〈四〉
左右田の祖父、真晴は、事務所の――ちょうどキッチンの入口にあたる場所で倒れているところを発見された。死後二日が経過していた。
頭や身体に打撲痕があり当初は事件性を疑われたが、死亡したと考えられる日の前日、アパートの階段から転がり落ちたことを二階に住む大学生が証言した。他にも目撃証言はあったという。真晴本人はたいしたことがないと笑って立ち上がっていたし、後で病院に行ってみるともいっていたため、階段からの転落事故を目撃した人たちも大丈夫かと思ったらしい。実際には脳溢血が起こり、幸か不幸か探偵事務所が最期の場所となってしまった。
特に隠すことではなかった。アパートの住人は全員知っていただろうし、地域新聞の片隅にも書かれたことだ。以前憐憫や同情と共に寄せられた言葉の数々から余計なものを殺ぎ落とし、淡々と伝えた。すぐにでも、話を過去から織羽へと移せるように。
それにもかかわらず、織羽はいった。
「左右田さんは、おじいさまの死に関して、なにか思うところがあるのですか」
「……なんでそんなこと」
「まだ消化しきれていないご様子です。けれど、それは不意の事故だから、というにはすこし……」
視線を下の方へ外す織羽の続きは、言葉にされなくとも明確だった。
再びマグカップを持ち上げたものの、水分を欲したわけではない。触れたところから温もりが広がるならばなんだってよかった。持ち手を親指の腹で撫でるように何度も動かしてから、左右田はため息をついた。
「自分にとって大切な人が死んだなら、少なくとも、後悔は誰にだって浮かぶだろ」
「ええ」
「こうしていれば、ああしていれば、と考えることも少なくない」
ぽつり、ぽつり。湯気を散らすように言葉を吐いて、左右田は黙り込んだ。
後悔。もっと一緒にいたかった。後悔。もっと顔を見せればよかった。後悔。仕事を辞めて後を継げという冗談のような誘いに、もっと早く乗っていればよかった。後悔。チェスの駒のように使い切りの道具みたいに扱われる職場なんて、仕事なんて、さっさと投げ出せばよかった。後悔。そうすれば、もっと近くにいられた。――後悔。
「……左右田さん?」
事務所には不釣り合いなソプラノに呼び戻されて、今にもマグカップの縁がつきそうなほど俯いていたことに気がついた。額を湯気が温めていた。慌てて顔を上げると、前髪が貼りつく感触があった。
仕事相手には不必要なことを話してしまった。後悔がまたひとつ増えた。やっぱり敬語のままでいればよかった。言葉が砕けると、心まで砕ける。
「まあ、俺の場合もそんなようなもんだ。まだふた月だし、身内なりに仲が良くはあったから消化は難しいが、それだけのことだよ。お気遣いいただくほどのことじゃあない」
「本当ですか?」
「それより、そっちの用件はなんだったんだ」
聞かれたことに答えないまま尋ねると、織羽は唇に指先を宛がった。迷っているようだ。
長い睫毛を上げたり下げたりしながら左右田を見るのは明らかに様子を窺っているようで、左右田は内心本題に戻したことを後悔した。万が一、「やっぱり本当に殺してほしいです」などといわれることになったら。部屋の本棚に取引先への断り方、という項目が載っている本でもあればいいが、残念ながら断り方のマナーに関する本は置いてなさそうだ。あるのは山のように並んだミステリー、殺人百科、家庭の医学、そして菓子の本が山ほど。真晴は甘いものが好きだった。織羽に供したチョコレートの山も、元はといえば彼が持ち込んだものだろう。
「左右田さんが、どんな風にわたしの依頼を叶えてくださるのか、興味があったんです」
「……それだけ?」
「わたしからすれば、とっても大事な依頼ですから。気になってはいけませんか?」
「それは悪かないけど、それにしたってこんな時間にこんな場所に来る必要はなかったんじゃないか。そもそも俺がいなかったらどうするつもりだったんだ」
織羽の答えは簡単だった。
「あ」という一音だけを零して、「考えていませんでした」
がっくりと肩を落として脱力する左右田を気にも留めず、織羽は左右田を通りすぎた背後へと視線を向ける。振り返るまでもない、本棚を眺めているのだ。先ほどまで左右田が立っていたであろう位置を見上げている。
「本、すごいですね」
「じいさんの趣味だよ」
「左右田さんはお好きではないのですか?」
「普通の人よか読むだろうとは思うけど、それは手に届くとこにあったからってだけで、マニアってほどじゃない。推理もそれ以外もたいして変わらないよ」
「わたしは大好きです。大学でも
可憐すぎる容姿からは想像もつかないが、思えば真晴とそれなりの親交があったのは、お互いの趣味が合致していたことにも関係があるかもしれない。
呆けていると、不意に織羽が立ち上がった。湯呑は机の上に置き去り、先ほどまで見上げていた本棚へと真っ直ぐに向かう。ちょうど左右田の背後にあたるので、左右田は上半身を捻って振り返る。
文庫本一冊――それは高木彬光の『刺青殺人事件』であった――の背を撫でながら、織羽は「じゃあ、左右田さんは」と口火を切った。
「参考資料を、探されていたんですね」
「……え?」
「〈こんな時間〉に事務所に来ていたのは、左右田さんにも何かご用件があったからでしょう。わたしが来たときに立っていたのはこの場所で、ちょうどこんな風に、一冊の本を取り出そうとしていました。ここの本棚に並んでいるのは本格、日常の謎、傾向は違えど推理小説ばかり。おじいさまと同じく
白い指先が、まるで犯人を名指しする名探偵のように左右田を指示した。
「このミステリーの山の中から、もっとも適切な……誰でも行えそうで、誰にも見破られることのない殺人を、探すおつもりだったのでしょう? つまりは――わたしの依頼の、参考資料を」
なぜだろう。言葉が続かない。
真っ白な指先が見えない魔法でも操っているかのようで、左右田はひたすらにそれと、織羽の横顔を追っていた。
不意に、織羽が向き直り、横顔は正面になる。
「でも、それじゃ駄目ですよ」
「駄目、って……なんでだ。実際に殺す必要はないって、いっただろう」
「もちろん。それとこれとは別の話です」
「じゃあなんで」
「ミステリーの中の謎、というものは、解かれるためにあるんです。だけど〈わたしの〉謎は――解かれては困りますから」
織羽の吐きだした息が窓から入り込む夜風と合わさって、二人の髪を遊ばせる。
何かがはためく音がして、一瞬織羽のスカートへと左右田の目線が向いた。しかしそう強い風じゃあない。裾をわずかに膨らませるぐらい大人しいものだ。ならば何が、と考えて、そういえば新聞をソファの上に放り投げたことを思い出し、目線はさらに落とされた。
拾おうと、ソファの肘掛けに手を置くと、頭上から声がした。
「そう……新聞が、いいかもしれません」
「新聞?」
見上げると、ぎょっとするほど近くに織羽の顔がある。同じように新聞を取ろうとしているのだろうが、腰を屈めているせいで、物理的な距離が近い。身を逸らしそうになって寸前、大人の男としての矜持で踏みとどまる。
織羽の長い髪が、ソファについた左右田の手の甲を撫でた。
「新聞に載っている、死亡欄を調べるのはいかがですか? 事故でも、自殺でも、それから未解決の殺人事件でも。フィクションより何より、それが一番参考になるはずです。だって現実に存在する普通の人が、誰にも悟られない方法で、誰かを殺しているのかもしれないんですから」
吸い込まれそうな瞳に、つい
「……理屈はわかる。が、ミステリーならある程度あらすじで省けるが、新聞だと手間がかかりすぎるんじゃないか。そうなると費用もかさむけど」
いいながら、そういえば金銭的な懸案は彼女にとってあってないようなものだ、ということを思い出した。
今度こそ声を上げて、織羽は笑った。
「ええ。ですから――わたしに、お手伝いさせてください」
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