫌にころころと転がしながら、タイガは答えた。
全体、タイガって子は自分がどう育ってきたかに関して語るような子ではなかった。自分の経験にあまり価値を見出す方ではなかったのだろう、「兄さん」と呼んでる人物のことや何かの拍子に思い出した風景や出来事をぽろぽろとこぼす程度くらいだった。そこから、やっぱりロクな過ごし方はしてないなって確認するだけで詳しく訊ねはしなかったけれど。
ただ、水平線に沈んでゆく太陽が毎日見れるってだけでここにきて良かったと心底嬉しそうに口にするタイガをみていると、胸の中がなんともざわざわと落ち着かなくなる。
こいつ、本当に自分がワルキューレになるってつゆほども疑ってなくて、怪しすぎる手術に耐えたやつだけが食べるまずい飴なんてものを喜んで食べてるんだ。
――ということはそんな胡散臭い手術済みなんだろうか、本当に。
敢えて深く考えないようにしていたその点が気になって、私はおそるおそる尋ねてみた。
「たーちゃん、本当にワルキューレになるための手術したですか?」
「あん? したからこの飴食ってんだけど」
メジロ式でワルキューレ因子移植手術を受けたものは、元々異物である因子を体に慣らすため、また身体の感覚や運動能力を引きだす因子の働きを補助するための薬を生涯にわたって服用しなければならない。そうしなければ因子がもたらす不可に体が耐えられない。
今となっては常識になっているそれは、この段階ではセンリやワコさん含む数人のメジロの人間と当の手術を受けたタイガ本人しか知らない事柄だ。にも関わらず、タイガは私がその飴がどういったものか既に知っているような口ぶりでそういう。
それがあまりにあっけらかんとしているものだから、つまらない嘘を聞かされた直後のようにいぶかしむ目で私はタイガに見てしまう。嘘であって欲しい。そんな気持ちも多少はあった筈だ。
だからなのか、タイガはちょっとムキになりながら私に背を向けた。
「本当だし、嘘ついてねえし! ホラみろ」
そういって、着ていたハイネックのニットの襟をうなじあたりまでぐいっと引き下げた。タイガの髪は短いから、そうするだけで首すじがあらわになる。
ニットを提げた指でいわゆる盆の窪あたりを示すので、私は顔を近づけた。一見するだけではわからないが、濃い小麦色の地肌の上に、ぽつぽつと小さな肉の盛り上がりいくつか並んでいるのは確認できる。虫刺されか小さなほくろのようなささやかさだが、左右対称のその配置は明らかに人の手によるものだ。
それを見た私は思わず、うわ、と声をもらした。それきり言葉を失ってしまう。
「どーだ! 嘘じゃねえだろ、参ったか!」
私の絶句を一体何と勘違いしたのか、ニットの襟を直してタイガはこちらに向き直りふふんとドヤ顔で勝ち誇る。
夕日に照らされたその悪ガキめいた表情は勝気で快活そうな印象を与えるつり気味な猫目の魅力を引き立てていたけれど、それをみていて私の胸には動揺が広がる。一瞬眩暈を感じて、満ち潮が足元の砂を削ったのかと錯覚したくらい、私はその表情にショックを受けていた。
まだ自分はワルキューレではないだの、一緒にワルキューレになろうだの、オレも必ず太平洋校に入ってワルキューレになるからだの、それまで散々タイガは散々自分がワルキューレになることを信じて疑わなければ出てこない類の発言を繰り返していた。
私はそれを無知なせいで悪い大人に騙されているアホで可哀想なヤツの妄言として流していた。でもそうではなかったのだ。
私は人や物事をあるがまま素直に信じて受け入れるってことに時間がかかる方だ。
だから目の前で手術の痕をみせつけられたって、それが本当に女の子をワルキューレに変えてしまう手術があるだなんて、素直に信じることができるわけがない。
それでも、こうして証拠を見せつけられた以上、普通の女の子をワルキューレに改造するかどうかはともかくとしてもタイガがなんらかの怪しい手術を施されている後である点は受け入れざるを得ない。しかも本人が納得・了承した上で。
それだけで、言葉を失うのは十分だった。
本当にとんでもないバカだなお前! って、ようやく出てきたセリフをなんとか抑えて、私は訊ねた。
「――たーちゃんはなんでそこまでワルキューレになりたい?」
「あん? なんでってそりゃカッケエし。船ん中で言ったじゃん。お前みたいな奇麗で可愛いやつを護る為になるんだよ」
自分で言ったことに照れたのか猫目を細めてニヒィと笑ってみせるその顔に危うくごまかされそうになったけれど、私は食い下がった。
そんなことあるもんかという気持ちでしつこく問う。
「本当にそれだけ? かっけえだけでなる? 私みたいなヤツ助けたいからだけで、脳みそに近いとこいじくる変な手術までしてワルキューレなるなんて、嘘、ありえない。本当の理由、何? なんで?」
どうしても説得されたい、納得させてほしい。その一心で私はきょとんとした顔つきのタイガに重ねて説明を強いる。
タイガは飴をころころ転がしながら、タイガはきょとんと見つめた。
その顔つきから突っ込んだことを馴れ馴れしく聞きすぎたんじゃないかと緊張したけれど、なんのつもりか浜に落ちてる小枝を拾い上げて自分がワルキューレになった理由を間をおかず、あっけらかんと明かしたのだ。
「なんでってそりゃお前、金貰えるし」
ざざん。と押し寄せた波の音が響いた。
まだまだ絶句している私がおかしいのか、拾った棒きれを無意味に振りながら勝ち誇るようにタイガはニマニマ笑って楽しそうに続けた。
「リリイ、知ってるか? オレらみたいな親無のガキだと養成校の学費や雑費は免除されっしその上ばりっばり侵略者退治したらそれだけで金がもらえるんだぞ。それも月給制じゃなくて出来高制だ。つまり強いヤツ倒せば倒すほど金がざっくざく入ってくんだってさ。最高じゃん! なるしかねえじゃん!」
あまりにタイガが無邪気に言うものだから、私はなかなか言葉を取り戻せなかった。だからやっとの思いで「知ってるよ!」と答えるのに、こっちの方がちょっとの間を要した。
知ってるに決まってる。
いくら人類とこの世界を愛せよと定められてはいても、ワルキューレは人間である。命をおとすこともある危険な仕事にまだ若い女の子たちを駆り立てる罪悪感をごまかしたいのと、自分たちの待遇改善を訴えた第二世代以降のワルキューレの要求が高まって、侵略者退治をすれば報酬が支払われることになっている。
その仕組みを、世界各地どこにでもいるヤクザな連中が性善説を前提にしてるようなそんな制度を悪用せずにいるわけがないだろうに。
縄張り内にいる極貧家庭のガキや女の浮浪児をかき集めて検査を受けさせ、ワルキューレになれる素質があるかどうかを調べたあとに、素質ありと見なされた子供をちゃっちゃか選り分ける。そして自分はその子供の保護者であるって証明書と、この子名義の報酬は成人するまで私が管理監督するっていう届出の二種類の書類を作ってから養成校へ送りだす。哀れなその女の子が学校生活の傍らで怖い思いをしながら完遂した侵略者退治の報酬は、ぜーんぶ書類上の保護者の指定した口座へ流れてゆく。そういうあくどいやり口が商売としてなりたっている階層が既にあったのだ。
――ワルキューレが奴隷拘束や人身売買の温床にならないように、偉い人たちが知恵を絞って対策を講じても、必ずその裏をかいた商売が生み出されてイタチごっこって状態が今も続いているのは皆さんおそらくご存じの通りだ(それもこれも『ワルキューレは特別な女の子にしかなれない』って原理原則があるせいじゃないですかぁ~? それなのに、笑っちゃいますよねぇ~? その原理原則に唯一立ち向かったワルキューレを一生檻に閉じ込めたあの人たちときたら、有効な対抗策すらたてられないんですものぉ)。
小戚だった私が、自分にはワルキューレになる素質がないことを既に知っていたのもその商売があったればこそだ。
勝手に取られた髪の毛だかなんだかを調べられていたらしく、「お前もワルキューレになれれば便所ぐらしなんかしなくてもすんだのによ」とあの街のサンピンから聞かされたことがあるのだ。勿論そいつを傘でしばいてから、そんなものが自分にはなかったことに感謝したわけだけど。
「先生さんはさ、手術の費用もメジロ持ちだし、侵略者退治でもらえる金も全部オレの懐に入れていいって言ってくれてさ、だからワルキューレになることにしたんだ。ちょっとばかしまとまった金も必要だったし、それにワルキューレってやっぱカッケエじゃん! なれるもんならなりてえじゃん!」
タイガはドヤ顔のままで、棒きれを指先で鉛筆のように回してみせた。
その様子はただただ私を混乱させた。まだまだ小戚の気分の大きい身には、辛いのか腹だたしいのか、悲しいのかなんなのか分からなくて、うっかりするとまた泣きそうになってしまう。
それをなんとかごまかすために、怒った口ぶりで尋ねていた。
「――それでセンリと契約してワルキューレになれるって怪しい手術を受けちまったわけですか?」
「? そうだけど、それそんな悪ぃことか?」
振り向いたタイガは私の不機嫌をようやく察して、心底不思議そうに首を傾げた。
悪いに決まってんだろ、本当にバカだなお前! って思いを吐き気と一緒に私は飲み込んだ。そのせいではらわたが焦げ付きそうにあつくなる。
昔の動漫に出てくる。美少女戦士や魔法少女は、可愛い服やきらきらしたアクセサリーや「あなただけ特別に授けます」って頭をポーッのぼせ上がらせる甘い言葉と一緒に不思議な魔法の力みたいな真っ当に慎ましく生きるには本来必要としないガラクタを押し売りされたあげく、芸能人稼業だの得体のしれない赤ん坊の母親代わりだの世界を救うために悪と戦うだのといった死ぬほどめんどい仕事に駆り出されるって不当すぎる契約を結ばされ奴隷並みに酷使させられていたものだ。でもシンプルに金と憧れだけで体を改造しなきゃならないような契約を交わした後のタイガの状況はあのアホみたいな二次元の女の子たちが置かれた境遇の数倍酷い。最悪だ。
ドジで泣き虫だけどひたむきで平和と調和を愛する動漫のヒロインのほとんどは最終的に普通の女の子に戻れるのだ。でもとっくに変な改造手術を受けてるタイガは普通の女の子とやらにすら戻れない。
いや元々普通の女の子だったはずがないタイガだけど、手術前のタイガは当たり前に自分自身の身体の主人でいられた筈だ。でも手術なんてしたせいで、センリって悪い医者の実験体だ。モルモットなんて立場だ。人ですらないネズミちゃんだ。
そうとしか思えなかった私は大いに呆れた。心底呆れた。そしていよいよ本格的に腹が立った。
私と似たような育ち方をしてきたくせに、のうのうと怪しい話に食いつきやがって。自分の命や身体っていう資本のベース、財産の中でも一等大事な奴をあぶく銭や憧れなんてもんのために世の中を呪いつくしてそうな怪しい女に譲り渡しちまいやがって。
「……リリイ?」
こっちを見るタイガの表情から調子にのった悪ガキのような雰囲気が消える。
腹が立ちすぎたせいでこぼれた涙をそのまま垂れ流しにしている私をみて驚き、慌てて戸惑ったようだ。
「なんで泣いてんだよ? オレなんもお前泣かせるようなこと言ってねえだろ?」
「言いました! たくさんたくさん言いました! バカの見本市みたいなことばっかり言うから、私ムカついて腹立って泣けてきたです!」
地団駄踏んで私は怒った。言葉が追い付かないので、そうやって子供丸出しにして感情を伝えるしかなかったのだ。
「バカっ! バカバカ! たーちゃんのバカっ! ワルキューレなんて
「はぁぁあ~? んっだよお前、人の夢と希望をけなしてくれてんじゃねえぞコラ?」
タイガは猫目をすがめてこっちを睨みつけた。そういう表情を見せつけられると、小戚の部分が反射するわけで私も涙を腕でこすってから目に力を籠めて睨みあう。
場末の野良猫みたいに威嚇しあう私たちのうち、口火を切ったのはタイガだ。
「――兄さんが昔言ってたんだ。他人の夢を貶す時は殺されてもいいって覚悟がある時だけだってな。つまりな、そういうことだよ、リリイ」
「〝へえ? お前の兄さんいいこと言うな。そんな名言はおれだけに聞かせるにはもったいねえ、紙に書いてやっすい料理屋の便所の壁にでも貼っときな!〟」
腹が立ったその結果、私は故郷の街の言葉で言い返した。でないと感情が追い付かなかったのだ。この場所ではタイガには伝わらない筈だったが頭に血が上ってそれどころではない。
だというのに。
猫目に戦意を宿らせたタイガは私の襟首をつかみ、足払いを食らわせて砂浜の上に容赦なく押し倒す。そのまま私の胴体に馬乗りになったタイガは拳を振り下ろす。近づく拳を受け止めるつもりで私は奥歯を噛みしめて目を見開く。瞬きしてたまるか、と本能がいきりたっていた。
けれど、拳は私の頬を掠めて振り下ろされた。どすっ、と、砂浜に叩きつけれたそれのおかげで砂が舞い、顔に被る。
怒りで瞳孔のすぼまったタイガの目が私を見下ろす。
普段は私とそう変わらない敏捷そうな十の女児の体なのに、下から見上げるとまるで喉笛を食いちぎろうとする猛獣みたいだ。私も相打ちを狙うつもりで睨み返す。瞬きをしたら負けだという気持ちで歯をくいしばる。
ざざん、と近くで波が鳴った。
「……」
そのまま私の顔面を四、五発立て続けに殴りつけるのも余裕だった筈なのに、時間がたつとタイガの体からしゅるしゅると戦意と圧がぬけていった。
拳を持ち上げ、目元から凶暴さが消えかわりに泣き出す寸前のようになる。
もそもそと私の体から降りて、気まずそうに私の手を掴んで立ち上がらせる。砂まみれになった無言の私の背中を払いながら元気なくボソボソと呟いた。
「……リリイ、あのさ。兄さんのこと悪く言うのだけはやめろよ。それだけはマジで、ほんと頼むわ」
「──」
それは本当に打ちのめされ、傷ついた女の子の声だった。
およそタイガらしくない悄然としたその声に私は狼狽する。そんなつもりは無かったのにタイガを傷つけてしまったことに対する後悔が一気に押し寄せ全身が冷える。
なのに口からはごめんなさいが出てこない。こういう時にはまずこれを言わなきゃって言葉なのに、喉の奥がしまったように出てこない。
ようやく出てきた言葉は、今する必要のないどうでもいい質問だ。
「……なんで私がたーちゃんの兄さんをバカにしたこと言ったって気づいた? 私、さっき私の言葉でしゃべった。ここ翻訳システム使えない、たーちゃんわからない筈」
「バカ。フインキでわかんだろうが、そんなもん」
ころりと飴を転がしてタイガはぶっきらぼうに答えた。
スカートのポケットに手を入れて、タイガはこちらに背を向けてとぼとぼと歩きだす。「先戻るわ」と元気ない声でそう告げて、セメントの階段を上ってゆく。
私が初めて見る、力ないタイガの後ろ姿が追いかけられず、その場に立ちすくんだままその後ろ姿をなすすべもなく見送る。
最後の一段を上る前に、たーちゃん、と声をかけてみたけれど、波音が被さってタイガの耳には届かなかったようだ。タイガはこっちを見ることなく木立の向こうの庭へさってゆく。
あそこにはどうせクウガたちがいるはずだ。元気のないタイガを見て、待ち構えていたように慰め励ますはずだ。
その様子を思い浮かべて、顔についたままの砂を払った。いい踏ん切りがついた、と心の中で嘯いた。
翌朝、院内学級での勉強時間の合間をぬい、院長室に無理やりのりこんで多忙なセンリに足止めをくらわす。ワルキューレにはならない、なれないと決意した以上、ここを出てゆくしかない。その挨拶に訪れたのだ。
が、回診だのなんだのでお医者さんとして普通に多忙なセンリは、それなりに悲壮な顔をしている筈の私の話を右へ左へ聞き流すのだ。
「ああそう。ちょっとその話はあとにしてくれないか? 今忙しいんだよ」
「おれはここから出させてもらうって言ってんだけど⁉」
「ここの連中も暇じゃないんだ。忙しい大人の手を何度も何度も煩わせると手術中に仕返しされるぞ」
「その手術がどうしてもイヤだから、出てくって言ってんだけど! ――ワルキューレなんか冗談じゃない」
白衣にきっちり編み込んだ髪、そしてメガネというお医者さん状態のセンリは私を見て困ったように腕を組む。眼鏡越しに、やれやれと言いたげな視線をおくるだけでセンリは無言だ。それでも言いたいことがあるなら言えと目で言うので私はそれに従った。
「あの街でおれが貯めてた財産は置いてくよ。諸々世話になった礼だ。足りなきゃその分は働いて返すよ」
「働いて返すゥ? どうやって?」
「今まで自営で荒事やってきたんだ。こっちの言葉もちょっとはつかえるようになったし、おれには傘がある。えり好みさえしなきゃ仕事なんていくらでもある筈さ」
「それでまたどっかの親分さん連中からガキの使いみたいなシケた仕事をこなす毎日にもどるってわけか? ――あのな、リリイ。うちは曲りなりにも児童を保護して育成する団体なんだよ。みすみす以前と同じ荒んだ境遇に戻るって言ってる子供を外に出せるワケないだろう」
身寄りのない子供にろくでもな手術を施す悪徳医者の分際で、センリは正論を説く。
「一応言っとくけどね、お前に糞をなすりつけられた黄家の支部はこっちにだってある。ぞっとするくらい綺麗な顔をした仕込み傘を使う女のガキの手配書は、旧日本の津々浦々まで出回ってるさ。もちろんこのあたりにだってね。いくらお前がガキ離れして強いからって、たった一人で猟犬みたいな連中相手に逃げ切れると思うのかい?」
「――」
「この前の脱走だって、一歩遅けりゃ怖いオッサンたちが乗ってる防弾仕様の車に連れ込まれてたかもしれないんだ。そうなったら最後、お前の母さんの方がずっとマシって目に遭わされるのは確実だよ? それでもここを出るってんならとめやしない。ご多幸を祈らせてもらうよ」
それだけ言ってセンリはドアを開け、外に出ようとする。その白衣を私は掴んだ。鬱陶しそうに見下ろすセンリを私は負けずに睨み返した。
「そうやって引き留めて、手術をうけさせようって魂胆なんだろ⁉ 見え透いてんだよ、糞医者! 藪医者! 淫獣女! ヤクザよりヤクザな極道ワルキューレ!」
「今の私がお前を引き留めてるように見えるってんなら、餞別に今すぐ眼科につれてってやらなきゃいけないね」
「――っ、そういうとこだよっ。そういうところが本当に汚いよあんたはっ! そうやってタイガを唆しておれを足止めさせたくせに……っ!」
こっちをワルキューレに改造するつもりで声をかけてきたくせに、出て行くと言い出したらロクに引き止めやしない。
押して押して押しまくって一気に引く、そのやり方は汚くてずるくて卑怯だと、こっちを一欠片も人間扱いしてないと無茶苦茶を言ってポカポカとセンリを拳で叩いて罵った。
これはもう手がつけられないとセンリは判断したのだろう。院内通話でカウンセリングが必要な子供が出てきたから回診は誰かに頼むと伝え、応接用のソファに座らせて自分も向かいに座った。
今まで無表情で佇んでいたセンリの秘書が興奮する私の前に温かい湯気の立つカップを置いた。匂いからしてココアだった。
「とりあえずそれ飲んで落ち着きな」
甘くて温かいもので気を紛らわせようとするとか人をガキ扱いしやがって……と大いにムカついたものの、カカオの芳香に負けてカップに口をつける。とろりとして濃厚で甘い、上等のココアで体は強制的に温まるし気持ちもある程度やすらぐ。
そんなことで誤魔化されないからな、とねめつける私をセンリは呆れて見やった。
「リリイ、さっきお前妙なことを言ってたね。私がタイガを唆したとかなんとか」
「──おれが逃げた日の状況から見てそう考えるのが自然だ」
「迷子になるから勝手な行動はつつしむようにって言いつけすら守れずに祭の屋台にフラフラ誘われちまうようなアイツがこっちの思う通り素直に動いてくれたらこんなに楽なことはないよ。何手も先を読むのが得意な秀才の天敵はなんも考えないバカって相場が決まってるもんさ、昔っから」
ココアのカップを両手で抱え持つ私は、センリの自認が天才ではなく秀才だという本筋とは関係ない点がふと気になった。じっと見る私の視線を気にせず、センリは自分も自分で秘書が運んで来たコーヒーを飲んだ。
「こないだまで屋内で引きこもっていた子供が急に外に出てきてウロウロすりゃ目につくだろ。あいつはゲリラの末端の末端の出で群れ生活が骨の髄まで染みてる。構成員の変化にゃ敏感だし、なによりここの古株だ。この前まで屋内に引きこもってばかりだった子供が急に外に出てウロウロし始めたのを見てピンときたんだろ、お前が逃げようとしてるなって。可愛いお前が逃げたいってんなら寂しいけどその手伝いしてやろう、そんな気になったってだけだろうさ」
私はセンリを睨んだ。嘘つくな、胡麻化すな、私に都合がいいだけのそんな話があるものか、そういう思いを込めて睨んだ。さっきも言ったけれど、私はどうしても物事を素直にそのまま受け入れるのに時間がかかる気質なのだ。
睨まれたセンリは、はーっとため息を吐く。
「ま、どっちの話を信じるかはお前次第だよ。どうせ人間ってのは信じたい話しか信じられない。そういう生き物だ」
「――詐欺師ってのはそういう言い方をしてカモから考える力を
「ああ、そういえばお前を迎えにきてくださったあの奥様のご稼業はそうだったか」
コーヒーのカップをソーサーの上に置いて、センリは秘書に目で合図をおくる。精工な人形みたいに感情を感じさせない秘書は無言でタバコと灰皿を用意する。茶色いフィルターのそれを咥えてアンティークのライターで火を点けて、センリは深々と煙をくゆらせた。
「――お前にとっては私も詐欺師みたいなもんだろう。だからこれから話すのは、可愛そうなカモの吹き込んでこの人になら全財産つっこんでも惜しくないって錯覚させるために囁く夢みたいに甘いセールストークだ。これを聞いて心がちっとも動かなきゃ、来るべき時期にここから出て行って自由に逞しく生きていくが良い。お前の稼いだ財産だってそっくりそのまま返してやる。でもちょっとでも心が動いたら、お前はここにいてタイガと同じ条件で私の手術を受けてワルキューレになるんだ。いいね?」
「――」
妙なゲームをもちかけてきたセンリをいぶかしみながら、少しずつ啜っていたココアのカップをテーブルの上に置いてから私は頷いた。
タバコを咥えて薄く笑うセンリの顔をじっと見つめる。誰よりも知恵のまわる女の子だった大人の、消えないクマの浮かんだ目に焦点をあてる。
どうせきっと、タイガに説明したようなワルキューレになった時の利点でも聞かせるつもりなんだろう。そんなことでこっちの心が動くものかと気を張る私の前で、タバコを指に挟んで煙をふーっと吐いたセンリが放った言葉がこれだった。
「結構。――まず、リリイ。お前はずいぶんいい子だね」
予想外のとこから飛んできた先制攻撃に、うっかり虚をつかれてしまう。あわてて態勢を立て直そうとした所へ、センリはラッシュを叩きこむ。
「いやはや全くのいい子だよ。世話になった者への礼は欠かさない、自分の身は自分で守る、自分の食い扶持は自分で稼ぐ、誰にも迷惑かけずに自力で生きることをよしとする。その年齢で見上げた気概をもつ健気な娘だ。厳しい生き方を強いる世間ってものを呪いもせず、ちょびっと文句を垂れるだけで適応して不合理も不条理も従順に粛々と受け入れている。望むことは自分の尊厳を維持すること、誰にも干渉されず慎ましく静かにくらしたいってことだけ。身の丈にあった幸せで満足できる無欲さだ。世の中に対してここまで従順で健気でこんなにいい子は見たことが無いね。お前はまさに天国へ行ける資格を有する子だよ」
いい子だいい子だと連発するセンリが私を皮肉っていることぐらいは分かる。
だから身構えて「ありがとうよ」とだけ返す。叩いて貶した脅した後はどうせ甘い言葉を売りこんでくるものだがら、それに身構えればいいだけの話だ。そう侮って、私はセンリに応戦した。
「誉めてくれてる所悪いけど、おれは結局最後にあっちの大人連中をひと泡吹かせてこっちに来たんだ。あんたが言うほどいい子じゃないよ」
「そこさ、私がお前を気に入ってるのは。いい子のお前の心の中には悪い子の種がある。ちょうどパンドラの箱に最後だけ残った希望みたいにさ」
地味な口紅を塗った唇を左右に引いて微笑む。
その対応は私の防御のテンポを乱すものだった。言ってる意味が分からず面食らう私へセンリは畳みかけた。
「お前は人生の収支決算の場で天国行を確約するためだけに、大人しく慎ましく生きるだけで収まる器じゃない。その気になればもっともっと悪い子になれる。天国なんぞよりずっといい所へ行ける。そんな子さ」
ふーっと、センリは口から煙を吐いた。タバコの火口から立ち上るけむりとそれは部屋の中でとけて混ざる。あの街にいた時の、兄さん連中の事務所を思い出さないわけにはいかない匂いだ。
母ちゃんがロクでもないお大尽に飼われてるってことをしっかり把握していたにもかかわらず、助けもしてくれなかったあいつらの匂いをよびさます匂いだ。
あの便所の浄化槽で人豚にされてるってことを知ってた癖に、なんもしてくれなかった連中の。
母ちゃんのようにならないために、と気を張った私が大小さまざまな仕事を融通してもらっていたあいつらの。
それを思い出すと座ってるのに立ち眩みのような感覚が襲ってきて、両方の二の腕を押えてしまう。
「――悪いけど、タバコをやめてくれないか?」
「すまないね。こういう時じゃないと気持ちよく
案の定だ。弱みを見せた私への攻撃は執拗になる。
「私はね、お前はもっと悪い子になるべきだって思うよ。お前はだれよりそうなっていい資格がある子だ。お城に住みたいとかドレスが百枚欲しいとか、雨が降ったから学校は休むとか、頭が痛いから自主休業にするだとか、あれが欲しいこれなやりたい、そうやってワガママ口にして夢をもって好きに生きていいんだ。お前やお前の親御さんをそんなにした上に、お前を小さく慎ましく生きることを強いる世の中を拵えた神様に対して従順になる必要はない。どうせくださるご褒美は死んだあと天国に入れてくださるってことくらいだ。シケてんのさ、
「――教会や
「だったら好都合! なおさら何かに遠慮していい子に暮らす理由も理屈もないじゃないか。悪い子になって天国以外のどこにでも行ってなんにでもなりな。綺麗な景色みて、うんとうまいもん食って、奇麗に着飾って、好きなヤツ作っていちゃついて、むかついたらケンカして仲直りして、ああ自分は世間のやつがなんて言おうが思う様生きて生きて生きぬいたって笑顔で収支決算の日を迎えられるように、面白おかしく毎日笑ってくらすんだよ。そっちの人生のが得だ」
とんとんと灰皿の縁にタバコの火口を叩いて灰を落とす。
おとぎ話の悪魔そのままにセンリは私を誘惑している。悪魔にそそのかされるタイプのおとぎ話では大抵主人公は手痛いしっぺ返しを食らう。動画屋の中で見ていた動漫には、悪魔みたいなセールスマンに唆された結果、廃人みたいな状態にされてしまうオチのものがあった。
センリはあれらとそっくり同じことをしでかそうとしてる癖に、眼鏡の向こうの目がいやに真剣だった。あれが演技だったら大したものだって掛値なしに言える目だ。ヨレた雰囲気の悪徳医者の癖に生真面目な女の子の表情を覗かせる。
センリに言われっぱなしになるのは癪だ。私は言葉を絞り出す。
「ワルキューレはいい子じゃないとなれないもんじゃないか。おれをワルキューレにしたいって言ってるくせに悪い子になれだなんて、矛盾してるよ」
「違うよ。ワルキューレは侵略者を倒す因子さえ有する者なら誰だってなれる。いい子だろうが悪い子だろうが、人格は問わない。問うべきではない。命を賭さなきゃならない危険仕事だからその分実入りと保証も大きい。そういう仕事であるべきさ。――全人類を愛せよだなんて、くっだらない」
灰を落とした後の煙草を咥えて、センリは続けた。
「残念だけどね、リリイ。保護児童としてのお前には、うちのサポートがあってもしてやれることは十八歳まで衣食住を提供して勉学のサポートをするってことだけだ。その先の進学費用くらいなら勿論出してやれるが、その先は自力で慎ましく堅実に大人になってもらわなけりゃならない。――でもね、ワルキューレになりさえすりゃ短期間で一財産は作れる。それを元手に財産をふやすなり事業を始めるなり、単に浪費するなりなんでもいい。それを元手に世間ってのが届かないくらいうんと遠くで、うんと優雅に面白おかしく暮らしてほしいんだよ、私はね。ザマーミロって地べたの連中を見下ろしながらさ。『優雅な生活が最大の復讐』っていうだろ」
――幸いあんたは上から下々を見下ろしてフフンって嗤うのがこの上なく映えそうな稀な顔立ちを授かってるんだからさ、と冗談を口にしてセンリは笑った。
センリは時々、委員長じみた優等生の成れの果てとは思えない荒んだ表情で世の中全体を呪うようなセリフを口にしていたもんだけど、自分の冗談で自分で笑ったその時ほど呪いの深さを伺わせたことはない。
自分でもそれに気づいたのだろう、その空気を取り消すようにふーっと煙を吐いてから吸っていたタバコを灰皿に押し付けて、新しい一本に火を点ける。
「――で、ちょっとでも私の話に心が動いたかい? このまま普通の子どもとして十八歳までここにいてそこから慎ましくも幸せな神様好みないい子の一生を過ごすのか。一生薬を服用する生活にはなるがワルキューレとしていい子が到底見られないような目くるめく人生を送るのか。お前はどっちを選ぶ?」
「そんな、急に答えられるもんか」
タバコの煙の匂いのせいで不安定になったこともあり、私はぞっと寒気を感じた。やや温くなったココアのカップをまた両手で囲うようにして持った。
「――よくわかんないけどさ。自分の呪いや復讐におれを巻き込まないでくれよ」
「分かった。答えは保留ってことだね。──やれやれ、私には詐欺師の才が無いってことか」
かみ合わない答えを寄越して、センリはくわえタバコのまま立ち上がった。
「私はこれを
話はこれでお終い。センリは態度でそう告げる。
この場でついた話は結局、私が今の段階でメジロの家を出ることはならない、ワルキューレになる手術を受けるつもりはないって言うなら十八歳までここにいろってことだけだ。
最後にココアを一口飲んでから私は立ち上がりセンリと無表情な秘書に頭を下げて、静かにドアを開けて外に出た。
院内学級の授業に戻れというのがセンリの言いつけだったけれど、そんな気にはとてもなれない。
呪いに満ちたセンリの視線と、センリの言葉の意味を考える為に足は自然と庭の向こう目指している。木立の向こうの階段の上まで来た時、猫の額ほどの砂浜を見下ろして、あっと声をあげてしまった。
先客がいたのだ。
打ち寄せる波相手になぜか棒きれを振るという妙な遊びをしているタイガがいたのだ。ゴルフのクラブかホッケーのスティックかそれとも野球のバットのつもりなのか、タイガは上半身をキレよく捻ってぶんっぶんっと拾った棒きれをふっている。
何やってんだ、あいつ。授業にも出ないで。あれじゃバカが治らないだろ……と心の中で呟きながらそろそろと後ずさった。昨日のケンカの直後で顔を合わせるのは気まずかったのだ。センリに合って話すまで、私はタイガに会わずにここからでてゆく予定だったのである。
物音をたてず静かに速やかに立ち去る予定だった。実際足音も物音も何一つたてなかった。
だというのに、ギュンっとタイガは素早くふりむいてこっちに気づき、もっていた枝をこっちに突き付ける。
「あー、リリイってめえ! 今までどこにいたんだよっ。朝から姿見せねえし、そのせいで探し回ったっつうんだよ! いるんならいる、いないんならいないって返事しろよ、バカ!」
――バカはどっちだと言いたくなるような意味の分からない言葉を吐きながら、タイガはぷりぷり肩をいからせながら階段を上ってくる。
昨日の悄然ぶりが嘘のようにすっかり元気になってるタイガのその顔をみてると、こっちも無駄に張り合ってやる気持ちが湧いてきて同じようなペースで階段を下った。
「私、センリに相談することがあって院長室にいただけ! それだけなのにたーちゃん大げさすぎっ! 心配しすぎっ!」
「心配しちゃ悪いかよっ、お前が今度こそ本当にどっか行ったと思ったんだからしょうがねえだろっ!」
階段の中ほどで私とタイガは出会う。昨日みたいに場末の野良猫のように睨みあうつもりなのかと身構えると、眉と猫目を吊り上げていたタイガはこっちをみるなり、泣き出しそうな情けない表情になった。というよりも、実際猫目からぽろぽろ涙をこぼしていた。
びっくりしている隙に、タイガはこっちの体にまた抱き着く。ぎゅうっとしながら、涙をと鼻水を盛大に垂れ流しているのが想像つく酷い鼻声で、ぐずぐずとべそをかきながらこっちに向けて謝りだした。
「リリイ……、昨日はごめぇぇん……、お前にあんなことしてごめぇぇん……っ、ブチギレてぶん殴りかけてごめぇぇん……っ」
うぇぇぇぇ……っと、耳元で盛大に泣きながらリリイは繰り返し繰り返し私に向けて謝った。
急に抱き着かれて、また心臓を跳ね上がらせた私だけどタイガの謝罪の仕方とその内容に呆れて冷静さを徐々に取り戻す。たかだかケンカになって馬乗りになって殴りそうになっただけだってことで、なんでそこまで派手に謝るのか。
むしろ謝らなきゃいけないのはこっちなのに。
遊ばせていた腕をそっと回して、タイガの背中をとんとんと叩いていみる。ネイビーのピーコートの感触越しにタイガのよくしなる背を叩く。
そうしているうちに、昔はターニャ姐さんに今はタイガに、と、自分は今まで泣いている時にあやされている機会には恵まれていいた方だったんだと不意に気が付く。そして、あやして慰める側に回ったのは初めてだってことにも。
「あー……、たーちゃん? 大丈夫、大丈夫」
泣いてるやつの背中を叩いて慰める、たったそれだけのことがやたらと気恥ずかしい。慣れないことをする戸惑いに混乱しながら、コートごしでも無駄が無くよくしなることがわかるタイガの背中をトントンとゆっくり撫でさすってやった。
そうすると自然にこっちの気持ちも落ち着いて、それどころかじわじわと温いものが胸に溢れてきて、昨日なかなか言えなかった一言がぽろりと口から転がり落ちた。
「たーちゃん、そもそも昨日のことは、私が悪かった。頭に来てたーちゃんの兄さんをバカにした。ごめん。謝る。だから泣かないで。泣いちゃ嫌。たーちゃんは笑ってるのが似合う」
一旦体を放して、ポケットからハンカチを出してタイガの涙と鼻水を拭ってやる。唇をへの字に結んですんすん鼻水を啜り上げる泣き顔があまりに酷くて稚かったからだ。
顔を拭いながら近くで観察すると、タイガは泣くより笑うのが似合う顔立ちだというのがよくわかった。悪ガキのようにニヤニヤしたり、綺麗で可愛いものを見て目を細めたり、腹を抱えてケラケラ笑ったり、血に飢えた戦神のように犬歯をのぞかせてみたり、笑った時のバリエーションが羨ましいくらいに多い。
そのことに気づいた時にふと嬉しくなって、私は呟いた。
「うん、たーちゃんは笑った顔が可愛い。たーちゃんの笑った顔が、私好き」
──あれ、今なんか変なこと言ったかな?
と、気がついたのは泣いたばかりのタイガの顔がまた赤くなったせいだ。、猫目を丸くしてこっちを凝視したからだ。
しかもその目が明らかに動揺して泳いでいた。声まで派手に上ずる。
「か、かかかっ可愛いって誰がっ」
「誰って、たーちゃん」
「ちげえしっ、可愛くねえしっ。オレはカッケエ担当だから可愛くはねえし!」
狼狽してますます意味の分からないことを言い出すタイガは本人の名乗りとは正反対で格好悪いことはなはだしい。どちらかというと挙動不審になってるところは可愛いに近い。
――タイガは胸のときめきを与えた者には誰構わず可愛い可愛いを惜しみなく連発するテロリストめいた所があったくせに、自分のことが可愛いって褒められるのに極端に弱かった。とにかく受け身がとれない子のだ。
一緒に生活するうちに徐々に掴んできたタイガのこの傾向は、この段階ではまだ把握しきれていない。なんでコイツ急に目ェグルグルさせるんだろ……と不思議になっている間に、タイガは私の腕をつかんで階段を下る。
「いいかっ。ちょうどいいし、今からオレの格好いいとこ見せてやるっ! ほえ面かくんじゃねえぞっ」
やっぱりタイガは意味の分からないことを言ってるが、腕をつかまれたタイガに従って波打ち際まで連れてこられるのは悪いもんじゃなかった。悪だくみの仲間にさそわれたようで、ちょっと楽しかった言える。
メジロの家のあるあたりは、冬場になるとかえってよく晴れた。その日も空が青く澄み渡っている。お日様はてっぺんに達していなくて夕焼けの時間には程遠いがそれでもなかなかよい景色だ。
タイガはゴホンと咳払いをして、その海へ向けて、前後に足を開き。まだ捨てずに手に持っている木の枝の先をつきつけた。その表情は真剣だったが、何をするつもりなのかがさっぱり読めない。
「何するつもり? たーちゃん」
「リリイ昨日、ワルキューレなんてタチ悪いって言ったじゃん。そんな手術受けるなんてバカだって。そんなことねえし、ワルキューレになるのって格好いいんだってとこをお前に見せたいんだよ」
タイガは舌なめずりをしてニヤリと笑う。こういう血の気の多そうな笑顔もまた似合うなって感心することに私は集中することにした。センリとの話のこともあり、ワルキューレの話題はその時の私には負担だった。
だというのにタイガは勝手に力むのだ。無造作にいつもの飴のフィルムを剥いで口の中にあの飴を放り込む。ぶるっと身震いをしたあと、偉そうになにやら宣言した。
「オレは先に手術を受けた身として、ワルキューレは夢と希望を賭ける価値のあるもんだってお前に伝えなきゃなんない義務がある!」
しらないよ、そんな義務。魔法の杖みたいに棒きれ構えてjump系動漫の主人公みたいな大見え切って、何やってんだよ。魔法使いのガキが出てくる映画みたいなことする必要ないから帰ろうぜ。
そう突っ込んでやりたかったのに、タイガの顔を見ているうちに言葉は引っ込んだ。。
水平線を見つめるタイガの猫目からいつもの騒々しいこどもっぽさが消え、一気に澄んで大人びてゆく。感情が研ぎ澄まされ巫女のような魂の離れたような表情のタイガを見ていると、真剣な顔をしてるとなかなか見れたものになる顔なんだという感想がでてきたしまったせいだ。
ふうん、と思っていたから、波の音がやんでることに気が付いた。
ざざん、ざざあ……と時々崩れながらもテンポよく押し寄せては引く潮騒が、何故かすっかり止んでいる。
不審に思って波打ち際に目をやれば、波打ち際が不自然に固定されていた。その部分だけゼリーになったかのように。
地味ではあるが、妙な光景だ。というよりも波がぴたりと固められるなんて、普通ありえないことではないか?
私の目の前ではタイガが、棒の先をつきつけながらプルプル震えながらなんらかの念を海に向けていた。魔法の杖のように棒きれを構えて力むタイガ、固定された不自然な波。信じにくいがこの二つに何かの因果関係があると考えた方が自然な光景だ。
――まさか。
と、目の前の現実を疑う気満々で、私はタイガを見つめる。嘘だろ、と言いたい気持ちでその腕に縋ろうとする。
だがタイガはそのタイミングで、棒きれに両手を添えて持ち、きゅっと目をすがめて気合もろとも枝の先で空を斬りつけた。
その起動上の波に白い線が走る。見えないナイフが差し込まれたように、ゼリー状に固まった波がぐっと二つに割れる。左右に押し開いてゆく。
徐々に徐々に、波は二つに切り裂かれた。その光景は、教会に縁すらなかった私だって知っている有名な奇跡を想像させるものだった。
預言者の起こした奇跡めいたものを起こしたタイガは、そこでついに力尽きたのか停めていた息をぷはっと音を立てて一気に吸い込んだ。
数メートルほど切り裂かれた波は、その拍子にただの海水の塊に戻る。せき止められていた波は、ばちゃんと音をたててごく普通の波に戻り更にひと際大きな音を立てて私たちの足元まで押し寄せた。靴に波のしぶきがかかったのに逃げることすら忘れてしまう。
食い入るように見つめる私の前で、タイガは肩を激しく上下させながら呼吸を整え、額の汗をぬぐい。しばらく経ってからこっちを見て勝ち誇ってニイイっと笑った。ものの見事なドヤ顔だった。
「ほら今の見ただろ! スゲエだろっ! ヤベエだろ! カッケエだろ! こういうことができんだぜワルキューレって」
何度も言うけどタイガって子は語彙がとにかく貧しい子だった。貧弱な言葉で補えない感情は、誰彼構わず抱き着いたり、肩を掴んでこっちに顔を近づけたり、オーバーアクションに躊躇わず置き換える。
「だからさ、リリイ。ビビることねえんだって。オレはこの前言っただろ、お前の人生にはこれからうんといいことばっかり起きるんだって。だってさ、こんな力もらった上に金稼げるんだぜ? それもこの前デビューしたワルキューレの二人組みたいに世界中からキャーキャー言われながら。今日の海みたいに、バァーッて目の前がどこまでもどこまでも開けて見えるような派手で景気のいい商売、他にあるかよ。なぁっ? そう思わねえ?」
さっきまでべそをかいていて、しかも不思議な力をつかって興奮したあとだったから、タイガの猫目はきらきら眩しいくらいに輝いている。陽の光を反射する水面みたいに。
――全くあの子とときたら、本当に――
生涯にわたって、語彙が貧弱な癖に、美しいものや愛らしいものをいち早く感じ取る感受性には溢れた子だった。
どんな場所にいてもたちどころに「好き」を見つけては自分の中に取り込んでしまう、そんな子だった。
そしてそれを出し惜しみしない子だった。
――ああ本当、だから胸の中に海の水ほど「好き」って気持ちを湛えているやつはタチが悪い。地上で一番最悪な生き物だ。
適当に目についたちょっと気に入ったもの相手に何の気なしに、可愛いだ綺麗だお前と一緒にいたいだのと甘ったるい言葉をぶっかけて、そいつをそれなしでは生きていけない腑抜けに変えてしまうのだ。
甘ったるい言葉はどんな薬よりも依存度が高い。その上元手はゼロだから丸儲け。そんなタチの悪いものを自分の中でいくらでも作りだせるヤツほど怖い生き物はない。
私は今に至るまで、あの子が胸から溢れさせていた甘ったるい感情の重度の中毒だ。
この時から今に至るまで、そしてそこまでは長くない筈の残りの生涯、私はどんな売人よりもうんと最悪で厄介なあの子のみじめな顧客だ。
会心の演技が出来た時、最高のパフォーマンスでお客さん達を満足させられた時、今だっていの一番に求めるのは、あのちょっとつり気味の大きい目をきらきらさせながら連発するスゲエとかカッケエとかお前やっぱ最高だなオレが言った通りだろだとか、文字にしたら死ぬほど貧相な全力の賛辞だけだ。この瞬間だって、あの笑顔と雑なくせにやたらと甘い言葉が欲しくてたまらない。だけどそれはもう叶わない。
たったの十で、たったの十だった私をそんな人間に作り変えたあの子は今頃地獄にいる。
(※先輩ごめんなさい。お手数ですけど書籍刊行時には先の数行を全て削ってください。こんなポエムじみた箇所、
(※残念ながら現在体調が思わしくありません。この直後、タイガは私に「手術を得た力で普通の人間を思いっきり殴るととんでもないことになってしまう。だから昨日ケンカした際にあやうくリリイの顔面をぐちゃぐちゃにする寸前だった。だから我を忘れた自分が許せなかった」とべそをかいて謝った真意を伝えて、私を大いに脱力させます。その旨、先輩のお力で「陽の光を反射する水面みたいに。」の後につなげてください。古い美国産シットコムでよく耳にしたSEの笑い声が似合うような楽しい感じでお願いします。タイガの台詞は「やべえ、すげえ」を連呼させればそれらしい感じは出せますので。よおおくご存じでしょうけれど)
──はい、というわけでこれが慎重で疑り深い子供だった私が怪しい手術を受け入れても良い気に傾いた、そのきっかけとなる出来事の一部始終だ。
事象だけ見れば、所詮は私も目の前で奇跡や魔法を見せつけられるとコロリと参ってしまうような動漫のヒロイン並みにチョロい子供の一人だったということになってしまうが致し方ない。
海と魔法、その組み合わせにクラクラしない子供がいるものか……と、この際開き直らせていただく。
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