なんだかわたし自身が慰められているような感覚になりました。
わたしには「いじめ」という片時も外すことのできない概念があるのですけれども、「自分は一番最後に逃げる人間でないといけない」義務というか使命感というかもっと言うと「呪縛」に苛まれた感覚の子がいじめに遭う確率が非常に高いと感じています。
誰か他の人間がいじめられているのを見ると「ああ、本来いじめられるべきはわたしなのに」という罪悪感にも似た感覚に陥り、遂にはいつの間にか自分がいじめられるような雰囲気を作り込んでいってしまう。
それは「いじめなんてやめなよ」という行為でもなく、ただ単に本来は他人ではなく自分が不幸を担う人間であるはずだという理解し難い罪悪感。
二十歳頃に読んだエッセイに、戦争になった際に真っ先に死んでしまうひとたちのことを書いたものがありました。
それは、「この食糧を食べるのは自分であるべきではない」という不思議な感覚。
爆撃から防空壕に逃げ込んでそこが極めて狭いスペースだった場合、「出ます」と言ってまるで満員のエレベーターから気まずく降りるような罪悪感を真先に抱いてしまうひと。そして本当にそうしてしまうひと。
詩一さんのこのエッセイは、そういう人やモノたちへの鎮魂のように感じました。
美しい思考、という風に感じます。
長文、大変失礼いたしました。
作者からの返信
naka-motooさん
コメントありがとうございます!
そのように感じて頂けて幸いです。
自身でも理解されがたい思考の類と思っています。それを、このように紐解いて「慰められた」「鎮魂」と仰ってくれるのは、大変有難いことです。
以前にも少しそのようなお話をしていらっしゃいましたね。「本当の善人は戦争でみんな死んだ」というようなお話を。
本当にそうだと思います。戦争と言うか、私の場合、競争からの離脱ですが。
naka-motooさんは人に道を譲る方です。譲るタイプの人は勝てません。競争には。でも、私はそんな人にこそ、ひっそりと勝利してほしいと思います。それがどれほどささやかであろうとも。
私は金メダリストよりも、相手に怪我をさせてはいけないと言って、相手のために棄権できる人に真の敬意を払うべきだと思います。それが本当の人間としての生き方を解っていらっしゃる方の考えだと思いますので。
私の知る範囲での創作家の方はとても真摯に作品と向き合い、同時に世界と向き合っているように感じます。そんな方を、私は人間と呼びたい。
多分に漏れず、naka-motooさんも「私が人間として定義づけられる」人です。
重複になりますが、そんな人間にはどうか勝利と幸せが訪れますようにと願います。
ほとんど共感できないことの表明は、応援では無いので本来書くべきでは無いのかも知れないけど、哲学者に対しては許される気もしたので書いてしまいました。
幸か不幸かは環境ではなく自分の心が決める所までは共通しているので、牛さんにとっては食べている人がどう思っていようと知る由もなく、どっちでもいいよって思っているはずですよね。他人から見て私が不幸に見えたとしても、私が不幸に感じる必要は無いし、どの道世界にとって私の不幸が何ら貢献する物でないのなら、いつでも幸せな方がいいに決まってる。不幸な人は思いやりはあるかも知れないけれど、周りを幸せにした例を知らないから、私は今日も美味しく牛さんをいただきます。
作者からの返信
須藤二村さん
コメントありがとうございます!
私が哲学者なのかどうかはわかりませんが、誰に対してというよりは、一つの思想や考え方を見て、それによって「自分はこう思うなあ」と考えることは賛成であれ反対であれ良いことだと思います。
前提として私の考える不幸は、このエッセイ中のみに適用されると思ってください。
それと、「こうだろう! こうだよな!」という恐喝的なものでもないので、「こういうこと考えてるんだー」的に思って貰えれば幸いです。
私は、須藤二村さんが幸せになることを否定はしないです。須藤二村さんは考え、知ったうえで幸せになるわけですし。
私が気になっているのは、なんにも考えないで生きている……まあいわゆる自己中なウェーイw系の人たちですね。そういう人たちが考えずに生きていることに強い違和感を覚えている、というのが正直なところです。