らのちゃんと軽野鈴ちゃん
社会人、という言葉がある。
この国では社会に出て一人前ということだろう。学校を出て会社に勤めれば、どんな形であれ社会人としての行動を要求される。
学生の頃はどれだけ自由を謳歌していたとしても、一度社会人になればたいやき器に生地を流し込むように、『サラリーマン』『OL』としての形に押し込まれ、その振る舞いを要求される。
軽野鈴――のちにそう名乗ることになる女性も、そうだった。
(……はあ)
その女性は。
朝の満員電車の中で、手すりを握る。
それとなく痴漢を警戒しながらも、彼女の頭にあったのは今日の会議のこと。
どうせ結論の出ない話題を延々といじり回すだけの時間。
(最近、本読んでないな)
彼女は読書家であった。
少なくとも学生の頃は、読書家を名乗れる程度には読んでいた。
しかし――。
(仕事が……疲れが……)
うとうととした頭で、考える。
毎朝の満員電車では、とても読書をする元気はない。
今でも、本屋は訪れる。本も買う。しかし読む時間が、意欲がどうしても生まれないのだ。
(うう……)
ライトノベルというジャンルが好きだった。
今の流行はなんだろう。戦記物? 異世界もの? グルメものも流行っているらしい。そんな話はちょくちょく入ってくる。
しかし毎日襲ってくる仕事量は、女性の読書の時間を与えない。
そこに面白い世界が広がっているのはわかっている――しかし今の彼女には、それを享受するためのコストを捻出することさえ難しかった。
(ああ)
電車が駅に着く。
前に座っていたサラリーマンが立ち上がったので、女性はすんなりと座ることができた。
なにか読もう――とカバンを開いても。
(読みかけの本もなかった……そもそも本を入れてない……)
結局、手に取るのはスマホ。
電車の中の多くの乗客がそうであるように、女性も、社会のことを知るためにスマホを手にする時間が多かったーーただ漫然と操作をして。
ラノベという、文字が目に入る。
(ラノベ読み……Vtuber……?)
女性は。
ふと、タイムライン上にたまたま流れてきた動画を見て。
(本山らの……ラノベの紹介をしてるのかな)
動画なら、ただ漫然と見れるだろうか。
目的の駅に着くまで、なにか仕事以外のことをしたい――そんな風に考えて、彼女はイヤホンをさして動画を見てみる。
その動画はキツネ耳メガネのVtuberが、好きなラノベを紹介しているものだった。
言ってしまえばただそれだけの動画―ーなのだが。
(すごい……喋りがはきはきしている。聞きやすい。作品のおすすめもわかりやすくまとめていて……それに、なにより……)
なにより。
このVtuber本山らのが、本当にラノベが好きだということが伝わってくる。
(こんなに……嘘……大学生? 個人で……?)
自称を信じるなら。
この本山らのは大学生でありながら、一人で動画制作や配信の技術を学び、Vtuberとして活動していることになる。
面白いラノベを伝えたい、広めたい。
ただそれだけの純粋な思いで。
(…………こんな)
女性は。
まず最初に思った――私には無理だ、と。
仕事の日々に追われ、社会の歯車となって、好きだったラノベも読まなくなってしまった自分には、本山らのと同じことはできない。
(……ホントに?)
そして、すぐに『本当にできないのだろうか?』と疑問に思った。
確かに自分には技術もない。時間もない。動画作成はおろか、Vtuberの動画を見る時間さえない。
だが。
それでも。
(私も……この、らのちゃんみたいに話せる……話したいことが、ある)
好きなこととなれば早口となる本山らのちゃん。
今は遠ざかっていただけで――自分にもきっと、らのちゃんと同じようにライトノベルに対しての情熱があったはずなのだ。
面白い本を読んで、面白いと心を高鳴らせるー―その感情はかつてもあった。
(私も)
私もやりたい。
本を読んで、面白いと思って、面白いと思ったことを誰かに伝えたい。
彼女は強くそう思った。
まずは、なにかを読もう。
時間がなくても、疲れていても、今の自分はこんなに、新しい本を欲している。
「紹介した本を買ったら、ぜひぜひ、#買ったよらのちゃんでつぶやいてくださいね~!」
本山らののツイッターを見れば、そんなことが書いてあった。
目的の駅に着くまで、彼女はずっと、本山らのの動画やツイッターを追いかけていたのだった。
仕事の合間を縫って、書店へと足を向ける。
探していた本はすぐに見つかった。いてもたってもいられず、カバーもいらないと店員に告げて、購入した本を彼女は胸に抱く。
「……買ったよ、らのちゃん」
微笑みながら、だれに聞こえることもない声で、彼女はそうつぶやいた。
のちに彼女もまた、
それはまた、ちょっと先の話なのであった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます