#9 うたかた
さて、ようやく長い長い昔話ももうお終い。
あとは皆さまご存じの通り、かつてユーラシア大陸の東端にある軍港の街の公衆便所で暮らしていた可哀想な女の子は、偶然魔法使いの二人づれに出会ったことがきっかけで魔法使いの仲間として数年間華々しく活動し、その後は女優兼歌手になってお姫様が着るようなきらびやかなドレスを纏ってお城のような御殿にいつまでもいつまでも幸せに暮らしましたとさ、という流れになる。
――さあ、これで皆さんご期待のメジロセンリや「メジロの子どもたち」、それに
残るものは、きわめて個人的な純度の高い思い出話だけ。
そんなものに興味がないという方はここでお引き取り下さるといい。この後にはもうロクな情報は出てこないので。
そもそも私が酔狂にも慣れない文章を書いてみる気になったのは、今はもういないタイガとの個人的な記憶を形にしておきたかったからだ(職業にしてしまうくらい他人の書いたものを読むのが好きで好きで子供時代からの習性になっているという、私なんかよりずっとずっと変人なワルキューレ養成校時代の先輩が「せっかく貴重な体験してるんだから」「忘れてしまう前に書いてしまえ」と、書くことを勧めてきたことが直接のきっかけではあるにしても)。
なので、ここらで一応、養成校初等部に在籍したたったの三年というまともに活動できた期間の短さから一部地域以外では完全無名、皆さんのように目白保護児童育成に関して興味津々な方にとっては「
目白タイガ。
センリのその名前をつけられる以前の名前は不明。
でも現地語で虎を意味する名前で呼ばれていたことだけは分かってる。本人はそのことを終生とても誇りに思っていた。世界で一番カッケエ動物に因んで兄さんがつけてくれたから! という単純な理由で。
宗教の対立、民族の問題が燻って、時に激しい紛争が起きるような治安も何もあったものじゃない場所の育った子供。両親の記憶はなく、ゴロツキの下っ端として生きていた。そこで直接面倒を見ていたのがあの子が「兄さん」と呼んでいた青年だ。
タイガ曰くあのサムライの漫画に出てくる包帯グルグル巻きの悪役にどこか似ていたという青年は、戦闘技術を仕込んだタイガとその他仲間を引き連れて民族独立を掲げる闘士として一旗あげて暴れたみたいだけれど、正規軍との戦闘の際にはぐれてそれっきりのようだ。その後タイガは保護されて、現地の児童保護施設で矯正教育をうけていた時に手術に耐えうる手ごろな子供を探していたセンリに素質を見出された。そして、目白タイガという名前を与えられて「メジロの子どもたち」になった。本人が時々語る思い出や態度で補った来歴としてはこうである。
ニュースにはあまり関心を抱かない子だったけれど、それでも自分の出身地や「兄さん」のパトロン的存在であった独立派の政治家の話題がとりあげられると、食い入るようにその画面を見ている時があったし、センリに「兄さん」の安否をしつこく尋ねて困らせることが多々あった。
後に調べてみたことがあるけれど、本気で天下をとるつもりでいた、と懐かしそうに語ったタイガの「兄さん」に関する記録はロクにない。
きっと、目の前にある不条理や非合理に立ち向かわずにはいられない若くてまっすぐで血の気の多い、世界の日の当たらない場所によくいるタイプの無名の男衆だったのだろう。そういう連中は得てして無駄に色気が豊富で息しているだけで罪作りなところがあるものだから、奇麗だとか可愛いだとか色気が駄々洩れだとか、そういったものに異様に反応しやすいタイガが懐くのは想像に難くない。
本人が言っていた、急に入り用になったという「まとまった金」はこの「兄さん」及びその所属組織の幹部の保釈金を指していた。が、センリが適当に言いくるめてタイガ名義の口座から流出させなかった。「兄さん」の安否とその所属組織の正体を掴んでいたからだろう。
元々高い身体能力はあったがそれはあくまで人間としてのものだ。手術と薬で脳の機能を拡張して本来不可能なことが出来るようになったその代償は大きかった。
ワルキューレをやるのは初等部までの三年、それで稼げるだけ稼いだ金を元手に仕事を起こして引退し、予備役としてセカンドキャリアをスタートさせて気楽な生活を送る……というのが私たちの元々のプランだったけれど、それはちょっと甘かったなと晩年のあの子は病院のベッドの上でいたずらが見つかった男の子のように顔をヒヒッと笑った。
その時のシチュエーションと表情は、私の目の前で波を固めて切り裂いて見せた次の日と全く同じだったから、お見舞いに訪れた私も思わず笑ってしまった。
十歳だった日のあの良く晴れた冬の空の下、私の前で不思議な力を振るって見せたあと、タイガは突然濡れた砂浜の上にばったり前のめりに倒れたのだ。
さっきまで普通にしゃべっていたあの子の昏倒があまりに唐突で出し抜けだったから、私は肝を潰し、焦りと恐怖で半泣きになりながら砂まみれのタイガを背負ってセンリの元まで駆け戻った。
自分の目の前で波をとめて切り裂いてから急にバタンと倒れて……と、タバコの残り香を堂々と漂わせたセンリへしどろもどろで説明していた時は全く生きた心地がしなかった。
だというのにセンリときたら、はぁ~っとため息を吐いた後に悪ガキに手を焼く保護者そのものの顔でこうぼやいたのだ。
「――ほらね、リリイ。さっき言っただろ、タイガが人の言いつけをちゃんと護るいい子だったらこっちも苦労しないって。こういう子なんだよ、こいつは。手術をうけたら漫画じみた超能力も使えるようになるけれど、できるだけ長生きしたけりゃ面白がって使うんじゃないよ。使っていいのはお前が養成校に入ってワンドを貰って正式に侵略者を倒すようになってからだって口が酸っぱくなるくらい散々言い聞かせていたのに、この有様だ」
白衣の連中にストレッチャーで運ばれてゆくものものしいタイガを見送りながら、あれはやっぱり長生きできないね、とボソッと呟いた。
タイガが波を停めて切り裂いてみせたのは私にワルキューレの良さを伝えようとしたためだと説明しようとして、一瞬悩み、そしてやめた。
代わりに、手術を受けたらどうなるのかの詳しい説明を二、三求めた。
前から何度も言ってる通り、センリはそういう点では子供相手でもフェアなやつだったから、おためごかしは口にしなかった。
手術を受けると一生薬とは縁が切れなくなるし、数年から数十年寿命は縮んでしまうとあっさり告げた。そしてワルキューレになることは、数年から数十年の寿命とそこにたどり着くまでに必要な薬代を支払ってもつり合いがとれるどころかおつりがかえってくる程度には「買い」であると、はセンリは主張した。
センリにとって自分が基礎を組み立てた理論と術式は、世界を護るという理念と意志に酔っ払って大層悲惨な目にあった純粋でバカで可哀想なかつての同期のような子供を生み出さない為のものでもあり、同時に世の中の重力に縛られて地べたから張り付いて離れられない私のような子供が少しでも自由に身軽になれるためのものだった筈だ。
私のような境遇の子どもが幸せになれる場所へたどりつくために必要なものは、ガラスの靴なんて壊れやすくてチャチなものではない。あんなもの履いていてはお城のフカフカの絨毯の上しか歩けないし、王子様なんてしょうもないもののご機嫌伺いをしなきゃくらしていけなくなる。
もっと物騒で、ほとんど反則で、リスクは大きいけれど返ってくるリターンがベラボウなドーピングじみたやつじゃないとどこへだっていけやしない。
これがセンリの思想だった。理解できたのはワコさん他少数の人間しかいなかったので、メジロセンリは現在も子供たちに非人道的な手術を施した最低最悪の元ワルキューレとして檻の中にいる。今現在、その資格を剥奪されたワルキューレはセンリだけだ。
――センリは私からすると十以上も年の離れた女だったけれど、ひょっとしたらこいつのことは私が一番理解できるのでは? という、妙な自負が湧き出る瞬間が今でもある。義母で上司って立場だったワコさんよりも、双子の姉妹のマリよりも、先生さんと呼んで慕っていたタイガよりも。
そういう気持ちに名前を与えると友情ってやつになるのかもしれないとガラにもないことを考えがちだけど、それを聞いたら意外と笑い上戸な所のあったあの悪徳医師はけらけら笑うだろう。
昏倒した当日はものものしく運ばれて意識を眠り続けたタイガだけど、次の日になれば他の子どもたちもいる大部屋に移されていた。
お見舞いに訪れると、ぶっ倒れたことなんて忘れたように嬉しそうに笑い、手を振って見せた。頭に妙な計測器をつけられていたせいで自由に身動きすることすら出来ず退屈しきっていた、とあの雑な口調で告げる。
私の為に何年か分の寿命を浪費したことに気づいているのか気づいていないのか分からないその口ぶりに、つい可愛げのない口調で応じてしまう。
「たーちゃん、やっぱバカ。早まった結論を出してバカの極み」
「あ⁉ 早まったってなんだよ! あれを見てまだカッコよさが分かんない方がよっぽどバカだろ!」
頭に計測器をつけた状態でも、口からはいつもの飴の棒をはみ出させていた。こういう状況でもあの不味い飴は口に入れていないといけない。
ベッドサイドの椅子に座って私はタイガの顔の傍に頬杖をつく。
「大昔の動漫の映画に、冴えないデコッパチのガキがある時偶然に変な能力に目覚めて好き放題暴れまくるものがあります。そいつは、結局その力、使いきれなくて暴発させて自滅します」
「んっだよ、しんきくせえ話だな。それ」
「そんな辛気臭くないです。むしろ人がドカドカ死ぬ派手な映画です。で、そのデコッパチの生きざまを、そいつの親友が見届けます。その動漫映画の主人公です。バカで強くて仲間が好きって所をみてると、たーちゃんはどっちかというとそいつに似てます。確実に生き残る方です。生き残んなきゃいけないほうです」
ころり、とタイガは無言で飴を転がした。棒の先が動く。
その日もいい天気だったから、病室には明るいお日様の光が差し込んでいた。
猫目の視線を天井に向けて、タイガは訊ねた。
「――なんでリリイはワルキューレになんのイヤなの?」
話をそらしたい意図が見え見えの質問だったが、私はそれに乗った。
「命を捧げても惜しくないほど人類に親切にされた思い出、私にはあんまりないです」
「……あ、わかった! 手術こええんだろ!」
「得体のしれない手術されるって聞いて怖くなる、普通の感覚です。恥じゃないです」
「大丈夫だって~、寝てる間にすぐ終わるし。後遺症もねえし。オレみてみろよ。この通り元気だぞ、ホラ」
「病院のベッドの上でそんなこと言う、説得力全くないです。しかも不味い飴食わなきゃなんない体になってます。怪しいです。警戒する当たり前」
「でもさぁ、カッケエじゃん! ワンドもって空飛んでしゅばしゅばーって侵略者ぶっ倒すの! それで大金貰えるんだぜ? 最高じゃん!」
「見た目カッケエ仕事の裏っかわほど大抵どろっどろでキッタないもんです。おとぎ話のお城みたいな高級酒場だって、裏側じゃネズミとゴキブリとヤクザが走り回ってます。ワルキューレなんて大型産業の裏側にすみついてるのがネズミやゴキブリやヤクザなんて可愛いもんの筈がないです。絶対もっとタチの悪いのが上にいます」
タイガは黙り込んでしまった。ころころと飴を転がしながら、天井を見上げて「……そうか」と呟いた。
それがあまりに寂し気だったから、私は笑った。ふふっと、なるべく大人っぽく綺麗な女の人に見えるように意識して微笑んだ。タイガは可愛くて綺麗なものに弱いからである。
猫目でこっちの顔を一瞬ちらっと見て、なにか気まずげに掛布団を顔まで引き上げてみせたタイガの様子からいい具合の顔が作れたのだと判断して満足する。
「たーちゃんは、一人でワルキューレなるより私とワルキューレになりたい、そうですか?」
「――そりゃあ、まあ、な」
「どうして? 一人だと寂しいから? 仲間欲しいから? 安心するといいです、たーちゃんは人懐っこくてよく笑って可愛いから、友達作る、きっと苦労しないです。でもここみたいに馴れ馴れしく誰彼構わずだきついたいるするは、ちょっと控えた方がいいです」
「だから可愛くねえし! カッケエ担だし、オレはっ」
顔にかけた掛布団をぱっと引きずり降ろして勢いよく言い返したあと、タイガはこっちを気まずそうに見つめて目をそらした。
「……オレは別に自分のことはなんも心配してねえけど、お前がさぁ……」
「私?」
「だってさぁ、勿体ねえじゃん。リリイってすげえ可愛くて綺麗で強い奴がここにいるのに、世の中のやつはそのこと知らないんだって思うと、なんかこう、たまんねえんだよ」
「? たまんねえ、とは?」
タイガがよくやる、目をぱちくりさせる仕草を意識してマネてみると、頭の計測器が外れそうな勢いでタイガはこちら側に首を向ける。そして相変わらず語彙の足らなさを補う熱い口調で切々と訴える。
「だってそうじゃん! お前あの夜便所に来た時お姫様みたいな恰好して来たじゃん。ああいう格好似合うし、しかも演技うめえし、オレまだ聴いてねえけど歌もうまいんだろ? あー、お前ほんとスゲエやつだなー、リリイなら最強のワルキューレになれんのになーって思うのにさあ」
歯がゆそうにタイガは呟き、棒を咥えたまま唇を尖らせた。
正直に言って、なぜそこまで私を買ってくれるのかよくわからなかった。戦闘力ならタイガの方がずっと高い。そのタイガだって、侵略者相手にやりあうなら手術なんて下駄をはかなきゃいけないのに。
私の見た目に関する賛辞はタイガは惜しまないが、別にそれは侵略者退治に必須なものではない。世間はワルキューレをアイドルとしても扱うが、抜きんでて優れた容姿は特に必要とされていないのはニュース映像をみても明らかだ。それよりも大人の言いつけを素直に守ってニコニコの笑顔を絶やさない愛想がいい子に一番の需要がある。
タイガは私よりワルキューレには一過言があるからか、いぶかしむ私を前にワルキューレになる理由をとにかく語る。
「ワルキューレやめたヤツってどうなるか知ってるか?」
「予備役になってパシられる。一般社会に適応出来なくて孤立する。心身すり減らして一生病院から出られなくなる」
「そんな悲惨なやつばっかじゃねえよ! ――いいか、リリイ。ワルキューレっつうのはなあ全世界にマニアがいんだよ。どこ校の生徒番号何番の誰それってどうでもいいことまでビビるほど事細かに記憶してるヤツとかゴロゴロしてんだよ。そういうやつは大抵推しってもんを作る。まあ大抵は新人入ってくるとすぐそっちになびくような肝の据わってないヤツだけど、中には気合が入ったのがいて、推しのワルキューレが引退して予備役になってもしつこくしつこくバックアップし続けんだよ」
引退してから実業家になったワルキューレを顧客として支えたり、芸能人になったワルキューレをファンとして応援したり、その当時著名な人物の名を挙げてタイガは私に具体例を挙げた。
どれもこれも私には耳なじみのない名前だったが、日ごろバカなことしか言わないしやらないタイガがしっかりした眼差しで事業計画めいたものを口にするのに思わず聞き入った。
「オレらは専科に進むようなプロのワルキューレには絶対なれない。ワルキューレとして侵略者をバシバシぶっ倒して大金稼げる期間も長くねえ。つうことはさ、引退したあとどうして何をやってどう生きるかをメインで考えなきゃいけないんだよ。ワルキューレ引退したあと、どんな仕事でぶっとく派手に稼いでいくか。それをできるだけ有利にするには、学校にいる間にオレらのことを推してくれるやつをできるだけたくさん捕まえとくと楽なんだよ。だからだーれも見てねえとこで、侵略者をちんたらブッ叩いてても意味ないんだ。たくさんの人が見てる所で出来るだけ派手にカッコよくキメてみせて、ああこのワルキューレにファンになりてえな、一生応援してえなって骨抜きにしないとダメなんだ」
「――つまり、たーちゃんは私がその役に適任、そう言いたいですか。侵略者退治よりも派手なパフォーマンスと笑顔で世界中のワルキューレのマニアをメロメロにさせてぶっといタニマチ作る。そう言いたいわけですか」
私の言葉を聞いて、タイガは眉間に皴を寄せた。あおむけになりながら首を傾げて見せる。
「――なんかお前の口から聞くと、スゲエあくどい計画みたいに聞こえるのなんでだろ……?」
「別にあくどい、思ってないです。むしろ感心してます。たーちゃん、やっぱりただのバカじゃない。綺麗でよく囀る
その美貌と歌声から思うように生きられず、世にも悲惨な最期を迎えることになった絶世の美女の歌姫の娘としてはそれくらいの嫌味は言いたかった。
ただのバカではなかったタイガは私の皮肉に気づいたらしく、再び視線を天井に向ける。
「――別にお前一人だけ働かせようとは思ってねえよ、たださあ……。お前なら、養成校にいる間に名前を売れるだけ売ったら引退してすぐ、歌手とか女優としての声がバンバンかかるだろうになって思っただけだよ。そうしたら、一生左団扇だなって――」
やっぱり何か違うなと思ったらしく、タイガは一度目を閉じてから仰向けのまま首を左右に振った。
「あーもういいや! 金とか儲けとか汚ねえ話しか出てこねえし!」
「気にすること無いです。それに金の話は汚くないです。むしろ大事な話。たーちゃんだって儲かるからワルキューレなりたい言ってたではないですか」
「そりゃそうだけど! そうなんだけど……。もっとこう……オレはさぁ」
語彙が圧倒的に不足しているタイガは、両手を上向け、もどかし気に指先でかきむしるような動作を見せながら何かを訴える。
「お前にはきらきらした服をきて、奇麗に化粧なんかして、にこにこしてる所をさあ、世界のヤツに見せつけて欲しいんだよ……。世の中にはこんな綺麗な人間がいるんだぞ、どーだ参ったかってエラソーにしてほしいんだよ……。ホラ、お前とさ初めて会った時、オレびっくりしたんだから。なんでこんな綺麗な顔して、初めて会うガキに飴買ってくれるような男前がこんなきったねえカッコしてんだろって。オレが一緒にいたらそういうの絶対許さねえのになあ……って……。ああーっクソ、伝わんねえかなあっ」
そういえばタイガは私のことを長いこと男だと思い込んでいたのだった。ほんの二月かそこら前の話でしかないことを懐かしく思い返す私の前で、タイガはじれるあまり掛布団の下で足をもぞもそさせていた。
「とにかくなあっ、世の中っていうか世界ってものはなあっ、可愛くて綺麗なものがあるからすごいんだっ! 可愛くて綺麗なものがあるから世界ってものには護る価値があんだよ。……分かるか、リリイ?」
「よくわからないですが、たーちゃんが私の顔を高めに査定してくれてること、よく伝わりました。あの街にいたヤクザ連中もそうでしたから、私、汚いカッコしてました。綺麗だ可愛いだ言われるのはコイツ金になるので囲っとけ意味だったので嫌いでしたが、ほとんど同じこと言ってるのに、たーちゃんが言うとそんな嫌でもないです。ありがとうです」
頬杖をやめて、座っていた椅子の上で背中をのばして座り直した。
自分から距離をとる私を見て、タイガはふうっと息を吐いた。貧相な語彙のせいで真意が伝わらなかったような無念さをそれで顕す。それを見ていたら私の中にいる嗜虐心も少し収まった。
さっき言ったタイガのプランは、どんな真意があったとしても、そしてどんなに言いつくろっても、見た目を含む私を商利用したいということに他ならない。だから抗議はしておきたかったのである。私自身はそういう立場になることを必死に避けて今まで生きていたのだから。
意地悪な心が満足したので、タイガの前でもう一度笑いかけてみせる。
「私に綺麗きれい言ってくれるたーちゃんにお礼してあげます」
それから息を吸い、一呼吸おいてあるメロディを口ずさむ。他のベッドで寝ている子供たちの邪魔にならないように、声量はしぼり、ささやきかけるように。
タイガが生涯にわたって異様に好きだった、あの荒唐無稽で時代考証が全くなっていないことで有名でだからこそ麻薬じみた面白さのあったギャルドラマ『セシルの覇道』、その時期のテーマソングだ。前世紀末が舞台のドラマの中でヒロインのセシルたちが崇拝していいるという設定の、当時実在した歌姫の持ち歌をアレンジしたものだ。
そういえばタイガに歌を聴かせてなかったな、と気が付いたから、歌って聴かせた。それ以外の意図は無かった。
ta la la ……から始まって、輝き羽ばたきだした自分たちを誰が止めることができるだろう、というような歌詞を、百年近く前に街中で溢れていたはずの原曲とも、私達が実際耳にしていたアレンジバージョンとも子守歌めいたテンポでゆったり口ずさむ。
輝きだした羽ばたきだした私達なら光る明日をつかめるだろう、といった所で終わる一番まで歌う。
一呼吸おいてから「はいお終い」で終わらせた。
「どうでしたか、たーちゃん。私の歌、良かったですか?」
お前みたいに綺麗で可愛いやつはどーだ参ったかってエラソーにしてほしい、というタイガのアドバイスに従って、私は極力偉そうにふふんと笑ってみせた。歌の感想は、猫目を大きく見開いて輝いたタイガの表情で十分だ。言葉にならないのか、首をぶんぶん上下に激しく振る。
よく見れば、大部屋にいる子供たちや看護師たちもこっちを驚いたような顔つきで凝視していたけれど、そっちは無視して私はタイガのみに集中する。
「私の歌で世界中のワルキューレマニア酔わせてぶっといタニマチ作る、可能ですか?」
「――っ、そりゃもうお前、当然だろっ……!」
ようやく口がきけるようになったタイガが上半身を起こそうとして、他の子を世話していた看護師に見とがめられ体をおさえつけられる。
それをみて、私は唇を左右に引いて微笑んで見せた。
「じゃあ、三年です。ワルキューレやるのは養成校の初等部にいる三年の間」
看護師の指示に大人しく従おうとしていたタイガは、体をそこで一旦止めた。そしてまたおきあがり、こっちへ向けて身を詰める。きらきら上気して輝いた目と顔を、澄ました私の顔にくっつける。
「今の……マジかっ? 本気かっ?」
「本気です。私、早死にはイヤですので、ワルキューレやるのは三年だけ。その間にできるだけ名前と顔を売り込んでやります。――訊きたいですが、養成校はワルキューレの芸能活動可なんですか?」
「お、おう! お前しんねーのかよ、オレらが行くことになってる太平洋校は部活が派手でさ、演劇部とかスゲー有名なんだぞ。世界中で公演しまくって動画とかグッズとかで稼ぎまくってんだよ。他にも、手前でインディーズのアイドルやって知名度あげようとしてるワルキューレとかゴロゴロいるぞっ」
「芸能活動可、了解です。じゃあ、養成校にいる間インディーズのアイドルやります。そこでブイブイ言わせてぶっといタニマチ作って世界の芸能と興行の世界でのしあがってやります。女優でも歌手でもなんでもいいです。大監督や名プロデューサーが是非私を起用したいと三顧の礼で迎えに来る、そんな存在になってみせましょう。たーちゃんはプロデュースとマネジメントをお願いします。なお儲けの独占は許しません。明朗会計、これ鉄則。言わずもがなですがピンハネ厳禁。おっけえですか?」
オッケエだろ、オッケエに決まってんだろ、と猫目から涙を垂れ流したタイガは看護師の制止を振り切ってベッドの上で膝立ちになり、私を力いっぱいぎゅーっと抱きしめた。そして、ありがとうありがとう、絶対絶対幸せになろうなと、興奮した声で繰り返した。
貫頭衣のようなものを着ているタイガの体を抱き返しながら、タイガの匂いを嗅ぎながら私は目を閉じた。
そうしなければ、後悔がおそってくるような気がしたから。
――以上、これが私がアイドルになる決意をした一部始終ということになる。
それにしてもいやはや、見通しが甘かったのは私も同じだった。インディーズのアイドル稼業はなかなかに過酷だ。顔がよくて歌が上手いだけでは突破できない壁というものがあり、かなりの試行錯誤を強いられて、後から思えば随分はずかしいことだってやったものだ。
幸い演劇部に所属していたある先輩(私に書くことを進めた変人の先輩とは違う方だ)と仲良くしていただいたことがきっかけでブレイクを果たし、ギリギリで当初のプランをなんとか達成できた。それが奇跡のように思える。
――十七だったあの日、養成校に入ってからの三年間を久々に顔を合わせた私とタイガは笑って語った。
あの三年間は予想外のことが多すぎて、特に私はずいぶんタイガの異常にときめきやすい気質に泣かされて、ちょっと文句も言いたかったけれど、酷使され続けて限界に達していた脳と体を強制的に休ませる薬を投与されていたタイガの猫目はすぐに朦朧としてしまう。だから私はベッドの傍らに座ってくったりと力のこもらない手を両手で挟んでそっと温める以外何もできなくなる。
プロデューサー兼マネージャーとしてのタイガの能力には疑問符がつくけれど、その分資金稼ぎには熱心だった。私との事業に必要な費用以外にも稼ぐ必要があったから、戦闘に特化したワルキューレとして積極的に活動していた(無駄だって言っていた当の本人なのに、世間的にあまり注目されない危険地帯へ出撃しては凶暴な侵略者たちを倒しまくっていいたのだ)。それで寿命を浪費つくして、十七をいくつか過ぎた頃には、あの懐かしい目白の病院で余生を過ごす他無くなっていた。
そのころ私はロケで旧日本にいた。大陸リメイク版『セシルの覇道』の出演者に選ばれて、撮影に参加していたのだ。
見舞いに訪れたのはそのタイトなスケジュールの隙を縫ってのことだった。どうしてもタイガには私がリメイク版の『セシルの覇道』に出ることは伝えておきたかった。
予想していた通り、とろんとした目ではあったけれどタイガは私の報告を聞くとこの上なく嬉しそうに笑った。へらっと力なく開いた口から、飴の舐めすぎで手入れも追いつかず傷んだ歯が覗く。
「マジか……! お前セシルに出るんだ……! 何役? 誰役?」
「決まってるでしょ? 私以外の誰が〝調布のエリカ″を演じるっていうのよ? 本物より本物だってあのくーちゃんですら太鼓判押してくれたんだから」
調布のエリカ、というのは『セシルの覇道』全シリーズを通して登場する最強最悪の悪役で主人公セシルの宿敵だ。お嬢様学校の清楚な美少女という仮面の下で組織売春の元締めをやっていたり、半グレ集団で構成された兵隊を飼っていて振り込め詐欺で荒稼ぎをするような陰険で極悪で尚且つやたら頭が切れて決してその尻尾をつかませないという、画面に登場するだけで当時の視聴者からのヘイトをかき集めまくっていたカリスマ性のある美少女だ。一部層には絶大な人気を誇るが、女児層からは圧倒的に不人気なキャラクターだった。
ある時、いつものようにセシルごっこに興じる子供たちを眺めていると、クウガに挑発されたのだ。悪役のエリカの枠でよければ、あんたも仲間に入れてあげるけど、と。
別に仲間になんて入りたくなかったけれど、その言いざまにカチンときて、お望みどおりに荒唐無稽な少女活劇ドラマに登場する極悪女子高生のキャラクターを演じてみせたのだ。
その日から、私のことはムカつくけれどセシルごっこをする時に私の演じるエリカは不可欠ってことになり、タイガ以外の子どもたちとの距離はちょっとずつ近づいていったのだった。クウガとは私たちが太平洋校に入るまでケンカをし続けていたけれど。
「ああ……お前のエリカ、怖かったもんな……。チエリがビビッてしょんべんもらしたことあったっけ……。……そういや、あいつの姿見えねえけど、どこにいる……? またどっかで迷子になって……」
「今年から太平洋校に入ったって聞いたわ。私たちの後輩になったんですって」
「ウソこけ。あいつまだ六歳だぞ……。入れるわけねえだろ……。ったくあのチビはいつまでたっても手ぇ焼かせて……」
セシルごっこの思い出話が引鉄になったのか、この家で暮らす女の子達のリーダーだった頃の意識が戻ってしまったタイガがベッドから身を起こそうとする。その動作すら大儀そうなタイガの手をぎゅっと握って私は語りかける。
「たーちゃんに見て貰いたいから、私、オーディションで頑張ったのよ。今までで一番の本気を出したのよ」
血の気が無さ過ぎて冷たいその手を握って、私は語る。強く語る。
「絶対見るのよ、たーちゃん。世界中の女の子を恐怖と絶望のどん底に陥れて、ドラマに釘付けにさせるんだから。リメイク版を成功に導いた殊勲賞は
「……」
それでやっとタイガの意識は現実に戻る。かつては本当の猫みたいに俊敏だったのにすっかり鈍くなった瞳孔の反応を私は見つめる。へらっと笑ったのを見て、私も笑う。
それがあの子を見た最後。
宣言通り、私はリメイク版の調布のエリカ役で高い評価をもぎ取るように頂戴した。それは今こうして女優兼歌手として活動する礎にもなっている。
タイガの余命はリメイク版ドラマの配信には尽きてしまった。
私たちは後天性ワルキューレのプロトタイプだから、死亡すると亡骸はただちに検体に回されることも契約のに含まれている。だからタイガのお墓のようなものはない。お葬式すらなかったと、そのころ実質子供たちのリーダーだったクウガは涙声でその旨を伝えてくれた。
あの子が死んだ時はまだ目白児童保護育成会のことは明るみに出ておらず、センリの手によって解剖されてデータを採られて記録された。センリの逮捕・収監後、メジロ式をベースにした後天性ワルキューレの研究は非人道的であると未だタブー視されているけれど、今や後天性ワルキューレがいなければ慢性的なワルキューレ不足は補えないのは皆さんご存知の通り。
だから、あの子の情報は匿名のメジロ式の検体一号のデータとして地下を拠点に無料でやり取りされている。だって、センリの願いは「特定の女の子に世界を護る役目を押し付ける世の中の全否定」、女の子であろうがなかろうが誰だってワルキューレになれるようにする技術の拡散はセンリの目論見の一つである。
当然、私の死後も同じように体を調べつくされて検出されたデータはフリー素材になる。医療に関する知識と技術をお持ちの皆さんは、それを基に理想のワルキューレをどうぞお創りあそばせ。性能と性格がいまいちでもとっても綺麗で可愛い子が創り出せる、かもしれない。
――さあて、ここで本当にお終いにしたっていいんだけれど、いくら文章を書くことに慣れていない私だってここで終わるのはあんまりってことぐらいは想像がつく。文章を読むのも書くのも好きっていう、変人の先輩に叱られてしまう。
だから一つ、本当に個人的な思い出話をまとめて語って幕引きにしましょう。
あれから一度、私の故郷である軍港の街には一度だけ帰ったことがある。その年の四月に太平洋上にあるワルキューレ養成校に入学が決まった日の三月の後半、旧日本では春休みってことになっているある日。
かつては毎日歩き回ったあの街の裏通りを歩き、記憶の中にあるのと寸分かわらない地下工房への階段を降りてかつてのように扉を開ける。
「ごめんくださぁい。頼んでいた品の受け取りに参りましたぁ」
金属、樹脂、それを修理・加工するときに発生する煙、それらに古い建物特有の埃くさい匂いを嗅いだ瞬間、懐かしさに全身がくらくら震えた。
そして、慣れたように扉を開けて入ってきた私をみて、その時工房にいた職人の殆どが目を丸くしたり、しばたたかせたりする様子を目の当たりにする。工房ではあいかわらず古いラジオからノイズ混じりの音楽が流れていたけれど、その歌詞がしっかり聞き取れるくらい静まり返る。
だから再度、笑顔で繰り返した。
「改造が終わったと連絡をいただきましたので、傘の受け取りに参りましたぁ」
傘、と聞いてようやく職人たちの顔色が変わった。私の傍にいた一人が私の方に近寄って怖い顔を作って私を見降ろす。
「――お嬢ちゃん、タチの悪い冗談はやめな。大人をからかうもんじゃない」
「あらぁ、からかってなんかいませんけどぉ。改造の終わった品の配送はしない、直接受け取りに来るのが仕事を引き受ける条件だとそちらが仰るから、こうして参った次第ですけどぉ?」
古株っぽいのに私が誰かわからない職人の向こうが不意に騒がしくなる、金属の音をガチャガチャたてながら誰かが近寄る足音が聞こえた。そっちをみると、懐かしいあの人が顔を真っ赤にしてこっちにやってくる所だったから私は心から微笑んでみせた。
「きゃあ、おじさまっ。お久しぶりですぅ~!」
「うるせえこのクソガキ、おめえに会ったらこいつでブッ叩いてやるって俺ぁ決めてたんだ……――⁉」
ぴかぴかのスパナを握りしめた地下工房のおっちゃんは、顔を真っ赤にしたまま私の姿をじっと見る。血走った目で、私の頭からつま先までを繰り返し見つめる。
肩を越える長さの髪、ネイビーのコートの裾からプリーツのスカートを覗かせた私はどうみても品のいい学校に通う女子学生だった。おまけにちょっと化粧までして、にこにこ微笑んでみせている。
記憶の中の私とはあまりに違いすぎるから、おっちゃんが混乱するのも無理はない。
「――しゃ、小戚はどこだ……っ、どこにいやがる……っ!」
「ですからおじさま、私ですぅ。その節はどうもお世話になりましたぁ」
「お嬢ちゃん、今あんたに用はないんだ。おっちゃんが言ってるのはちょっと前にこの街引っ掻き回してどっか消えやがったあげくいきなり傘一本おくりつけて改造しろだのぬかしてきやがったクソ
低い背を伸ばして私の背後をのぞき込もうとするおっちゃんの様子がおかしくて、私はついくすくす笑った。
「やだぁ、おじさまぁ。私のことお忘れだなんて酷ぉい~。目の前にいるのがその小戚なのにぃ~」
「おっちゃんはそういうタチの悪い冗談は嫌いだぜ、お嬢ちゃん。大体ここはあんたみたいな身なりのお嬢さんが来ていいような場所じゃ――」
「本当におれだってば、おっちゃん」
脳天から突き抜けるように出す声を止め数年ぶりにこの街の言葉を使ったらようやく、スパナを掴んだおっちゃんの動きが停まった。そして射抜くように私の顔を見る。その顔がちょっと面白かったこともあって、ニヤニヤ笑いながらその顔をのぞき込む。
「おっちゃんが直接受け取りに来ないと傘の改造は受け付けないっていうから、危険を冒してやってきたってのに。酷いなあ」
「あ……あんた、本当に小戚かっ! 便所にすんでたきったない
「そうだよ。便所の王様の小戚で絶世の美女と美男の娘のリーリヤだ。久しぶりおっちゃん。元気そうで何より」
おっちゃんの顔が次第に落ち着きを取り戻し、そして私の顔の中にたしかにあの小戚の面影があると認めたのだろう。うんうん、と頷き納得するようなそぶりをみせてから迷わずスパナを勢いよく振り上げ、下ろした。私はそれをなんなく躱した。
いっぱしのお嬢さんとして恥ずかしくない姿になった私相手に、おっちゃんがスパナを振り上げたくなるのももっともな話だ。
予想はしてはことだけど、私とタイガが黄家の若様連中の一人を浄化槽に掘り込み残りは足の腱を斬り腕を斬り落とすなどして散々暴れに暴れて逃げたあの夜以降、おっちゃんたち地下工房は大変な迷惑をこうむっていた。小戚の世話やいていた動画屋のマダムと親しかったお前のことだからなんか知ってるだろう、と、メンツをつぶされたこの街の親分さん達に詰め寄られたり商売の邪魔をされたり、思い出すだけで吐きそうになる程の目に遭わされたときく。
「ちゃっかりマダムだけは逃がしやがる所が許せねえ。俺はおめえにゃあよくしてやったつもりだったのに恩を仇で返しやがって」
ぶつくさいいながらも、私の希望通りに造り変えてくれた傘をおっちゃんは奥から運んでくれる。私はそれを受け取って、久しぶりの懐かしい感触を味わった。希望通りそれは随分軽くなっている。
「ごめんよ。おっちゃん。でも、おっちゃんはターニャ姐さんの他にもお客がいたろ? 親分さんに近い所にいる兄さんのお客だってさ。そっから情報が漏れるの怖かったんだよね」
「――散々よくしてやったのにここまで信用されてねえとは、泣けてくらぁ」
嫌味めいた口調に笑いながら、私は傘を開いて見せた。ただの蝙蝠傘から、レースの縁取りのついたお嬢さん好みの日傘に変えられている。くるくると回してみたり、柄を肩にかけてみたりその雰囲気を確かめてみる。
「ありがとう、どっからどう見てもお嬢さんの日傘だ。見た目は申し分ないよ。――おっちゃん、アパレルでもやってけるんじゃない?」
「おめえから、たっけえ値段ふんだくるために腕によりをかけただけでェ。煮え湯飲まされたクソガキ相手とはいえ金だけふんだくるのはおっちゃんの主義に反するからな」
ふん、とおっちゃんは鼻を鳴らした。
私は笑って、端末から代金を支払う。その額をみておっちゃんが狼狽した。
「
「いいから、とっといてよ。あの時の迷惑代と口止め料込だから。――元気かどうかは知りたくないけど、この街の親分さん、まだまだ息ぐらいしてるんだろ?」
「――前言撤回だ、そこまでコミコミでこの額なら少なすぎるぜ」
そういっておっちゃんは、私が数年間手をつけずにとっていた全財産を受け取り領収書を寄越した。
そのあと、どうにも腑に落ちないと言いたげな顔をおっちゃんは私に向けて寄越す。
「にしても、なんでぇ。傘をお嬢さん仕様に改造しろだ、礫を鉄じゃなく樹脂製にしろだ冗談みたいな指示をしたあげく、そんなナリに代わっちまいやがって。この数年でおめえになにがあった?」
「ん~?」
「傘の改造、修理代、迷惑料、口止め料、コミコミにした価格はさっきお前がだした金とおっちゃんの好奇心を全部満足させてちょうどにならぁ。話して聞かせな」
それで水に流してやろうと、私の記憶の中にある面白がりのおっちゃんの顔で言うので私もそれに応えて笑って見せる。小戚とは似ても似つかない、アイドルとしてやってくためのきれいな笑顔を浮かべてみせる。
「実はぁ、この四月から、私、ワルキューレをやることに決まったんですぅ~」
「……、うん?」
「入学先の太平洋校には武器の持ち込みを禁止する持ち物規定がありましてぇ、それでちょっと傘を手直しする必要があったんですぅ。現地の日差しのきつさも想像できますし、ちょうどいいかなあってぇ~」
「――ちょっと待て、お前、ワルキューレやるってどういうことだ? なんの冗談だ、オイ?」
この街の大人連中の間では、小戚にはワルキューレになるための素質がないっていう個人情報が共有されていたらしい。やれやれと、久しぶりにうんざりさせられながら私はおっちゃんに微笑みかけた。
「再検査したら素質があるって判明したんですぅ」
「はーん、そんなもんかい」
手術のことを馬鹿正直に話す訳にもいかないのでそうやって雑にごまかしただけなのに、おっちゃんはあっさり頷いた。きっと納得はしてなかっただろうけれど、とにもかくにも私の生存が確認できて満足した、という安堵の表情が浮かんでいる。
私に迷惑をかけられた怒りをそうやって押し流してくれた所が、嬉しくて懐かしくて、私は一番の笑顔を作り、まだスパナを握りしめているしわしわでガサガサの両手をとった。
「やっぱおれの傘を修理してくれるの、おっちゃんしかいないよ? 他の奴には触らせないからさ、絶対長生きしてよね」
「――けっ、なんでぇ気色の悪い。糞生意気でこきたねえ
顔を真っ赤にさせながら、私の手を振り払っておっちゃんは奥に引っ込んでゆく。
「お前ももうここに舞い戻ってくんじゃねえぞ! あの夜のことは未だに語り草なんだからな!」
「傘をうけとりに来いっていった癖によく言うぜ。――それじゃあおじさま、お体には気をつけてね」
最後に一度しゃなりと微笑んで見せて、私は工房を後にした。
私とおっちゃんのやりとりを眺めていた職人たちに小さく会釈をしてから、ドアを開けて階段を上っていると、誰がおじさまだぁ虫唾が走るっ! と奥から叫ぶおっちゃんの声が聞こえた。きっと今まで言いそびれていたのだろう。
それがおかしくて笑いながら階段を上った先には、タイガが待っていた。
「お待たせ、たーちゃん」
「おう、もう用事は済んだか?」
へくしゅん、とくしゃみをしながらあと数か月で十三歳になるタイガはくしゃみをした。この時のタイガときたら、キャメルのダッフルコートに膝より上のチェックのスカートを合わせた上に素足にルーズソックスを履いていた。そんなの履いてたら滑ってコケると注意したのに、足元はローファーだ。セシルのドラマから抜け出たような、およそ私の故郷の街ではこれ以上不向きなものもないというファッションのタイガは私をみてずるずる鼻をすすった。
「んじゃとっとと行こうぜ、……うー、どっか暖かい店でも入って温いもん飲みたい」
「まったくもう、だから言ったじゃない。そんな恰好でこの街をウロウロしたら風邪ひいちゃうって」
口から飴の棒をはみ出させているタイガの冷えた手を取りながら、私は受け取ったばかりの傘を開く。建物の陰から放たれた銃弾をそれで防いだ陰から、タイガがコートから出した銃で応戦した。
「しゃあねえじゃん、ワコさんの目ェ離れた所じゃねえとオレのしたい恰好出来ねえんだし、テンション上がんのも無理ねえじゃん」
「気持ちは分かるけど、でもここで風邪ひいて寝込んだりしちゃあ入学式に間に合わないわよぉ?」
『セシルの覇道』を見て以来、西暦二千年前後の東京にいそうな女子高生のファッションに感銘を受けていたタイガだけど、それはもちろん終生いいとこのお嬢様で奥様だったワコさんの美意識に反するためメジロの家にいる間はギャルめいた装いをすることを厳しく禁じられていた。
そこでタイガは春休み中の私の帰還にくっついて来たのである。新しい環境に飛び込む前段階として、自分のしたいファッションを纏ってみたいという冒険心を満足させに。
もちろん私がそれを拒む理由が無い。たとえ私を待ち構えている親分さんの残党がいるにしても、タイガとふたり街を歩くのは胸が躍る。――それに純粋に心強くもあった。
くしゃみをした後、銃をコートの内側に仕舞ってタイガは鼻をすする。タイガの勝気そうな顔立ちとギャルファッションの相性はいいのに、そうやって無造作に鼻をすすっちゃ台無しだと注意する暇を与えずにタイガは言った。
「お前待ってる間、なんかチンピラくせえのが絡んできたから見るからに観光地~ってとこに行こうぜ」
「そうね、港の傍にチェーンのカフェがあるけどそこにする?」
「あの緑の看板のとこ? 行く行く~!」
パッとタイガの表情が輝いた。ありふれて珍しくもなんともないチェーンのカフェだって、施設育ちの子どもだった私たちには珍しい憧れの場所だったのだ。だってワコさんたら、子供にはコーヒーは早すぎるしあそこの飲料は脂質や糖質が高すぎるといって立ち寄ることすら許してくれなかったのだ。
というわけで、この時期のこの街では珍しい晴れた日に観光客や善男善女が歩く表通りに出て二人並んで歩いた。目指すのは港の傍にあるチェーンのカフェまで。
タイガと初めて会った時、そして二人ならんで歩いたあの通りにひしめいていた屋台はもうない。空から侵略者が消えて随分たつのだから当たり前だけど、それでも停泊中の軍艦を臨めるこの一帯の景色は見事だから、人通りは少なくない。春めいた天気だったから散歩する人もいる。ただしやっぱりタイガのような恰好で歩くには適さない。
だからカフェについてもテラス席には出るわけがなく、暖かい店内で私は暖かいラテを飲む。ほんの少し前にくしゃみをしながら温いものを飲みたいなんて言っていたタイガなのに、メニューをみて気が変わったらしくクリームやシロップをたくさん乗せたフラペチーノを頼んでいた。
最初はその甘さに感激していたタイガだけど、後半になるにつれて冷たさが身に応えたらしくぶるっと震えた。
「……ほら言ったのに。たーちゃんたら。無理するからそんな風にぶるぶるする羽目になるのよぉ」
「いいんだよ、いいオンナってのはファッションで妥協しないってアユパイセンも言ってたろうが。セシルのドラマん中でさ」
そんなことを言いながら、私の差し出したあたたかいラテに口をつけては苦っ! と飛びのいたりしていた(ちなみにアユパイセンとは『セシルの覇道』に登場するタイガの最推しの登場人物だ)。
それでも普段舐めている飴よりは全然おいしいから、タイガはそのままずるずると私が頼んだラテを飲み続けた。その流れでこっちを見やる。
「――なあ、本当に用事すんだのか?」
「ん?」
外の景色が良く見えるガラス沿いのテーブルに並んで、タイガは私に尋ねた。
「もう当分、ここには来れねえぞ? 今のうちに見たいとことか、寄りたい場所とか、行っとかなくていいのか?」
「そんな場所、無いから大丈夫よぉ。長居してたら危険なだけ。時間になったらすぐに高速船にのっちゃいましょ」
きっと私たちの追手はその船の中や、到着先の港にもいるはずだ。二人だけでメジロの家まで無事帰るための段取りやエネルギーのことを考えると当然呑気に思い出の街並みをそぞろ歩くようなゆとりなんか出てくるわけがない。大体、この街に関する私の思い出は、懐かしく振り返りたくなる類のものではない。
そう思ってはいたけれど。
タイガの飲み残したフラペチーノのストローに口をつけて、視線はここからでもよく見える公園をむいてしまう。芝生の上で陽気につられて日向ぼっこをする住人や観光客の姿がよく見えるけど、私がいたあの便所は木立に隠れて見えない。
あそこだけは最後にもう一度みておくべきかと、感傷的な気持ちが湧いてくる。
あそこに行って、母ちゃんにごめんと謝るべきか。薄情な娘でごめんって、一言声をかけるべきか。
――そうすると気持ちは手術を受けた後にみた夢の世界に引きずりこまれた。
ワルキューレになるための手術そのものはそんなに難しいものではないらしく、それ事態はすぐに済む。だけど、体の中に異物をしこむようなものだから、体に定着するまではしばらく寝込みながら意識を夢と現のような場所で遊ばせることになる。つまり私は妙な夢を見ていたのだ。
私がいたのは、よりにもよって、あの懐かしい公園、あの懐かしい便所の傍だった。
人のざわめきや陽気な音楽が聞こえるけれど、この便所の周囲にはぱったり人の気配がない。きっとみんなあの陽気な音楽や旨そうな匂いのする場所にいるのだろう。
そりゃそうだ、こんないい天気の日にこんな陰気でアンモニアやメタン臭ぇ場所にいたくないよな……と考えながら、私は足元をみる。
そこには浄化槽の蓋がある。
遠くから聞こえる歌が、耳になじみのあるあの懐メロだと気づいたのはその時だ。海辺で過ごすバカンスがどうのという、子供用の
とぎれとぎれに聞こえてくる、舌ったらずで甲高いあの声は、誰かのものににてやしないか……?
夢の中らしく急にふわふわと心もとなくなった浄化槽の中から、その時はっきり声が聞こえた。
はっきり、リーリヤ、って聴こえた。
ぞっとして後ずさり、私は足元の蓋を凝視する。鉄の蓋の下、聞こえる筈のない声が聞こえた。悲鳴を上げそうになり、振り回した手には、あの蝙蝠傘がある。
心臓がひっくり返りそうな恐怖の中でその傘を抱きしめながら、おちつけおちつけと唱えて、これは夢だ夢だと言い聞かせる。
なんでよりにもよってこんな夢を見ちまうのかと、かたかた震えて、自分の足元にいるだろう、あのオバケみたいな母ちゃんの姿を想像する。いやだいやだ、もう二度と会いたくない。あんな怖い目には遭いたくない。夢なら早く醒めろと祈っている私をからかうように、舌ったらずで甲高い歌声はぐにゃぐにゃ歪んで大きく波打つ。
大陸を横断する鉄道の向こうにある、行ったこともない街で可哀想で綺麗な母ちゃんはいるんだと信じている、子供の声。
このまま父ちゃんと芸人親子としてやってくんだろうなって、漠然と信じていた路上生活の子供の無邪気でのびやかな歌声。
あとしばらく後で、オバケみたいな有様にかえられた実の母親と再会するだなんて夢にも思ってないあの声。
足元のマンホールの下からは、リーリヤ、ねえ、そこにいるの? と、どこかうつろな女の美しい声が聞こえる。リーリヤ、あの歌を歌ってるのは、リーリヤでしょう? いい声ねえ。この中まで聞こえるくらいだもの。ああ本当に……リーリヤ、リーリヤ。
私が今この綺麗な声を聞かなかったふりをしたら、今あそこで無邪気に歌ってるチビの女の子は世にも恐ろしい目に遭わなくて済むんだろうか。顔を潰された父ちゃんとしばらくは仲良く一緒に暮らせるんだろうか。そしてそのうち酒場の歌姫にでもなって適当な兄さんを自分の稼ぎで食わせるような大人になるんだろうか。
変なガキと悪い医者に出会うこともなく、ワルキューレになろうだなんて血迷った判断もすることなく、それなりに幸せな一生を過ごしたりするんだろうか。
ここに母ちゃんがいるって知らないまま。
ぞわっと総毛立って、私は傘の柄をマンホールの取っ手に引っ掛けていた。無我夢中で人ひとりくらい通れそうな隙間を作ってからぎゅっと強く目を閉じる。
もう限界だ。醒めろ醒めろ。夢は終われ。ここで終われ。
両膝と両肘を落とされた糞尿まみれのオバケがびちゃびちゃ音を立てて浄化槽をはい出てくる所を想像して、私はガタガタ震えた。本当は私が手を差し伸べてあげなきゃいけないのに恐怖にかられてそれすら出来ない情けなさに打ちのめされながら、傘を抱いてしゃがんでうずくまる。
汚物の臭気に吐きそうになりながら、私は一つの想像に縋る。
母ちゃんは
ここからちょっといった先にあんたのセルゲイとリーリヤはいて、お客さんに芸を見せている。だからそこから先は自力でなんとかしてくれ。おれにはこれが限界だ。
――そんな自分が情けなくて、ゆっくり目を開けたら目の前にあったのはベタベタに濡れた白いシーツだった。
手には傘も無い。夢の中でしゃがんでいたはずの体だけど手足は伸びていて、ギャップのせいでふわふわと眩暈めいた感触に襲われた。
ぼんやりしているうちに自分が見ていたのが夢だったこと、うつぶせに寝ている今その時こそ現実だとゆっくり把握してゆく。
夢の意味合いを考える余裕が出てきたのは、数時間経った後だった。術後の経過を診に来たセンリにぼんやりと尋ねたのだ。
「……この手術を受けたら漫画みたいな超能力が使えるようになるんだっけ……?」
「理論上はね。使えてもおかしくない状態になるって程度のことだよ」
「……その力の中に、過去に戻ったり、人を
まだぼんやりした私の目の前で、センリは眼鏡の向こうの目を光らせた。面白い症例だとおもったのだろう、ゆっくりでいいから夢の中で何があったのかを教えなと言った。
それに応える前に、私は呟いていた。
「……どうしよう……。あの夢で寿命が何年すり減ったんだろう……」
そしてぐずぐず啜り泣き、怖いというたったそれだけの理由で母ちゃんに優しい言葉をかけてあげられなかった自分が情けなくて泣いた。うつぶせのままでえぐえぐと。
――その夢での悔いに襲われてちくちくと胸が痛ませていると、隣にいたタイガが私の脇腹をちょんと突いた。我に返った私相手にさっと目くばせをしてみせる。呑気でのどかな善男善女と違う動きをする大人連中が数人いるのを確認して、私達はスツールからぴょんと飛び降りた。
客が使った後のテーブルを片付けているバイトっぽい男の店員に声をかけて、できるだけ脅えきった表情を作ってみせる。
「ごめんなさい、お兄さん。……助けて! お願い!」
困惑しているお兄さんの耳に口を寄せて、私達人さらいに追いかけられてるんです、もうすぐしたら怖い人がこの店にやってきます。だからお願い、警察を呼んで、安全なところに匿って、お願い、お願い……! と涙声で訴えた。その直後、私の発言を裏付けるように派手な格好の男たちが数人どやどやなだれ込んできたから、可愛そうな店員の関心もそっちへ移り、私の発言を精査する余裕を失くし、私達をスタッフルームへ投げ入れるように匿う。
裏口は既に押さえられていたかもしれないが、控室の窓の下は無人だった。躊躇なくそこからとんずらして私たちは高速船乗り場まで駆けだした。
「お前やっぱりスゲエなぁっ、絶対絶対すっごい女優になれるぞ、絶対!」
「今はいいから喋ってないで走って、お願いっ!」
裏口に回り込んでいた連中の足音がバラバラと近づくのを背中で感じながら、私達は走った。
私がいない間にこの街の警察の機動力も改善されていたのか、サイレンをたてたパトカーが店の前に横づけされた。なんだなんだと寄ってくる野次馬に紛れ込んで逃げながら、私達は走る走る。こういう時こそ手術で得た超能力の使いどころだったんじゃないかとあとから冷静に声をかけたくなるくらい、必死で走って私たちは逃げた。
――はてさてそんなわけで、私は故郷を再び後にして高速船に乗り、日本海から太平洋岸のあの街まで帰った訳だけど、ロクでもな女の子二人がおっかないおっさん連中に追いかけられながらの目的地を目指すてんやわんやな道中を語る余裕は残念ながらあまりない。映画の脚本にでもすればおもしろそうなんだけど。
とりあえず私たちは数日後には太平洋校に向けて出発することになるのだから、二人の女の子は無事メジロのおうちにたどり着いた、そういうことになる。そこから先の話はまた別の機会に。その機会があれば、の、話になるが。
おっと、本当の最後に一つだけ。
――一体全体、人豚にされた絶世の美姫がどうやって浄化槽から抜け出たのか?
この昔話におけるこの謎がいつまでも気になって仕方なく、脱線と蛇足だらけのお話にお付き合いくださった辛抱強い読者の方へ。
どうやらワルキューレになるための手術を受けた私が夢の中で過去に戻って人豚ヤスミンを助けたらしい、これが、現時点私から伝られる真相らしきものということになる。ご満足いただけただろうか。
こんなつまらない昔話につきあって明らかになった真相がこれか! 結局超常の力で解決するオチか! 反則だ! ……なんて怒らないこと。だってこれは推理小説ではありませんから。
今いる場所から少しでも高く遠く旅立つために不思議な力をもつ女の子になる決意をした、二人の女の子のお話ですから。
本来出会うはずではなかったのかもしれない二人の女の子が、巡り合って行動をともにして、別れるまでの奇跡を描いたお話ですから。
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