鶴の恩返し殺人事件

濱村史生

〈一〉


「わたしを、殺していただけないでしょうか」


 安っぽい湯呑にスーパーで買える安っぽい粗茶。腰を下ろすと不愉快な音がなる、フェイクの革張りソファ。すべてが安っぽさで満たされた空間に誘われた女だけが異質で、紛れもない部外者だった。


 その女が、そういったのだ。茶を飲み下してから、開口一番。「殺してくれ」と。


 向かいに座ったこの部屋――もとい、この事務所の主である左右田そうだ美博よしひろは、しばらくの間その言葉の意味を考えた。冷房を効かせている室内に身を置いているにもかかわらず、背後の窓から差し込む日光のせいで背中に汗をかいていた。いや、ひょっとすると、突然すぎる、そして物騒すぎる用件のせいも、あったのかもしれない。


「はあ」


 左右田は茶を啜ってから、失礼にならない程度にそう零した。語尾を上げると余計に無礼だろう。頷くように語尾を下げつつ、続きを促すため目線でもって疑問符を付け足す。

 女は、素直にそれに従った。


「殺していただきたいんです。わたしを」


 言い回しが前後ひっくり返ったところで、意味が百八十度変わるはずもない。左右田はなんとか別の意味を見出そうと頭を回転させるけれど、無駄な努力だと悟るにはいくらもかからなかった。

 ただし、意味はわかっても、理解が及ぶかは別の話だ。


「あの、ここがどういう場所か、おわかりでしょうか」

「ええ。ですから、依頼に来たんです」

「はあ……」


 ヤのつく自由業と間違えていらっしゃるのでは、と投げやりな文句が飛び出そうになるが、女の唇が、それを封じた。


「探偵さんなら、捕まるような証拠を残さずに、わたしを殺してくださるんじゃないかと思って」

「……なるほど」


 ここでようやく、女が来る場所を間違えていなかったこと、そして当初より口にしていた言葉の意味を、左右田はすこし、理解することができた。


 JR千葉駅から中央図書館に向かう道すがらには、緩やかな坂がある。主に民家が立ち並ぶ通りは通勤通学の時間を除くと閑散としている。日当たりのいい道がそうさせるのか、寂しいというよりも穏やかと称するのが似合う雰囲気だった。


 そんな一本道に出会う、三本目の横道――ちょうど個人経営のカフェを通りすぎたところである――を左へ逸れると、左右田の構える事務所があった。

 ひっそりと建つアパートの一階。窓にはパイプをくわえたホームズのシルエットが描かれ、その下にはこんな文字が記されている。



  左右田探偵事務所



 その名の通り、探偵業を営んでいる。

 何も、昔からシャーロック・ホームズや金田一耕助に憧れていた、というわけではない。


 読書はするしミステリーも読まないわけではないが、フィクションはあくまでフィクションだ。夢物語を夢見るような歳でもない。もっともそんなことをいうと、左右田探偵事務所の本来の持ち主である祖父――真晴まさはるに睨まれることは間違いないが。

 左右田の祖父こそが、物語の中の名探偵に憧れこの事務所を開業した張本人なのだから。


 現に、壁一面に据えてある本棚には『シャーロック・ホームズ』シリーズの聖典に加え、パスティーシュや解説本などが並び、国内外を問わないミステリーが一冊分の隙も許さずにきっちりと収まっている。他にも探偵学のすすめ、だのはじめての手品、だの。図鑑、医学事典、吉田菊次郎の『万国お菓子物語』などがあり、ミステリー以外の本の系統を定めるのは難しい。探偵には際限のない知識が必要だ、ということは理解できなくもないが、『塩分ひかえめかんたん絶品おかず』などという本が役に立つとは、左右田にはどうも思えなかった。


 左右田が祖父からこの事務所を引き継いだのは、約二ヵ月前、祖父がその波乱万丈な人生を終えたからだ。たとえ今際の願いであっても通常であれば断っていたであろうその遺言は、いわゆるブラック企業に勤めていた左右田にとってはもはや選ばざるをえないものであり、藁だった。左右田は祖父の死とともに職を辞し、結果祖父の意に沿う結果となった。


 特に探偵業を行わなくても、アパート収入で十分暮らしていけるということも、左右田が大人しく従った理由である。父が祖父より先に亡くなっていたこともあり、一階を事務所にしているこの三階建てのアパートメントは、祖父からそのまま左右田に相続され主な収入源となっていた。


 本来なら、探偵業など行うつもりもなかったし、祖父の四十九日が過ぎるまでは事務所を開くこともしなかった。ブラック企業で朝から晩まで働いていた過去の分まで、左右田はゆったりとした自由気ままな余生を送るつもりでいたのだ。


 その未来予想図は、お情け程度に事務所を開いて約一週間で、あっさりと崩された。この女の来訪によって。


 書いてもらったカルテに視線を落としながら、左右田はため息をついた。名前や住所などの個人情報と、相談したい悩みの概要が端正な字で書かれているカルテには、やはり先ほど聞いた通りの依頼が書いてある。


 女の名前――丹頂にちょう織羽おりはというらしい――を改めて確認すると、左右田は言葉を発する前に、もう一度だけ、ため息をついた。


「ええっと……丹頂さん」

「織羽、と呼んでください」

「どうしてですか」

「わたし、自分の名前が好きなので」

「はあ」


 この場において呼び名がそこまで重要には思えなかったが、本来の依頼より簡単なことならなんでもいい、というのが左右田の心境だった。大人しく頷いて、「では、織羽さん」と、続ける。


「なぜ、その……そういった依頼を、ご所望なのでしょうか」

「? ですから、証拠を残さず、殺していただきたいからです」


 そこで左右田は、再び視線を落とした。カルテを見るためではない。会話の内容と不釣り合いなほど可憐に、くるんと上に伸びた睫毛をぱちぱち合わせる織羽の表情から逃れるためだ。


 もとより、この安っぽい部屋にそぐわない、どことなくお嬢様然とした女である。


 緩やかに波打つ髪をリボンのバレッタでまとめ、残した髪は胸元を覆うように下ろされている。腰のあたりで切り替えのある真っ白のワンピースに、薄手の淡いグリーンのカーディガンを肩から巻いている装いは、流行のスタイルだと女性のファッションに疎い左右田でも知っていた。どことなく洗練された雰囲気を感じるのは、つま先を通したサンダルはもちろんのこと、覗く白い二の腕や柔らかな珊瑚色で象った唇など、女のすべてが一切の隙のない上品さで纏われていたからだろう。目が合った際の微笑み。斜めに流す足。太腿の上に置いた掌。伸びた背筋。一朝一夕では繕えない完璧な淑女の姿が、そこにあった。


 だからこそ、不可思議だった。この女から、織羽から、そんな言葉が放たれることが。


「私が気になるのは、なぜ、第三者の手によって殺されたいのか、ということです」

「なぜ、というと」

「あなたに死んでほしいわけじゃありませんが、たとえば、単に死ぬだけなら、別に誰かに殺されなくともいいわけでしょう。自殺の手段なら山ほどあります。飛び降り、首吊り、リストカット……誰かに迷惑をかけたくないというのなら、手ぶらで樹海を旅したり海に飛び込んでみたり、方法はいくらでもあるのではありませんか」

「そう……そうですね。いわれてみれば」

「じゃあ」


 けれど織羽は、首を横に振った。


「でも、自殺では、駄目なんです」

「はあ……」


 ならばいっそのこと、闇金で多額の借金でも作ってみればどうか。

 声に出さなかったはずの言葉が聞こえていたようなタイミングで、織羽は再び口を開く。


「それに、たいていの借金はすぐに返済できてしまいますから」

「ははあ」


 お嬢様然としているというよりは、生粋のお嬢様らしい。左右田は頷く。


「それにしたってなんで死にたいと……」

「殺されたい、です」

「ですがそれは、死にたい、ということでしょう?」

「いいえ。死にたいわけではありません。殺されたいだけです」

「理由は」


 さすがに、問わずにはいられなかった。殺されたいというのなら、結果に残るのは確実な死なのだから、死にたいと同義ではないのか。それが違うというのなら、その理由は一体なんなのか。


 織羽はすこし考え込む素振りを見せた。壁に掛けてある祖父の写真を見上げるかのように視線を持ち上げて、それから、落とした黒目は真っ直ぐに左右田を見据える。



 どきり、とした。



 見目麗しい女に見つめられたこと。もちろんそれもあるだろう。

 しかし何より心臓が跳ねたのは、その女の、織羽の、浮かべた表情によってだ。

 悲しげな、哀しげな、かなしげな、そんな複雑な感情が入り交ざった微笑みを携えて、織羽はいった。



「恩返しが、したいんです」

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