#2 白い色は恋人の色

 昔々──といっても私があの街の公衆便所をねぐらにしていた時からたったの十と数年前。

 ということは私が酔狂にもこんな手記を書いている現時点から数えて四半世紀と数年より昔、百年ぶりの世紀末ってやつに人類がそろそろ浮き足立ちはじめていた二十一世紀も後半だから大人にとってはそこまで昔じゃないけれどあの頃の私たちと同じ年頃のお子さん方には目の玉をむくような大昔のこと。


 ある所に、天女の顔に夜鳴鶯ナイチンゲールの声を持つと評判だった娘がいた。名前をヤスミンっていう。ヤスミンは十七になるかならないかの時に生まれ育った故郷の町の親分さんに見初められてお妾さんになった。ヤスミンの親がそうした方がいいって言ったから。何しろヤスミンは貧しい難民の二世だった。


 オペラ座だとかガルニエ宮だとか、中途半端な都会に一つや二つはあるおフランスかぶれした屋号の高級酒場で花形の歌姫を勤めていた頃、ヤスミンはその親分さんの手下だった美男の芸人と出会ってしまう。その美男の名前がセルゲイ。黒い髪黒い目、映画でしか見ないの侠客のような雰囲気の細身のため息つくような男前だった。

 女の手練手管に簡単に乗っから無さそうな冴え冴えとした寡黙な美男子が、籠に閉じ込められている綺麗な娘と出会ってしまえばそれはもう起きる展開は一つしかないというものだ。ヤスミンとセルゲイの二人は早々にのっぴきならない仲になり、手に手を取ってその町をにげだした。たどり着いたのが大陸の東端にあるこの街だ。


 そしてそこで女の子を生み、しばらくは軍艦が停泊する港があるこの街の場末でちょっとの間をひっそり幸せに暮らした。言うまでもなく生まれた赤ん坊が私である。


 大陸東端の公衆便所で過ごしていたあの頃、私の公式な身分は浮浪児コチェビで狭い業界内では小戚人豚ちゃんと呼ばれるクソガキだった。つまり、既に予告している通りヤスミンとセルゲイ――若くきれいだった母ちゃんと父ちゃんの幸せは長くは続きゃしなかったってことである。


 母ちゃんに捨てられ顔に泥をなすりつけられた格好になった旦那って人は、執念深い上に財力も手下にも事欠かなかった。

 二人の居所を突き止めると、追手を差し向け俳優並みに美男だった間男の顔面を二目と見れないものに焼き潰し、泣き叫ぶ母ちゃんを強引に引きずって縄張りの街まで連れて帰ったっていう。この辺はまだ私が物心つくかつかないかって頃の話。


 私はそこから七つまで、美男の間男の成れの果てで私の傘の師匠で父ちゃんでもあるセルゲイと二人、主に路上で暮らした。


 ──そういえば、私の爱人アイレンが出ている動漫にも顔を潰した忠義ものの男前がいたっけ。鬼みたいな面を被った拳法の達人ってあのキャラクターをみると、父ちゃんのことを思い出さずにはいられない。酸をぶっかけられたせいで、娘の私からしてもケロイドのオバケにしか見えない父ちゃんだったが、それ以外は何から何まで完璧に男前な父ちゃんだった。二目とみられない顔になったにも関わらず、陰ひなたに世話をしてくれる姐さんや兄さん連中がいてくれたことがそこんところを証明してくれる。

 口数も少なく、私に傘の使い方を仕込む時は厳しくておっかなかったけれど、饅頭を二つに割った時には大きい方を必ず私にくれるような優しい父ちゃんだった。


 母ちゃんが連れ戻されて以降、私と父ちゃんは主に路上で暮らす芸人父娘ってことになった。

 華やかな祭がある日には、その隅っこで二人芸を披露する。

 髪を団子に結い子供用の旗袍チーパオを着た小さい私と可愛いパンダの着ぐるみ姿の父ちゃんの二人組で愉快な寸劇を演じ、傘を使った手品や軽業を見せるのだ。その合間合間に私は歌う。最新の流行歌に大昔の流行歌も、老若男女に親しまれているあの懐メロだって当然もちろん歌う。

 夕暮れになったら二人してついつい駅へゆき、西へ向かう電車を所在なく見送る。

 夜になったらこの街の親分さんや若頭から回された、切った張ったの仕事を手伝う。

 

 それが私が七つになるまでの私と、父ちゃんの生活。

 

 公園でちょっとした祭があったあの日、芸事用に改造した傘で器用に懐メロのメロディーを奏でるパンダの着ぐるみ姿の父ちゃんの演奏にあわせて歌い、子供用の小さな傘を使って手品や軽業を披露してお客さんたちの拍手喝采を集めていた、いつもの休日だったあの日。

 目の前に異常に臭くて汚くてよつんばいでずりずりと道を這って歩くドロドロのオバケがみたいなもんが、よたよたと私と父ちゃんの前に這い出てくるまで。


 見物人がそのくっさいドロドロオバケの脇に跳びのき悲鳴をあげたり引きつった顔を見せる。

 傘を片手に私は強張った。全身に糞をまといつかせたオバケみたいなそれは、私の肩を抱いて、見た目とは真逆の鈴みたいな綺麗な声でリーリヤ、リーリヤとなんべんも私の名前を呼んだ。

 ああリーリヤ会いたかった、私の可愛いリーリヤ、こんな姿でごめんねえ……と目の当たりから滴る滴で顔に筋を作りながら、もどかしそうにそのオバケは私の体を抱いた。その人が地べたを張って移動し、棒立ちになる私の体を上手に抱けなかったのは理由があった。糞色に染まった包帯で巻かれた肘より先が無かったからだ。

 茶色い跡を引きずって地べたを這いずっていた理由もわかった。膝より下も無かったんだから。


 リーリヤ、リーリヤと何度も私の名前を呼ぶその声で、傘を構えようとしていた父ちゃんも目の前の糞まみれのオバケの正体が何かすぐに気が付いたらしい。

 二目とみられない顔を隠すために芸人仕事中はずっとパンダの着ぐるみを着ている父ちゃんが、臭くて汚い糞まみれオバケを抱き上げる。商売道具の着ぐるみがまっ茶色に汚れるのも構わず抱きしめて、着ぐるみの中から聞こえる大声でわめく。

 ヤスミンどうしてお前はここにいる、お前は今あの街で親父と一緒にいるんじゃないのか。ああこんな姿になって、誰がお前をそんなにしたんだ、俺のヤスミン……と涙まじりのいい声で激しく呼びかけた。可愛くマヌケなパンダの着ぐるみ姿の時は決して喋っちゃいけないって約束事を完全に頭の中から吹っ飛ばして。

 

 私はプロ意識の高い父ちゃんの様変わりっぷりを、呆然と見ていることしか出来なかった。


 真っ赤な夕暮れの中、西へ向かう電車を見送るとき、私がねだると父ちゃんがぽつぽつと母ちゃんの思い出話をしてくれる時がたまにあった。

 白い百合の花咲く花壇に舞い降りた、月の化身みたいだったという母ちゃんの話。

 その話のイメージがあまりに強かったせいか、私は母ちゃんをイメージするときには天女に扮した美人女優ばかりイメージするようになっていた。

 だから目の前のオバケが母ちゃんだなんてとっさに理解できない。脳みその動きが固まってしまったせいか、とっときの衣装が糞まみれになってしまったことなんかが気になって気になって仕方なくなってしまう。


 ぼーっと立ちすくんでる間に、見物人がちゃっちゃと動いて警察を呼んだらしい。

 が、それより先にパンダの着ぐるみ姿の父ちゃんがキッタナイ女の人を抱き上げて店じまいの態勢をとった。私はそれに瞬時に従ってその日の上がりをかき集めるだけかき集めて、着ぐるみ姿にもかかわらず素早く風のように走る父ちゃんの後を追っかけた。


 こうして七つの時に再会した絶世の美姫にして伝説の歌姫だった母ちゃんのヤスミンは、私と父ちゃんを陰ひなたにサポートしてくれた動画屋のターニャ姐さんの所へ速やかに運ばれた。

 呼び鈴に急かされてドアを開けたターニャ姐さんは、ドアの外にいたのがどこもかしこも糞まみれになった私たち親子三人だと知って当然悲鳴をあげかける。

 でも、汚れたパンダが抱いている抱いている汚物の塊が、以前仲良くしていた伝説の歌姫ヤスミン姐さんだと気付いた途端、血相を変えた。オウオウ泣きながら風呂場が汚れるのも厭わずにその人を洗いに洗った。

 父ちゃんもそこでパンダの頭を外し、首から上はケロイドのオバケで首から下はうんこまみれのパンダの着ぐるみっていう何も事情を知らない赤の他人が見たら取り敢えず爆笑するしかないような状態でしゃがみ、潰れた顔を覆った。歯を食いしばった口元から嗚咽がもれる。

 私が父ちゃんが泣くのをみたのはこの時だけだ。


 糞尿まみれで現場は滑稽その実は悲惨極まりないっていうその愁嘆場、ほっとかれた私は状況がわからなくて、取り敢えずもう二度と着たくないレベルで汚れた旗袍チーパオ脱いでいた。



 ターニャ姐さんが洗ってくれたおかげで母ちゃんはかなり綺麗になった。

 でも肘と膝より先を斬り落とされ、一月近くまともな食事も食えてなかった母ちゃんの衰弱は激しく、数日後に父ちゃんに抱かれて空のお星様になった。最後の最後に二人に会えて良かった、神様あなたに感謝しますと――と、星の瞬きに音があればきっとこんなだろうと思わせる涼やかな声で囁いた、あまりにも欲のなさすぎるそれがお終いの言葉。

 葬式ではそこいらの花嫁さんのよりずっと綺麗に整えてもらってから棺桶に納められた母ちゃんに、私の名前の由来になったっていう白い百合の花束を入れた父ちゃんは、珊瑚色の紅をさしてもらった母ちゃんの唇にくちづける。そしてその後、いざって時にしか使わないとっときの傘を持って出ていった。


 母ちゃんにはしゃらくさい童話の王子様みたいなキスをおくり、私には傘の鍛錬を怠るなって一言と自分が普段使っていた傘を残して。以来父ちゃんとはそれっきり。


 母ちゃんをこの街のお大尽に売りつけていた故郷の街の親分を、父ちゃんが首尾よく仕留められたかどうかは今でも分からない。敢えて調べない様にしているから。


 故郷に連れ戻されたものの、自分のことを裏切ったことを許さなかった旦那のとこで母ちゃんが監禁生活を強いられること数年。

 執念深い旦那の目をなんとか盗み命がけで逃げ出して、苦労を重ねて私と父ちゃんの住む街へ一人やっとの思いでたどり着く。

 ああここまでくれば、セルゲイとリーリヤと三人でまた幸せに暮らせる――と、切ない夢をみた母ちゃんを待っていたのは、はい、もう皆さんもうお分かりの通り世にも悲惨な現実だったってことだ。

 母ちゃんの旦那だった故郷の街の親分さんは、母ちゃんが逃げ出したこともそしてどこに潜んでいるかも全て把握した上でわざと大陸の東の果てまで逃し、さあもうこれで自由だ――と母ちゃんが夢みたその瞬間に、ハイ長旅ご苦労さんとばかりにぱっと捕まえたのだった。可哀想な芸人を嘘ついてだまくらかした後に、ぱっぱぱー、ハイ嘘でしたー、お疲れさんってな具合にネタをバラす百年前のお笑い番組みたいに。いやいやなかなか、悪趣味なことだ。

 やり手の動画屋マダムのターニャ姐さんは、ドラマや動漫の他に百年くらい前に活動していた芸人の寸劇や悪ふざけ番組の円盤やテープも扱っていた。偶に見ることはあったけれど、私はどうしてもあの「ドッキリ」ってジャンルだけは今でも正視することができない。



 ――胸糞悪い昔話はまだちょっと続くんだけど、お付き合いいただいてる方々を退屈させちゃあいけない。この辺でちょっと活劇を挟もう。

 時間は私が兄さんに歌の仕事を任された後、事務所の外でターニャ姐さんの亭主を傘で思い切りしばいたその直後まで戻る。



「痛ぇっ! 痛ぇってこのガキ、何しやが……——っ!」

 

 どどどどっと音を立て、ターニャ姐さんの亭主は事務所のある二階から階段を転げ落ちてゆく。私が上から蹴り落とした為だ。

 裏通りに転げ落ちた亭主の後を追いかけて、私は予備の傘の柄で亭主の軽い頭をもう一発しばき、路地裏のゴミ捨て場まで蹴り転がす。裏通りを歩く連中がこっちを見ていたけれど、あの辺ではこの種のちっこい暴力沙汰はいつものことだから誰からも注目されない。


 予備の傘の柄からしゃっと仕込みのドスを抜き、ゴミ溜めから這い上がろうとした姐さんの亭主の鼻につきつける。


「よくまあ勝手におれのこと売っぱらってくれたもんだね?」

「う、売っぱらうって何誤解してやがる。どう考えたってこいつは、い、いい話だろうが。上手くいきゃあ黄家の坊ちゃん連中の誰かに見初められるし、ひょっとしたら親分さんとこで直に面倒見てもらえるかもしれねえんだぜ? まずい話なわけねえじゃねえか」


 だすっ、とドスの切っ先を姐さんの亭主が敷いているゴミに突き刺す。あと数ミリずれればこいつの耳は削ぎ落とされてたってギリギリの線を狙ってブッ刺す。


「──あんたがバカだってのは知ってたけど、本当に救いようのないバカだね。そんな話全然うまいどころか糞よりまずいからおれは便所で暮らしてるんだ!」

「っ? そこが全く訳がわからねえしハラ立つんだよ、手前は! ああ自分がお前だったならいよいよオンナっぷりに磨きをかけて兄さんか親分連中の情婦になってこのあたりの女王になって暮らすのに、便所の王様気取ってるなんてあのことのせいで頭のネジが数本吹っ飛んじまってんじゃねえかね小戚のヤツ……って笑われてんだぜ、知ってんのかよ? 天国のヤスミンが泣きそうなひっでえ笑われかたしんんだぜ、手前はよぉっ」


 知らないわけがないだろうが。口はまだ威勢がいいが水色の目は必死に命乞いする姐さんの亭主を見下ろして、私はそのまましばらく歌わせる。


「そのツラぁなあ、財産なんだぞ! 普通ならなあ、それで余裕で一家族食わせられた上に金蔵を三つ四つだって建てられるくらいのお宝だ! 運良く神さんにそんな顔してもらったってだけで遊んで笑って歌ってるだけで日がな一日御殿で優雅に遊んで暮らせるんだぞ! だのに手前は汚ねえ便所暮らしなんかでそのツラ無駄遣いしやがって……! 札束に火いつけるような勿体無いマネするとバチが──……ひいっ!」


 兄さんの耳たぶの付け根にドスの切っ先を移動させた。今度はしっかり刃を肌に押し当てる。予備の傘とはいえ手入れは怠ってないから、亭主がカタカタ震えるとそれだけで耳の付け根が切れてゆく。

 姐さんの亭主が下敷きにしているゴミ袋に傘の柄をまっすぐつうっと突き通しながら私はしゃがむ。すぐに切っ先がカチっと音をたてて地べたとぶつかった。その期間、耳の下を冷たい刃物がつつっと撫でてゆく感触を味合わされ亭主は生きたここちがしなかった筈だ。


「──つまりはさあ、この顔があれば人生イージーモードなのにってそういうことを仰いたいんだよねえ? おじさん」

「……っ」


 亭主は頷こうとしたけれど、この状態で首を縦にふったら耳が削ぎ落とされることに気がついたみたいだ。こわばった笑いでこっちを見る。

 この顔はそんないいもんじゃない、呪いの塊だってことを兄さんの体に覚えさせるために、フードを振り落として顔を晒す。そしてわざと陽気に無邪気に笑ってみせた。


「あはは、おじさんは大人なのにバカだねえっ。あの顔のせいでハードモードな人生送るハメになった母ちゃんのことを見ていた癖にそんなこと言えるなんてさあ。──そんな空っぽ頭で今まで無事に生き延びられてきたおじさんの方がよっぽど人生楽勝っぽくて羨ましいよ、こっちはね!」



 社会の下の下の下に属する女の見た目がはっとするほど美しい。

 そんなことで喜べるのはその女の係累だけだ。

 

 女を珠のように磨いてから女郎屋に売っぱらってお大尽か親分さんの嫁か妾にでもして唸るような財産のおこぼれにあずかろうって能天気に考えられるのは女当人ではない。社会の下の下の下にいる美しい女当人にとって麗しい自分の容姿は自分の人生の幅を狭める枷、単なる呪いである。


 私は自分の母ちゃんと父ちゃんを介し、七つだったあの時にそのことを教えられたのだ。だからそれから傘の鍛錬を重ねて、八つの時に公衆便所を奪い取り、以来冬以外の季節はそこに暮らすようになったのだ。


 

 ──活劇は一旦中断、昔話に戻らせてもらおう。



 さてさて、私が暮らしていたこの街のお大尽の一人に極めつきの悪趣味野郎がいた。

 この町の駅の構内で捕らえられた母ちゃんにって運が悪かったことは、このお大尽はなんの因果か母ちゃんの旦那の悪趣味仲間だったってことだ。地球をくまなく覆い尽くした拡張現実は、巡り会わない方が世のためだってロクデナシの二人の物理的距離をいとも簡単に無いも同然にしてくれた。


 「いい声で鳴く夜鳴鶯ナイチンゲールを一羽差し上げる」というメッセージを添えて、母ちゃんは旦那からこの悪趣味野郎のお大尽へプレゼントされてしまう。

 「その夜鳴鶯ナイチンゲールを手に入れたいと願うものは、貴殿の街には何人かおいでになることを聞き及んでいる。夜鳴鶯ナイチンゲールの甘美な囀りを愉しみたいというのであれば夜更けに人目を断った部屋でうんと鳴かせるが宜し」という但し書きを悪趣味野郎のお大尽はしっかり守ったお陰で、母ちゃんがこの街に帰っていたことも、二十世紀末から今世紀前半にかけて人気を博したヘンタイ漫画の女の子みたいな目に遭わされた末にダルマの人豚にされたことも、みんなみんな知らなかった。あの祭の日まで。


 息も絶え絶えだった母ちゃんの言葉を手掛かりに関係者各位を締め上げて、そのことを突き止めたのは父ちゃんだ。

 

 母ちゃんが共同墓地に埋められた次の日、父ちゃんがとっときの傘をもって出て行く。

 その次の日には、この街のとあるお大尽の屋敷が賊に襲撃されて屋敷は跡形もなく灰になった。そこの屋敷の主の頭は公衆便所の大便器、首から下は浄化槽から発見される。その一報は残された者を沸かせ、ささやかに慰めた。

 傘使いのセルゲイったらやったよ! ヤスミン姐さんをあんなにしたクソッタレには当然の報いさ。どうかどうかセルゲイに神様のご加護がありますように……と、ターニャ姐さんやその仲間太達は、それぞれのやり方でそれぞれの神様や仏さんにお祈りをする。


 私はその様子をぼーっと眺めつつ、じっくりゆっくり頭の中を整理していた。


 一つ、見た目がいいってのは世間が羨むほどいいもんではない。母ちゃんが天女みたいじゃなければ親分さんの妾にされることもなかった。

 その辺の男となんとなく所帯をもち、贅沢は難しくても年に一回か二回は子連れで祭見物に出かけられるくらいのことを楽しみできる平凡で幸せなおかみさんくらいにはなれたはずだ。。

 それに、卒倒するほどの悪いことさえしなきゃあ人豚なんてものにされることだけは絶対なかった筈だ。


 一つ、どうやら私の顔は、綺麗な母ちゃんと美男の父ちゃんの良いとこどりをしているらしい。、はるかかなたの街の親分とこの町のお大尽が自分の縄張りでこっそり好き勝手していたことに気づかなかった、うっかり屋さんの親分さんとその兄さんたちは、みなしごになった私に甘い言葉で慰めにかかった。でもそんな連中に甘えて縋って流されて下手にうっかり生きてると、いつの間にか母ちゃんみたく妾も同然の身分にされてしまう。

 欲しいってねだった覚えのない高価な服や靴や鞄を勝手に贈られ、こんだけお前には貢いだんんだから、その見返りに歌えや笑えや踊れやおっぱい見せろやケツふれやおしっこかけさせろやら目の前でウンコしてみせろやら、その他諸々たのむから勘弁してくれってことを要求されても断ることが許されず、ニコニコ笑ってこなさなきゃなんないことになるかもしれない。

 そんな妾生活に慣れたあたりで運悪く、とんでもない美男子にかちあってしまい、白い百合の花が咲く花壇のそばで二人揃って月なんぞ見ちまったせいで気持ちが抑えられなくなる。そんなことが起きるかもしれない。


 挙句、手に手をとって駆け落ちするも失敗して、最終的にはダルマの人豚にされて公衆便所ひっそり飼われる身分に落とされ、悪趣味仲間にだけこっそり披露されて、おやおやあの愛らしい声で囀る夜鳴鶯ナイチンゲールも今やすっかり汚らしいメス豚ですよ、と、笑われて死ぬ羽目になるのかもしれない。



 ――それに気づいた瞬間、母ちゃんと父ちゃんのいいとこ取りをしたって評判だった私の顔面は、私の先行きに災難ぶっかける恐れのある呪いの塊と化したのだ。


 呪いから解放されるために、私はまず自分の顔を潰そうとした。

 刃物で傷つけようとしたり、父ちゃんの顔を焼いた酸をもらおうとしり、壁にガンガンぶつけてみたり。

 その都度、私の身元引受人になってくれたターニャ姐さんに止められて宥められたので、私の顔はなかなか潰れなかった。一時的に痣がついたり、擦り傷切り傷が出来たとしても、しばらくすれば剥きたての卵みたいな白い肌に戻ってしまう。

 映画でも動画でももっというなら昔話だっていい、呪いのナントカってものは頑丈でなかなか壊せないし、捨てても焼いても埋めてもいつの間にか手元に戻っては持ち主を死ぬほど怖がらせる。そんな筋のお話を一度も見たことないって方はいない筈。私の顔はそれくらい頑固に呪われていた。


 傍目には自傷行為にしかみられなかったこの行動は、あまりにもショッキングな目に遭った子供の錯乱として受け止められたらしい。

 侵略者の被害や紛争・抗争の巻き添え食って親と生き別れたりだとか、職業柄あたしも酷い目に遭った子供をたくさんみてきてる。リーリヤもあの子らと一緒さ、母ちゃんと父ちゃんがあんな目に遭ったんだからああなるのも無理はない。今しばらくそっとしてやりな、疲れたんなら愚痴くらい聞くからさ……と、ターニャ姐さんの茶飲み友達で看護師あがりのおばちゃんが、ぐったり疲れた姐さんにそんな風に語って肩をさすってやったりしていたものだ。

 流石にあんたほどじゃあないにしても、あたしもヤスミン姐さんやセルゲイがあんなことになって悲しくて辛いんだよ? その上、あんたまで自分自身を傷つけようとする。そんなのもう耐えられない。あたしを助けると思ってそんな風に自分自身をいじめるのはやめて頂戴……と、ある時ターニャ姐さんに抱きしめられながら泣いて頼まれたので、それから自分の顔を潰して呪いから自由になろうとするのはやめた。

 私も明るくて綺麗好きで、いい男と甘ったるい恋愛ドラマが好きで働き者のターニャ姐さんが、陰気にめそめそ泣いて暮らすのを見て過ごすのがしんどくなった頃だったのだ。

 

 そこからしばらく考えて、冴えに冴えた案を一つ思いつく。

 それが、母ちゃんが浄化槽で飼われていた公衆便所をねぐらにして冬場以外はそこで生活することだ。

 

 並のお大臣はションベンやクソの飛沫が飛び散っているに違いない公衆便所の床に平気で寝転がる薄汚いガキに興味なんてもちはしない。自分の隣に侍らせてやろうなんて間違ってもそんな考えは起こさない。

 そのガキがどんな酒場の歌姫も女郎屋の看板も映画女優も霞むような美しい娘だったとしてもだ。お大尽ってのもは見栄坊だから、そんな最下層の女に懸想するのをお大尽仲間に知られるのを死ぬほど嫌がる。

 この街で過ごしていた幸せの絶頂期だった歌姫ヤスミンに懸想していた兄さん連中だって、この一件が過去のものになった頃には既に、隣に侍らせた姐さんたちに「素直にならねえとヤスミンの二の舞だぞ?」なんて半笑いの冗談を囁くようになっていた。

 公衆便所の浄化槽で飼われていたという晩年のせいで、月に棲む仙女か夜鳴鶯ナイチンゲールとかつて謳われた絶世の美姫は、どれだけ笑い物にしてもいい人豚って最底辺の存在になり下がったってことになる。

 

 可哀想で悲惨で、でも臭くてみじめで滑稽な人豚の娘。そこには強い力があった。私の呪いを相殺する、強力なまじないが。

 八つの私が縋り、そして自分を護るためにまとったものがそれである。


 自分が自分であるために、誰からも私の体を考えを人生を好き放題にさせないために、公衆便所で暮らす頭のおかしい人豚ちゃんって目で見られて笑われ蔑まれる必要があったのだ。

 いつか私も母ちゃんと同じような目に遭わされるかもっていう呪いと恐怖から打ち勝つために。

 この案を思いついた時、私はその場で小躍りをした。今でも四捨五入してやっと十って子供が思いつくには最高の案じゃないかって自画自賛したいくらいだ。

 

 だからこそ、小戚のあだ名はありがたかった。

 便所にすむ人豚のガキ。糞くらって生き延びていた人豚の娘。さわるだけでじぶんが便所くさくなっちまいそうな娘。まかりまちがっても情婦にしようなんて気まぐれを全くおこさせない、最高の通り名だ。

 その点、リーリヤなんて甘くかぐわしい匂いがしそうな名前は危なっかしくて仕方がない。なんで便所をねぐらにする薄きたねえ浮浪児コチェビがそんなカワイイ名前してやがんだとどこぞの気まぐれなお大尽に興味を与えかねない危なっかしい名前、とんでもない。クソの役にも立ちゃしないどころか、呪いに力を与えちまう。

 親分さんか兄さんか誰だかしらないが、戚夫人っていう大昔の皇帝の側室のことを知っていたインテリに礼の一つも伝えたい。あんたのお陰で私はその街でガキながら誇り高く生き抜けたって。


 博打に負けただかなんだかで、ねぐらで寝転がってる私の服を剥いてはやれ母ちゃんに似てきたか、やれ股に毛が生えたかと確かめにかかるようなバカもいるにはいたが、そういう手合いはおつむと品性同様ケンカってのも弱かったので私ひとりで十分どうにか出来た。

 傘で二、三発しばいて便所の浄化槽に一晩放り込んどく。仲間連れてきて反撃にきたらそいつらも四、五発しばいてまとめて浄化槽に二晩放り込む。それで仕舞いだ(にしても浄化槽で一晩いた程度のことで根をあげるとは、あいつらは全くなっちゃいなかった。私の母ちゃんは最後の一月をそこで過ごしたってのに)。



 ――ま、その辺のことがターニャ姐さんの亭主にはとんと理解できなかったらしい。



 耳をそぎ落とされかねない恐怖が限界に達したのか、私の目の前で姐さんの亭主は小便もらしてぐずぐず泣き出した。もわっと湯気が立ち上がる。

 その様子をみて私はにっこり笑う。大の男ってものが恥かいた時に、顔の綺麗なガキから一番されたくないことってなんだろなって考えて、思いついた案を実行してみることにした。

 顔の半分ちかくが目ん玉だっていう女の子ばっかり出てくる動漫のキャラクターの声をイメージした声を、脳天からだしてみた。こんな声を出したのはその時が初めてた。

 

「やだぁ、おじさんった。大人の癖におもらしだなんてぇ。まるで赤ちゃんみたぁい。きったなぁ〜い」


 こんな口調で喋るやつが目の前に現れたらまず私がいの一番でブッたたくなっていう、べたべたした甘ったるい女口調で姐さんの亭主をじわじわいたぶる。すうっと仕込み傘のドスを引き抜き、脅えてんだかなんだかでガタガタ震える亭主のほっぺたをぴたぴた嬲る。


「おじさんどうするぅ? 私が着替えをとりにもどってあげましょうかぁ? ……でもどうしよう、どうして私がおじさんのおズボンとパンツを用意してあげなくちゃいけなくなったのか、ターニャ姐さんに説明しなくちゃならないわよねぇ~? 言ってもいい? おじさんがおしっこもらしちゃったからお着替えが必要になりました~って?」


 ターニャ姐さんの亭主は水色の瞳をひんむいて縋る。それだけは言うなって目でうったえる。漢韓圏の出のボスのところの下っ端やってるだけあって、女の前ではみっともないマネ晒せないってなけなしの根性はあるみたいだ。

 でもまあ、まだ腹立ってるから私はしばらくいたぶらせてもらった。


「あ~ぁ、優しいターニャ姐さんもこれにはガッカリされるかもぉ。百年の恋も覚めちゃうかもぉ~」

「――いいっ、着替えはなんとでもするっ。だからターニャには黙ってろっ。あいつに贈る指輪を注文したばっかなんだ、無駄になっちまうだろうがっ」

「――指輪?」


 いつも赤ら顔で酒臭い姐さんの亭主の口から飛び出した甘ったるい単語に、私はつい目をきょとんとさせてしまった。ねとねとべったりした口調の維持を忘れてしまう。

 修羅場の一つや二つ掻い潜って血煙あびるのに慣れた兄さんだったなら私のこの隙をついて攻守逆転させたはずだけど、姐さんの亭主はバカで情けなかった。だから私は今、無事に生き延びてここにこうしていられるわけだ。

 私をぶち殺せたチャンスを不意にしたってことに多分今でも気づいてない姐さんの亭主は、早口でまくしたてた。


「そうだよ指輪だっ! クリスマスに贈ってやろうって内緒で用意してたんだよっ。ターニャの奴には苦労ばっかかけてばっかりだったからようっ、たまにゃあちょっと夢み心地にさせてやりてえっておもったんだよっ、悪いかよゥ!」


 ――バカで弱くて情けないくせに、風采もぱっとしないしガキに脅されておしっこ漏らすようなヤツなのに、恋物語と男前のすきなやり手のターニャ姐さんと所帯関係を維持しているような、ギリッギリで「こいつは天国の門をくぐる資格アリ」って門番に判定されるような、人の好い所があるのがこの中年男のタチの悪い所だった。

 はーっ、と私はため息を吐いた。お人よしの失禁野郎なんか相手にすごんでいたぶって見せたって、私の格ってもんが下がるだけだと気が付いたのだ。


「――おじさんの兄さんに、おれを紹介する。若様の連中の前で首尾よく上手に歌が歌えたらおじさんにもボーナスが入る。それが姐さんへの指輪代、そういうこと?」

「お、おうよ……っ。――なんだよ小戚、さっきのしゃべり方はもうやめちまうのか?」


 姉さんの亭主がなんだか薄気味悪いことを口走った気がしたが、私は無視をした。いよいよどっちらけだ。

 恋愛ドラマに目がないターニャ姐さんが、ほとほと情けないこの亭主からサプライズで指輪をプレゼントされた時にどんなに目を輝かすか、簡単に思い描けたせいもある。ボスの手前亭主をおんださないだけだって嘯く姐さんだけど、情が濃すぎる姐さんがこんなに弱くて情けないお人よしのおっさんからみぐるみはいで凍てつく街に放りだすような真似は絶対しないって、私は知っているのだ。

 なにせ私は、ターニャ姐さんにはずーっと世話になってきたのだから。


 はーっ、ともう一度ふかぶかとため息をついてから私は確認した。


「――指輪の現物はある?」

「い、いやまだだ。第一まだ金が入ってねえだろ」


 指輪なんて高価なもんを現金で買うしかないぐらい、姐さんの亭主には社会的に信用ってものがないらしい。私は頭をかかえたくなる。ああもう、こういう大人にだけはなりなくない。


「指輪は店にはいつ入る?」

「確か、今日から五日後……に、なるかな?」


 ふうん、と私は返事をして頭の中で予定を組んだ。傘が仕上がるのが三日後。店に指輪が入るのが五日後。若様連中のご指名で歌うのが一週間後。なんとかなるか。

 目の前のションベン垂れなこのおっさんのためじゃない、今まで私と、母ちゃん父ちゃんに良くしてくれた情の濃いターニャ姐さんへのお礼だ……と自分へ言い聞かせてわたしは言った。


「さっき言った前払いの料金を受け取るときに、おじさんへのボーナスも払うように兄さんと交渉してみるよ。それを受けとったら即その足で指輪を買うんだよ? 店の中で悠長にしてたらダメだからね。それ以後のことは一切合切姐さんに任せること。バカなおじさんがすることはクリスマスまでその指輪を姐さんの目から隠しつづけることとグズグズせずに何事も迅速に行動することってだけ。くれぐれも言っとくけどその空気頭を下手に使おうとすんじゃない。姐さんに全部任すんだ。分かった?」

「――お、おう」


 私の真剣な眼を見て、何が何だかわかっていなさそうだけど姐さんの亭主は首をぶんぶん縦に振る。

 

「け、けどよう……兄貴と交渉するなんてどうやって? あの人は金庫番やってたんだから金関係にはシビアだぜ?」


 いぶかしむ姐さんの亭主の目の前で、私はにっこりと、天女や仙女がいたらこんなふうに微笑むんじゃないかって風に微笑んでみせた。それだけで亭主はさっと顔を背ける。

 ま、きっとこいつは首尾よくボーナスを前払いをもぎ取ってくるだろう、と、納得してくれたのならそれでいい。


 私はまた顔をのけぞらせて首を大きく振り、顔にフードをかぶせた。そして立ち上がり、予備の傘を収める。


「一応言っとくけどおじさんのこと許してないからね。本当はおれ、この街にあともう少しはいる予定だったんだから」


 だけど予定変更を余儀なくされた。それは少々恨めしい。私はもう少し財産を作ってからこの街を離れる予定だったのに。

 そのことを言外に伝えたが察しの悪いこの中年は理解出来なかっただろう。


「そ、そういうなよ小戚。この礼は必ずするし、兄ィにかけあって便所よりマシなねぐらを確保してやっから……」


 そんなことをまだ言うぐらい、姐さんの亭主は救いがたいほど頭の出来が悪い。

 一応、ばいばい、とだけ声をかけ、ゴミの上にもぞもぞと身を起こす亭主をその場に残して私はその場を去った。



 日はくれて、夜の帳がおり、街にはネオンがともりだす。

 そして空の一部分で、本来ならこのあたりではまずみられない筈のオーロラが揺らめき出した。

 二月ほど前からここらの空の片隅を大型の侵略者が陣取っていて、飛行機やなんかの行き来を邪魔している。でも下から見ているとそれはただただ綺麗なだけ。だから最近ではオーロラ目当ての観光客が表通りに溢れかえっている。一週間後、この侵略者を退治するためにワルキューレが太平洋から遣わされることも伝えられてるから観光客の数は日に日に増えて行く。

 父ちゃんといたら、あんなことが起きなかったら、芸人として滅多にない稼ぎ時になったことだろう。それこそ臨時ボーナスだ。


 ワルキューレの侵略者退治はなかなか見応えのあるショーでもある。可愛くて綺麗な娘っ子が不思議な力で外世界からの怪物を退治するんだから。

 それを見物するために、暑い国から若様連中がやってくるのだ。


 実に実に、お気楽な話だ。



 虹色に輝く夜空に背を向けて、私は動画屋に向けて歩みを進める。ちらちらと雪が降ってきたので傘をさした。


 水溜りに垂れたガソリンの膜みたいな空から降る雪は、当たり前に真っ白だ。

 それはまるで花弁のよう。

 母ちゃんと父ちゃんをのっぴきならない仲にさせた百合の花と同じ白。


 私が見た白百合は母ちゃんの棺桶に納められたあの花束だけだけど。


 空も雪も見ず、私は裏通りを歩く。今後の予定を練りながら。


 頭の中には、まだ冬将軍も斥候しかよこしていなかった大体一月前にこの裏通りで出会った妙な外国人のことがあった。


 あいつらにこんなに早く会う羽目になることになるとはな、と私は考える。


 裏通りで出会った二人。一人は医者で、もう一人は私と同じくらいのガキだった。


 名前を訊いたら、ハリマウ、とそいつは名乗ってニカっと笑ったのだった。

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