多様と個性

 日本のグローバルスタンダード、多様性が叫ばれている。おおむね、日本は国外の人を受け入れていくことに寛容であらねばならぬという方向で、法律もメディアもまとまっている。

 勿論、全てが全てと言う訳ではないが。


 外国人の受け入れ態勢が整っていないとか、ブラック企業に摩耗させられるとか、技術を覚えてくれないので意味がないとか、どんどん受け入れて行かないと日本は世界に置いて行かれてしまうとか、受け入れることによる功罪などを議論しているのは見た事がある。ここではそういう功罪の一切を割愛して、私が感じた疑問を話したいと思う。


 疑問。それは皆が言うところの「多様性」という言葉だ。

 これは、日本国内に生きる人々が多様化する事によって、日本という国が多様性のある国になるというものである。

 多様性と言うのはそこに住まう人間の個性を認めるものである。差別や迫害などをせず、その人間が持つ価値・理念・宗教・道徳の全てを受け入れ尊重する。また尊重し合うことにより、軋轢あつれきを無くし、全ての人々が暮らしやすい居場所を作る。


 しかしここで思うのだ。

 その行いは、国としての個性を潰しているのでは? と。

 地球規模で考えて欲しい。

 日本を一人の人間として考えた時、今、そのニホンさんは個性の否定をされているのだ。

 先進国の中では外国人の受け入れが一番進んでいないかも知れない。

 けれど、それがなんだ。ニホンさんの個性ではないのかそれは。

 例えば、色んな人と分け隔てなく話して、コミュニケーション能力の高い人間の方が社会では重宝されるかも知れない。色んな人といろんな場所に出かけて和気あいあいと楽しくやっていける人間の方が、友達からの評価が良いかも知れない。

 ただ、それが全てではない。そもそも、全員が全員そうなる必要はないよと言うのが、多様性というものではないのか? 人と話すのが苦手。たくさんの人といるのが苦手。でも、一人で絵を描くのが好きだ。小説を書くのが好きだ。登山が好きだ。流れていく風景に胸を締め付けられ、涙を流す事だってある。弱いかも知れない。過敏かも知れない。生きにくいかも知れない。それでも生きることは諦めていない。


 そんな人ののがなのである。

 そんな人がようになっていくのが、なのである。


 今、地球規模で考えて、世界という教室の中で、ニホンさんは皆から指を刺され、個性を否定されている。


「どうして韓国君と仲良くできないの?」

「なんでブラジルさんに勉強教えてあげないの?」

「お前がチャイナちゃんと話している事、見た事ないぞ?」


 極めつけ国連先生は言うのだ。


「ずっと北朝鮮さんを無視しているな。良くないぞ」


 そういう国連先生は



 こんな状況を頭に浮かべた時に、ニホンさんが可哀想だなあと思わないのだろうか。私は思う。誰が誰と仲良くしようと関係ないだろうと思う。

 そもそもニホンさんはとても引っ込み思案なのだ。仲の良い人にしか心を明け渡さないのだ。そういう人なのだ。

 なのに国連先生と教室の生徒たちは、「みんなと仲良くできないニホンさんは最低のくず」と脅しているのだ。

 恐怖に己が身を縮こまらせ、ぽろぽろと涙を流しながら、震える手で、仲良くも無い友達の手を握らされるという、個性の完全否定。


 国連先生は駄目押しの一言。


「よしよし。よくやったな。これからは成績の悪い奴の勉強をお前が全部見るんだぞ。皆の成績を上げてやれ。お前の勉強する時間なんて与えるわけないだろ。それが優秀な人間が行う、当たり前のことなんだ。自分を犠牲にして生きていけ」



 私はニホンさんの細胞の分際だが、叫びたい。


「ふざけんな!! 好きに生きさせろや!!」



 日本国内で生きる人々の多様化は、地球内で生きるニホンさんの無個性化だ。

 私は私が細胞の一員だとした時に、あるじであるニホンさんに自由に生きて欲しいと思うのだが、どうだろうか?

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