#5 恋のインディアン人形
再三に渡り私の顔は美男美女だった両親の良いところだっただの、裏社会を束ねる側だった大人連中から金になると査定されていただの、運命的な出会いを果たした相手から出会い頭に綺麗だ綺麗だと褒め称えられただのと自己発信ばかりで嘘くさい、説得力がない──と、お疑いの方はどうぞ遠慮せずその場で挙手を。
無理もない話である。テキストデータといえ形で私の語りに今こうしてお付き合いくださっている、当世界とは異なる歴史線上にある外世界群にお住いの皆様方がこちらの芸能事情に明るくないのは当然だ。
当文章の書き手の容色が気になる方は当世界をご旅行の際にでも当地の端末を入手の上で
現在こうして物語っている幼い頃の私の容色が気になるならば、目白リリイの名で検索されたし。そうすれば太平洋ワルキューレ養成校在籍時にインディーズアイドルとしても活動していた頃の私の画像が出てくる筈である。小戚として呼ばれていた私は目白リリイ時代から三から四年ほど幼くし、道端で見かけたら避けて通る程度に汚れさせた姿だったと想像してくださればいい。
が、私の語りにお付き合いいただいてる方は文明の発達程度問題で時間旅行はおろか外世界間渡航すら不可能な世界群でお住まいの方が殆どだろう。なにしろ私がこうして物語っている先は、現在のように歴史線が分岐する以前、外世界からの侵略者が訪れることなど想像もされなかった二十一世紀前半の小説投稿サイトの一つなのだから。
二十二世紀初頭にいる私がなぜどうしてわざわざ時空に干渉するような手間暇をかけてここに少女時代の思い出を綴っているのか、そもそもそんなことが可能なのかといよいよ胡散臭くお思いの方もいらっしゃることだろう。そのような方々の為に、小戚として過ごしていた時代より数年後、目白リリイとして生きていたころの口調を再現して説明させていただく。
だってぇ、面白そうだなって思ったんですぅ~。面白そうだなあって思いついたからやってみましたぁってことに、それ以上の説明って必要ですかぁ? ……ああ、必要って側の人なんですかぁ~。へぇ~……、そうなんだぁ。ふうん。
じゃあ説明しますけどぉ、二十二世紀ってドラえもんがいるような時代なんですよぉ? これぐらいの悪戯はとっくに可能になってるんですぅ。特に私はワルキューレやってましたしぃ、これくらいのことはできるんですぅ。え? 想像できない? ああ、まだ外世界の概念も理解できない二十一世紀初頭の人たちには難しいお話でしたぁ? ごめんなさぁい、気が利かなくってぇ~。
――これでは流石にあまりに不親切なので、
髪は父ちゃん譲りのさらさらまっすぐの黒、目は回族の難民二世だった母ちゃん譲りのぱっちりした二重に瞳はやや翡翠色がかった茶、肌の白さも母ちゃん譲り。鼻筋は通り唇が花弁のようなのは当たり前。蕾が綻ぶような微笑みは母ちゃんの現役時代を彷彿とさせるが、ふと物憂い顔つきになる横顔は口よりも雄弁に物を語った眼差しが女衆の胸を疼かせたという父ちゃんそっくりで子供離れした危うさがある、というのがターニャ姐さんによる私の顔面評だった。
あの街にいたのはたかだか十のころだから、体つきには丸みも何もない。けれども傘の鍛錬を欠かさなかった為に姿勢はよく体幹も鍛えられ体のバネはしゃんとしていた。手脚が長いのも両親譲りだ。サンピンのブカブカのお古を着込んでわざと猫背気味に歩き、悪臭と不潔さを纏っていた私が、断熱繊維でできた上着をぬいでよく跳ねる子鹿か子馬のような活きのいい体を晒して見せたとき、ターニャ姐さんの亭主の兄さんは、じっとこっちを見たのだった。
若様連中の前で歌を披露する報酬を受け取りに行った日のことである
――のっけから話がそれにそれまくったがようやく本題に入れた。やれやれ、書きものって本当に面倒。こんなこと職業や趣味にする人たちの気が知れない――。
極力厚着をしたくななかったので、上着の下はてろてろの防寒肌着の上にブカブカでボロボロの男物のニットを着ただけだ。襟ぐりの所がVの字に大きく切れ込んでいるので大の男ならひねりつぶせる細さの首と鎖骨の窪みが丸見えになる。
わざと視線を逸らし、斜めを向いた顔を向けて兄さんにぶっきらぼうに交渉を始める。己の容色が金になることを気付きはしたが、それをどう換金したらいいのかまだよく知らないガキに見えるよう計算した結果、そうしたのだ。
「おれへの支払いと一緒に、おじさんに払う予定のボーナスも預かりたい。でなけりゃこの仕事はナシだよ。兄さん」
「――なんであいつにやる金をお前に渡さなきゃならねえ?」
「内緒にしろって言われてるんだけどさ、おじさん、姐さんにその金でプレゼントを買いたいみたいなんだ。その金がどうしても今日中に必要みたいだから……」
相手の顔をまっすぐ顔をみられないくらい無愛想に接してしまう、それくらい真剣なんですよ、という怒ったような顔つきで交渉を開始する。
いつもの小生意気な口ばかりたたくガキにしては可愛らしいことを囀るじゃねえか、ただし人にモノを頼む態度がなっちゃいねえ、こりゃよーく仕込んでやる必要がありそうだ――という印象になるように最大限気を遣って。
焦らすつもりなのか、タバコを咥えて火をつける兄さんが間を置いたのに合わせて、私は初めてその顔を真正面から向き合った。そしてここで初めて必死に語りかける。
「おじさんと姐さんにはずっと世話になってるだろ? だからお礼がしたいんだよ。絶対にピンハネするとかじゃないからさ。信用してよ。おれ、あんたに嘘ついたことって今までなかったじゃないか」
「あいつに渡すのはお前が若様連中を心から満足させた時に出す成功報酬だ。推薦料込みってことになってる」
「おれが失敗すると思ってんの、兄さん。ブランクはあるけど物心ついてからずっと父ちゃんと芸人やってたんだよ?」
元芸人のカンに従いガキらしく調子に乗ってデカい口を叩いてみせる。お客はこの兄さん。兄さんは案の定、やれやれ路上育ちでスレきってるとはいえまだまだガキだな、という余裕まみれな顔つきになる。
「若様連中はわざわざお前なんぞをご指名なさってんだぞ。単なるお歌の発表会って訳じゃねえ」
「? どういう意味だよ」
そんなもん自明の理ではあるが、私はわざとらしくない程度にきょとんとした顔つきを作って分からないフリをする。そうすると兄さんの小鼻がちょっと膨らむ。──若くて無知な女に物を教える欲に弱い辺りこのおっさん案外チョロいな、と思ったことは当然面に出さない。
やっぱり煙草をすっぱあ~……と吹かしながら、兄さんはトクトクと説明する。
「若様連中を心から満足させねえとあいつへのボーナスは出せねえって言ったろうが。――いいか、小戚。若様が見たがってるのは人豚ンなった可哀想なヤスミンの哀れな娘っ子だ。そいつが健気に母ちゃんそっくりの美声で歌う。悲惨で哀れな歌姫の娘が怖いおっちゃんや兄ちゃんらにいじめられながら一人健気に生きてるってな湿っぽい筋を坊ちゃん連中はお望みで、お前はそれに沿って気持ちのいい旅の思い出を作る手伝いをしてやる。そういうことだよ」
「ふうん?」
私は今一つ、ピンとこない風な顔を作って小首を傾げた。そして兄さんが足を投げ出している机のそばまで近寄ると、正面で頬杖をつき母ちゃん譲りの目で兄さんをじっと見つめる。ちびっこい子供が何か気になるものをじっと見つめる時のように無心な、「無垢」ってやつを頭に浮かべて実践してみる。
同時に、兄さんの位置からは見えない机の陰でボロ靴を脱いで裸足になり指先でブカブカのズボンの生地を摘んで引き下げる。いつもならこの下に股引でも重ねばきして防寒対策をしているのだが、その日はこのために黒いジャージのズボン一枚きりだった(おかげでえらい寒かった)。
そんな仕掛けを施してるなんてことを気取られない表情を作ることくらい、私には余裕だ。
「兄さんの言うことはおれには難しくてわかんないや。詳しく教えて欲しいんだけど?」
「──ここまで言って分からねえなら金は出せねえな」
とかなんとか言いながら、兄さんは投げ出していた足を机の下に引っ込める。それに続くように、私は机の上に腰を降ろす。そして机の上に置いた尻を中心に上半身を捻り、さっき剥き出したばかりの両脚を机の上で円を描くように回して兄さんと向かい合う。
陸に上がった人魚のお姫様みたいに重ねた剥き出しの真っ白くてすべすべの両脚を斜めに揃えて見せるのはほんの一瞬だけ、あとはなるたけ子供っぽく椅子のそばにぴょんと降りる。そのまま跪いて兄さんの腿の上で頬杖をついた。
下からいかついおっさんの顔を見上げ、母ちゃん譲りの天女の顔で微笑んでみせる。
「──これでも教えてくれないんだ?」
さっきも言ったけどこの時着ていたのはサイズが合ってないテロテロでブカブカの防寒肌着とVネックのボロボロのニットだから角度を作ると胸元がガラ空きになる。当然、十一に満たないガキの胸だからプロの女衆がみせるようないい景色は到底作れない。その分、ヘソの辺りまでは簡単に覗ける。その奥の暗がりにも、だ。
タバコを指に挟んだおっさんが興味なさげにしながらもこっちを見たのでペタンと両肘をたおしてその上に頬をくっつける。こうすればガキの薄っぺらい胸はみえなくなるが上半身は兄さんの脚に密着し、背中から腰と尻、剥き出しの脚でいい具合の曲線が出来上がる。
でもそういう計算なんかしてませんよ、これは大人の真似事ですよという風に、わざと歯を見せてへへっとことさらそこいらのガキくさく馴れ馴れしく笑ってみせた。
「──兄さん、今ちょっとドキっとしたろ? おれのことなかなかのもんだと思ったんじゃない?」
「調子に乗るな、便所虫」
タバコを持ってない方のざらざらした手で私の両頬を抑えて唇を尖らせてから(私はそれに合わせて「うぎゅ」とか動漫じみた妙な呻き声を出す。女賊として将来有望なガキからのお茶目なサービスだ)、兄さんは私の顔を面白げにのぞき込んで言った。
「マッチ売るガキの話みたいに哀れっぽくやれって言ってんのに、今みたいなマネは逆効果だろうが」
いかついくせに妙に童話に詳しい兄さんは、私の髪を指ですくって耳にかける。その後もいちいち助平臭い手つきで耳や頬をこすり唇に触れながら、さっき「自分で考えろ」といい放った内容を詳しく語る。要は若様たちがこの街にはいい印象を持って故郷に帰り、親分さんと南の国の名門一家との結びつきを強めるアシストをしろってことだ。余程のバカでないならとっくに分かり切ってる話ではある。
結局は単に泣き
――まあそんな茶番の結果、こいつはまだまだ危なっかしいが度胸はあるしカンが無いわけでもない、思っていた以上に躾甲斐がありそうだなと判断したらしい兄さんの気前はよくなり、紐のゆるんだ財布から首尾よくターニャ姐さんへの指輪代を頂戴する。ズボンと靴を身につけて、さっさと事務所を後にした。
私が数日前にさんざん脅しつけたあのゴミ捨て場で待ってた姐さんの亭主に渡されたばかりの金を支払って、余計なことをせずに指輪だけ買ったらすぐに店に帰れ! と念を押してから、あいつが待ってる筈の公園へ向かったのだった。
すまねえなあ小戚、お前は本当に大したヤツだなあ~……、と姐さんの亭主がのんきな声をかけるのを背中で受け止めて、兄さんのざらついた指の腹の感触が残る頬や耳や唇を掌や手の甲でがしがし擦りながらどすどす歩いた。
その後はまた仕入れた密造酒を抱えて公園へ行き、あいかわらず私とは楽しい鬼ごっこでじゃれあっているつもりでしかないタイガのことを傘を片手に追いかけまわした訳だけど、その日の気迫はそれまでとは違っていたらしい。
時々足を停めて振り返ったり、本物の猫みたく一瞬で駆け上がった公園の植木の枝から私を見降ろしながら、度々タイガは確認してきた。
「チー坊、お前今日なんか荒れてねえ?」
「荒れてねえしっ! 普段通りだよっ!」
自分でもバレバレの嘘を吐きながらすばしっこいタイガを追撃し、作戦とはいえバカなガキのふりをした自分へのむしゃくしゃを思う存分暴れて晴らした。
あんな風に振る舞うガキなんか、私の爱人は軽蔑する筈だ。相手にされないのは体をゾクゾクさせるが軽蔑されるのはそれとはわけが違う。つれなくあしらわれてはみたいが軽蔑されるのは真っ平御免だ。
そんな呑気な日を過ごしたのが、歌を披露する当日の二日前の午後。
本番当日、ワルキューレによる侵略者退治ショーが始まる前に出航する高速船に乗る予定ターニャ姐さんを先に送り出した後、カウチに座って爱人の出てくる動漫を見る。これでしばらく見納めだから時間をかけてたっぷりと。
そして姐さんが餞別がわりに着つけてくれたお嬢さんドレスの上から今まで着ていた断熱繊維の黒い上着を引っ掛けて外に出る。綺麗に結ってくれた髪を崩さないように気をつけながらフードも被って。そして店の扉には鍵をきっちりかけた。
裏路地には雪がうっすら積もりつつあり、私は不格好な長靴を履き予備の傘をさして仕事場へ向かう。だから外見上はいつもの小戚にしか見えなかった筈だ。
あのおっさん、慈善だって嘯くならカボチャの馬車とガラスの靴ぐらい手配しやがれ、と心の中で罵りながら、いつもより派手に明滅する七色に輝きだした空の下を歩く。
表通りから時々、おおっ、とか、わあっ、とか派手な歓声が波みたいに押し寄せた。きっと空を見上げたら、その日デビューしたという新人ワルキューレが二つの流れ星になって空にいる侵略者を退治する様子が見えた筈だ。空がときおり大玉の花火が弾けたように眩しく鮮やかに光ることすら無視して、私は若様の待つこの街の一番の御殿へ向かう。
この街も中途半端な都会だから、オペラ座とかガルニエ宮ってな風合いのおフランスかぶれした高級酒場がある。ドガって画家による悪趣味なことで有名な絵のタイトルから頂戴している屋号を掲げたそこがその日の私の仕事場だった。当地ご旅行の際には是非お立ち寄りを、もっとも今でもそこにあるかどうかは知らないけど。
指示通り通り裏口から楽屋に入り込んだ。御殿みたいに煌びやかな高級酒場も、バックステージは休憩中の歌姫や姐さん達が素の姿をさらしているし、下っ端のボーイが先輩に叱られたりしていて汚く騒々しく、裏通りじみている。
話が行き渡っていないのか、公衆便所の人豚娘がなんでここに居やがるという目でこっちを見る大人もいたけれど、兄さんが面倒を見ている若い衆が私に気がついてステージの袖に連れて行く。
「なんでその格好で来やがった?」
「演出だよ」
舞台袖で不恰好な長靴を脱ぎ、あらかじめ用意されていた華奢なお嬢さん靴に履き替える。上着の裾からストッキングに包まれた脚が覗いて、そこにいた連中が皆、おや? という顔になった。
酒場の客席にいるのはこの街の親分さんとその側近連中だ。見慣れない顔の連中はきっと南からきた
それでいい。計算通りだ。大体若様連中の年齢は十五、六だって聞く。その年代のお坊ちゃんが本当に興味を持つのは白粉臭いプロの姐さんたちか、動漫の美少女戦士じみたワルキューレの方に決まってる。いくら顔が奇麗で面白い来歴をもっていても十歳のガキにそこまで興味を持ちはしなしないのがどう考えても普通だ。
だから、私の出番は若様連中が来店する直前にセッティングされていた。最後の一曲、ワンフレーズだけでも若様の耳に入ればよい。そのあと可憐にお辞儀をしてステージの奥に引っ込む私の後ろ姿でも見せた方が効果的だ。
大体、兄さんが本当に私の顔を見せびらかしたい相手は若様ではない。上等の席で若様の到来を待っている親分さん、及び幹部連中だ。
栴檀は双葉より芳しとは言いますが便所コオロギに擬態しても持って生まれた歌姫ヤスミンの血は抗えませんや。あいつは今から磨けば相当のモノになりますぜ、人豚にされた母ちゃんの娘って所も並みの女じゃねえって箔になりまさァ――てな具合に私のことを高く売り込んで、上の人たちからの覚えを目出度くしてもらおうって算段なわけだ。やれやれ。
つまり私は、指輪の代金が欲しいターニャ姐さんの亭主に売られ、そして親分さんからの覚えを目出度くしたい兄さんからまた売られようとしているわけだ。まったくもって、やれやれ、だ。
――どいつもこいつも、人をなんだと思ってやがる。
ライトの眩しいステージの向こう側の客席は暗く沈んで見える。その日のお客の殆どは黒い服を着た連中が殆どだから、余計に暗く見えた。まるでよどんだ海の底みたいだった。
親分さんの位置は見えるが兄さんの姿は見えない。それでも兄さんの舎弟が私に合図を出す。出番だ。
お前それを脱いで行けよ――という、舎弟の制止を振り切って私は黒い断熱繊維の上着のままでステージの中央にするするとあゆみ出る。
当然、客席の方はざわつきだす。由緒ある高級酒場のステージになんであんなボロを着た汚い
ステージ下の楽団連中もあからさまに戸惑ってこっちを胡散臭げに見たが、伝わっている筈の段取り通りやれと眼で脅す。バンマスは勘のいい奴だったと見えて、曲のイントロを奏でだした。残りの連中もそれに従う。
この辺り一帯では耳慣れた、あの懐メロのイントロが酒場に流れるが、場のざわつきは収まらない。
南の国からきた黒社会の大物連中の手前だ。親分さんの側近がいきりたとうとした瞬間、私は黒い上着をばっと派手に脱ぎ捨てた。
――あとは全くもって茶番の極みであるので簡単に。
ボロの下から現れた、ライトを浴びてきらきら輝く仕様になっている水色のお嬢さんドレスを纏った可憐な少女が愛くるしい笑みを浮かべ、涼やかかつ甘い歌声でバカンス先で戯れる若い男女の懐メロを歌いあげる。
ざわついた客席は私の歌声が響くにつれて次第に静かになってゆく。暗く沈んだ客席の深海魚めいた連中による食い入るような視線がこちらに集中するのを感じながらも、最初の方はそれを無視してただニコニコと歌の上手い子供っぽく無邪気に歌って踊って見せる。
一曲が終わり、二曲目も終わり、あの便所虫がいっぱしに化けやがって、そりゃ驚いたが所詮はたかだか歌が上手ってだけのガキじゃねえか――と客席も落ち着きを取り戻したタイミングで歌ったのが、ぐっと昔の大人びた歌だ。ゆったりとしたメロディーに文語調の歌詞。頭の中に爱人のことを思い浮かべるといつもそうなる胸の疼きや、想像でしかしらない母ちゃんと父ちゃんがのっぴきならない仲になった白百合の花壇なんかを思い浮かべながら、お嬢さんドレスには不似合いな情感を出して、客席の偉い方々をじっと見つめて。
次の曲はアップテンポの流行歌で難しい振り付けも完璧にこなし、とろりとした雰囲気を一掃する。ステージで歌い踊る私に視線がぐいぐいついてゆくのを感じながら、視線の配り方、声の出し方、唇の開き方、指の動かし方ひとつでそれを自在に操る。人を殺すのに眉一つ動かさない連中の視線が、十のガキのお歌から目が離せなくなっている。そんな状況を作ったことがステージ上の私は怖くて怖くていっそ笑い出してしまいたくらいバカバカしくて、それに負けないために一層私はとろけそうな甘い歌声を出す。
予想していたよりやや早いタイミングで若様連中がやってきて、一番上等の席に座る。地元の親分さんが席を立ち、眉目秀麗な若様連中にあいさつを始めた姿を確認しながら私は流行歌を歌った。十代の小娘の恋する心境を歌った他愛もないもので、若様たちの顔に視線を配っては一番隙の多そうな坊ちゃんに歯を覗かせながら飾り気なく笑ってみせた。そいつの視線が狙った通り私を追いかける。親分さんの挨拶なんて全く耳に入ってない。
シメにもう一曲歌ってから、ドレスのスカートの裾をつまんでちょんとお辞儀をしてみせた。ステージから去る時に、親分さんたちの後ろにいる兄さんの姿を見つけて素早く片目を瞑って舞台袖にハケた。
兄さんはこっちに方をずっと見ていたから、この秋波が誰に向けたものかちゃんと把握していただろう。髪を結い上げているせいで丸見えの項や背中にいくつもの視線が刺さるのを感じながら、ステージの袖にひっこんだ。
兄さんの舎弟や歌姫の姐さんたちが呆然としているのに一瞥もせず、お嬢さん靴の音を小気味よく鳴らして楽屋の廊下を早足で通り抜けて裏口から外に出た。
おとぎ話のお城もかくやとばかりに豪華絢爛な高級酒場の裏口も、当たり前にシケてすえている。残飯の臭気が漂うそこで、両腕がむき出しなお嬢さんドレス姿のまま、はーっと息を吐いた。
久々に人前で披露した芸の舞台、成功したといっていいものの筈だ。面白いように深海魚みたいな客の気持ちを揺さぶれた。連中はたかだか十のガキの上手なお歌に酔いしれた。
全力を出し切ったために、体は汗ばんでいた。しばらく外の寒さが心地よく、その場にしゃがみこむ。雪は止んでいたけれど舗道の上には白いものがうっすら積もり、お嬢さん靴とストッキングだけのつま先にその冷たさがじんじんと沁みとおってゆく。いつもなら苛立つだけのその感覚が、その瞬間だけは心地よかった。
湯気が出てるんじゃないかってくらい火照った体も、上着ひとつも着ないドレス姿のままでは冬将軍の息の下では汗ばんだ体はじきに冷めて冷え切ってしまう。姐さんが舞台上で見栄えがするようにと軽くラメをはたいてくれた二の腕をこすりながら、しばらく私は裏口の傍で立っている。
私の、本当の仕事はこれからだからだ――。
かじかんだ両手の指にはあっと息を吹きかけてすり合わせていると、裏口のドアが静かに開く気配があった。
来やがったな、と構えたことをおくびに出さずその場にたたずみ続ける。体が冷えたせいで計算外のくしゃみが出た。くしゃん、と我ながら媚びまみれに加工できたそのアドリブの後、肩の上に何か温いものがそっとかけられる。
「風邪ひくよ?」
十五、六の男の声だ。本当にちょっと驚きながら振り向くと、私が狙いをつけた隙の多そうな坊ちゃんが私の背後に立っていた。
見目はいいが黒社会の名門の若様らしく上等の服を粋に着こなしたニヤニヤ笑いの坊ちゃんだが、無料翻訳機は喋り方を本物の若様が喋るように丁寧な口調で訳す。
「中に入れば? そこじゃ体も冷えてあたり前だ」
「あ、あたしは……あたしなんかが中に入ったらみんな嫌がりますから。周りが臭くなるって」
これからしばらくマッチを売るような女の子のフリをしなければならないわけだから、勿論口調は全部がらっと取り換える。
私の肩にかけられたのも、上等の暖かいコートだった。タイガが着ていたピーコートよりずっといいものなのは肌触りや温さからも明らかだった。それが肩にかけられていることに今気づいたとばかりに、まだカールの取れていないまつ毛をパチパチさせて、急いでコートを脱いで押し付ける。
「! こんなこと、あたしなんかにしちゃいけません!」
「どうして? ずいぶん寒そうだったけど」
「寒いのは平気です! それより、こんな上等の服、あたしなんかに着せるなんて。そんな、勿体ない――!」
コートをたたんで押し付けると、若様から飛びのいて、自分は舞台衣装のお嬢さんドレス一つで平気だと言うようにニッコリ笑って見せた。さてこれからいよいよ泣き売の本番だ。
にやけた美男の若様は、剥き出しの肌が泡立ってるにもかかわらず野の花のように笑った私の顔と風情がお気に召したとみて私のそばに近寄ると再度コートを肩にかけた。今度はされるがままになる(実際いい加減凍えそうにもなっていたし)。
「さっき見せてくれたステージのお礼――にしちゃあ、ちょっとささやかすぎるかな?」
「でも――ダメですよ。こんなことしもし親分さんにバレちまったら、あたしが叱られちまいます。便所臭い人豚娘が坊ちゃまの傍に近寄るんじゃない、お前みたいなみっともないガキが傍にいたら坊っちゃまの格が下がっちまうだろうが――って」
可哀想で健気で卑屈な娘を演じながらコートを脱ごうとするふりをしようとすると、若様は私の前までやってきてコートの前をそっと合わせる。遊び人らしくその手際がいい。
「面白いことを言うねえ。君はとても可愛いしそれに、とてもいい匂いがする。全然便所くさくなんかないよ、小戚。――いや、リーリヤと呼ぼうか。その方が君にぴったりだ」
「! あたしの名前をどうして?」
これには素で驚いた。ここいらの兄さんや親分連中はとっくに私の本名なんて忘れてるもんだと思っていたから。でも同時に不愉快になる。個人情報を断りもなく他人にペラペラ明かされるのは面白くないだろう、誰だって。
そんな私の気持ちに気づかない若様は私の顔をのぞき込む。私の目に自分の姿を焼き付けるように。
「君の母さんの話は有名だよ。可愛そうな歌姫の人豚ヤスミン。彼女に一人娘がいたっていうのは俺の故郷にも伝わっている。正直、ワルキューレなんてものより信憑性の低い一種のおとぎ話だと思ってはいたんだけれど、現実はおとぎ話以上だったみたいだ。――この街は面白いね。侵略者は退治されてもう空が七色に輝くことはないけれど、地上には小さなシンデレラがいる」
翻訳機能は優しく丁寧に若様の言葉を甘ったるく訳するが、母語では一体あのニヤケ面でどんな言葉を囁いていたのやら。
若様がさりげなく回り込んで私の視界を封じた裏口から、若い連中の噴き出すのを堪えるひそひそした声が聞こえた。きっと若様のお仲間だ。偉いおっさん連中のもてなしに付き合うより、可愛そうでおぼこい女の子を甘ったるい言葉でからかう友達を見ていた方が愉快に違いない。
気づかないふりをして、ビルの谷間から空を見上げた。言われてみれば花火が何発も弾けていたような空はすっかり静まり返っていた。街の灯に照らされる冴えない曇天で覆われた夜空がなんだか懐かしい。
「侵略者、倒されちまったんですか?」
「ああ、ワルキューレの二人組が見事に倒しちゃったよ。結構可愛い二人だったけど、君には劣るかな」
「や、やだっ、ご、ご冗談を……っ!」
うぶなおぼこ娘らしく私は両手で顔を覆ってみせたわけだが、茶番につぐ茶番でいくら素人の書き物にお付き合いいただいている酔狂で辛抱づよい読み手の皆さんも欠伸を噛み頃している頃合いだろう。あともう少しで活劇に移るのでもうしばらくお付き合い願いたい。
顔から両手そろそろと離してから、裏口の傍に立てかけていた予備の傘の柄を握った。そして小さく膝を曲げてみせる。
「それじゃあ坊ちゃま、あたしはもうねぐらへ帰ります。コートは明日お返ししますので――おやすみなさい。よい夢を」
「ねぐら? ああ、君は公衆便所で寝泊まりしてるんだっけ? ヤスミンが浄化槽で飼われていたっていう」
面白げに若様の目が光った。人豚ヤスミンの伝説の現場をみておくのも悪かないなって、アホな十五、六の男まるだしの光だった。ワルキューレの侵略者退治も見物して、エグイ
君が暮らしている家をみてもいいかい、いえいえあんな汚い場所坊ちゃまのような人がみたってなんにも面白くはありません……——といった、儀礼的な押し問答の詳細は省略させてもらう。読み手の皆さんにおかれましては、まんまとこちらの計画通り若様が私の誘導に従って夜の公園までのこのこと着いてきたってことを把握して頂ければそれで十分。
ビルボードのモニターが、美国のチアリーダーみたいな金髪とゴスパンクみたいな恰好の褐色肌のワルキューレの二人組が侵略者をツンドラあたりに叩き込む様子と、その二人へのインタビューVTRを繰り返し繰り返し放送し、街の表通りは祭の余韻が覚め切らず酔っ払い連中が酒瓶片手に騒いでいる。
一月前にタイガと一緒に歩いた軍港への道はその日も色とりどりの屋台が並んでいて、観光客はそっちに集中していた。私と若様はその波に逆らって人通りの少ない裏通りを通って夜の公園へ向かった。侵略者もワルキューレもお祭り騒ぎも何一つ自分には関係ないという風情の浮浪者は、教会か寺院かどこかの福祉団体が主催する無料の宿に身を寄せているかで姿はない。
私のねぐらも今日は空だ。店子には全員、密造酒を一本余計に渡して今日は別の場所で寝ろと命じていたからだ。
大事な客を連れてくるんだ、の一言で大体察してくれたらしく、全員歯の抜けた顔でニヤアっと笑う。私とタイガの追いかけっこを面白そうに見ていたじいさまなんぞはやっぱりぶへへと笑いながら「せっかく金貯めこんでるんだからよう、もうちょっと暖かい所でデートすりゃどうだい?」と余計な軽口まで叩いた始末だ。
「……へぇ、ここがヤスミンの飼われていた公衆便所……」
お祭り騒ぎの街の喧騒も遠く、外灯だけが照らす夜の公園ってのは結構薄気味がわるいものだがこの若様は平気そうだ。腐っても黒社会の名門のお坊ちゃんだから少々気味の悪い程度の場所でびびるほど腰抜けではないのだろう。
坊ちゃんは興味深そうに、公衆便所裏手にある丸い鉄の蓋を見下ろした。
「で、ここがその浄化槽――」
「ええ」
感情をなるたけ表に出すのを堪えています、という様子で私は街の方を指さす。
「あたしはあの時、父ちゃんと芸を披露していました。その目の前にどろどろに汚れた母ちゃんがお客さん達の間を割ってはいずってきたんです。――今、思い出してもあれは――」
一瞬、演技ではなく本当に鼻の奥がツンとしたが、浄化槽の蓋を見下ろすのに飽きた若様が立ち上がって私が指さす方向を眺めた。黒い木立に遮られて見えないそっちに気を取られている隙に私は鼻をすすって、そっと若様の後ろに下がった。
「だからあたしは母ちゃんがこの浄化槽に落とされたことも、この浄化槽から出てきた場面も見ては無いんです。本当言うと、嘘だって思いたいんです。母ちゃんはそんなひどい目には遭っていないんだって――でも」
目の前で、リーリヤああリーリヤ、と何度も呼んだ人は地獄から蘇った化け物みたいに汚れ切っていて、それに手足の先が無かった。私はその人に抱き着かれた。それを一緒に見ていた父ちゃんはこの街の屋敷を一つ灰にしてから遠い街へ旅立ったきりだ。焼けた屋敷の跡が今でも更地になっているようにその記憶は消せない。嘘にはできない。
でも、の、先は飲み込んで、予備の傘の柄を浄化槽の蓋の取っ手にぐいと差し込んだ。――読み手の皆さんのうち、記憶力の良い方なら覚えている筈である。面白半分で私にちょっかいをかけてこようとするサンピンたちを返り討ちにして浄化槽に放り込んでいたことが何度もあることを。
つまり、私は浄化槽の蓋を開け閉めすることに慣れていた。最小限の物音だけで蓋をずらすなんて訳が無かった。
若様は私に背を向けて私の呟きを聞くともなしに聞いている。振り向くタイミングを見計らうと同時に、後をこっそりついてきた連中に合図でも送っているのだろう。慣れた手つきで端末をいじくっているのが見えた。こっちに神経が向いていないのは有難い。
重い鉄の塊がコンクリとぶつかってどうしてもゴトゴト音を立ててしまうのをごまかすためにも、私は一つ怖い話を披露する。
「――ねえ、坊ちゃま。でもちょっとおかしいと思いませんか?」
「? 何が」
「私の母ちゃんはダルマにされてこの中で飼われてたんですよ? 肘より先の無い腕と膝より先の無い脚で、どうやって外に出てこられたんでしょうねぇ? しかも内側からこの重たい鉄の蓋を持ち上げて――」
「確かに。俺の仲間内でもその点が引っかかっていたやつがいたよ。その都市伝説が事実だっていうなら、ヤスミンを外に出したものがいたとしか考えられないって――……?」
若様が不思議そうに鼻を鳴らした。開いた蓋から漏れる異臭に気が付いたのだろう。先回りして私が答えた。
「やっぱり臭いますね。便所だからそこはどうしても……。母ちゃんは約一月この中にいたそうですけど。もし母ちゃんを外に出す手引きをしたやつがいたんなら、どうしてもこう思うのをおさえきれないんです。もっと――」
「早く出してやれよって?」
振り向いた若様の手がこっちの顔に向けて伸びる。その先に握った護身用の銃口がこっちの額に突き付けられるより先に、予備の傘の柄を抜き仕込み刃の腹で頭を護った。がちっ、と私の目の前で金属と金属がぶつかり合う。
刃ごしに睨む私を、ニヤケづらの若様は面白そうに見下ろした。
「君がそう思うのもまあ最もな話だよね、小戚? ――ところでさあ、子供なりによく頑張ったとは思うけれどやっぱ計画が杜撰だよ? こっちはヤスミンの娘は同時に手練れの仕込み傘使いの娘だったってちゃあんと知っている。当然、歌も踊りも芸も上手だけど子供ながらに荒事で身を立ててるしっかりものだってこともね」
刃ごとぎりぎりと若様は銃口を押し付ける。華奢な見た目に反して十五、六相当の力があるらしい若様は刃ごと私を力で押してくる。若様は力では押し負けそうになる私を余裕気に見下ろした。
「そういう子が、空から何も降ってないのに傘を持って歩き始めたらそりゃあ警戒もするよねえっ? さて何が目的? 身代金? 大人たちへの復讐?」
「──お気づきありませんでしたかっ? あたしが来る前に空から雪がふってたんです……っ!」
「ああ、急に子供らしくないいい
目の前の小さな銃のトリガーにかかる指に力がかかるのがゆっくり、視界に大写しになった。
「狩り甲斐がある」
──かくして、壁にぶつけようが刃物で傷つけようが火で焙ろうが何をしても傷つかなかった私の呪われた美しい顔面は私の命ごと一発の銃弾によってあっけなく損なわれたのであった――という展開には勿論ならない。
先述の通り、私は太平洋校初等部所属のワルキューレ時代から当地で曲がりなりにも美声と美貌で評判の芸能人をやって久しい身である故。
私が傘の刃ごと撃ちぬかれずに済んだのは、便所の屋根からひょいっと身軽に若様の背後に音もなく飛び降りた者が、無言で凄まじい回し蹴りを食らわせたからである。
私に集中していた若様はその蹴りに対して防御の構えをとることは叶わず、まともにくらって横向きによろけた。そこにはさっき私が蓋をあけたばかりの浄化槽の口がある。にやけた美男の若様は、え? 何が起った? という表情を私の視界に焼き付けてその穴に吸い込まれた。一瞬真上を向いた銃口が夜空に向かったが引き金を引くどころではなかったらしい。
その直後、どぼん、と水音がして汚いしぶきが跳ね上がる。それに被さるのは、この一週間ですっかり聞きなれた、女のガキの声だった。そいつは浄化槽を見下ろしながら中指を突き立てたる。
「可愛いお嬢さん手籠めにしようとするバカは糞の海に溺れて死ねっ、バカチンがっ!」
いつものピーコート、いつものバカ丸出しの口調、威嚇のために目と歯をむいた粗暴な表情から一変し、唖然としている私をみたこっちをみてニィ~っと人懐っこく笑ったのはどう見てもタイガだった。
この一週間ですっかり見慣れた猫目で小麦色の肌のタイガは、私の正面にぴょんと近寄ると、初めて表通りを歩いた時のように人懐っこくこっちの顔をのぞき込む。
「ダメだぜ、お嬢ちゃん。こんなお姫様みてえな恰好で夜の街なんて出歩いたら。親はどうしたのさ、はぐれたのか? 迷子か?」
「――っ」
「こんなとこでウロウロしてねえで帰んなよ。ここにはこれから怖いやつらが山ほど来て危ねえぜ」
ちん、と、傘の刃を収めながら私は口をあんぐりさせていた。情けない話だが、突然の事態に脳みそがついていけなくて、そして目の前のタイガがどうやら愛らしく結い上げた髪にお嬢さんドレス姿なのに男物の上等のコートを羽織っているちぐはぐな格好の私がこの一週間なかよく追いかけっこをし、そして今日のこの時のために打ち合わせも重ねていたチー坊だと気づいていないことに唖然としたのだ。予備のものとはいえ仕込み傘を持っているにも関わらず、だ。
そのことに徐々に腹が立ってきて、言葉がなかなか出てこない。だのにタイガは猫目をぱちくりさせていよいよバカなことを言い出す。
「それとも嬢ちゃん、そっちの仕事か? ひょっとしてオレ邪魔しちまった?」
浄化槽の中でぎゃあすう暴れる若様の喚き声を聞いているうちに私ものんきに立ち尽くしているわけにはいかなくなる。いよいよバカな心配をし始めるタイガを怒鳴りつけたくなったが、それは後回しにして傘の柄に蓋を引っ掛けてすばやく浄化槽の蓋をしめた。喚き声は静かになる。これでゆっくり怒れる準備が整ったわけだ。
ぐんっ、と怒った顔をおもいっきりタイガの正面に近づけた。こいつが以前、こんなに綺麗な顔はみたことないと褒めに褒め倒したばっかりの顔を、だ。
すると流石にタイガも気づくものがあったらしく、猫目をきょとんと丸くさせた。
「……あれ? お前……ひょっとしてチー坊?」
「ひょっとしてもひょっとしなくてもそうだよっ!」
私は小声でがなった。すると今度はタイガが混乱しだしたとみえて、私の顔と身体を素早く見比べる。
そしてすぐ、何故か気恥ずかし気に視線をぱっとそらすくせにすぐさまにこっちに視線をもどすを繰り返す。挙動不審を絵にかいたような仕草だが、外灯に照らされた状態であってもそれとわかるぽおっと赤らんだほっぺたの状態から、目の前のガキは盛大に照れているというのがよくわかった。
「ちょ……っ、なんだよチー坊その恰好……っ、やべえなっ。オレ本物のお姫様かと思ったっ……」
「はぁっ⁉」
「そんな恰好で来るって聞いてなかったから、オレ、心の準備ができてねえっつうか……っ」
急にぐにゃぐにゃデレデレし始めたタイガは顔を両手で覆って、その場にしゃがみ込む。そして、やべーやべー超やべー、とやっぱりバカ丸出しに無邪気に嬉し気な声で繰り返す。
タイガという外国人の子どもに出会ってそんなに間が経っていないこの頃、私はまだこの奇妙な子供が胸を疼かせずにはいられないほど可愛くて綺麗で愛おしいものに出会った時のときめきに異常なまでに弱く、その衝動に逆らえないというどうしようもない性質を抱えているということを知らなった。
だから、手の隙間からときどきこっちを覗きみては、また、くぅー、やべー、マジやべー、直視できねー、などと埒もあかないことを繰り返すタイガを前にイライラ募らせていた。
あの若様は仲間を連れている。おそらく護衛も連れている。それは予想の範囲内だが、当初の計画とは段取りが狂い始めている。早く立て直さないと、全く本当に、やべーやべー超やべーな事態になりかねないのだ。目を覚まさせるために傘の刃をもう一度抜いてタイガの顔面に突き付けて音量を絞ってどやしつける。
「いつまでもふざけんじゃねえっ、段取り変更するぞっ!」
「お、おう、悪ぃなチー坊。──けどさあ、その恰好は反則だぜ。いくら綺麗な顔してるからってさあ、男なのにそんな服完璧に似合うのはヤバいし。ヤバすぎっし」
――面倒だしまあいいやと流したまま訂正しなかったのも悪かったのだが、タイガはその時まだ私のことを男だと思い込んでいた。どやしつけられながらも何故か嬉しそうに立ち上がるデレついたタイガからそのことをこのタイミングで知らされて、私は無性に腹が立った。いい加減気合を入れて欲しい頃合いなのに、いつまでもふざけやがってという怒りに火がついたのだ。
くううううっ! と、声を押し殺しながらタイガの手を掴んで便所の中に引っ張り込む。そして戸惑うタイガの目の前でバッとお嬢さんドレスのスカートをヘソあたりまでまくり上げてみせた。
ターニャ姐さん曰くブリブリして趣味が悪いというこのお嬢さんドレスは、淡い水色のガーターベルトとショーツがセットだった。下着ごしでも男なら股間についてなきゃならないものが無いことは分かった筈だ。
タイガの猫目がこぼれ落ちそうなくらいひと際大きくなったのを確認してから、私はスカートを降ろす。何故か兄さんの前で媚態を演じてみせたときよりずっと恥ずかしくて爱人に二度と顔向けできないような気になっていた私に、タイガは漫画か動漫でしか耳にしたことが無い、世にも間抜けな一言を発した。
「え、チー坊、何? お前、お、女だったのっ⁉」
「こんな綺麗な顔した男がいるかよ! 歌姫ヤスミンと傘使いセルゲイの娘リーリヤ舐めんなこの野郎っ!」
恥ずかしいわ、腹が立つわ、そもそもそんな状況じゃないわで私はむしゃくしゃと早口で叫んだ。便所の外側をばらばらと複数の人間が取り囲む足音が聞こえたのだ。きっと消息を立った若様の仲間と護衛連中だろう。
バカはバカだが、本物のバカではないらしいタイガもその気配を察して黙り、便所の壁に身をぴったりくっつけた。
「小戚~、いるの~? ねえ、返事して~?」
「出ておいで~、ねえ、何にもしないからさぁ」
聞こえてくるのはやっぱり十五、六の男の声だ。きっと今浄化槽の中にいる若様の仲間だ。連中には小戚は女だって思い込みがあるから女性便所の方を探し回っているらしい。個室を開け閉めする音が聞こえる。
とはいえ私とタイガが身を潜ませていいたのは男子便所だ。私の店子は男が多かったので男子便所に出入りするのが習い性になっていたのだ。
左右対称に、出入口の壁に体をぴったりくっつけたタイガへ向けて視線で問う。
預けた傘はどこにある?
タイガも猫目で応じる。私の背後にある掃除用具置き場を示す。
その流れでコートのポケットからタイガは普段よく舐めている棒付き飴を取り出してフィルムをむいて口に放り込んだ。妙なことをするなと一瞬気にしている間に、複数の足音がこっちに近づく。女便所を探しつくしたらそりゃ男便所の捜索だ。はいはい。
「隠れても無駄だよ、小戚~。出ておいで~」
「それとももう声が出せなくなってる?」
「おいおい勘弁しろよ、まだ歌ちゃんと聴けてねえのに~」
「そりゃ手前がワルキューレ退治を最後までみてえっつうからじゃねえぇか」
暇を持て余した坊ちゃん連中がゲラゲラ笑いながら男子便所に入り込む前に、タイガはそっと個室の一つに身を潜ませた。相変わらずほんものの猫みたいな身のこなしだ。
坊ちゃん連中はそれには気づかず、どやどやと男子便所に入り込む。そして、予備の傘を抱えた私は決死の覚悟をかためた表情で出入口のそばにぴったり張り付いた私をなんなく発見した。
人豚ちゃん狩りに酔いしれ若様たちの顔は実に実に楽し気に笑った。背後の個室にタイガが潜んでいることにも気づかないで。
非合法の遊びに慣れているらしい坊ちゃん数人を前にしているにも関わらず、それが私から過度の緊張と恐れを取り除いてくれた。
妙なところでは果てしなくバカなタイガだが、悔しいことに私がこいつを鬼ごっこで捕まえられるようになったのはたったの一度も無かった。それにタイガは、見ず知らずの汚いガキを助けがてらそいつを襲う侵略者相手にひるまず銃をぶっ放せるやつなのだ。
そういうヤツでなければ私も大事な傘を預けたりはしない。
安心して私はマッチ売りの女の子のように可哀想な人豚ちゃんの演技を続行した。
「嫌っ、こっちに来ないで!」
傘を抱えて、必要以上に脅えた声を出してみせる。丈の合ってないコートをブカブカさせたお嬢さんドレス姿で震えつつ、仕込みのある傘を抱いて見せる私の姿は護身用の銃を持つ若様連中の嗜虐心を刺激したらしい。来ないで、だって、いいねえ~、とニヤつく若様の手が私の顔を顎をつかんで上向けられたので、離して、触らないで! と金切り声もサービスする。
「はい、俺一番~。――え~っと、どういうルールだっけ? 人豚ちゃんを一番に捕まえたやつは煮るなり焼くなり好きにしていいんだっけ?」
「つってもどうすんだよ? まだガキじゃねえかコイツ」
「決まってんだろうが、飼うんだよ。ほどほどの年齢になるまでこの街のどっかで」
「便所でかぁ?」
「ちっげえし、どっかの変態と一緒にすんじゃねえよ」
げらげらげらげら、と若様連中は笑いあう。その内容から私は状況を察する。ま、要は若様連中の間でこの街ではロクな人権も与えられて無さそうな面白い曰くのある可愛い
――ただし、人豚ちゃん狩りのルールには獲物がハンターが反撃してははらないというルールはない筈だ。では可哀想なマッチ売り娘のフリはここでお終いにしても差し支えないだろう。
そう前向きに考えて、素の口調に切り替えた。脅えた表情もひっこめて、目つきを変える。
「ねえ、坊ちゃん方。お仲間の心配はしなくていいの?」
「――あぁ?」
「心配じゃないんだ、このコートを貸してくれたマヌケそうな坊ちゃんがどこに消えたのか? 怖くないんだ? ――ここをどこだと思ってんのさ。人豚ヤスミンが飼われてた便所だよ?」
タイミングを考えない怪談は興が醒めると言わんばかりに私の顎をつかんでいた若様が、小さい銃を持つ方の手の甲で額のあたりを殴った。がつっ、と音がなったと同時にタイガの潜んでいた個室の扉が音もなく開く。
若様連中の最後尾にいたやつがどさっと音を立てて倒れた音に、残りの若様も振り向く。その隙に私はコートを脱いで、一番手前の坊ちゃんの正面に素早く被せる。その後その坊ちゃんは我に返って銃をぶっ放したみたいだが、上等のコートは上等なだけあってチャチな護身用拳銃の銃弾程度なら貫通しない繊維がつかわれているようだった。コートが絡まった右手に持つ拳銃からくぐもった銃声を連発させて銃弾を無駄遣いしている間に、傘の柄を抜きながら体を思いっきり沈めて刃をふって膝から下を薙ぎ払う。血しぶきが飛ぶより先に重心を崩してこっちに向かって倒れてくる若様の図体を向こうに蹴り飛ばす。
それでこの便所に立っているものは、私とタイガ、そして私の顎を掴んで上向けた若様の膝から下の二本の足っきりなる。個室からするっと出てくるなり背後から残りの若様の膝の腱をすいすい斬ってなんなく便所の床に転がしたタイガは、便所の奥に駆けこんでいる。そっちには天井近くにガラスの嵌った窓があるのだ。あいかわらず本物の猫なみな身軽さで個室の扉の上に飛び乗って窓の縁によじのぼる。私は血だまりに転がる坊ちゃんたちから銃を持つ方の手首を斬り落とし、掃除用具をしまうロッカーの扉を開けた。
デッキブラシやバケツにホースと一緒に、黒い蝙蝠傘がしっかりそこにあった。思わずぎゅっと抱きしめると、奥の方からコートの内側からとりだした銃で二重ガラスを撃ち割る作業にかかっているタイガの声が飛ぶ。
「チー坊!」
「分かってら!」
複数の足音が便所の出入り口にバラバラと詰めかけるのを察し、予備の傘を全開にしてから個室の一つに飛び込んだ。直後、機銃を一斉にぶっ放す音が鳴り響く。横向きに振る銃弾の雨が予備の傘を粉々にしている隙に、私も個室の壁によじ登ってそのヘリを慎重に渡って窓を跳ね上げたタイガの傍にたどり着いた。火薬と硝煙くさくなった便所の中で、まだ口をきく元気のある若様が賊退治に来た忠義もの相手に、バカ俺らがいるのに撃つんじゃねえっ! とがなった。
護衛が何人いるかは数える余裕はないが、血の海に転がる若様連中の救命処置にあたらなきゃならないやつが数名は必要だから戦力は分散されている筈。思いのほか頑丈だった窓ガラスに罅を入れ、拳で打ち砕く作業にとりかかっているタイガに護衛の一人が機銃を向けているのに気づいて父ちゃんの形見の傘をばっと開いた。
堪えろ! という念が通じたわけではないだろうが、地下工房のおっちゃんが軍用の防弾繊維に張り替えてくれた傘の膜は機銃の銃弾を貫通させずに弾き落とす。それでも衝撃は相当なもので個室の壁の上でバランスを崩しそうになった私のドレスの襟首がぎゅっと掴まれた。振り向くと、最後に窓ガラスを蹴り割ったタイガが空いた手で私を支え、棒付きの飴を咥えたままニイッと笑う。
その瞬間、私の口元もなんだかしらないけど口はニヤッと笑っていて、傘を開いたままこっちに機銃の銃口を向ける護衛の連中めがけて鉄の礫を連射する。
南の方から着いたばかりの若様たちのところには私の傘の仕様が変更された情報まではまだ届いてなかったのだろう。目の高さを狙った鉄の礫の連射にはとっさに対応できず、陣形が崩れた気配を察しながらギリギリまで傘を開き窓の縁に立つ。
先にタイガがそこからさっと飛び降りたのを確認してから、傘を素早く閉じた。
ここを去る前に、最後に私のねぐらを見ておきたかったが残念ながらそんな時間はなかった。その点は今でも惜しまれる。
私が便所の裏口に飛び降りると、タイガは体よく裏側に回り込んでいた護衛の体に飛びついて首の動脈を迷いなく切り裂いた直後で、私を手招きする。駆け寄った私は勝手しったる公園の植木の暗がりを駆け抜けた。ここからとっとと離れるのだ。
「けどさあ残念だったな、チー坊。お前あいつら浄化槽に全員落とすって言ってたじゃん」
「いいよ、一人は糞まみれにできたし、何人かのうち膝と腕は落とせた。土壇場で段取り変更したにしては首尾は上場だ」
どのみち南の方からきた名門黄家の若様数人がどえらいことになったわけで、この街の親分さんや兄さん方のメンツを完膚なきまでに叩き潰すって目的は達成できたのだ。終わりよければすべて良し、だ。
──はてさて、父ちゃんの顔を潰され母ちゃんを人豚にされた可哀想な女の子の小戚は見事に両親の仇を討ってめでたしめでたしのとっぴんぱらりのぷうってわけだ、この街を裏側から支配する親分さんは親子の忠孝とやらにに関する話に目がない漢韓圏の出だ。二十一世紀末に繰り広げられた見事な仇討の話を今でも語り継いでくれていれればいいのだが。
――しかしそもそもあの親分さん一家は今でもあの街に存続しているのだろうか。お取り潰しにでもあってなきゃいいけれど――。
おっと、またうっかり話がそれる所だった。
はてさてそんなわけで、私とタイガはこの後メジロセンリと落ち合い、騒動に乗じてこの街から離れることになる。
「――全く、お前たちときたら一体何をして遊んでいたのやら」
タイガの指定した合流場所で待機していたメジロセンリはタバコを路上で堂々と煙草をくゆらせながら呆れてみせた。あの街も他の街と一緒にタバコは禁制品になっている。善男善女なら人前ですぱすぱ愉しんだりはしないものだ。
地球と人類を愛し護るワルキューレならば間違いなくセンリは善女の筈だが、排水溝に吸い殻を投げ落としたりとその行動は模範からかけ離れている。それでも返り血を浴びてドロドロの私たちを眺めて呆れた。
だというのにタイガは、センリを見るなり興奮を隠さずに報告する。
「先生さん、知ってた⁉ チー坊って女、女だった!」
「知ってるよ、どっからどうみたってそうじゃないか。でなけりゃ私もうちに来いって誘ったりしないよ」
血まみれのタイガが抱きつこうとするのはやんわり遠ざけながら、それでも楽しそうにセンリはタイガの頭を撫でた。お前は本当に愉快なヤツだね、と柔らかい目で見つめながら。
その後センリは見る影もなくボロボロになったお嬢さんドレスの私を見ては、眼鏡越しに目を細める。
「チー坊、待っている間お前さんのことを少し調べさせてもらったよ。随分な曰くがあるそうだね」
「それを清算する必要があったんでね、待たせて悪かったよ」
何構わないよ、いい退屈しのぎにはなった。センリはそう続けた。
「せっかく見物に来たってのに、情けない話、女の子が侵略者を退治するところを眺めるのも精神の限界が来てね。――しかし、チー坊。お前さん本名をリーリヤっていうんだって? 百合の花だなんて、ずいぶん可愛い名前じゃないか。やっぱり声をかけてよかったよ」
センリは目を細めて、私たち二人を前に笑った。いぶかしむ私を、とりあえずこの話を聞いていたタイガは、私とセンリを猫目できょとんと見上げては、りーりや、と繰り返したのち、またぱあっと顔を輝かせた。
「チー坊、本当はリーリヤっていうんだ?」
「そうだよっ、ていうかさっきそう名乗ったばっかりな筈だけど⁉」
「いいじゃねえか、そっちのが! 可愛いじゃん、ぴったりじゃん、チー坊より全然しっくりくるじゃん!」
どうして私が今まで自分の本名を封じていたのか当然知る由もないタイガは、ぴかぴかの顔でそう無邪気に言い放った。
うるせえ、どうして名乗らないのか事情も知らないくせに――と、言い換えそうとした直後に、ああ! と突然気が付いたのは今思い返してもマヌケな話だ。
自分がこいつと血まみれになりながら奪い返したものはこれだったんだ、と。
雷に撃たれたように立ち尽くす私をみたセンリはぷっと噴き出し、そして私に視線を据える(おそらくタイガに訊いても無駄だと判断したのだ)。
「タイガーリリーって知ってるかい?」
「童話が原作のふっるい美国製動漫にそんなキャラクターがいた気がするよ。印度にいない方のインディアンの女の子だろう?」
「やっぱりチー坊は教養があるねぇ。あっちのタイガーリリーも可愛い子だが、原作の方では孤児や海賊の頭の皮を剥いだりするくらい勇ましいんだ」
センリははっきりと笑顔になり、楽しそうに続けた。
「たまたま出会った二人の名前を合わせるとタイガーリリーだなんて出来すぎにもほどがあると思ったが、いやはや全く。ものの見事にタイガーリリーだ」
そしてクックッと喉を鳴らして笑う。全く、何がそんなにおかしいのやら。
不可解にもほどがあってついむすっとする私の傍で、タイガもタイガで、りーりや、たいが、りーりや、たいがーりりー……とブツブツ小声で繰り返す。なんだこいつ、と怪訝な目を向ける私をみて、タイガはニイっと笑った。その口から飴の棒が覗いている。
「じゃあチー坊、せっかくだしこれからリリーって名乗れよ。そっちのが可愛いから! チー坊は思いっきり可愛い名前の方がいい。うんとお姫様みたいなやつがさ!」
はあああっ⁉ と思い切り言ってやりたかった。勝手に決めんじゃねえ、とも。
なのにセンリの方がさっさと調子にのってタイガに悪乗りしてしまったのだ。
「そうだね。タイガの言う通りだ。メジロリリー……目白リリイ。これだね、うん、悪かない」
「待てよ、なんでお前らがおれの名前勝手に決めるんだ!」
「ああ、心配しなくてもいい。うちの施設に登録するための仮名だよ。親御さんからいただいた可愛い名前は大事にしときな、リーリヤ。ただし心の中でだ」
すうっとセンリの目が細くなった。それまで浮かんでいた親しみが拭い去られる、刃物みたいな光が宿る。
「これから私らはお前のことをリリイって呼ぶよ。いいね?」
反論は許さない。そういう目だった。
――センリがのっけからこういう態度で接してくれていたのは、私は今でもあのワルキューレなりの親切の筈だと信じている。私がこれからお前を連れて行くところは決してこの世の楽園ではない、と、子供相手にフェアネス精神を発揮してくれたのだ。今でもそれは感謝している。
きっとタイガも私と同じ思いでいた上で、センリのことを先生さん先生さんと無邪気に慕っていた筈だ。
──全く、あの子は呆れるほどバカな子だったけど、妙な面ではこっちが悲しくなるくらい呑み込みの早い子だったから。
「じゃあよろしくな。リリイ! 一緒にワルキューレになろうな」
タイガは私の背中をぱん、と叩いた。
というわけでこの瞬間、私の小戚時代は終わりを告げ、目白リリイ時代がスタートしたのである。
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