ー10ー

 カレーの匂いで目が覚めた。

 随分と長い間寝ていたようだった。倫太郎は体にかけられている野球チームのロゴの入ったバスタオルを、初めて見るもののようにしばらく眺めた。キッチンからかちゃかちゃと音がする。そうだ。昼寝をすると奈穂子がいつもかけてくれるバスタオルだ。

「起きた?」

 キッチンとリビングを隔てているビーズのれんの間から奈穂子が顔を出した。倫太郎は、寝そべったまま奈穂子の顔をじっと見つめた。

「どうしたの? 寝ぼけてるの?」

 奈穂子は笑ってまたキッチンへと戻る。

「ちょうどカレーできたよ。お酒どうする? もう飲む?」

 倫太郎は、普段あまり酒を飲まない。奈穂子が飲むときに付き合って飲むことはあったが、それも頻度は高くなかった。

 倫太郎は体を起こした。普段気にもとめない壁が、何故だかいつもより白く見えた。不思議な気分だった。アイボリーのカーペットも、オリーブ色の座布団も、ブルーグレーのカーテンも。いや、奈穂子の顔も、自分の手のひらでさえ。洗濯されたように、全く新しく見えた。

 そもそも、小さな図書館にいたはずだ。そこで雨が降って来て、寝てしまったことを思い出す。

 何故行ったか。ガリヴァー旅行記を返すためだ。何故そんなものを借りたか。駅前の図書館に行ったからだ。

 何故行ったか。

 倫太郎は立ち上がり、ふらつきながらビーズのれんをくぐった。

「奈穂子」

「今日はね、カクテル作ってみようと思って。会社の人に教えてもらったの」

「ごめん」

 奈穂子はカレー鍋をおたまでかき混ぜるのを止めて倫太郎を見た。

「何、いきなり。何に対しての謝罪よ、それは」

「それは、挙げ出したらきりがないかもしれないけど、ひとまずは、今日のこと」

「何だっけ? あ、お皿取って。カレー皿ね。二つね」

 倫太郎は奈穂子を観察した。わざとらしい、作為的なところは見えない。

 食器棚からカレー皿を二つ取り、調理台に置く。

「なんか変ね、ぼーっとしちゃって。しかもいきなり謝罪って。地獄に落ちる夢でも見た?」

「いや、夢は見てないと思う、けど」

「今日のことって、トイレットペーパーを周回遅れにしてそのまま放置したこと? 別にいいよ、あれ直すの嫌いじゃないし」

「え、そうだった? ごめん」

「記憶にすらないのね……いいよ、別に」

 奈穂子は鍋の火を止め、背後に置かれた炊飯器の蓋を開けた。狭いキッチンに湯気が立ち上り、倫太郎は今更ながらにキッチン内が異様に暑いことに気づいた。

「何この蒸し風呂」

「火使ってるんだからしょうがないでしょ。さっきからそれだけじろじろ見てて、この汗に気づかない?」

 奈穂子はしゃもじを持ちながら首をよく見せるように顔を傾けた。玉の汗と流れた汗が混在して、とても不快そうだった。

 倫太郎は調理台の上に吊るしてあったキッチンペーパーを適当に千切り、奈穂子の首に当てた。

「え! なんでキッチンペーパーなの!」

「そばにあったから」

「まあ、脂、吸いそうだけど。ありがたいけど、リンが来てさらに温度上がった感じ。涼しいむこうで待っててよ。カレー持ってくから」

 倫太郎は奈穂子の汗を含んだキッチンペーパーを丸めてごみ箱に捨て、ビーズのれんをくぐった。リビングの座椅子に座ろうとして、部屋の隅に積まれた本の一番上に、見覚えのある文庫本が載っていることに気づいた。

 図書館のラベルが貼られた、ガリヴァー旅行記だった。倫太郎はそれを手に取り、懐かしい重さを味わった。何故ここにある。返したはずだ。

 あつーと言いながら奈穂子がカレーを二人分運んできた。

「奈穂子、これ」

「ん? ああ。今日借りたのよ」

「どこで」

「駅前の図書館」

 倫太郎はもう一度本をよく見てみた。確かに、今日借りて返したものと同じ装丁だ。ラベルも駅前の図書館の名前になっている。二冊あるのだろうか。

 倫太郎は文庫本をそっと元の位置に戻した。下に積まれている中に、ドストエフスキーの短編集が見えた。

「奈穂子、図書館とか、行くんだっけ」

「行くよ。長らく行ってなかったから、借りるのは久しぶりだけど。あ、お酒は後でいいよね。お腹空いちゃったからとりあえず食べよ」

 いただきます、と奈穂子は食べ始めた。

「んー、おいしいけど、いまいちかな。こないだ作ったほうが、おいしかった」

 倫太郎はその言葉を受けて一口食べた。いつもと変わらない。

「いつもと一緒だよ」

「リンにとってはね。料理って、ちょっとのことですごく変わるんだよ。やっぱりあたし、料理には向かないかも」

「奈穂子が向いてなかったら俺はどうなるの?」

「そうだね。向いてないは言い過ぎたかもね」

 奈穂子はテレビをつけた。チャンネルをいくつか変え、ニュースにする。左上に表示された時間を見て、倫太郎は今が夜の七時過ぎだと知った。

「来年はさ、ます席買って会場に行く? 寝転んで見れて、いいらしいよ」

 花火の話か、と倫太郎は食べながら頷く。

「いくらなの?」

「五千円だったかな。ちょっと高いけど、それだけの価値はあるんじゃない?」

 倫太郎はカレーを味わいながら、今という時間も楽しんでいた。これが、すべてじゃないだろうか。これ以上の何を望むと言うのだろう。

「ねえ、俺、いつから寝てた?」

「あたしが帰ってきたときは、もう寝てたよ。四時くらいかな」

 四時。図書館にいたのが三時前だ。あれからすぐに帰ったのだろうか。図書館でまどろんでしまったようだが、その後のことがよく思い出せない。

「そういえば今日、雨降ったよね。濡れなかった?」

「え? そうなの? 買い物してたから、気づかなかったけど」

「すぐ止んだからね」

「ふうん。夜降らないでよかった。そういえばさっき天気予報で、明日は午後から大雨って、言ってたけど」

 倫太郎は、改めて部屋の中を見回した。とても濃い内容の夢から起きたときに感じる違和感。感じないようにしていたが、それがまだ消えずにいる。

 その違和感は、奈穂子の声で打ち砕かれた。

「そういえば、ヨルカって何?」

 聞き慣れない単語に、倫太郎は持ち上げたスプーンを止めて奈穂子の顔を見ることしかできなかった。奈穂子は薄く開いたままの口の中で舌を左右に動かして倫太郎の返答を待っているようだった。

「何、それ」

「あれ。違ったかな。そう聞こえたんだけど。寝言」

「寝言?」

 奈穂子は頷く。

「起きる直前くらいかな。最初は目が覚めて、もう夜かって言ったのかと思ってさ。見たら、まだ寝てたの。けっこうはっきり言ってたよ」

「ヨルカ」

 倫太郎がそう言った途端、とても甘い、懐かしい香りを感じた気がした。どこか知らない場所と知らない人の実在の記憶。その一端が香りとともに閃光のような映像を脳裏によこした。

 黄色っぽい、白っぽい色と、柔らかな甘さ。

「何だっけ、それ」

「やっぱり、なんか夢見てたんじゃない? なんだか、苦しそうな、切ない声だったよ」

 倫太郎はスプーンを止めたまま空を見つめた。思い出したい。何か、とても根源的な、そうしてとても実在的な夢だったような気がした。

「何だっけな。なんか、知ってる言葉な気がするの。どこかで見たような。だから余計気になる」

「なんか、バニラアイスを食べたような気がする」

「何それ。全然結びつかないじゃない」

「白くて、甘くて、懐かしくて、泣きそうになるような……うまく言えないけど」

「あ。それ、赤ちゃんのときの記憶じゃない。お母さんのおっぱい飲んでるときの」

 そうかなと思ったが、それも違う気がした。追えば追うほど、バニラアイスの色と香りだけが呼び起されて、求めているものからどんどん離れていくようだった。

「よくさあ、ものごころつく前、なんて言うけど、あの言い方嫌い。ものごころがつかないと、人間ですらないって言ってるみたいじゃない? 記憶のない時期って、つまりさしたる意識がない時期なのかもしれないけど、意識がなくったってきっと感じたり考えたりして動いてたわけでしょ。生きてたわけでしょ。分別がついて、周りにふさわしい判断ができて……っていうのは、ただ周りにとって都合のいい存在になろうとした結果に見えない? それって、ほんとの自分なのかな」

 ほんとの自分、と言われて、倫太郎はどきりとした。奈穂子は倫太郎の返事を特に期待していないように、テレビの画面を見ながらカレーを食べ続けた。しばらく無言が続いた。

「ごちそうさま。じゃ、お酒作ってくる」

 奈穂子はそう言ってキッチンに食べ終えた皿を片づけにいった。

 やや遅れて倫太郎が皿をキッチンに持って行くと、

「どうしたの、今日は。やたら優しいじゃない」

 と奈穂子が笑った。調理台の上にはワインの瓶がある。

「このカクテル、名前があるんだけど、何だっけな。忘れちゃったな、長くて」

 倫太郎は奈穂子の言葉に、言葉の中のひとつの単語に激しく反応する心臓に驚き、そうして思い出した。

 名前。

 ヨルカは、名前だ。だがヨルカではない。もっとなじみ深い、わかりやすい、親しみのある言葉だった。

 だが、何の名前なのだろう。

 考えてもわからなかった。思い出そうとするたびに、バニラアイスが邪魔をする。

「できたよ」

 奈穂子の声に、倫太郎はグラスを見た。その中に入っている液体の色を見て、言った。

「あれ。それ、昨日も作ってなかった?」

「え?」

 桜色をした液体。花火を見ながら昨晩飲んだ酒だ。

「作ったの、初めてだけど。何と勘違いしてる? まだ寝ぼけてる?」

 言われて倫太郎は、携帯を探した。ポケットに入れていたはずだが、そこには何もなかった。

「携帯、どこだっけ」

「リビングに転がってたよ」

 言われてリビングに戻る。奈穂子の言う通りカーペットの上に転がっている携帯を取り、画面を見た。昨日の日付が表示されていた。土曜日。花火大会の日付。

「あ、始まった」

 グラスを二つ運んでリビングにやって来た奈穂子が、倫太郎の後ろにある窓を見ていた。倫太郎も振り返る。

 夜空に、大輪の花火が描かれていた。一歩遅れて低い破裂音が響く。次々に飛び散る絵の具のように、色とりどりの花火が夜空を飾っては消えていく。

「毎年見てるけど、やっぱりきれいだね」

 一度聞いたセリフだった。だが違う。倫太郎は花火より、テレビを見て、携帯を見て、そうして奈穂子の作ったなんとか言う酒を飲んで、会話はほとんど、しなかった。

 何故、時間が一日戻ったのだろう。夢を見ていたような気がするが、どこからが夢なのか、さっぱりわからない。

 倫太郎は、奈穂子の作った酒を一口飲んだ。覚えている。確かにこの味だ。おいしくて飲み過ぎてしまった、このほのかな甘み。

 奈穂子は酒を飲むのも忘れて花火に見とれている。倫太郎は、確かめるために言った。

「奈穂子。流産したとき、俺がなんて言ったか、覚えてる」

 奈穂子は花火から倫太郎に視線を移した。その素早さが、奈穂子の驚きを示していた。

「なんで、そんなこと」

「思い出したくない?」

 奈穂子は目を伏せた。そうして、首を振った。

「覚えてるよ。リンは、どうなの」

「思い出した」

「言わなくていい」

 強い声だった。

「ごめん。弁明しようと思ったけど、できない。そのときは、本当にそう思ったから」

「どうして? どうして『よかった』と思ったの?」

 奈穂子は倫太郎と目を合わせようとしない。

「怖かった。父親になることが、怖かった。そのまま産まれていても、多分、奈穂子をもっとがっかりさせることになったと思う」

「何、それ。そんなの、わかんないじゃない。そんなことのために、赤ちゃんが死んだ方がよかったって言うの」

「そうは言わない。本当に馬鹿だと思うけど、今は、怖くない。もう一度、子供が欲しい」

「そんなの、都合よすぎ。ふざけないで」

「ごめん」

 倫太郎は、奈穂子の前で両手をつき、静かに頭を下げた。

「もう、嘘はつかないって約束する。奈穂子との子供が欲しい」

「そんなの……あたしだって欲しい。ものすごく、欲しい。でも、今度はあたしが怖いの」

 奈穂子の声に涙が混じり、倫太郎は顔を上げた。奈穂子は悔しそうに口を歪めながら涙を絞り出している。

「あたしが、怖いの。もしまた、って、思うと、怖くて、もう、」

 倫太郎は奈穂子を抱きしめた。嗅ぎ慣れたはずの、懐かしい匂いがした。思い出が、よみがえった。この物語は、人を酔わせ、感傷に浸らせ、自己嫌悪に陥らせ、微笑ませる。物語を誰かと共有しているということ。こうだったねと語り合えるということ。こうなるといいねと同じページをめくれる確信があること。倫太郎はそれを奈穂子から与えられたし、与えもした。

「大丈夫」

 倫太郎は奈穂子の背中を撫でながら言った。

「大丈夫」

「なにが、大丈夫なの」

 奈穂子は力なく言った。

「大丈夫」

 同じ言葉を繰り返す倫太郎に、奈穂子は呆れたように小さく笑った。そうしてその頭を夫の肩に預けた。遠い花火の音が、奈穂子の目に溜まった涙を落とした。五つ六つ、破裂音が静かに部屋に響いた。四角い空気が穏やかな空調で優しく冷やされていく。

 奈穂子は子供のように倫太郎の背中に手を回してしがみついた。

「大丈夫だよね」

「大丈夫」

 倫太郎は、繰り返した。奈穂子の心臓の鼓動が倫太郎の胸に心地よく響いた。

「大丈夫だよね。大丈夫、だよね」

「大丈夫」

 奈穂子の両手は倫太郎の背中にぴったりとくっつけられ、その指の腹から体温を滲ませていた。倫太郎はその熱の心地よさを感じながら、窓の外に描かれる花火を見た。次々に生まれては消えるその光は、飽きることがなかった。生まれて初めて見るような気持ちで、倫太郎は花火の色を眼球に深く落とし込んだ。世界を満たすすべての色を、美しいと感じた。生まれてから今まで求めたもののすべては、既に手に入っていたのだと思った。

 そうして倫太郎は、限りなく甘やかな気持ちで、幼く優しく柔らかな、愛らしいひとつの声を思い出していた。


 ―― わたしの名前は、よろこびです。

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ヨルカと白い嘘 七海 まち @nanami_machi

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