不幸と義務

 幸せになる権利は誰にでもある。だが本来は同時に、不幸せになる義務も発生しているはずである。



 ここで言う幸せとは欲求を満たすことで、不幸せとは考えることである。


 美味しい食べものを食べたいという欲求がある。それを叶えるために人は努力する。例えばお金を稼ぐために日々の仕事を。例えば美味しいものを提供してくれるお店を見つけるために口コミでの調査を。


 その努力の果てに、人は美味しいものにありつける。

 努力が報われた瞬間は、欲求が満たされた瞬間だ。

 そのとき人はとても幸せだろう。

 それは悪いことではない。

 贅沢なことではない。

 冒頭でも伝えた通り、幸せになる権利は誰にでもあるのだ。


 だが同時に、考えを巡らせる必要がある。

 その背景に。

 例えばこの店を建てるにあたり、買収された土地。例えば調理場で行われる厳しい修行という名のパワハラ。例えば屠殺とさつ場で働く人の精神衛生状態。例えば毎朝早起きをして天気に一喜一憂する農家の人々に支払われる安い賃金。

 もっと簡単に言うなら、目の前に置かれた料理の、死ぬ前の姿。直前の感情。


 考えれば考えるほどに、不幸せになる。

 だが、それらをすべて考えたうえで、それでも「食べたい」と思えるのか、それともそんなに考えるくらいだったら「食べたくない」と思うのか、自分がどちらの人間なのかということは知っておくべきだ。


 そうすれば、良い波に乗りたい欲求を満たすために海に行って、波に乗れた幸せを感じながら、浜辺にタバコを捨てて帰ることも無い。

 そうすれば、アウトドアを楽しむために田舎の河川敷に行って、自然を満喫した幸せを感じながら、ゴミを置いていくことも無い。

 そうすれば、格闘ゲームをやりにゲームセンターに行って、勝てたことに幸せを感じながら、負けて台を叩くことも無い。



 思慮深くなれば、人は人を思いやれる。

 思いやれる人間ほど愛されるが、その思慮深さゆえに不幸だ。

 しかしその不幸のただなかに居る人間こそが義務を果たした人間であると言える。

私は義務を果たした人間こそがその権利を使えるのだと思うし、逆に果たさなかった人間が何も考えずにのうのうと幸せになっているところを見ると胸糞が悪くなる。


 不幸せになる義務を果たさないで、幸せになる権利ばかりを主張する人間に、私はなりたくない。

 だから不幸せになりたくないと切に願う反面、真の幸せを手に入れるためには、ならなければいけないという思いもある。


 逆説的に幸せになりたいと願いさえしなければ、不幸せになる必要もないのだが、人は毎日強制的に幸せになってしまっているという面もあって、それは難しい。


 たまに、【感謝】という言葉に置き換えているのを目にすることがある。目の前に牛の死肉があったとして、牛に感謝すれば食べてもいいというのだ。それは横暴だ。牛はなにも嬉しくない。感謝されようがされまいが、肉を平らげようが残そうが、もうすでに死んでいる牛にはなんの影響もない。

 感謝することによって屠殺の肯定ができるなら、人間を好き放題殺しても最後に感謝すればよいと言うことになりかねない。

 人間が生きるために奪うという罪を、なにか別の言葉を宛がって代償させた気になるのは大間違いだ。

 結局拭いきれぬ罪を毎秒背負って生きていくしかない。


 その、人生を送っていくうえで、考えて不幸せになる行為というのは、やはり必要なのだと思う。

 そして、不幸せになったからには、是非とも幸せになってほしいと願う。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

窓の無い地下室から、蒼天に浮かぶ太陽を穿つ 詩一 @serch

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ