〈二〉


「変な女だな」

「変っつーか、むしろコワイよ、あそこまでいくと」

「はは、違いない」


 近所のチェーン居酒屋の個室で、左右田は従兄の羽生はぶ慶二けいじと向き合っていた。左右田より七つ年上で、兄のような、それでいて友人ともいえるような存在だ。歳を重ねるにつれてどんどん食が細くなってきた左右田と異なり、依然として若々しい胃袋を持っている羽生は、未だ横への成長期が続いている。ベルトの上にせり出した腹が乗るような体型は、祖父にそっくりだった。


 そういうと、羽生は飲みさしのビールを呷ってから不満げに返した。


「おいおい、じじいと俺を一緒にするなよ」

「じいさん、小食だったもんな」

「で、俺は」

「みずからの不摂生によりそうなった、と」

「お前がそういうならもっと飲んでやろうか?」

「あいにく持ち合わせがないんで、その場合折半になるけど」

「カードで払えカードで!」

「信用できないもんは持たない主義だ、って慶兄も知ってんじゃん」


 左右田の財布には、クレジットカードはもちろん、キャッシュカードの類が一枚も入っていない。ドラッグストアや駅の近くにある書店、行きつけのラーメン屋にカフェなどのポイントカードが一枚ずつ収まっているが、すべてスタンプを押す類の――個人情報の登録を必要としないものだけだ。唯一カードらしく見えるのはラミネート加工された図書館の利用券と保険証、それから卒業前に取得した運転免許証ぐらいなものだが、今はほとんど使う機会を失っている。


 キャッシュカードも作るには作ったが、銀行の貸金庫にアパートや土地の権利書を保管するとき、一緒に放り込んでしまった。勤め人だった昔はともかく、今は日中であれ「はずしてます」の張り紙でもしておけば自由に出歩けるご身分である。通帳と実印さえあれば預金は引き出せるし、逆に左右田にとっては、不便だといえることが見つけられなかった。クレジットカードに至っては、作ろうと思ったことが一度もない。


 なんなら財布も見せようか、と言い出す左右田に、羽生は鼻にこもる笑いのみを返答とした。見ずともわかる、と、いいたいのだろう。


「そういうとこはじじいにそっくりだよな、お前」

「ま、じいさんから教わったからね」


 そもそも、左右田の祖父――つまりは、羽生の祖父でもあるが――がはじめたことだ。「信用できないものは持たない」という主義は、ちょうど余生の楽しみと長年の夢が同居した形で探偵事務所を開いたころに確立した。当時インフルエンザよりも流行していたオレオレ詐欺に引っ掛かったのがきっかけで、「じいちゃん? オレオレ」と電話をかけてきた相手を孫だと思い込み、すぐにキャッシュカードで引き出せるだけ引き出してしまったという。もちろん左右田にも羽生にも覚えはなく、おまけにその際、どんな手違いからかクレジットカードをも盗まれ大層な額の請求がきたことも駄目押しだった。当時は犯人に怒ったり祖父に同情したりと忙しかったものだが、今思い返すと物語のようにコミカルで不思議と笑えてしまう。祖父は祖父で名探偵を気取り、犯人探しに精を出していたはずだ。もっとも、事務所を開いてはいたので『探偵』には違いないのだが。


 不意に思い出が甦り、言葉の続きを失った。まだ、祖父が亡くなってそうときが経ったわけでもない。二ヵ月は長くもあるが、思い出から感傷が離れるには短すぎる時間だ。


「それで?」と、羽生が聞いた。

「それで、とは」

「だから、それだよ。その変な女の依頼、受けたのか?」

「受けたら碌なことにならないだろ、そんな妙ちきりんなやつ」


 そりゃそうか、と羽生は笑った。左右田はだし巻きを口に放り込みながら、笑いごとじゃないぞ、と不満を漏らす。


「ま、殺せって乞われて殺しても罪になるんだし、捕まっちまうわな」

「捕まるっつーか……人を殺すってのがそもそも嫌だよ」

「そう?」

「うん。なんか、トラウマになりそうだろ。鏡とか絶対見れなくなる。顔上げたら後ろにいそうじゃん」

「ビビリだなぁ。いい歳した大人の男が」

「堅実といってくれよ」

「公務員に転職してからいえ」

「それは心底羨ましいとは思ってる」

「だろ」


 そこからはやれ結婚はまだかだの、嫁はいいぞ嫁はだの、子どもはいいぞ子どもはだの、恒例の絡み酒がはじまったので、夜十時を迎える前にお開きになった。そこまで酒飲みではない左右田と違い、金と時間さえあればいくらでも、一番好きな飲み物はウイスキーとビールだと豪語する羽生は、まだまだ飲み足りなさそうだ。いつもと同じ、「嫁さんと子どものとこに早く帰ってやれよ」というのを別れの言葉にしてやる。

 こういうと、羽生は不満そうで、それでいてすこし嬉しそうな色を、皺の寄った目尻や鼻から零れるどうしようもない幸福のため息に映し出す。左右田はそんなとき、彼を羨ましく思うのだった。彼を。そして家族を。



 家族のことを思ったとき、真っ先に浮かぶのは、今はなぜだか祖父だった。



 なぜだろう、とすこし考えて、歩く足が事務所に向かっているからだと気がついた。

 本来、左右田の家は別にある。前の仕事のときに住んでいた賃貸のアパートの一室だ。幸か不幸か事務所から数駅程度しか離れていないし、ここしばらくは葬儀や相続のことで慌ただしくしていたこともある。まだ引っ越しができていないのも当然だ。無職の期間も短かったために収入に困っているわけでもなし、手間もかかる。寝るためだけの部屋でいい思い出があるわけでもないが、ひとまずは契約更新の知らせがくるまでは、あの部屋を依然として我が家にしておくつもりでいた。


 だから、事務所に向かっているのは寝に帰るわけではない。仕事のためだ。


 べらべらと従兄に話はしたが、いくら乗り気でないとはいえ探偵としての守秘義務云々を忘れ去っていたわけではない。嘘をつくことは苦手だが、嘘をつかないで否定も肯定もしないことは得意だった。



 羽生に話していないことは幾つかある。

 その中の最たるものはと聞かれたら、この妙ちきりんな依頼を受けたことだろう。



「恩返し?」


 左右田は聞き返した。


 織羽はそっと伏せた睫毛だけで、肯定を返す。

 誰に対する恩返しなのだろう。死ぬ、ということを思うとまさか親に対するそれではなかろう。いや、ひょっとしたら保険金を渡すため、という可能性もありうる。確かあれは自殺では支払われないのでは?


 一瞬のうちにそこまで考えて、織羽は金に困っていないのだった、ということを思い出し頭の中の疑問文にはすぐに打ち消し線が引かれた。


「もちろん、変な話を持ちかけている自覚はあります」

「え。あるんですか」

「ありますよ。わたしだって、それぐらいの常識は持ち合わせています」


 そんな相談を探偵とはいえ初対面の他人に持ちかける時点で、常識とは何かと思わなくもないが、左右田はマグカップを口に運ぶことで蓋をした。


「ですから……本当じゃなくっても構いません」

「え?」

「もちろん想像だからといって手抜かりはいけません。決して証拠を残さないように。決して捕まらないように。なるべく自然死に見えるような方法で。左右田さんの想像で、殺してください。――わたしを」



 ぞくり。



 背筋を、冷えた中指が撫で上げるような、そんな感覚があった。

 気がつくと左右田の瞳は織羽のそれに支配されていた。動かすことも、逃げることも許されない。


 マグカップを持つ手にきちんと力が入っているか不安になるほど、意識も奪われはじめていた。黒だと思っていた瞳が存外茶色いことに気がつき、睫毛が揃って上を向いているのは何かの魔法にすら思えてくる。そのまま織羽が息を吸い込めば、左右田の魂がそのまま唇から抜け出してしまいそうな。そんな、何もかもが支配される感覚があった。



 数秒の、ひょっとしたら数分、数十分にも渡るような空白の後、織羽はいった。



「わたしを、殺していただけないでしょうか」



 そして気づいたとき、左右田の首は上下に動いていたのだ。

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