〈終〉
安っぽい湯呑にスーパーで買える安っぽい粗茶。腰を下ろすと不愉快な音がなる、フェイクの革張りソファ。すべてが安っぽさで満たされた空間に、一人の女がいる。
学生のように見えるが、実はそうじゃないということを、左右田はもうすでに知っていた。
夏の日差しが肌を焼くようになってきた。いつもは開け放していた窓をぴったりと閉じ、代わりに応接室の扉は開け放しておく。これは女性への配慮ではなく、単にエアコンの冷やかな風が届くようにだった。
ジノリのティーカップを傾けるのを見つめながら、左右田は口を開いた。
「なあ」
「なんでしょう?」
「あんたが」
「織羽」
「……」
「織羽、ですよ。左右田さん」
いつかを彷彿とさせる応酬、けれど微笑む気はおきない。なにせ長いこと、気がつくことができなかったのだ。そもそも今日淹れた安い粗茶もささやかな復讐を兼ねているというのに、織羽には一切効いている様子がないのも腹立たしい。
茶で湿らせた唇に不満の二文字を滲ませ、反撃を試みた。
「風見さん、でも間違いじゃないだろ」
「……間違えちゃうんじゃありません? 織羽と呼ぶのにも、ずいぶん慣れたように思いましたけど」
「うるさい」
織羽は肩を竦めて、続きをどうぞとでもいうように一度睫毛を伏せ、口を閉じた。
「織羽さんがじいさんの依頼を受けたのは、例の詐欺の件だろ」
「ええ」
「じゃあなんで、その後も仕事を続けてたんだ」
織羽は、羽生が事務所に通っている証拠もあるといっていた。それが羽生に対する打撃となった。羽生が知られたくなかったのは、ここ一年の来訪だ。けれどそのときには、もう真晴の依頼はとっくのとうに終えているはずだ。
唇を解き、織羽は笑った。
「いったじゃないですか」
「何を」
複雑な感情の入り交ざった微笑みを携えて、織羽はいった。いつかのように。
「恩返しが、したかったんですよ。真晴さんとわたしの祖父は友人で、わたしもずいぶん助けていただきましたし。……それともちろん、左右田さんにも」
「……じいさんはともかく、俺に?」
織羽は頷く。
「あなたは、もっと早く気づけていたら、と、真晴さんの死に対して後悔をお持ちでしょうけれど、あなたの『あの日』がなければ、逆にわたしが死んでいたかもしれないんですよ」
覚えていませんか、とわずかに首を傾げる織羽の長い髪。白い指先がそれを束ねて、ちょうどショートカットに見えるぐらいの長さに持ち上げる。
考え込むように視線を落とした時、目に入る茶請けのチョコレート。
記憶に走る影があった。
祖父から連絡が来た翌日、駅で体調を崩していた女性。喘息で苦しげにしていたものの、呼吸器が落ちてしまい、ちょうどそこに出くわした左右田が拾い上げたのだ。そして駅員に連絡をし、収まるまで背を撫でて傍にいた。何をいうでもなく、小一時間、ずっと。
その記憶の中の女性と、織羽の苦しげに微笑む表情が、今結ばれる。
「……でも、死んでいなかったかもしれないじゃないか。俺が助けなくたって、他の誰かが助けていたかも」
「ええ。可能性は、いくらでもあります」
髪を解き、波打つそこに指先を通しながら、織羽は笑う。
「けれど、あのときあなたに助けられたから、わたしは今、こうしてここにいるんです。それが、可能性でもなく、未来でもなく、あなたが取り上げてくれた現実だってことを……あなたには知ってほしかった」
胃から喉へ、喉から瞳へ、逆流する熱があった。
唇を噛み締める左右田を宥めるように、そして見ないふりをするように、織羽は窓の外へと虹彩を移した。
誰だって、きっと誰かを求めている。渇望している。だからほんの少しのすれ違いだけで、不幸な出来事だって起こり得る。
けれど、世の中には不幸ばかりではないことを、もう、自分たちは知っているのだ。
「……織羽さん」
「はい」
「今からあなたを殺します」
視線が再び、交じり合う。薄膜の張った左右田の瞳に、柔く緩む唇が映った。
「あなたの本当の名前を、もう一度、教えてください」
その日、丹頂織羽という人間の存在が消えた。
それが、後に語られる、左右田美博の最初の事件だ。
〈了〉
鶴の恩返し殺人事件 濱村史生 @ssgxxx
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