ー8ー
『倫太郎は、放っておいても大丈夫』
母親の声だった。倫太郎は振り向いた。少女の姿はもはやなかった。倫太郎と川のみが息をしていた。
『しっかりしてるし、なんでもできる』
声だと思ったそれは、音ではなかった。体の中に直接流れ込んでくる意識だった。
目の前の空間に集まった光は次第に成長し、やがて目の前がきらめく光でいっぱいになった。そうして倫太郎は肉体とそれ以外という境界の感覚をなくした。
『大丈夫。私は正しい。倫太郎でそれを証明してみせる』
「母さん」
その言葉を発したのは、何年ぶりだろう。倫太郎は思わず、幼い頃母親に読むように言われた「杜子春」を思い出した。
『育児書も、テレビも、みんな母親に求めすぎる。自分を犠牲にしてすべてを子供のために差し出す母親。そんなことできるわけがない。不自然だ。自分も子供も、同じように大切にしなければいけない。親と子という上下関係でなく、一人の人間として、対等に接したい。支配したくない。隣を歩きたい。世間の求めるあるべき母親になんかならなくても、子供はきちんと育つ。現に倫太郎はしっかりしている』
―― なんで言ってくれなかったんだ。しっかり育っているから無視すると。
『倫太郎は、相手をしなくても私を慕ってくれる。愛してくれる。大丈夫。世間に、勝った』
―― 勝手だ。俺は道具じゃない。
『おかしい。倫太郎はなんでも卒なくこなすし、外でも立派にやれてる優秀な子のはず。言わなくても勉強するし、本もたくさん読む。それなのに、倫太郎は私を憎んでいる。優秀に育ったのは、私のおかげでもあるのに。あるべき姿の倫太郎が、どこにも見えない。おかしい』
―― 俺は、自分ひとりで育ったと、そう思っていたよ。
『やっぱり間違ってた。気づいてた。変えられなかった。幸太郎でやり直したつもりになっていた。愛情を惜しみなく与えたいと思った頃には、倫太郎の中の器は閉じていた』
―― 歪んでるよ。間違ってるよ。弟……幸太郎が、憎かった。俺は、もっと、普通に――
次の瞬間、倫太郎の手のひらに柔らかな草の感覚がよみがえった。光の集合体は消えていた。
「あなたは、彼女が反発した世間と同じ目で以て彼女を見ていたし、今も見ている。だからこそ彼女を責められる。何が正しくて、何が間違っているか。その基準は、からだの外にはありません。感じるしかないのです」
少女は先ほどと同じ場所に立っていた。黒いワンピースに、糸杉と同じような筆の跡が見えた。
「あなたと彼女の齟齬は、行き過ぎた思考の弊害です。思考のベールを一枚ずつ剥がしていってください。欲望や虚飾、判断や予測、そして執着。それらをすべて、手放してください」
「思考が、罪だとでも言うのか」
「すべてのものごとには、たくさんの面があります。思考は、枷にも翼にもなります。ただ、多くの人はあまりに多くの思考を纏い過ぎて何も見えなくなっています。あなたがたの思考はすべて幻想であるということを忘れないでください」
思考が幻想だとは、随分な言い草だ、と倫太郎は思った。すべての高尚な学問も思想も、思考することから始まるんじゃないか。考えることをやめたら、人間は動物以下なんじゃないのか。
倫太郎の不満を掬い上げるかのように、少女は小さく頷いた。
「あなたと彼女との関係で言えば、こうです。彼女は幻想の世間から自分を守るために新たな幻想を生み出しました。そして、あなたも。幻想の母親を求め、それにそぐわない母親を幻想で塗りつぶし、普通という幻想に焦がれた」
倫太郎は目眩がした。すべてを幻想の一言で片づけられてしまったら、自分のこれまでの人生は一体何なんだ。
「あなたがたは目に見えないものを存在しないように考えるのに、今ここに存在しない幻想ばかりにすがりつく。起きたことを悔やみ、起きていないことを心配し、今ここに実在するものをすべて無視する」
周辺をなぞるような少女の言い回しに、倫太郎の内に沸いた渇望はいよいよ激しくなるばかりだった。
「結局のところ、どうすれば正しいって言うんだ。俺たちはそれを知らない。やり方がわからない。誰も、教えてくれない」
「知らないということはありません。忘れているだけです。赤ん坊は、真理そのものです。完全な存在です。この世界に産まれて時を重ねるごとに、人の作った言葉やルールを会得するごとに、それを忘れていくんです」
「じゃあ、思い出させてくれよ」
「できません。わたしはあなたの作り出した幻想のひとつです」
「それにしては、俺の考えてもいないことばかり喋る」
「そうですね。あなたの思考にわたしの言葉は存在しないかもしれません。ただ、あなたの中に存在します。いっさいはあなたの中に存在します。あとはあなたの、思考の扱い方次第」
少女はそうしてビスケット色の腕を伸ばし、細い指で川面を指した。そちらに顔を向けると、意識の奔流は母親のときとは比べものにならない速さで倫太郎に襲いかかった。
その意識は、母親とはまた別の、懐かしい匂いがした。
『……痛かった? 苦しかった? あたしに、会いたかった? あたしは、会いたかった。この手に抱きしめて、その体温を感じて、乳を与えて、名前を呼びたかった。倫太郎は、どうなの? 興味が、ないの? 何を怖がっているの?』
間違えようのない、奈穂子の声だった。倫太郎は脳が溶けるほどの熱を頭蓋骨に感じた。骨をこじ開けられるような痛みが生じた。倫太郎は苦痛に呻いた。だが、何かに抱きあげられたかのように、ふわりとその痛みがなくなった。またも肉体の感覚が消えていた。倫太郎は熱の余韻を引きずりながら、冷静にその意識を抱き、対峙を試みた。
―― 未知が怖い。俺の中には、なぞるべき先達の存在がない。俺の父親はジンクホワイト。透明性が高く、変色しやすい白。掴める実在が、ない。家にいないことが多い、たまに帰れば無関心、関わるのはその空っぽの威厳を保つための愚行によってのみ。彼も、きっと同じように父親を知らなかった。だからこそ、俺たち子供を恐れた。俺が怖いのは、自分の中にいる、この貧相な父親像なのかもしれない。それを今更もう、取り出して眺めたくはない。
倫太郎は頭の中で思考しながら、この言葉の並びが既にいつか用意したものだったことを思い知らされていた。それを否定するように続けた。
―― 結婚して以降、育ちというものがどれほど人の生活環境や態度に影響を及ぼすものなのかということを、痛いほど知った。ダイニングテーブルの上に爪切りや顔拭きシートを置いておく是非や、「ゴミ出し」という作業に新しいゴミ袋をかけるところまでが含まれるかどうか。そんなことすら、たった一人の、自分の選んだ人間と、すり合わせることができない。譲れない。譲れば次は許せない。不満は消えない。つまり俺は異質な浮く玉。そんな自分に、家族など、いわゆる家庭というものなど、作れない。
倫太郎の思考を否定するように、意識の流れは勢いを増した。
『さくらを失ったときのその悲しみは、安っぽい物語にしてまで癒さなければならなかったほど、大きかったはず。倫太郎にあいた穴。あたしにあいた穴。それはきっと、同じ性質のもの。鳥と人間では、だいぶ違うけれど。だから、あたしもやってみた。お腹からいなくなってしまった理由を、美しい理由を、たくさん考えた。でも、癒されなかった。嘘は嘘だ。空しい。空しい。本当が、欲しい。
倫太郎の本当は、さくらの存在にある。動物が本能で嗅ぎ分ける人間の性質。倫太郎が動物を選んだのは、言葉を使わずに繋がることができるからだ。むしろ、言葉がいらないということに希望を見出したのかもしれない。だからこそ、倫太郎の中にあるそのあたたかな感情を、愛を、あたしのものに、したかった。でも、倫太郎は、さくらの物語を書くことをためらった。それは、自分の中の本当を外に出してしまうのが怖いから。そうして倫太郎は、倫太郎さえも、あたしの前で、どんどん嘘になっていった。あたしは今ここにあるつらい部分を、痛い部分をすべて、嘘にしてしまいたかった。倫太郎ごと、嘘にして、消してしまいたかった』
「……嘘じゃない」
―― 嘘じゃない。
光の中で、倫太郎は感覚のない手足を伸ばそうともがいた。だが夢の中で走るように、手ごたえがまるでない。
光がだんだん弱くなっていく。
―― 俺の本当とは、何だろう。元から持っていたもの。大事にしてきたもの。求めたもの。手に入ったもの。入らなかったもの。去っていったもの。見えるもの、見えないもの。
ぼんやりと、バニラホワイトの空が見え始めた。すぐそこに、黄金の川。
―― このへたくそな複製画みたいな世界は、俺の思考に根差したものだと言う。これが俺の原風景なのか。こんなのは作り物じゃないか。他人の作ったイメージの拙い模倣。
やはり嘘なのか。嘘でいるしかないのか。嘘でいることでしか、存在を許されないのか。
そんなはずはない。でも、もう、何も見えない。
わからない。
消しゴムを、かけすぎた。自分の思考さえ醜く思えて、書いては消し、消しては書き、また消し……それを繰り返していたら、軟弱に取り繕った跡ばかりの、出来損ないの手紙みたいな代物になってしまった。そんなものは嘘なんだ。全部、嘘なんだ。
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