〈十〉
返ってくる言葉はない。落ちた水滴がおこしたのは波紋ではなく、それごとの凍結であるかのように。
身体が震えた。今にも決壊しそうなすべてを後一歩のところで踏み留めるため、唇を強く噛む。
「は」乾いた音を漏らしたのは羽生だった。
「お前……しばらく寝ても食ってもないからって、何を……」
「気が触れてるわけじゃないし、冗談でもない。判断は正常だよ。不幸なことに」
「明らかに普通じゃないだろうが!」
「あんたがそれをいうのかよ!?」
息を飲む音だけがした。
「……あんたが、あんたがいったんだろ! 警察に! 最初に話を聞かれたときに、心房細動のことも、身内にそういう人がいるから似たような症状があったって! だから事故になったんだ!」
「……ちが、う、俺は」
「警察に聞けば一発でわかる。あんたは一年以上来てなかったといったが、本当はしょっちゅうここに来てたってことだって、あんたが、じいさんにオレオレ詐欺を仕掛けた犯人だってことだって。今に、全部わかる」
「!」
「じいさんを殺した動機は、じいさんに詐欺のことがバレたからだ。よく考えれば、オレオレ詐欺とクレジットカードの盗難はまるで犯罪の種類が違う。不運が重なる確率はどれぐらいだ? それより、身近に犯人がいて、オレオレ詐欺に見せかけたという方がうんと可能性が高い」
実際に真晴がカード類を持たなくなったのは、ただ痛い目を見たからだけではない。身近に犯人がいると気がついていたからではないのか。
今は亡き祖父が何を考えてその主義を貫いたのかはわからない。結局は想像だ。けれど、その想像に行きついたのはきっと左右田だけではないはずだ。少なくとも、目の前の羽生は、顔をこめかみから赤黒く染め上げ、今や左右田以上に身体を震わせていた。
「そんな……可能性とか、どうとか、そんなことじゃ説得力なんてないだろ! 第一、だったら証拠はあるのかよ!? 詐欺も、じじいの事故も、全部お前の想像の中だけだろうが! 勝手をいうのもいい加減にしろ!」
立ち上がり、今にも出て行きそうな羽生の動きを止めたのは、扉を塞いでいた左右田ではなかった。
「――証拠なら、ありますよ」
織羽が鞄の中から、小さな革製のケースを取り出した。
社会人なら誰しもが見覚えのあるであろう、掌に収まるサイズの長方形を取り出すと、テーブルに置いて羽生の元へと押し出した。
封筒に記されていたものと、同じ名前がそこにあった。
風見探偵事務所
風見 織羽
「申し遅れました。わたし、左右田真晴さんから依頼を受けました――探偵の
「あ、あんた、学生じゃ」
「大学はずいぶん前に卒業してるんですけど、気付かれないので、つい。それに万が一調べられても困るので、偽名を名乗ることにしてるんです」
そこで左右田は、織羽が羽生に対し、自分からは苗字しか名乗っていないことを思い出した。
「そんな……」ずるずると本棚に背中を預ける羽生の力が抜けていく。左右田はその様子を見つめながら、今やこの場の支配者となった織羽の背中に視線を移す。
「わたしが受けた依頼は、先ほどの詐欺とクレジットカードの件。その証拠はきちんと弊社に残っていますし、あなたが何度もここに訪れていること、度々真晴さんにお金の無心をしていた事実も、写真と音声つきで残っていますよ。……これ以上逃げることは、あまり賢明ではないかと」
最後の一言が止めとなり、羽生は床へと座り込んだ。彼の頭上では著名な名探偵たちを抱えた書籍が立ち並び、今やそれも含めて、羽生をこの場に捕らえ離さないかのようだ。
荒い呼吸を繰り返し、ようやく息が整ったころ、羽生が切り出した。
「……詐欺が、バレたからじゃないんだ」
真晴を殺した動機の件だろう。黙って見下ろす左右田の瞳から逃れるように、羽生は俯いたまま続ける。
「美博。お前が、……お前に、この探偵事務所を相続させるって、じじいから聞いたから」
「……は?」
「それで、カッとなって……」
頭の中で張りつめていた糸が切れる音がして、次に気がついたときには織羽が腰を支えながら「左右田さん!」と必死に名前を呼んでいた。羽生の唇の端から血が滲み、片方の頬が赤くなっていた。遅れて左右田の右手に痛みが走った。殴ったのだと思い至った。
織羽に支えられながら、羽生の襟首を掴んだ。首を絞めなかったことだけが奇跡で、それは紛れもなく、腰から背中に感じる温もりのおかげだっただろう。
「あんたは! そんなことで殺したのかよ、こんな事務所大して金にもならないのに、そんなことで、じいさんを……!」
左右田の手が震える。けれど震えていたのは、左右田だけではなかった。
「金が目的だったんじゃない。……そんなこと、なんかじゃなかったんだよ。少なくとも、俺にとっては」
「なん……」
「お前にわかるか!? 俺がずっとここを継ぎたかった気持ちが! 俺はミステリーが好きだし、じじいとは味覚も趣味もなんだって合ったんだ。なのにじじいはいつだってお前を贔屓する。別にそれだっていいよ、お前は俺より年下だし、俺だって兄貴みたいな気持ちだったから、だけど……俺がずっとこの場所を欲しがってたこと、あいつは知ってたのに……あいつにとっては、俺なんてどうでもいいって、そう思ったら……」
ゆるゆると左右田の手から力が抜けていく。伸びたシャツの襟に皺が残った。けれどこの皺は消えるだろう。心に刻み込まれた傷と違い、すぐに消える。
赤く染まり、震えたこめかみには薄く血管が滲む。そんな顔を見下ろしていると、意図せず掠れた声が漏れた。
「俺が、慶兄がしょっちゅうここに来てたことに気がついた理由、わかるか」
不意を突かれた羽生は、左右田を見上げながら「……そこの人から聞いたんだろ?」
「織羽さんに証拠のことを聞いたのは、俺も今が初めてだよ」
「じゃあ、なんで……」
「慶兄がいったからだ。一年以上来てないって。だからその嘘に気がついた」
左右田は再び応接室の外に出て、ほどなくして戻ってくる。今度羽生の前に投げ出されたのは、チョコレートのファミリーパックだ。
祖父が糖尿病だと知ったとき、真っ先に不審に思ったのはこのチョコレートだった。多少は保つといっても、一年前に糖尿病が発覚したはずの真晴が持つには、賞味期限が先すぎる。
「このチョコ、賞味期限はまだまだ先だ。ココアだってそう、酒……はこないだ俺が空けちゃったけど、半分ぐらい残ってた。誰かが飲んだ形跡があった。慶兄だろ」
「……じじいが飲んだ可能性は?」
「ないよ。一年前から糖尿だったんだぜ? だから、これは全部――じいさんが、誰かのために用意してたんだろうなって思ったんだ。身内で、しょっちゅう来れる距離に住んでて、じいさんと同じ好みしてんの、慶兄ぐらいだろ。だから気がついた。しょっちゅう来てたんだ、って」
そこで言葉を切り、背中を向けたまま、「なあ」と左右田は声をかけた。
「こんなの、いつでも来い、待ってるぞ、って、慶兄にだけ宛てられたメッセージだろ」
「……」
「名探偵じゃなくたって、わかるぞ」
その夜、羽生慶二が、祖父殺しと詐欺、窃盗の罪で出頭した。
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