ー7ー
そこは図書館でもなかった。水も消えていた。真っ赤な星々が燃えるように光る夜空が、ドームのように倫太郎を包み込んでいた。その足元には乾いた土くれと石ころが転がる細い道が横たわり、道の両端には天を刺すように聳え立つ青黒い糸杉が貼りついたように並んでいた。静寂が辺りを覆った。
漆黒の空に光る赤い星は、はっきり燃えているようだった。燃えながらその大きさを変え、形を変え、ゆっくりではあるが自在に動き回っているように見えた。何かの星座に見えた星の並びがある瞬間で瓦解し、描かれた絵が真ん中でぶつりと折られたように見えもした。
「恐怖は悪魔の格好の餌ですよ」
背後から声がして慌てて振り返った。どこまでもまっすぐ続く糸杉の道に、黒いワンピースの少女が立っていた。相変わらず顔の認識ができない。印象派の描く戸外の人物の顔のように、筆で細かく置かれた絵の具の集合体のようだ。
「ここは、何なんだ」
「あなたの思考に根差した世界です」
倫太郎はもう一度辺りを見回した。よく見れば糸杉には立ち上がるような筆の跡が見えた。星とその光もさまざまな絵の具の点で表現された、絵画のようだった。
「絵の世界、というわけか」
「あなたらしいです」
声が終わる瞬間、少女の姿が消えた。ふらつきながら、慌ててその姿を探す。するとまたもや視界の端に、黒い影が音もなく現れた。
「あの空は、美しいプルシアンブルーですね」
言われて倫太郎は空を見上げた。漆黒と思った空は、よく見れば確かに深い紺青だった。
「星ばかりで月が見えないのは、不思議ですが」
どこまでも穏やかな声だった。そうして倫太郎は気づいた。いつの間にか、その声は少女のものではなくなっていた。それは大人の女の声だった。倫太郎の脳裏に、幼い頃心に思い描いた偶像の美女の姿が映った。彼女の声だ。知らないような、確かに聞いたことのあるような、懐かしく、冷たく、遠く、天の遥かより落ちる声。
「君は、何だ」
倫太郎は、無意識に後ずさった。
「悪魔か」
その言葉に、少女は笑ったようだった。その鈴のような控えめな笑い声は、空の彼方から降る星の柔い光のように倫太郎の耳を撫でた。不思議と動悸が消えていた。動悸どころか、肉体の感覚さえ、どこか頼りなく、おぼつかなかった。闇と静寂の包む夜気と一体になったような心地だった。
「あなた次第で、わたしは何にでもなります。わたしはあなたの、嘘だから」
「わからない」
倫太郎は紙のように思える首を左右に振った。
「君は一体、何なんだ。人間なのか。名前は、あるのか」
倫太郎の精いっぱいの言葉に、少女は微笑んだ、ようだった。困ったような、呆れたような、不思議な表情だった。それは全体の印象であり、目、眉、鼻、と細かく見ていこうとすると、途端にすべてがぼやけてしまう。
「ついてきてください」
少女は倫太郎の横をすり抜け、まっすぐ歩き出した。その姿を追って振り返ると、プルシアンブルーの代わりに、懐かしく、あたたかなバニラホワイトがふわりと世界を覆っていた。夜空は消えていた。新しい空は、どこまでも軽く高く感じられた。少女の黒いワンピースとなめらかな黒髪は、バニラホワイトの背景にふさわしく、主役のように配置されていた。倫太郎はその筆で置かれた絵の具のような後ろ姿を追った。
歩を進めるごとに、頼りない肉体の感覚が徐々に立ち戻った。中心からほとばしるような血のめぐりを感じた。血が全身を一巡すると、今度は胸の中で音がした。それは心地いい破裂音だった。かちかちと、ぱちぱちと弾けて、それはさながら体内花火だった。それがしばらく続くと、今度はどろりと黄金の溶岩のような―― それは倫太郎の脳裏ではっきりと映像として見えた―― 熱い液体が、甕のようなものから流れ出て、その熱で全身を満たした。
熱は、倫太郎を恍惚とさせた。これほどまでに肉体を持って生きていることに感謝したことはなかった。不和を為していた心と体がようやく一致したような心持だった。
少女が止まった。そこは川岸だった。倫太郎は、少女のすぐ右隣に立った。川は、黄金色だった。流れる水は水晶のようにきらめいて見える。
黄色く柔らかな草が川縁まで塗りつぶされたように生えていた。倫太郎が目を上げると、右手側に実の生った木が現れた。雫型の木の実はその重さで枝をたわませ、白に、金に、銀に、時には何色かわからないほどの光を放ち、豊穣に揺れた。
「わたしに名前はありません」
少女が横顔でそう言った途端、向こう岸に、装飾的な柱を伴った神殿のような小さな建物が現れた。気づけば両岸に同じような神殿と木が並び、どこまでも続いている。川がどちらに流れているのか、倫太郎にはよく判別できなかった。水晶のような小さな光達は次々にあちらこちらに現れては消え、水が常に動いていることを示しはしたが、どちらが川上なのか判別できなかった。左手にいる少女越しに川の行く先に目をやると、流れがくねり、いくつかの神殿に遮られ、その先を見ることができなかった。倫太郎は右側にある木に歩み寄り、そこから川の右手を見ようとした。だが、見ようとするまでもなく、そこには巨大な太陽が光り輝いていた。川は太陽に吸い込まれていくようだった。
倫太郎はそれにくぎ付けになった。それを見ていると、安心した。そうして自分の中に生じた熱が、それに呼応して温度を上げていくのを感じた。言葉が出なかった。今すぐにこの風景に、この感情に、名前をつけたかった。
「名前をつけたがるのは、どうしてですか。つけた瞬間、真実が見えなくなるというのに」
少女の美しく色づいた声が、柔らかな羽毛のように耳をくすぐった。
「真実とは、あなたが、人が、求めているもの。でもこの言葉も、正確じゃない。言葉はそれ自体が嘘です。不完全だから。どんなことも、言葉にした途端に嘘になります」
でも、と倫太郎は思った。もしそうなら、コミュニケーションなど到底成り立たない。でも実際、成り立っている。社会は生きて、動いている。
「社会などというものは虚像です。ただ人が、人の中で生きている。それだけです」
少女は倫太郎の考えていることを読んでいるらしかった。
倫太郎は爪の先まで回った熱の心地よさに、疑いや不信の気持ちが肉体から取り去られていることに気づいた。
「教えてくれないか。真実とは、何だ。この川が、そうなのか」
「この川には、この世界の中にある言葉にできないものすべてが含まれています。そういう意味では、真実と言えるでしょう。そして、あれも」
少女は顔を巨大な太陽に向けた。
「あれは、俺が欲しかったものだ」
「すべてはあれから生まれ、あれに還ります。彼女が失ったあの子も、また次に備えています」
「彼女?」
少女はそれには答えなかった。
「川の声に耳を傾けてみてください。あなたの求めるものが、手に入るかもしれません」
少女はそう言って微笑んだ、ような気がした。何しろ顔がぼやけている。
倫太郎の中に、大きな渇望が生まれた。ここで得られるすべてをこの腕に掻き抱きたいという激しい欲望だった。その欲望に押されて倫太郎は膝をつき、川面を見下ろした。顔を近づけてわかったが、水晶のような光の粒は幾重にも層になって底の見えない川の奥深くまで連綿と続いているのだった。そのひとつひとつは飛ぶように、踊るように動き回り、消えたかと思うと現れ、現れたらすぐに消え、常に同じ場所に留まっていることがなかった。
倫太郎はその光の明滅と円舞を無心で眺めた。無心になるより他ないほどに、それは美しく、完璧に正しいように思えた。
そうしているうちに、甘やかで懐かしいあたたかさが川から浮き上がって倫太郎の眼前に像を結んだ気がした。それが何かの形になることを期待して、倫太郎はじっと川の上の空間を見つめた。川の光が、ゆっくりとそこに集まりだした。
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