〈五〉

 本日の営業は終了しました。


 ここ一週間もの間、プラスチック製のこのプレートは一時も外れないまま、左右田探偵事務所の扉に掛かっていた。


 左右田自身が不在なわけではない。むしろいつもと比べて倍以上の時間を事務所で過ごしているといっていい。トイレはともかく風呂がついていないので自宅に帰るようにはしているが、仮眠室はあるし、銭湯とコインランドリーを駆使すれば数日間の泊まり込みには困らないだろう。


 それをしないのは、事務所にいる人間が左右田だけではないからだ。


 応接室の机に広げた新聞に落としていた顔を上げると、硝子越しに動くスカートが目に入る。今日は星空のような煌めきが躍るネイビーのシフォンスカートに、肩にフリルのついた白い七分袖を身につけていた。相変わらず上品な格好で、左右田は事務所の前で日傘を差して待っていた織羽を上から下まで眺めた後に、つい「お嬢さん、今日はどこかにお出掛けで?」と聞いてしまった。冗句と捉えられたようだったが、千葉駅近くの裏道を闊歩するよりは自由が丘でも歩いている方が似合っているな、と揺れるスカートを見ながら思う。

 すると、星空は流れ星のように揺れながらいった。


「こんこん」


 わずかに視線を持ち上げると、スカートの持ち主は両手で盆を抱え、盆の上にカップを二つ乗せていた。ひとつは左右田のもので、もうひとつは織羽が持ち込んだらしいジノリのティーカップだ。こんな小汚い事務所にジノリを持ち込むなんて、さらにはそれを普段使いしようだなんて左右田には正気の沙汰とは思えない。


 小さな文字の中に潜む情報を求めて脳がうごめいていたせいか、一瞬声の意味に考え込んでしまった。けれどなんてことはない。両手が埋まっているがゆえの、ノックの意だろう。仕方なく立ち上がり、ついでに長時間座りっぱなしだったせいで凝り固まった腰や背中をぐるぐる回したり伸ばしたりしてから、硝子張りの扉を開けた。

 相変わらず端正な顔が微笑みに咲く。


「紅茶を淹れたんです。キリのいいところでひと息つくのはいかがですか?」

「あー、わかった。あ、いや待て。こっちじゃない方がいいな。そっちの机で話そう」

「はい」


 織羽もちらり、と応接室の机を見ればすぐに納得できるぐらい、新聞を限界まで広げた机には隙間がない。すこしでも会社らしくという意味なのか、使いもしない事務机は二つ三つとあるものだから、そのうちのひとつに織羽から取り上げた盆を置き、キャスターつきの椅子に腰かけた。


 砂糖が入ってだいぶ甘くなった紅茶は気分転換にちょうどいいが、飲み慣れていないからだろう、左右田はわずかに眉を顰める。

 と、途端に織羽が不安げに首を傾けた。


「お口に合いませんでしたか……?」

「いや。普段そう甘いもんって口にしないってだけで、ちゃんと美味いよ」

「それはよかったです」


 春の名残を残した気候のせいだろうか、目を細めてから睫毛が伏せられるまでがずいぶんとゆっくりに感じて、左右田はぼうっとその様子を眺めていた。夢の中にいるような浮遊感すら、感じていた。

 しかし、それも長くは続かない。

 落ちていた集中力が戻りはじめると、やはり、この状況への疑問が湧き出てくるのだ。


「あのさぁ……俺、まだ君が」

「織羽」

「……」

「織羽ですよ、左右田さん。忘れちゃいましたか?」

「……俺は、織羽さんが、ここで手伝うことを了承したわけじゃないんだけど」

「あら。そうでした?」

「そもそも手伝ってほしいともいってないよね、俺」

「人手が足りないとはおっしゃっていたじゃないですか。わたしがご迷惑をおかけしているのですから、わたしが手伝うのが道理だと思いますけれど」

「そうはいっても……」

「それに、普段はそこまでお仕事があるわけでもなさそうですし、かといって臨時のアルバイトがすぐに見つかるような職でもなさそうでしょう。だとすれば依頼人であるわたしが自分の依頼の手伝いをする、というのはとっても合理的ではありませんか?」


 何も言い返せない。今や甘すぎて口に苦い紅茶を飲み下すことで、左右田は無言の返答とした。妙な依頼を受けた時点で、受け入れる他ないのだろう。

 幸いバイト代を請求されているわけでもなく、授業があるときは顔は出せないということでそう長時間を共にしているわけでもない。ただ、一般的に見て見目のよい妙齢の女性がこの空間にいることに、戸惑っているだけだ。


 視線を伏せたため織羽の表情は見えないが、ソーサーからカップを持ち上げた音が聞こえた。それに次いで、「でも意外ですね」という声も。


「何が?」

「甘いものを口にしない、ということがです。てっきりお好きなのかと」

「俺がそんなかわいい嗜好してるように見えるか」


 言いくるめられたせいか、恨みがましい口調は大人の男を自称するには少々幼すぎるか。織羽がため息とは違う呼気を漏らしたことからもそれは明らかだったが、視線で示した答えは茶化すものではない、一般的な回答だった。


 視線の先にあったのは、キッチンスペースのカウンター上に置きっぱなしの真っ赤な菓子袋。風味の違うチョコレートの詰め合わせは、織羽が来るたびに持ってくる茶菓子に追いやられて出番を失い、未だその運命を全うすることなく置き去りにされている。


「いつかの晩にお邪魔したとき、お茶菓子に出てきたのはあのチョコレートでしたでしょう。それに一緒に出されたのはココアでした」

「ああ……それは織羽さんが好きだと思ったから」

「わたしが?」

「いや、なんつーか、……なんとなく? 女性だから、っていうのも安直で先入観甚だしいけど。でも、甘いものは嫌いじゃないだろ?」

「え?」

「だって、織羽さんが持ってくる茶菓子、いつも甘いから」


 ただでさえ大きな瞳をさらに見開いた織羽は、妙な顔をしていた。続きをどう紡ごうか迷っているような、戸惑っているような、ともすれば泣き出してしまいそうな。つまるところ左右田がもっとも苦手とする女性らしい表情だ。


 どうとりなしたものか言葉を考えるが、そう気の利いた台詞が出てくるはずもない。左右田はカップに口をつけたまま、そろそろと横に目を逃がしてゆく。

 気がついたら、視線はある一点に止まっていた。応接室の本棚。本棚といっても、最初に参考資料を目論んだ棚とは正反対の位置にある、なんでもかんでもごちゃまぜに収まった雑多な方である。


「……じいさん」

「はい?」

「じいさんが好きだったんだよ。甘いもん。茶菓子のチョコレートもココアも、じいさんの置き土産。俺はただその消費に勤しんでるだけ」

「……わたしを道連れにして?」

「そう。まあこういうの好きなやつが身内にもう一人いるからあげてもいいんだけど、これ以上ブクブク太らせるのも奥さんに悪いからな」

「身内というとお兄さんですか? 左右田……」


 いまいちピンとこなさそうな様子である。


「や。従兄。婿入りして苗字は羽生になってる。まあほとんど兄貴みたいなもんだけど」

「お歳が近いとか……?」

「ああ。よく一緒にじいさんとこに入り浸ってた。出っ張った腹といいじいさん似なのは完全に俺よりアッチの方かな。推理オタだしいつまでも童心忘れないというか。まあそれでも立派なお父さんやってるみたいだけど」

「その方はこちらにはあまりいらっしゃらないんですか?」

「家庭があるから、そりゃな。っていうか、依頼人でもなけりゃこんなとこに足繁く通う酔狂なやついないだろ」

「それもそうですね」


 あてこすった言葉にも動じない織羽に呆れたような視線を送ると、当の本人はきょとんととぼけた顔をする。


「あら。わたしは依頼人ですよ、左右田さん」


 いわれてみて、左右田は少なからず驚いたことに驚いた。


 織羽が依頼人であることや、こうして一緒に依頼を叶えるための仕事に取り組んでいることに対する違和感を忘れたわけではない。けれど、左右田の中で、織羽がここに来ることは依頼人としてのそれというよりも、どこか別の「酔狂」さとなって落ち着いているのだ。まあ、その依頼からして「酔狂」としか言いようがないのだからそれも当然のような気もするが。


 あの夜から一週間、織羽は間を置かずに事務所へとやってくる。朝から午後の授業までの間を過ごすこともあり、訪れる時間はまちまちだったが、授業終わりの夕方から夜にかけての訪問が一番多かった。今日みたいな休みの日となれば、太陽が照りはじめる朝から夜までずっと事務所で新聞と睨めっこだ。


 紅茶をささやかな吐息で冷ます織羽を見ながら、不思議な女性だ、と思う。


 殺してほしい、というわりに、現世に嫌なことなどなさそうだ。手首も綺麗なままだし、毎日健康そうに見える。衣食住に困ることは少なくともないだろう。狭いコミュニティで内紛の起こりやすい中高生でもない。ほとんど毎日事務所に訪れていることから、ひょっとすると友人がいない可能性は十分にありうるが、かといってそれを嘆く様子も見られない。虚勢を張っているのだろうか。いろいろ考えたが、これだという答えが見つけられない。どうも自分は名探偵には向いていなさそうだ、と左右田はため息をついた。


「新聞の死亡欄見ても、これだけじゃやっぱりわかんないな」

「名前と死因が書いてあるじゃないですか」

「シャーロック・ホームズじゃあるまいし、それだけで謎が見つかるとでも?」


 今、織羽と左右田はとりあえず事務所に残っている新聞を漁っていた。事務所にあったのは大手三社の新聞と、地域の新聞のバックナンバーで、ひとまずは地域新聞をここ一週間で半年分ほどは遡ったはずだ。

 けれど、おこなったことといえばそれだけだ。スクラップを作っても、見知らぬ人が生を終えた事実は、その新聞の一コマの中で完結しているように見えた。


「第一、ホームズだって依頼人からの依頼があったり、実際その場に行って調べないと事件性だって見つけらんなかっただろ」

「そうですねえ」

「かといって知らん人のあるかもわからん藪を突きに行くのもな……」

「そうですねえ」

「……織羽さん聞いてます?」

「そうですねえ」


 やれやれ、と前髪を掻き上げる左右田をよそに、織羽が「あら」と声を上げたのはそのときだった。


「なら、知っている方でしたらどうです?」

「は?」

「従兄の羽生さん、奥さまのご実家はどの辺りで?」


 織羽はそこで、スクラップブックの一ページを開き左右田の元に示した。白い指先が、ある一点を目指して動く最中、左右田は織羽の質問に対する答えを考えていた。確か、実家が驚くほど近かったような。隣の市ぐらいの。そう考えると同時、つま先に誘われた目線が見知った名前を探し出した。



 ――羽生公子さん(はぶ・きみこ)十二日死去、六十二歳。千葉県船橋市丸山にある自宅で、脳梗塞により死亡。葬儀は十四日十四時よりセレモ船橋北口ホールにて執り行われる。

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