〈三〉


 緩やかとはいえ坂道だ。アルコールを摂取したせいもあるし、日ごろの運動不足や年齢のこともある。申し訳程度の安いネクタイを緩めながら息切れを整えているころには、目的地に着いていた。


 アパートの敷地に入る前に立ち止まった。鍵を取り出そうと思ったのだ。


 ポケットの中になんでもかんでも突っ込む癖が悪いのか、なかなか指先の感覚だけではたどりつけず、仕方なく視線を向けた。てろてろのジャケットのポケットには、スマートフォンと飴玉と絆創膏と金庫の鍵が一緒くたになっていた。英国ドラマの第一話で、鍵とスマートフォンだか時計だかを一緒にしていただけでずぼらな性質を当てられた、というエピソードがあったことを、左右田は意味もなく思い出していた。

 ようやく鍵を取り出し、それが事務所の鍵であることを確認してから、顔を上げる。



 差し込んだ鍵を回す手前で、ゆっくりと深く息を吸い込む。


 一度。二度。すこし迷って、もう一度。



 祖父が亡くなったときから、どうしてもこの場所に立ち入ることに若干の勇気が要るようになった。今までは自宅よりどこよりも落ち着く場所だったというのに。もっとも、誰かが亡くなった場所にそう行きたがるものでもないが、左右田の場合はもっと明確な理由があった。


 月の光を存分に浴びたところで、事務所の鍵を回す。無人と化している受付を通りすぎ、もうひとつの扉を開け放した。左右田しかいないこの探偵事務所では受付など不要だ。潰してしまってもよかったが、受付のある部屋は通りから丸見えの硝子張りになっていて、そこも含めた改装はいかんせん金も時間もかかる。結局はカルテの紙と、呼び出し用の小さなベルを置いておき、依頼人へのセルフサービスを乞うことにした。寝食そっちのけの生活を送った結果体調を崩したということの反動か、怠けられるところは積極的に怠ける、というのが目下の信条だ。


 事務所の電気を点け、まず向かったのは入口の直線上にあるキッチンスペースだった。間にどこぞのバーのようなカウンターがある、二口コンロのついた台所。出しっぱなしの笛吹きケトルに水を入れると、そのままコンロにかける。つまみを捻って「はて」と思ったものの、すぐに閉めたままの元栓に思い至った。祖父の遺言によってこの場所は左右田のものになったけれど、実際のところ探偵事務所を再開したのはつい最近のことだ。未だ慣れないことは多い。


 火にかけたケトルを放り、左右田は応接室に立ち入った。硝子張りの応接室には事務所内部の明かりが入ってくるため、電灯は点けないままで壁の本棚へと向かう。

 なにかにつけて大雑把だった祖父のひととなりを表しているかのように、乱雑に並べられた本の中、ある一角だけは隊列のように乱れることなく整えられていた。


 作家の五十音順で、推理小説が並べられているのである。

 観音開きになっている硝子戸を開き、なんとはなしに文庫本の一冊を手に取った。泡坂あわさか妻夫つまおの『乱れからくり』である。一見すると怪奇小説かと見紛うようなおどろおどろしい表紙絵があり、すぐに左右田はページを開くことで見えないように隠してしまった。


 捲ってすぐのところにあるあらすじを見る。隕石が直撃するという個所を読んだところで、どうにも参考にはできなさそうだ、という気配を感じて閉じてしまった。表紙の怪物を封印するかのように、元あった隙間へと本を押し込む。


 織羽からの依頼を受けてしまったことを、後悔していないといえばそれは嘘だ。


 それでも、一度受けてしまったことを嘘にすることはできないと、左右田は知っていた。だからこの場所に来たのだ。参考資料を見つけるために。



 ――自分を殺してほしい。



 物騒な響きだ。言葉を換えれば「殺人事件の犯人になってほしい」ということだろう。いや、自分から願い出ているのだからどちらかといえば自殺幇助かもしれないが、そうなったところで人を殺すことにまつわる〈罪〉ということには変わりがない。名称が変わっても法律によって裁かれる罪の重さが変わるだけで、誰かを殺す、その事実が左右田の肩に背負わせる重みは同じだ。


 だが、それがフィクションの世界であるのなら、話はすこし、変わってくる。


 要は、推理小説ミステリーを書けばいいのだ。完全犯罪を、フィクションの世界で創り上げればいい。何も犯人は自分でなくともいいだろう。被害者は丹頂織羽。そして名探偵も、刑事も、犯罪学者も、鑑識も、執事も、小説家も解くことのできないトリックで殺せばいい。それで織羽は満足するといったのだから。そう特別じゃない一般的な場所を舞台にして、現実的に可能な手段で、丹頂織羽という女性を一人、殺す。文字を用いて紙面の上でそれを行うだけなら、殺人の準備より心構えより、うんと易しい。


 学生時代、こなしたレポートのようなものだと思えばいい。資料を集め、まとめて、なにがしかの結論をつける。卒論で散々やったことだ。まともなミステリーを書けといわれれば難しかろうが、とにかく織羽を納得させる殺人事件だけを書くのであれば、着地点は見えているわけだしそう無理ということでもなさそうだ。


「しっかし、参考資料っつってもだいぶ……」


 夜になると自己主張をはじめるあごひげを撫でながら、左右田は改めて棚に並ぶ本の背を見つめた。図書館や書店では推理小説だけを並べた棚というものはほとんどないのが普通だが、ここならメジャーどころは揃っている。だからこそあたりをつけやすかろうと思ったのが甘かった。揃っているからこそ、背に見える「○○殺人事件」の数に途方もなさを感じてしまう。


 とにかくこういうのは手当り次第に目を通すしかない。綾辻あやつじ行人ゆきとの館シリーズなんかは特殊な舞台設定ゆえにさすがに省けるだろうし、あらすじだけでも多少の判断は利くはずだ。左右田はため息と共に肩を落とした後に、覚悟を決めて視線を持ち上げた。目指すは一番上、左端にある愛川あいかわあきらの『道具屋殺人事件』である。



 だが、その手が擦り切れた文庫本を手に取ることはなかった。

 甲高い音が扉から入り込んできたからである。



 ひとつは、コンロに置きっぱなしのケトルが「もういい塩梅だ」と上げた声。

そしてもうひとつ――左右田が振り返ったのは、その音の直後に「ひゃっ」とこの場に似つかわしくないうら若き乙女の悲鳴が聞こえてきたからというのが理由だった。

 聞き覚えのある声に、まさか、と思うより先に、振り返りながら呼んでいた。


「――織羽さん?!」


 正解はすぐに視界に入った。開きっぱなしの扉の影に隠れるように身を寄せていたものの、扉も硝子張りなのである。


「あ、ごめんなさい、すみません、あの、前を通りかかったら電気が点いていたので、つい……」


 つい、で通りかかる場所でもなさそうなものだが、と、左右田も首を傾げてしまう。つい。


 口籠る織羽の横をすり抜けて、まずは真っ赤なケトルの泣き声を止めに行った。コンロのつまみを先ほどとは逆方向に捻ろうとしたものの、すこし考えて、再び水道から水を足す。温度の下がったケトルが音を出すまでには、もうしばらくの時間がかかるだろう。

 洗い場へ後ろ向きに腰を預けると、応接室の入口で佇んだままの織羽が目に入る。どうしたものか迷っているのだろう。依頼人であることは間違いないが、今を仕事の時間だと言い張るにはすこし遅すぎる。左右田と視線がかち合うと、長い髪が緩やかに流れる程度に首を傾けた。


 営業時間外だと追い返すこともできただろう。

 だが、左右田はそうしなかった。


 再び高温が響いたところでケトルを火から下ろし、頭上の棚から自分専用のマグカップを取り出した。織羽の分はまだ水切り籠に入れっぱなしの湯呑がある。お茶のパックに手を伸ばしかけたところで、なんとはなしに指先が隣のココアの袋に触れた。


 気づいたら、零れていた。


「甘いものはお好きですか」

「? ええ」


 ほどなくして、湯呑に似つかわしくないとび色のココアが、応接室内に再び座らされた織羽の目の前に置かれた。傍らにはそれを乗せていた木製の盆、そしてその上にはファミリーパックの菓子袋の中から掴み取ったチョコレートが無造作に乗せられている。それらを置く前に避けた今朝の新聞は、織羽とは逆のソファに放り投げてしまった。


 自分も腰を下ろそうとしたが、その前に左右田は窓辺へと向かった。完全な密室にならないように応接室も硝子張りにはなっている。が、こんな夜更けに異性と二人きりというのは、若い女性なら気にするところもあるだろう。一切の下心なしに部屋に誘ったが、こういうのはどこでどう拗れるかわからない。左右田は気持ちだけでもと応接室の扉を開けたままにしておき、窓も開けた。初夏の涼しい風がたちまち、部屋を満たす。


 ひと息入れて落ち着いたころに、左右田は切り出した。


「それで、本当のところ、なぜここにいらしたんですか」

「……本当のところ、といいますと」

「たまたま通りかかるような場所じゃないでしょう。用件があったのでは?」


 反論は聞こえなかった。織羽が湯呑に口をつけたからだ。唇を尖らせるようにして二、三度風を送る仕草がなんだか幼く、昼間の印象と異なって不思議な感じだ。


 ココアの甘さが舌に触れると、織羽の唇が柔らかく解ける。風が舞い込み、長い髪を弄ぶことを気にも留めず、また乱されてもなお美しさを損なわない容貌に、うっかり左右田は長い時間織羽の返事を待ってしまった。


 風の魔法が止むと、自然、織羽と視線が出会っていた。


「ケーゴ」

「え?」

「敬語。止めてください。ご存知ないかもしれませんけれど、わたし、左右田さんより年下です」

「いや、それは見ればわかります」

「でしたら、ぜひ。学生の身分ですから、どうぞお気になさらずに」


 学生だったのか。わずかに驚きに目を見開いたものの、確かに上品な立ち居振る舞いを除けば十二分に学生で通用する見た目だろう。おそらくは大学生か。それにしたって、左右田とは最低でも五つは違う。

 だが、仕事は仕事だ。若干気が抜けるのを感じながら首を振った。


「でも、依頼人はお客様ですから」

「あら。おじいさまはわたしに敬語なんて使いませんでしたよ」

「えっ」


 思わず飲み下そうとしたココアがむせた。何度か咳払いして、口許を手の甲で拭う。


「祖父と知り合いだったんですか?」

「ええ。わたし、大学が近くなのでこの先の図書館によく行っていたんです。そのとき図書館でおじいさまと知り合って。検索機の使い方がわからなくて困っていたところを助けていただいたんです」

「まさか……」


 そんな縁があったのか、ということと、恩返しとはそのことだとはいわないよな、ということの二つが、胸中でのみ続いた。やはり依頼は断るべきだろうか、という考えが頭を過ぎる。

 織羽は指先で弄っていたチョコレートの包みから目を上げると、すこし笑って「違います」と答えた。左右田の表情に浮かんだ狼狽から推理したかのようなタイミングに、左右田はすこし驚いた。それに、これまでの端正な人形が浮かべているような無機質な微笑みが、ここでわずかに、人間味を帯びたものへと変化したことにも、驚いた。


「おじいさまにお世話になったのは確かですけれど、違います。ただ……ここに来たのは、そうですね。おじいさまにできれば聞いていただきたかった、という気持ちがあるのかもしれません」


 湯呑を包み込む指先が、ほんのわずか震えた。それだけで、十分だった。


「……じいさんが亡くなったこと、知ってるんだな」

「はい。……お悔み、申し上げます」

「いや」


 どう答えるべきかも忘れてしまい、返答にわずかに間が空いた。織羽からもたらされた事実に驚き、戸惑ったことも理由だろうが、何よりも祖父の死を口に出したことに一番の動揺を感じていた。

 織羽もその動揺を感じ取っているのだろう。しばらくの間、夜風の音以外にこの場を揺るがす声はなかった。


 ややあって、織羽が再び口を開く。


「あの、質問しても、よろしいでしょうか」

「?」

「事務所を開いていらっしゃったんですし、お孫さんである左右田さんもまだ若いようにお見受けします。その、老衰……というほど、お歳を召しているわけではありませんでしたよね?」


 依頼とは関係のない、プライベートな話である。一度崩れた敬語を戻すこともせずに、左右田は頷いた。


「ああ。本人としてはまだまだ現役のつもりだったと思うけど」

「じゃあ、どうして……?」

「……色々重なった、事故だった、と、聞いている」

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