〈九〉
「お前……なんて顔してんだ」
数日後の夜七時、事務所に顔を出した羽生が放った第一声はそれだった。
室内の惨状も酷いものだったが、何より左右田自身が一番見るに堪えない状態だった。無精髭は伸び、髪も洗っていないのか、寝癖の痕が妙なまとまりを生んでいた。
羽生の眉間に皺が寄った理由には、左右田も薄々気がついてはいた。ここしばらく風呂に入っていないのだ。かろうじて窓は開いていたものの、自分から漂う異臭は羽生の鼻にも届くだろう。それを知ってなお動く気になれず、「お前こそなんて顔してんだよ」と続ける声に覇気はない。
そのままそこにいろよ、と左右田に言い含めると、羽生は小一時間姿を消した。戻ってきた羽生は自分の着古しの衣類とタオルを持って来てくれたのだが、悪いことをした。前者はともかく後者の方は不要だった。羽生が外している間に、左右田は織羽が持って来てくれた真新しいタオルで身体を拭っていた。逸れた羽生の視線を追うと、台所で茶の支度をする織羽がいた。
「丹頂さん。来てたんですか」
「ええ。しばらく左右田さんと連絡が取れなかったので気になって……」
「俺もです。おい、美博。一体どうしたんだよ」
織羽が湿らせてくれたタオルで身を擦ると、力が強すぎたのか肌が少し赤らんだ。羽生が投げてきたTシャツを羽織り、織羽が洗面所へと足を向けた際に下着も着替えた。死なない程度に事務所にある菓子や水を飲んではいたが、まともな食事はここしばらく取っていない。立ち上がると軽くふらついた。
左右田の身体を支えようとする羽生の手を断り、応接室へと向かった。不要な資料を段ボールに詰めただけだが、足の踏み場はまだある方だ。戸を開けたまま待つと、織羽が、そして遅れて羽生が入ってくる。
入口に近いソファに腰を下ろすと、心配に思ったのか、マグカップを置いて織羽が隣に座った。羽生も左右田たちの向かいに座り、もう一度同じ問いを重ねる。「一体どうしたんだ」と。
目の前に置かれたのはココアだった。甘い匂いにむせそうになるのを堪えて、喉に流し込む。唇と喉を湿らせてから、左右田はようやく口を開いた。
「駄目だったんだ」
「……何がだ?」
織羽も首を傾けて、隣に座る左右田の横顔を見つめた。
膝に腕を乗せて俯く左右田の表情は、羽生にも、そして織羽にも見ることができないはずだ。
息を吸い込む音がして、堰を切るように左右田が続ける。
「気のせいだと思おうとしたし、偶然だと思おうとした。可能性をゼロにしようとして、色んなことを調べた。でも、そのたびに可能性が増えていくんだ。駄目だった。ゼロにできなかった」
「何の話をしてるんだよ、おい、美博」
「織羽さんが俺のところに来た理由だよ!」
「……ミステリーを作るんだろ? その監修をお願いしたいって」
「あ、いえ、それは……すみません。羽生さん向けの嘘です」と、織羽が申し訳なさそうに口を挟んだ。
一度は居酒屋で聞いた話である。羽生もすぐに思い至ったようで、「まさか」とぎょろつく目を見開き、織羽に視線を移す。織羽は逃げることなく、その声なき問いに頷いた。
「本当は、わたしを殺してほしいとお願いしたんです」
「でも、それも嘘なんだろう」と、左右田。
「え?」
「あんたの本当の目的は」
風が吹いた。机の上に置いてあった新聞紙の端が、ぺらり、と動く。その端を持ち上げると、左右田はある面を広げた。三人の間に広がるのは、ふた月ほど前の死亡欄。
「――じいさんの死が、他殺だったってことを、俺に気づかせることだ」
――左右田真晴さん(そうだ・まさはる)七日死去、八十三歳。千葉市中央区にある自宅兼仕事場で、脳溢血により死亡。
しばらく、誰も言葉を発しなかった。
俯いた顔を隠すように垂れる髪が揺れ、前髪の隙間からふたりが見える。ゆうらりと立ち上がると、まだ本調子でない身体を気遣ってか、織羽が一瞬咎めるような目線をくれたけれど、制止の言葉はかけられなかった。
「他殺……? まさかそんな、あれは不幸な事故じゃ」
「事故に見せかけた他殺だよ。むしろ事故扱いになったことが一番の不幸だったんだ」
「……どういうことだ?」
左右田は一度応接室を出て行く。戻ってきた左右田が乱雑にテーブルへと投げ置いたものに視線を走らせると、羽生の顔色がわずかに変わった。
置いたのは空の薬袋だ。ペーパーナイフで刺された痕が残った、左右田が窓枠で見つけたものである。
糖尿病の義母を見ていたせいもあるのだろう、羽生は言葉を漏らした。
「じじい、糖尿病だったのか……」
「ああ。結構前から患ってる。かかりつけの医者に聞いたら、もう一年ほど前だそうだ」
「でも、それなら脳溢血は自然なんじゃないのか? 義母さんが糖尿になったときに色々調べたが、糖尿になると血管の内壁が太くなって、逆に血の通り道が狭くなるだろ」
「普通ならな。だけど今回は転倒が引き金だっただろ。高血圧が原因で血管が詰まったわけじゃない。それに、糖尿だったはずのじいさんが死んだのに、おかしい症状がひとつだけあったんだ」
「おかしい症状……?」
「内出血だよ」
言葉を切り、左右田は続ける。
「慶兄も、じいさんの葬儀のときに見たろ。腕に広がった内出血の痕。警察も内部の出血が止まらなくて、と報告してた。でももし糖尿だったなら、血はドロドロだったはずなんだ」
「そりゃ……そうかもしれないが……だから他殺だなんて……そんな……」
「ところで慶兄、織羽さんがあんたにした質問を、俺はもう一度する」
応接室の中を歩き回り羽生の背後を通り抜け、再び入口へと戻ってきた左右田は、そのまま出口を塞ぐかのように立ちはだかり、ポケットに手を突っ込んだ。
「――余ったワーファリンは、どこにあるんだ」
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