〈六〉

 次の日曜日、千葉駅で織羽と合流してから船橋で乗り換え、東武野田線の車両へと乗り込んだ。しばらく乗っていなかったうちに、東武アーバンパークラインへと名を変えた車窓から見える景色は、どちらかといえばカントリーに近い。都会すぎず田舎すぎず、ぽつぽつとある畑をぼんやり眺める間、左右田と織羽は、特に会話らしい会話をしなかった。

 馬込沢駅で降りると、グリーンのポロシャツを着た羽生がすでに立って待っていた。ぞんざいに挙げられる手に応えるように、足並みをわずかに早めながら応える。


「慶兄、悪いな」

「ホントだよ。これは今度こそ奢りだな」

「……安いところで頼む」

「今の気分は完全に高級中華だけど」


 茶目っ気を帯びた眼差しが横へと逸れて、探るように落ちたのを、左右田は見逃さなかった。「こちら丹頂織羽さん」と声をかけると、羽生は一瞬の間を設けてから、相好を崩した。


「どうも! このポンコツの従兄の羽生慶二ですよろしく」

「お初にお目にかかります、丹頂です。本日はわざわざお時間をいただきありがとうございます」

「いやいや、俺も探偵には憧れてたんで、こんなことでよければいくらでも力になりますよ。まあ美博から聞いたときには予想外な話だと思っていたが、まさかこんなこととはね」


 言外に咎めるような気配を察し、左右田は他所に視線を逃がし肩を竦めた。


 嘘を吐いていたわけではないが、真実を語っていたかといえば嘘だろう。実際、この話を羽生にどう切り出すかで織羽とも票が割れた。左右田は羽生に正直に伝えて相談しようと考えたが、織羽がありのままを話すのは嫌だと主張したのだ。そのせいで、「自分を殺してほしい」という織羽の依頼は「推理小説研究会の発表会に出すミステリーのトリック探し」になり、羽生からひとしきり羨ましがられることとなった。まあ、実際のところこれも嘘ではない。唯一、織羽が本当に殺されたがっていることを除いて、の話だが。


 駅を出て坂を上り、十分ほど歩いた。小学校の前の道を左に折れ、砂利道を通る。ほどなくして見えた一軒家の前で羽生と左右田が立ち止まり、織羽が表札を見つめた。

 チャイムを鳴らさずに門を開く様子を見て戸惑うものの、今日は留守だし鍵は妻から預かってきたから、という。義父に話を通したと左右田は聞いていたが、ひょっとすると、羽生が気を回したのかもしれないと思った。愛する人の死をミステリーのネタにしたい、などと言い出す輩がいれば、誰しもまずは憤慨するはずだ。羽生は昔からそういう男だ。周囲に気を遣わせないように、いつも最善を選び取る。そんなところが、昔からずっと眩しかった。


 けれど織羽も、単なる好奇心だけで訪れたわけではないことを、左右田は知っていた。そもそも織羽が言い出したのだ。


 羽生が茶を淹れてくれる間、仏壇の前で手を合わせる織羽の背中を、左右田は見つめていた。鈍いりんの余韻が和室を占め、線香の香りが満ちる。ついその香りに祖父の死を呼び起こされ、視線を織羽の背から外す。すると、肩越しに遺影の中で笑う公子が見えた。左右田も何度か見たことのある表情。いい写真だ、と思った。


 机の上にお茶と、この間買ったというチョコレートの詰め合わせを広げる羽生に、織羽は頭を下げた。


「すみません。見知らぬ赤の他人にもかかわらず、無理をお願いして……」

「いやいや。こんな美人さんが来たんなら義母さんも喜ぶんで気にしないでくれ」

「でも……やはりお嫌ではないですか? 人の死を……その、参考にだなんて」


 羽生の目が見開かれ、余韻も消えた中では沈黙が茶の間を満たすのみだった。

 左右田も、最初こそ反対はした。見知らぬ他人に聞くことも難しいだろうが、身内であれば余計だ。羽生に比べれば付き合いが浅いとはいえ、その気がなくとも人の死を茶化すような行為はしたくはない。


 けれど、現に左右田は織羽を引き連れこの場所にいる。それはどんなに高潔な気持ちがあっても、どうしても選びたくない一方を天秤にかけられた上で行った取捨選択だった。

 知らず眉間に皺が寄っているだろう左右田を見て、羽生はわずかに唇の端を歪ませた。そのままチョコレートへと手を伸ばし、口の中に放り込む。線香の中に、甘ったるい香りが微かに滲んだ。


「……正直、複雑な気持ちではある。義母さんは俺によくしてくれたしな。だけど、その一方で、そこまでこの件を深刻視してない俺がいるんです」

「それは……」

「血が繋がってないから、って? それもあるよ。認める」

「別の理由もあるのですか?」


 二個目のチョコレートを飲み込んで、羽生は口を開く。


「義母さんの場合、完全に事件性がないってわかってるからかな」

「糖尿病だったんだっけ」と口を挟んでから黙り込む左右田に、「ああ」と頷く羽生。

「心房細動も合併してな。薬は飲んでたんだけど、まあ歳も歳だったし」

「……もしかして服用されていたのはワーファリンですか?」

「ああ。……よく知ってますね?」

「わたしの兄が医学部なんです」


 兄がいるのか。それも医学部。

 微笑む織羽の横顔を見つめながら、左右田は驚いていた。兄の件ではない。織羽のことを、ほとんど何も知らないということに。それが当然だと、すっかり忘れていたことに。

 振り切るように茶を飲み下していると、左右田が知らないだろうと見当をつけたのか、織羽が解説を引き取った。


「ワーファリンは、血液を固まりにくくする薬のことです。心房細動は血の流れがよどんで、血栓……血の固まりができやすくなるんです。それが脳動脈などで詰まると脳梗塞がおきるので、それを防ぐ抗血栓薬ですね」

「なるほど」


 だからシンボウサイドウなんて言葉から、医薬品の名称までもが出てきたわけか。左右田は一人納得する。


「ワーファリンを飲んでいたからって百パーセント防げるわけじゃないし、それなりに何が起こってもわからない歳には突入してたからな。だから亡くなったのも時期が早いことを除けば、仕方ないことではあるんだ。義父さんはともかくとして、まあ俺だって悲しかったけど……吹っ切れないほどじゃない」


 すっかり過去になったのだ、と感じる口調だった。左右田は湯呑の中の波紋に視線を投じる。過去を振り返らなくて済むように。


「糖尿病……というと、生活習慣病ですよね」

「ああ。だけど食事を管理してたのは義母さんだし、第三者の手によって糖尿病にされたわけじゃないよ」

「完全なる病死、というわけですね」

「ああ。まあ、だからもしこれをミステリーのネタにするとしたら、食事の管理をしていたのが別のやつにするとかかな……」

「なるほど。参考になります。ありがとうございます」


 いつの間にやら取り出した手帳にメモを残してから、織羽は立ち上がった。帰るのかと思い腰を上げかけた左右田だが、「すみません、お手洗いの場所をお伺いしても……?」と尋ねる織羽の姿を見て、再び座布団へと腰を沈めた。

 織羽の姿が消え、湯呑から最後の一滴を流し込んでいると羽生が戻ってきた。


「すこぶる美人だよな、丹頂さん。好きになったりしないのか?」

「……見た目が一般的に見ていい部類だというのには同意するが、好みかどうかでいうと別の話だ」

「お前よりじいさんの好みっぽいよな。ミステリー好きみたいだし」


 いいながら、もはや何個目になったかわからないチョコレートを摘まむ。宝石箱のようだった箱の中にぽつぽつと空きができるが、このほとんどが羽生の胃に収まっていることに左右田は気がついた。


「元々じいさんと仲良かったみたいだぞ。近所の図書館で会ったとか」

「そうなのか?」

「ああ。つか慶兄も今度事務所来てくれよ。じいさんの残した消費しきれないチョコレートが山ほどある」

「あのバラエティパックだろ」

「うん。織羽さんがお茶菓子持ってきてくれるからソッチの消費が進まなくてさ。賞味期限はまだまだあるけどいかんせん俺一人じゃ無理だ」

「……まあ別にいいけど……」

「……どうしたんだ。妙な顔して」


 羽生はすこし考え込むようにしてから、辺りを見回した。洗面所の戸が開いた気配もなく、織羽の姿がないことを確認しては、重い口を開く。


「……あの子、すこし変じゃないか?」

「まあ……それは確かに。変わったやつだよな」

「ああ、でも、なんていうか変わったっていっても……こう、ちょっと、なんつーか」

「なんだよ。歯切れ悪いな」

「……さっきさ、俺聞かれたんだよ。どこにあるんですか、って」

「は? そりゃトイレ行きたいんだから当然」

「違う」


 洗面所の戸が開く気配がした。羽生は左右田の肩を掴み、耳元で囁く。


「余ったワーファリンはどこにあるんですか。……そう、いってた」


 そこで左右田は思い出した。

 自分は、彼女のことを、丹頂織羽のことを、何も知らないのだということを。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る