悪人と淘汰への応援コメント
うわぁぁ、頭の中覗かれたのかと思いましたよ!こういうことを考えていても、私は上手く文章にできないので何だか嬉しくなりました。勝手に、言葉で主張できない苦しみから逃れられたような気になりました。
殺された、或いは今も殺され続ける人のための世界であって欲しいです。そんな世界には絶対になり得ないと思いますが。
作者からの返信
瞳さん
コメントありがとうございます!
いつもは私の言語化できない言葉を文字に起こしてくれる瞳さんですが、今回は逆の現象が起きましたね!
世界っていうのは、力の強いサイコパスが作ってきたんです。(と私は思います)
そんな絶対になりえない世界こそが、目指すべき世界のはずなのですよね。誰よりもやさしく賢く真面目な人が損をしない世の中が。
不幸と義務への応援コメント
ほとんど共感できないことの表明は、応援では無いので本来書くべきでは無いのかも知れないけど、哲学者に対しては許される気もしたので書いてしまいました。
幸か不幸かは環境ではなく自分の心が決める所までは共通しているので、牛さんにとっては食べている人がどう思っていようと知る由もなく、どっちでもいいよって思っているはずですよね。他人から見て私が不幸に見えたとしても、私が不幸に感じる必要は無いし、どの道世界にとって私の不幸が何ら貢献する物でないのなら、いつでも幸せな方がいいに決まってる。不幸な人は思いやりはあるかも知れないけれど、周りを幸せにした例を知らないから、私は今日も美味しく牛さんをいただきます。
作者からの返信
須藤二村さん
コメントありがとうございます!
私が哲学者なのかどうかはわかりませんが、誰に対してというよりは、一つの思想や考え方を見て、それによって「自分はこう思うなあ」と考えることは賛成であれ反対であれ良いことだと思います。
前提として私の考える不幸は、このエッセイ中のみに適用されると思ってください。
それと、「こうだろう! こうだよな!」という恐喝的なものでもないので、「こういうこと考えてるんだー」的に思って貰えれば幸いです。
私は、須藤二村さんが幸せになることを否定はしないです。須藤二村さんは考え、知ったうえで幸せになるわけですし。
私が気になっているのは、なんにも考えないで生きている……まあいわゆる自己中なウェーイw系の人たちですね。そういう人たちが考えずに生きていることに強い違和感を覚えている、というのが正直なところです。
多様と個性への応援コメント
いけません!そんなことを世界に向かって発信してしまってはネトウヨだと言ってポリコレ棒でボカスカ叩かれてしまいます!
「ぼくをウヨクと呼ぶってことは、君は左翼的なフレンズだね!」
と言える場合は問題ないと思います。
作者からの返信
須藤二村さん
コメントありがとうございます!
いやあ、相変わらずわからない言葉が出てきますね。ポリコレ棒? と思って検索した次第です。
私の知識が水たまりだとすると、須藤二村さんのそれは海です。コメントに返信するだけで色々勉強させて頂けて嬉しい限りです。
もとよりこのエッセイのコンセプトは偏っていること、なのでポリコレ棒でバシバシ叩かれても文句は言えないですねえ。それこそ運営に削除依頼が来ないのが奇跡かなあと思ってます。
編集済
違法と合法への応援コメント
恐らく「投票してあげて下さい」に対してそれを断った場合の恐怖感があるために抵抗を感じるのでは無いでしょうか。実際にわたしの例で言いますと、「今度の選挙で◯◯が出るんだけど」と言われたことがあるのですが、「あんたんとこの◯◯って◯◯党じゃん!絶対入れないだろ、あはは」「まぁそうだよね」で終わった話なので、そこに恐怖感はまるで無いわけです。それで関係が切れるともお互い思っていないので、根本的な規範とは別のところに有るのでは無いかと少し思いました。ちなみに相手が誰であれ私は同じ反応をすると思います。
知り合いに投票を勧めることを推奨している訳ではございません。
作者からの返信
須藤二村さん
コメントありがとうございます!
恐怖感がありますね。こんな恐怖感を善人面で突き付けてくるのだから、たまったものではないです。
友達との関係性と言うのは仰る通り重要です。ただ30人規模のグループラインなので、集団心理を利用した悪意ある扇動と私は取りました。
「みんなの中で誰か一人が反対意見を言うわけがない」
と、高を括っているようでもありましたし。
五輪と貧富への応援コメント
「得る者はますます得るが、無い者はそれさえ取られる」新約聖書 マタイの福音書 25:29
なんと!キリストは紀元前から経済の法則を述べておられたのです。
金メダリストは既に遺伝子によって決まる領域にまできてしまっているので、なかなか夢の無い話ではあります。努力によって夢は叶う!としないと色々と齟齬が生じてしまうのではないかと思うのですけど、世界がお金で動いていることは否めません。
昨今、物書きの気概が……のような文脈を通りすがる時、いつもアルファなんとかのサイトの規制が頭をよぎるようになりました。開催主から言葉を狩られても平然としていられる作家が多いのは、やはり大人の社会には巻かれておくのが正解という認識が大勢を占めるのか、それともいくら言葉を取り上げられても残った単語で何とかするぜ!ってことなのか。文化とは簡単に消滅してしまう脆弱な物だと知らない人が増えたせいなのかも知れません。詮なきことではありますが。
作者からの返信
須藤二村さん
コメントありがとうございます!
つまり世界はどれだけ時代を紡ごうとも、根幹の部分はなにも変わっていないということですね。
お金で動いていることをみなさんがひた隠しにするので、私はピロッとめくってみたくなるのですよね。天邪鬼です。
アルファなんとかさんでもしもこのエッセイを書いていたら、NGを食らったりするのでしょうかねえ。結構きわどいところを攻めているので。
お話を聞いていて、「狩られた分だけ言葉を創ってやるぜ!」って若者が若者言葉を創って、それもまた先人たちがバカにしたり扱き下ろして文化を否定していたりするのかも知れないなあとか思いました。
近道と理論への応援コメント
なぜ可哀想と思うのか? 詩一@シーチさんは本能という言葉を使って先天的な存在と述べておられたけど、考えてみるとこれは多分に後天的な教育の賜物である可能性も高いと思いました。共感する脳(下前頭回のミラーニューロン、扁桃体、内側前頭前野)が、他者を見て自己に置き換えることで生じる感覚の現象だとすると、誰からも教わることなく生得的な感情共有が我々人類には備わっていることになります。つまり、お腹がすいているんだろうな。と他者を理解して食べ物を分け与えることは、結果的に種族の繁栄に寄与し利己的なフィードバックを受けます。しかし、高度に発達した社会では人間の感情は社会性の中で培われ、文化の学習なくして相手の立場を類推することは不可能となってきました。宇宙人同士がマントヒヒを前に悩んでいるのを見ても私達にはアドバイス出来ないのと同じことです。
何かを期待されていると申し訳ないのですけど、結論は特にありません。
作者からの返信
須藤二村さん
コメントありがとうございます!
教育によって「かわいそう」を植え付けられているのだとすると、我々の感情とは教育の賜物なのかも知れない、と意見を聞いていて思いました。これが正しいとかそういうことではなくて、単純に思ったというお話です。
宇宙人同士がマントヒヒを前に悩んでいる姿を想像しました。そして最後の一文に吹き出しました。
肯定と否定への応援コメント
自己完結文には、なかなか同意以外のコメントは付けにくいと思うので、あえて付け加えるとすると、何も肯定せず何も否定しない道もあるのではないかなと思った次第です。
山に登ると楽しいよ!と言われたり、山に登るべきだ、そこに山があるなら。などと言われても、わたし虫が嫌いなんで無理なんですよね。海は良いですよ。虫がいない。でもエビやカニって昆虫の仲間だっていう説もあるから、そう考えると海にもうじゃうじゃいることになる。とにかくもう彼らを食べ尽くしたい思いでいっぱいです。
作者からの返信
須藤二村さん
コメントありがとうございます!
同意以外のコメントどころか、コメントそのものが付けにくいエッセイだと思うのに、全部にコメントくださってありがたい限りです。
肯定も否定もしないって、なかなか難しいように思います。なんか、真ん中でいたつもりが、どっちか寄りになってしまう気がして。ただそうですね、肯定も否定もしないってのは、とても優しいですから、素敵だと思います。
美味しいですからね。海老もカニも。あれらが樹上に居るとなると急に食欲がなくなるのですが。そう思うと、水って凄いなあって思います。
暴力と募金への応援コメント
多くの人は本来働いて得られる利益の全てを会社から受け取っているわけではなく、広義に言えば知らぬうちに資本家からカツアゲされているようなものである。しかしながら、会社が全てを社員へ還元すると会社が潰れてしまって元々得られていた物さえ受け取れなくなってしまう。この構造はどこまでマクロに視点を俯瞰移動したとしても変わらない。だから結論は、金を貸したら利息を取るべき。
作者からの返信
須藤二村さん
コメントありがとうございます!
利息を取れればいいんですけどね。相手も利息を払いたくないから『友達』を選んでいるわけで。
いろいろあって私は金を貸すのに不向きだと感じたので、以降一円たりとも貸さない人になりました。
無知と無恥への応援コメント
地球で一番の物知りでも大して知らないのだから、物を知らなくても恥ずかしくないのでは? そう言えばソクラテスがなんか近いことを言っていた気がします。周りに言わせると、私はどうもパラノイア的な性質があるらしく、何かを調べはじめると終わりません。どうでもいい鼻クソみたいな事象を何時間も、場合によっては何日も時間を忘れてやってたりします。あ、鼻クソの成分てなんだろう?って今気になりましたよね?調べましょう。まずwikipediaによりますと空気中の埃と好中球のペルオキシダーゼが(どうでもいい)。最近はGoogle様のせいで限度が無いのが困り物です。インターネットが無い時代なら、身の回りにある書物や、せいぜい図書館で得られる知識にたどり着いたら、そこで満足していました。ですが、今はいつまでたっても満足感が得られません。知識は無限です。
作者からの返信
須藤二村さん
コメントありがとうございます!
ソクラテスがそんなことを言っていたのですか。
私も須藤二村さんほどではないですが、調べ始めると没頭してしまうタイプです。そもそも鼻糞の成分の前にパラノイアってなんだっけ? 熱狂的? と気になって調べてしまいました。なんか想像と違うのが出てきました。
多分須藤二村さんのその性質のおかげで、私の作品がいま一気読みされているのだろうと思います。飽きられないように頑張らなければ。
本能と理性への応援コメント
小学生の頃、私は庭のアリの巣を眺めては、彼らが何を考えて、どうやって社会性を保ち続けていられるのかを考えていました。小学生の私には、答えにたどり着くことは叶いませんでした。なぜなら、私は集団でウゴウゴしているものを見つづけていると焦点がぼやけてきて、ぼーっとしてしまう特性を持っていたからです。
作者からの返信
須藤二村さん
コメントありがとうございます!
蟻には思考回路がないように思えますね。なにを考えているのだろう。
ちなみに私は蟻の巣が本体なんだと思っています。人間の腸内細菌が『良きタイミング』で動いてくれるように、蟻の巣の中の蟻が『良い感じ』で動いてくれるのかなあなんて。或いは蟻の巣は意思を持っており、蟻を手足のように動かしているのかも、とも。
人間も似たようなものなのかもなあとも。
女性と男性への応援コメント
障害者も含めて等しいフィールドで勝負する。一見平等に思えますが、私は反対です。走り幅跳びのマルクス・レームのように今後は健常者を上回る記録が出てくるでしょう。むしろ私はパラリンピックのオルタナティブなレギュレーションは、健常者の利権であるとさえ思います。義足には空圧サーボモーターを採用すべきですし、車椅子にはロケットエンジンを搭載すべきです。人類の飛躍的な進歩は代替から生まれ、やがて生身の人間の能力差など誰も見向きしなくなるでしょう。
あと浮気する男はちんこ切るべき。
作者からの返信
須藤二村さん
コメントありがとうございます!
なるほど。ですが私は健常者を上回ってもいいと思います。義足の性能のおかげだとかいう人には「じゃあお前も足を切って義足つけるか?」と言ってやりたい所存です。健常者が障碍者を見下して俺TUEEしたいだけなら、そんなもの無くなってしまっていいかなと思います。
サーボモーター、ロケットエンジンはぶっ飛んでていいですね。そもそもスポーツでなければいけない必要もないですし。平和の祭典なら。最初は芸術もやってたんですし。
能力差など誰も見向きもしなくなった世の中が、一番ですね。
最後の一文を見て、なにがあったのだろうと考えてしまいました。
差別と区別への応援コメント
弱者は救済されるべきである。区別は差別によって境界が変わる。現状から変えるには強いベクトルが必要である。この三段論法により、世の中の◯◯イズムの方達はやり過ぎてしまうきらいがあるのですが、その過程では既存の感覚からするとおかしいと感じる理論もまま出てきます。中にはおかしいも含めて議論させることが目的の集団も見受けられます。めちゃくちゃ強く押した後、少し緩めるとそれが普通に感じる性質が私たちにはあるのかも知れませんね。えっ無いですか。
作者からの返信
須藤二村さん
コメントありがとうございます!
いや、あるかも知れません。
これは心理学だったかなんだったかの専門家が仰っていた例え話ですが、
「付き合ってください!」
と素直に言った場合は
「すみません」
と断られてしまいます。
しかし
「結婚してください!」
とぶっ飛んだことを言った場合は、
「すみません」
と断られますがそのあとにすかさず
「ならせめて付き合うだけでもダメですか?」
と聞くと
「ええ、じゃあ、まあ、はい」
とOKされるんだとか。ホントかよと思っていましたが、ようは『断ることに対しての罪悪感』を刺激したやり取りなんですよね。
だから須藤二村さんが言うように、強く押した後に少し緩めると——というのはそれに当てはまるので、多分その通りなんじゃあないかなと思います。
なんにせよ、偏った意見は押し付けるものではないですね。あくまで意見は意見として存在し続けるべきです。
不幸と義務への応援コメント
なんだかわたし自身が慰められているような感覚になりました。
わたしには「いじめ」という片時も外すことのできない概念があるのですけれども、「自分は一番最後に逃げる人間でないといけない」義務というか使命感というかもっと言うと「呪縛」に苛まれた感覚の子がいじめに遭う確率が非常に高いと感じています。
誰か他の人間がいじめられているのを見ると「ああ、本来いじめられるべきはわたしなのに」という罪悪感にも似た感覚に陥り、遂にはいつの間にか自分がいじめられるような雰囲気を作り込んでいってしまう。
それは「いじめなんてやめなよ」という行為でもなく、ただ単に本来は他人ではなく自分が不幸を担う人間であるはずだという理解し難い罪悪感。
二十歳頃に読んだエッセイに、戦争になった際に真っ先に死んでしまうひとたちのことを書いたものがありました。
それは、「この食糧を食べるのは自分であるべきではない」という不思議な感覚。
爆撃から防空壕に逃げ込んでそこが極めて狭いスペースだった場合、「出ます」と言ってまるで満員のエレベーターから気まずく降りるような罪悪感を真先に抱いてしまうひと。そして本当にそうしてしまうひと。
詩一さんのこのエッセイは、そういう人やモノたちへの鎮魂のように感じました。
美しい思考、という風に感じます。
長文、大変失礼いたしました。
作者からの返信
naka-motooさん
コメントありがとうございます!
そのように感じて頂けて幸いです。
自身でも理解されがたい思考の類と思っています。それを、このように紐解いて「慰められた」「鎮魂」と仰ってくれるのは、大変有難いことです。
以前にも少しそのようなお話をしていらっしゃいましたね。「本当の善人は戦争でみんな死んだ」というようなお話を。
本当にそうだと思います。戦争と言うか、私の場合、競争からの離脱ですが。
naka-motooさんは人に道を譲る方です。譲るタイプの人は勝てません。競争には。でも、私はそんな人にこそ、ひっそりと勝利してほしいと思います。それがどれほどささやかであろうとも。
私は金メダリストよりも、相手に怪我をさせてはいけないと言って、相手のために棄権できる人に真の敬意を払うべきだと思います。それが本当の人間としての生き方を解っていらっしゃる方の考えだと思いますので。
私の知る範囲での創作家の方はとても真摯に作品と向き合い、同時に世界と向き合っているように感じます。そんな方を、私は人間と呼びたい。
多分に漏れず、naka-motooさんも「私が人間として定義づけられる」人です。
重複になりますが、そんな人間にはどうか勝利と幸せが訪れますようにと願います。
編集済
本能と理性への応援コメント
死刑囚も我々もいつ死ぬか分からないという点では同じである。つまり我々は子を産むことで、子に死刑判決を下しているも同然なのだ。
私の考え方とは違いますが、一つの考えとして尊重すべき説だと思います。
個人的には肉体的結びつきと、精神的結びつきは分けて考えるべきものだと思っているので、結婚が両者間の合意ではなく、契約によって結ばれている物なら兎も角、何故日本で配偶者以外との性交渉、不倫が、あれほどまでに過度なバッシングを受けているのか分かりません。
しかし、禁断の愛がオールOKになってしまったら、世の中の恋愛小説家は大量絶滅しそうなので、小説を書く上ではタブーが多い方が良いのかもしれません。
作者からの返信
猫犬鼠子さん
コメントありがとうございます!
自分と違う考え方も尊重できるのは素晴らしいことと思います。
肉体的結びつきと精神的結びつきはわけるべきというのはその通りですね。その点このエッセイでも深く書いておけばよかったかなとコメントを読んでいて思いました。
小説を書く上ではタブーが多い方が良いという考え方は面白いですね。新しい考えに出会えて嬉しく思います。
違法と合法への応援コメント
わたし自身のモヤモヤの原因もなんとなく分かりました。
選挙という仕組みに限界を感じるのは候補者がどういう人格であるかを見抜くことが選挙活動だけではできないからです。
どんなに立派な政策を公約にしてもその候補者がたとえば子供の頃からいじめっ子ならば平気で反故にして人をいじめるような過酷な政治をするでしょう。
このエッセイのお陰でようやく整理がつきました。
ありがとうございます。
作者からの返信
naka–motooさん
コメントありがとうございます!
そうですね。選挙活動中は選挙で勝つ為に徹頭徹尾良い人のフリをするでしょうから、本質を見る事はできません。
今回選挙活動の裏側(本人達は善意の支援の為、全く裏だとは思っていませんが)を見れて、逆説的に否定の為に投票するのもありなのかなと思えたので、ある意味で良い経験になったのかもしれません。
naka–motooさんのモヤモヤが少しでも晴れて良かったです。
五輪と貧富への応援コメント
イコールではないですけれどもわたしも近い感覚を持つことがあります。わたしの小説の目標はいじめや虐待の根絶ですけれども、いじめられている子たちを救いたいという欲求は間違いなく過去の自分を含めてわたし自身を救いたいという欲求です。そしていじめや虐待をする卑怯なひとたちを消し尽くしたいという表裏一体の欲求も同時に存在します。わたしもそうだからこそ書けていると気付かせて頂きました。
作者からの返信
naka-motooさん
コメントありがとうございます!
聞く人によれば、naka-motooさんが掲げるいじめの根絶と言う言葉も「大言壮語」や「理想論」などというものに括られてしまうかもしれませんが、本心からくる意思であれば、それは「真実」に他ならないのかなと思います。
何より、誰になんと言われようが貫いてほしい信念だと、私は他人の事ながら願っています。
エッセイの中では「こんなことを本当は言いたくないだろう」と決めつけていますが、アスリートの中には純粋に人々に希望や勇気を与えたくて仕方なくてスポーツをしている人もいるかも知れません。
色々と矛盾を孕むエッセイですが、何か感じて頂けたようで、幸いです。
編集済
近道と理論への応援コメント
紹介文に書いておられるように、「肯定」する勇気は今のわたしにはありません。
ですけれども、道徳では救われないという感覚をわたし自身も持っています。
わたしが持つのは道徳では解決しない問題に対する「なぜ?」という感覚です。
なぜその女の子は虐待で死ななくてはならなかったのか?
どうしてその両親の子供として生まれなくてはならなかったのか?
どうしてわたしはその女の子の傍にいてあげられないのか?
シーチさんの書かれた「近道」という言葉がとてもしっくりきました。
不遇な女の子の死に対して、「前世の行い」だとか「因果応報」という信じられないような「最短距離」の、怠慢な回答をする人がもしいたとしたら・・・仮にそれが世の事実だったとしても、わたしは「前世の行い」や「因果応報」に抗います。
理想を言えば、小説でもってその女の子の背中をそっと撫でてあげることができるのならば・・・
少し逸れたお話になったかもしれません。申し訳ありません。
思考を諦めないシーチさんの姿勢を尊敬します。
作者からの返信
naka-motooさん
コメントありがとうございます!
綺麗な事や善は己を犠牲に人を救いますが、綺麗事や偽善は誰かを犠牲に人を救うと思います。
どちらも人を救うという行為なので、どちらを根幹とした道徳なのかと言う事は一見して解りません。それゆえ、人々が持っている道徳の根幹には「誰かを犠牲にする」ものもあるのかも知れません。
その、naka-motooさんがおっしゃる、女の子の親は己を犠牲にして人を救う道徳を学ばなかったのではないかと思います。もしくは怖かったので本当の意味での道徳は学びたくなかったのかも知れません。
これは、自分がこのエッセイでいうところの「近道」とはまた違うかもしれません。
確かに痛ましい事件を聞いた時、やりきれない思いがあり、それは己を向きます。自分はなぜ救う立場に居ないのか、と。
本来少女の両親がただただ善であれば、救われる命であるのに。
「産む」と言う事は「死ぬ」覚悟をすべきだと思うのですが、どういう訳か、「殺す」権利を得たと思う方がいます。同じ「死」でも他人の物か己の物かで随分違うはずなのに、同一に扱う。
当人たちが一番考えなければいけない問題を、我々が考えさせられるというのは、酷く納得がいかないものですが、思考できる人間が思考をやめたら、救われるはずの命まで死ぬのかも知れないと思うと、考えずにはいられません。
naka-motooさんの様に優しい小説で人の心に癒しを与えるのが、正しい活動の様に思えますし、実際私は救われました。
私は綺麗事や偽善に基づいた道徳を否定する為に、戦い続けます。そして長い長い否定の先に、ただ一人のヒロインを肯定できる。そのヒロインに姿を重ねる少女が現れてくれたら。そんな作品を目指しています。
こちらのエッセイはマジョリティに淘汰された弾丸の吹き溜まりです。
肯定は勿論されない前提で書いています。ただそこに意見を持ち込んで頂けて嬉しいです。
随筆、とは話が逸れても気にしないで書き続けるものらしいので、コメントも兎に角言いたい事を言って頂ければと思います。
尊敬なんて恐れ多いです。
友達から言わせれば「めんどくさい事を考えている」だけの人間です。
闘病と共存への応援コメント
本当に何度も私の頭の中を覗いてきますね(自意識過剰甚だしい)。
闘病は病気に向き合う過酷さの面だけに使われるべきだとよく思います。その人の生活を、闘うという側面だけで覆ってはいけないと思うのです。
私は全く過酷ではないですが一応一生治らないものを抱えているので、死ぬ時に闘い続けた側面だけを切り取られたらちょっと辛いなぁと思います。
話が変わりますが私も今日が最後の日かもしれないとか、恥の多い死に方とかよく考えてます。なぜかはわかりませんが(笑)
作者からの返信
瞳さん
コメントありがとうございます!
多分お互い、出会う前からずっと覗きあっていたんですね。
そうなんですよね。人間として生きているわけですから、どれか一つだけの存在ではないはずなんです。例えば絶望して立ち尽くして人に八つ当たりする瞬間もあるし、それを耐えた隣人がいるはずなんです。病人を華やかに扱いたいがために、あらゆる闇に蓋をしてしまったら、それは真実からはかけ離れたものになってしまいます。
翻って我々も、病人だからと言って「戦っているカッコイイ部分」だけを切り取られる前提で生きてしまっては、きっとよくないと思うのです。あくまでも人間として生きること。それが大切なのかなと思うのです。
今日が最後の日とか思うんですね。私の思考が感染してなければいいんですけど(笑) でも、明日も必ず来ると思って過ごすより、今日で終わるかもしれないと思って過ごした方が、今日それ自体に期待も絶望もできるじゃないですか。激しく生きてきましょう。