〈七〉

 特に後の予定は決めていなかったものの、自然と二人の足は事務所へと向いた。左右田は今日は解散でもいいと考えていたが、織羽が先立って事務所への坂を上りはじめたことから、このまま帰るつもりはないのだろうと嫌でもわかる。


 重い足取りで後に続く中、左右田はずっと、先ほど羽生にいわれた言葉の意味を考えていた。


 新聞などが散らかった乱雑な事務所に戻ると、織羽は慣れた手つきで湯を沸かしはじめた。その後ろ姿を物言いたげに見つめても、思考など届かないことはとうに知っている。気持ちは伝えなければ伝わらない。そういうものだ。応接室の扉を潜り、いつも通り窓を開けてからソファに腰を据えると、キュッ、と不快で慣れ親しんだ音が鳴った。


「どうされたんですか?」


 気づくと、織羽が戻ってきていた。マグカップとティーカップ。香る匂いからして、中身は紅茶か。

 隣に腰を落とすものの、左右田が座るときにした不快な音が、織羽のときには鳴らないのはなぜだろう。こういうところが、自分と同じ人間なのだという感覚を薄れさせる。


「先ほどの帰り道から、気もそぞろですね」

「……俺はいつでもだいたいこんな感じだろ」

「そうですか? どちらかというと、いつも細やかなことに意識を払っているように見えますよ」

「そりゃどうも」

「だから過労で倒れることになるんです」

「……」

「胃潰瘍もなったこと、ありますでしょう」


 図星だ。唇を歪めて、思いつく限りで一番の賞賛の言葉を送った。


「俺よかよっぽど名探偵だな」

「ふふ。光栄です」


 引き返してきたときにはまだ明るかった室内に、暮れかけた日が色を差す。赤く染まる部屋は今日が初めてというわけじゃあないはずなのに、なぜだか妙な緊張感が背筋に走るのを感じた。幼いころに読んでいた、ミステリーのシリーズを思い出す。「赤い夢へようこそ」のフレーズが、過去から現在へと近付いてゆく。


 左右田の様子を知ってか知らずか、織羽はいつもと変わらぬ表情で、ティーカップに口をつけていた。


「できそうですか?」

「え?」

「わたしを殺す物語。できそうですか?」


 つい喉が鳴る。音楽もなく、学生の帰宅時間にも合わない時間、静かな応接室の中ではそんな音さえも爆音となって隣に届いてしまいそうだった。

 取り繕う言葉を考えたが、もとよりそう口が上手いわけでもない。結局のところ、すこしの逡巡の後に左右田の胸を占めたのは諦念だ。


「俺が思いついたのは、毎日少しずつ肉じゃがの味付けを濃くして糖尿病にして殺すぐらいだな」


 織羽は不満のようだ。「平凡ですね」


「時間はかかるが、確実といえば確実だろ」

「治療がはじまったら延命しちゃうじゃないですか」

「しなきゃいいじゃん」

「しないと故意に殺そうとしていると疑われますよ」

「じゃあ織羽さんは他にいい案でも?」

「それは」


 珍しく、織羽の視線が泳ぐ。左右田の中で眠っていたひと欠片の疑惑が芽を出し、気づいたころには、口から飛び出していた。


「たとえば、ワーファリンを使って殺せ……とか」


 空気が震えた。そんな錯覚を覚えた。


 帰り際に羽生から聞いた言葉から推測――探偵としては推理というべきなのかもしれないが――できた結論は、そのひとつしかなかった。薬が毒になるのかは定かでないが、あのタイミングで所在を聞いた理由はひとつしかないはずだ。


 羽生は知らないこと。けれど左右田は知っていること。丹頂織羽が探しているのはミステリーのトリックなんかではない、『自分を殺してくれる』トリックだということ。


 部屋の温度すら下がったような、そんな奇妙な体感。身を震わせかけて、そういえばせっかく淹れてもらった紅茶に未だ手を伸ばしていないことを左右田は思い出した。忘れてばかりだ。何もかも。前の会社で働いていたときの辛さも、祖父の死のことも。

 底知れぬ冷たさを感じたからといって、マグカップに手を伸ばす気にはなれなかった。横を向いていないせいで、織羽がどんな表情を浮かべているか、今の左右田にはわからない。想像で作り上げる以外の術はなく、けれど図星を指されたという狼狽や戸惑いは、彼女には不釣り合いである気もしていた。


 不意に、赤く染まるジノリのティーカップが、再び左右田の視界に訪れた。


 カップのハンドルを支える指先が驚くほど白く見えて、そのまま誘われるように眼差しは顔ごと動いてゆく。


 ――声にならない、呼吸の欠片が微かな音を放った。


 人はそれを、息を呑むと表すのだろう。左右田が言葉を発することもできず、ただそうするしかなかったのは、織羽の表情があまりにも予想外だったからだ。


「……すごいですっ、左右田さん!」


 そう零した織羽は、笑っていた。それも、子どものように無邪気に瞳を輝かせて。普段なら白い頬に、人工物ではない薄紅が走る。狼狽ではない。戸惑いでもない。それは興奮で、歓喜だった。


「……な、んだよ、どうしたんだよ」

「だってだって、本当の名探偵さんみたいです、感激です!」

「最初から探偵だと思って依頼してきたんじゃねーのかよ……」

「あら。探偵事務所の看板を掲げていても、名探偵だとは限りませんでしょう?」


 失礼な物言いだが、元々探偵事務所なんて祖父へのお情け程度でしか営業するつもりのなかった左右田には怒るつもりはさらさらない。気が抜けて、ついでに肩の力もするすると抜けてゆく。喉が渇いていたことに今ごろ気づいて、マグカップを手に取った。


「で、ワーファリンを使って、どんな風に殺してくださるんですか?」


 思わぬ問いかけに、必要以上の水分が喉を通りむせ込んだ。


「左右田さん、大丈夫ですか?」と、織羽が左右田の背をさする。くたびれたスーツの皺を伸ばすように、滑らかに。

 呼吸を整える間に上手い案でも浮かばないかと考えてはみたものの、左右田の知識は先ほど織羽が教えてくれたものしかない。仕方なく具体的な案はないと正直に打ち明けた。


「大丈夫です、これから考えていけばいいんですから問題ありませんよ」

「……お前ってほんとにめげないな」

「前向きなのが取り柄なんです」

「殺されたい願望と前向きは矛盾しないか?」

「別に死にたいわけではありませんもの。それに、左右田さんの想像の中でもいいとお伝えしましたでしょう?」


 柔らかに微笑む横顔は、幸福を示すなだらかな放物線を描き、吊り上がる口許は確かに死にたいと願う人間のそれではない。


 左右田は二度、瞬きをした。

 目を閉じる瞬間に訪れた闇の中で、左右田は織羽を殺すことを試みる。

 織羽が余所見している瞬間、粉末状のワーファリンを紅茶に溶かし、毒リンゴを作る魔女のようにティースプーンでかき混ぜた。銀のスプーンは黒く濁り、けれどそれを意にも介さず織羽は無邪気に微笑むのだ。「ありがとうございます、左右田さん」そして織羽は紅茶を飲み干し――そこで思考を止めた。はたして薬は毒になるのだろうか?


 たったの数秒で上手くいかなくなる想像の世界には、頭を振って別れを告げた。代わりに、別の想像が浮かんでくる。


「想像の中でいい、って、いったよな」

「ええ」

「なら、もういいんじゃないか」


 沈黙が落ちた。これは、続きを促す沈黙だと、左右田は判断した。


「俺はよくわかんないけど、ワーファリンさえ使えば上手く殺せるんだろ? だったらもう……この辺りで、いいんじゃないか。別に、詳しく考えなくても」

「駄目です」


 返答は早い。見ると、いつの間にか左右田の方に身体ごと顔を向けている。それも、静かな怒りを滲ませた顔を。


「でも、想像の中で殺せばいいっていったのは織羽さんだろ」

「ええ。だけど、左右田さんはわたしを殺してなんてないじゃないですか」

「そりゃ実際には」

「違います。――想像の中でさえも、わたしを殺せていないでしょう?」


 真正面から捉えたと思っていた瞳に、逆に囚われたのは左右田の方だった。よく見ると色素の薄い瞳は、そのまま見つめていると何もかもを見透かしてしまいそうだ。いや、事実、見透かしているのだろう。


 なぜ、わかるんだ。


 適切な言葉が見つからないまま、ただ息だけを止めていた。そうすれば時間さえも止まるのではないかと考えたけれど、それはあくまで左右田の願望でしかない。実際は、窓から吹き込む風が乱雑に積み上げた資料の山を動かしたことによって、晴れて囚われの身から解放されたのだった。


 床に落ちた新聞を集めていると、足音が去っていく。帰るのかと顔を上げると、織羽はまだ窓の傍にいる。

 いつの間にか日が暮れている。織羽は月を見上げていた。


「左右田さんは、なぜそこまで死に対して臆病なのですか」

「は」


 左右田のいる位置からは織羽の背中しか見ることができないから、表情だけで「どういう意味だ」を尋ねるには無理がある。織羽は左右田の方を向こうともせず、ただ緩やかに波打つ髪が、繊細な絵画のように今にも動き出しそうにただ止まっていた。


 立ち上がり、腕の中に抱えていた新聞をテーブルに置く。カサリ。乾いた音が鳴った。


「誰だって死ぬのは怖いもんだろ」

「わたしがいっているのは、そういう意味ではありません。もっと別の意味です」

「……どういう意味だよ」


 再び風が吹いて、開け放したはずの応接室の戸が音を立てて閉まる。けれど左右田はおろか、織羽でさえも、肩を跳ねさせたりはしなかった。振り返った織羽の表情は見えない。背に月を背負っているせいだ。

 ゆっくりと、織羽が左右田の元へと足を進める。


「左右田さんは、死から逃げているように思えます」

「わざわざ死に向かっていくやつがあるか」

「あなたの死ではありません」静かに織羽は首を振って、いった。

「あなたのおじいさま――真晴さんの死から、ですよ」


 言葉が消えた。息も。何もかも。


「わたしは知っています。先ほど羽生さんのお宅で話を伺っている最中も、そして今も、いえ、むしろ毎日、あなたは真晴さんの死を思い出している。だけど途中で蓋をするんです。見たくないものを見てしまわないように」

「……違う」

「いいえ違いません。思い出したくないものを思い出さないようにしているのでしょう? 消化するのが難しいとおっしゃっていましたけれど、あなたはまだ胃に収めてすらいない。だから苦しい。だから忘れられない」

「やめろ」

「こんな事務所だって律儀に開く必要はないし、そもそもこの場所にいなければならない理由だってないはずです。それでもここにいるのは、探偵をはじめたのは、罪悪感からでは」

「――ッやめてくれ!!」


 振り回した腕が、乱雑に積み上がった段ボールをなぎ倒す。上蓋が開き、雪崩のように中の資料が落ちていった。紙に阻まれて織羽の足が止まる。まるでバリケードだ。左右田の肩も、睫毛も、そして心も震えた今、崩れたものを止める術がない。

 逡巡ののち、織羽はそれ以上進むことを諦めたようだった。代わりに散らばる資料の中から、一枚の新聞を持ち上げる。


「……もう一度、きちんと向き合ってください」

「……あんたは何も知らないから、そういえる」

「心外ですね。わたしは少なくとも、左右田さんが思う以上のことを知っています」

「シャーロック・ホームズでもないくせによくいう」


 吐き捨てるように呟くと、ため息とも呼気とも取れる音がした。

 左右田が俯いていた顔を持ち上げると、伸びた前髪越しに、織羽の表情が見えた。眉尻が下がり、わずかに噛んだ唇が震えていた。柔らかな微笑みよりも、瞳を輝かせ見せた興奮よりも、もっとも人間味のある表情だと感じた。


「あなたに罪があるかどうか、もう一度確かめるべきです」


 押し付けられる新聞は、力ない手を掴まれ、強引に握らされる。一歩一歩遠くなる足音に伴い、左右田の目線は再び地へと落ちてゆく。そして気づいてしまった。見つけてしまった。親指が支える新聞の一角、死亡欄にある名前を。未だ口の中で咀嚼を続けたまま、飲み込めない、死を。


 扉が閉まる前、聞こえた最後の言葉はこうだった。


「そうじゃなきゃ、あなたにわたしは殺せない」

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