〈八〉
その日、ポケットで携帯が鳴った。
仕事用で支給されているものの着信音ではないから、おそらくは私用の携帯の方だろう。取引先へと向かう車を運転していたため、信号待ちのときに確認をした。真晴からだった。メールやラインはよくわからないといって、いつも電話ばかりかけてくる、あいくるしい祖父。
いつもなら気分転換も兼ねて、適当なところで車を停め電話に応じるところだ。きっと最近読んだミステリーの感想だろう。真晴の場合、こちらの健康を気遣う言葉は前置きであり、何よりミステリーの感想を話したくてたまらないのが第一だと左右田は知っていた。元来喋りが上手い方でもない分、むしろそれはありがたい。子どものような無邪気なワクワクは電話越しでも如実に伝わり、それだけで左右田はいつも、元気になれた。
ただ、その日は、その日だけは、電話に出る余裕もないくらい時間に追われていた。そういう日に限って赤信号に捕まった。たいして時間に変わりはないと知っていても心の余裕はどんどん失われてゆく。そんなことをしている暇があったら、一件でも多く契約を取ってこなければならない。上司からいわれた言葉が圧となり、無理矢理背中を押し出す掌となる。いわゆるブラック企業に勤めている人間は、自分を奴隷のように感じることがあるという。左右田がもっとも奴隷と化していたのは、この時期だった。
だから、着信は無視した。
家に着いてからか、もしくは週末にでも顔を出せばいいだろう、と。間を置かず何件か着信があり、履歴には真晴の名が並んだ。「帰ったらかけ直す」とメールを入れ、けれど家に着いたのは夜の十二時をとうに回ったころだったから、明日へ持ち越した。翌日はといえば、駅で体調を崩していた女性を介抱している間に同じ時刻になってしまい、諦めた。お礼にと渡されたチョコレートを口に入れたまま寝入り、迎えた土曜日、見慣れぬ番号からの着信があった。検索すると、千葉にある警察署の名前が出た。
折り返したとき、真晴の死を聞かされた。死後二日が経過していたという。
打撲痕があり、あちこちで内出血していた。クレジットカードやキャッシュカードの類を持っていなかったせいか、物取りの犯行かもしれないという警察に、なんだかおかしさを感じた。ここに真晴がいたなら笑うだろうと思ったからだ。こうやって推理小説でも警察は翻弄されるんだよな、と。
頭の打撲をきっかけに起こった出血が止まらず亡くなった真晴。アパートに住む大学生の証言から事故だとわかったとき、左右田の脳裡に浮かんだ真晴は悔しがっていた。「事件になれば名探偵の出番だったのに」と、自分こそが被害者なのに名探偵の夢を諦めていないのか。警察からの報告を聞き、羽生と顔を合わせたときも、『それ』は現実のものとして左右田のものに訪れてはいなかった。
葬儀の日、棺の中にいる真晴を見た。
一目見てその生が消えたことが知れるほどに白い顔。掌は腹の上で固く結ばれ、そこから伸びる腕はそこかしこに内出血の痕がある。出血が止まらなかったという警察の報告通り、おびただしい痕はまだらの紐のようにも見えた。触れると思った以上に冷たく、怯んだ指先が戻る。その瞬間、ようやく現実になったのだ。あいくるしい、祖父の死が、現実に。
「……お前のせいじゃないんだぞ」
どうやって一日を終えたのか記憶がない。気がつくと左右田は、祖父の探偵事務所で夜を明かしていた。祖父の好きだったミステリーが立ち並ぶ応接室のソファに寝っ転がり、乾いた目脂が瞼の接着剤となっている。長い間着ることもなくほぼ新品だった喪服が、一夜のうちにくたびれ皺だらけになった。
そんな左右田を見下ろして、羽生はいった。目を擦って重い瞼を開くと、そういう羽生もまた、泣きそうな顔をしていた。左右田の視線に気づくと「一年以上来てなかったが、変わんないな。ここも」と、視線と話題とを他所に逸らす。けれどそんなことぐらいで避けられることではない。知っていた。左右田も、羽生も。
死後二日が経過していたということは、最初の祖父からの連絡に気がつけば、祖父はひょっとしたら助かったかもしれない。
「……俺のせいだよ」
目元を覆う右腕のジャケットに冷たさが滲んだ。
目が覚めた、意識だけがあった。瞼を開こうとしたものの張りつく感触がある。目を擦って上半身を起こすと、お情け程度に引っ掛けていた上着が落ちた。二日酔いのせいか眩暈もおき、着ている服は喪服ではないにしても過去と同じシチュエーションに、一度現実を見失う。
窓から差し込む太陽の高さからして、真昼に近い時間なのだろうか。時間の感覚がおぼつかず、時刻を知ろうにも近くに時計も携帯もない。もっとも、時間に追われる生活からは無縁だから、早々に諦めた。日中だとわかればそれで十分だ。
織羽が帰った後、一人で空けたウイスキーの瓶が足元にあった。すでに封は開いていてそこまで残っていなかったとはいえ、元々安く弱い酒しか飲まない身からすれば異例のことだ。誤って瓶を割ることのないように、テーブルの下へと避難させておく。
そこかしこに散らばる新聞のバックナンバーや紙の類を避け、飛び石を踏むような要領で応接室から脱出した。用を足してから、キッチンスペースに向かい水の入ったケトルを火にかける。湯が沸くのを待っている間、朝食代わりに冷蔵庫に入っていたドーナツをつまんだ。二日前の差し入れだが、食べられないほどではあるまい。
コーヒーの匂いが鼻を通り抜けると、ようやく目が覚めた心地がした。
祖父が座っていたデスク。他より一回り以上背もたれの大きな一人掛け用ソファに背中を預けると、いつも見ていた景色とは異なる景観がそこにあった。右手には応接室。左手にある太めの窓枠に置いてある封筒を、垂直に貫くペーパーナイフ。よくもまあこんな奥まで刺さらないもので刺したものだ、と、ホームズとワトスン医師が住まう221Bの部屋の再現に触れた。途端にぐらりと揺れたナイフが倒れ、床に封筒が散らばる。
雑なもので、刺していた手紙は友人らしき人物から送られたものもあれば、通っていた病院の薬袋、それに左右田や羽生が出した年賀状もあった。孫や友人からの手紙にペーパーナイフを突き立てておいたことも、真晴のことを知っていれば微笑ましく、怒りなど沸いてこない。
先日聞いたばかりの話を思い出し、薬袋の表面を見てみるが、ワーファリンの文字はなかった。スリフォニル尿素薬とビグアナイド薬、と、まるでハリー・ポッターの魔法薬学の授業に出てきそうな名前を目で追うと同時、再び二日酔いの眩暈が襲う。背もたれに頭を預け、しばらく目を閉じることにした。
「大丈夫ですか、左右田さん」
ここに織羽がいたのなら、そう声をかけてきたのだろう。人形みたいに整った眉を下げて、冷たい掌で触れてくるのかもしれない。魔法の呪文みたいな医薬品の効果だってすらすらと答えられるだろう。左右田も薄々気がついてはいたが、年齢差などものともしないほど、彼女は博識で聡明だった。だから織羽の考えていることが読めない。求めていることがわからない。
ふと、拾い上げた封筒の宛名に視線が奪われた。
真っ白い封筒に記された祖父の名は、端正な字で綴られていた。その字体に見覚えがある。もしかして、と裏を見ると、そこには文字から浮かんだ顔の名前があった。良いことではないと自覚しながら、中の便箋を取り出す手は止められない。制御できない。
すべてを読み終えたとき、左右田は応接室にある辞典を引いた。
可能性が、芽吹いた。
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