ー9ー

「一度、白紙に戻してはどうですか。その、嘘を」

 光の残映がまだ鼻先で足掻く中、少女が静かに言った。出口を求めるかのようにたぎる頭の熱が途端に倫太郎を内側から圧した。苦悶の声を漏らそうとする間にも、少女は心地よい冷たさの声で続けた。

「あなたは求めるものが手に入らないことばかりに執着してきた。そうして自分が本当に求めているものが何なのかさえ見えなくなった。あなたが恐怖で封じ込めたものは何ですか。白紙にして、それを見つけてください。そこに思う存分好きな色を、塗るのです」

「無理だ」

 倫太郎は、頭の熱を押さえつけるように言った。

「過去は消えない。どうしたって、俺の過去はどこまでも俺を追ってくる。だから俺は、変われない」

「過去なんてものはありません。全部幻想です。本の中に書かれている文字の羅列と同じ、嘘です」

「君はさっきから嘘嘘と言うけど」

 顔を上げて少女を見た倫太郎ははっとした。その顔が、はっきりこちらを見て微笑んでいる。どこかで見たような顔だ。もっと見ようとしたが、やはり無駄だった。その顔はぼんやりとした絵の具の集合体に戻ってしまう。ただ、表情だけは、倫太郎に寄り添っていることがわかった。

「……そんなに、嘘が憎いのか」

「いいえ」

「嘘を、悪だと言うんだろう」

「善も悪もありません」

 少女との対話の間に、熱はすっかり冷めてきていた。少女の大人の声は、聞くごとに倫太郎を癒す効果があるらしかった。それは反抗したくなる種類の心地よさだった。

「じゃあさっきの悪魔は何だ」

「あれはあなたの作り出した幻想です。人はすべてを細分化して、ひとつひとつ名前をつけ、他と分けたがる。そうすることで真実がどんどん見えなくなる。あなたは幻想に取りつかれています。確かなものは、今という瞬間のみです」

「それこそ嘘だ。過去が存在しなきゃ、今の俺も存在しない」

「あなたの言う過去は、今の集合体として像を結んだ嘘であり、幻想です。それは今ここにありません。思考の中のみに存在するものです。繰り返しますが、思考は幻想です」

「君の言うようにすべてが幻想なら、俺たちは一体何にすがればいいんだ!」

 少女は口を閉じた、ように思えた。

「まだ、もう少し、耳を傾けてみてください」

 少女は消えた。川は変わらず光に満ち、動き続けている。倫太郎はもう一度右手の太陽を見た。太陽はその体全体で光を放ち続けているのに、全く眩しさを感じなかった。その中に飛び込んでしまいたいような気持ちだった。

 倫太郎は衝動的に川に顔をつけた。すると光のひとつひとつが川の中で何らかの像を為し、そこらじゅうを飛び回った。よく見ると、それは人間のような形をしていた。そうして声が聞こえた。子供の声。大人の声。男の声。女の声。小学校のときの、先生の声。親戚のおばさんの声。中学校の同級生の声。バイト先の店長の声。奈穂子の声。ニュースキャスターの声。父親の声。さくらの鳴き声。倫太郎は目を閉じた。やがてそれらの声は互いに混じり合った。境界をなくし、ひとつのものとして倫太郎を包んだ。恍惚とした気持ちで目を開けた。細かく分かれているように見えた光は、すべてひとつの光の一部に過ぎなかった。

 倫太郎の中に、意識の奔流が流れ込んだ。倫太郎がかつて経験したものも、していないものも、すべてがひとつとなって倫太郎の意識に溶け込んだ。そこに境界はなかった。からだ、キャンバス、本棚、壁、窓、屋根、空気とそうでないもの。そうしたいっさいの境界が消え、すべてはエネルギーの流れとしてひとつに収まった。それはあの巨大な太陽の姿と同じだった。

 名前をつけることは、分けること。では、合わせるためには、名前をなくせばいいのだろうか。忘れれば、いいのだろうか。

 倫太郎は顔を引き上げた。大きな声で、誰かを呼びたい気分だった。自分がこの光の一部であることを、誰かに、世界に叫びたくてたまらなかった。そうして呻くように泣いた。涙は川の水に呼応してきらきらと光り、黄色の草に染みた。

 ―― 求めれば、与えられます。

 少女の声が体の中で響いた。倫太郎は力強く答えた。

「求める。境界のない世界を。嘘ではない自分を」

 太陽が光を増した。川も、木も、底の見えない空も、明るく明るく、霞んでいく。

「では、行きましょう」

 いつの間にか少女が倫太郎の右手を握っていた。小さく、柔らかく、あたたかな手だった。いつまでも握っていたいと思って力を入れようとしたが、うまくできなかった。

「君、本当に、名無しなの」

 そう言うと、少女は笑った。そうして倫太郎の耳元にさくらんぼのような唇を寄せ、囁いた。ふわりと、密のような、乳のような、甘い香りがした。

「……忘れないで」

 それは今まで聞いたどの声とも違う、小さく切なく愛らしい、この上なく甘やかな声だった。

 少女は倫太郎の手を取ったまま空中に舞い上がると、黄金色の川に飛び込んだ。その瞬間、一番近くにある木から、小さな白い鳥が飛び立ち、たちまち見えなくなった。

 すべてが光に包まれた。

 左手に、小さな感触が生まれた。

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